無人の里に届く出生届

霧の中の廃村

私の話を、年寄りの世間話の類だと思って聞いてほしい。

私は今年で、七十六になる。

四十年ばかり、山あいの小さな町役場で、戸籍を扱う仕事をしていた。

その役場は、もうない。

平成の合併で、隣の市に呑まれ、看板ごと消えてしまった。

戸籍係というのは、世間が思うよりも、ずっと静かな仕事である。

人の一生を、紙の上だけで受け持つのだ。

赤子が生まれれば、出生の届が出る。

夫婦になれば、婚姻の届が出る。

人がこの世を去れば、また一枚、届が出る。

私はそれを、一枚ずつ、淡々と帳面へ移してきた。

入りたての頃は、それでも、手が震えたものだ。

見ず知らずの人の生まれた日を、自分の字で書き留める。

その重さに、慣れるまで、ずいぶんかかった。

だが、慣れた。

やがて私は、感傷を持たぬことこそ、この仕事の品位だと信じるようになった。

戸籍とは、いわば、いまここに在る者と、去った者との境を引く帳面である。

その境の線を、私は四十年、まっすぐ引いてきたつもりだった。

役場の地下には、古い書庫があった。

夏でもひやりと冷えて、紙と糊の匂いがこもっていた。

蛍光灯が一本、いつもじりじりと鳴っていた。

改製原戸籍の束は、触れると指先に、薄い粉のようなものが残った。

私は、その匂いを嫌いではなかった。

紙の中の人々は、もう、誰も何も求めてはこない。

用が済めば、静かに棚へ還っていく。

去った者の名簿ほど、行儀のよいものはない。

生者は、書き換えを求めて、窓口へやってくる。

だが、去った者の頁は、もう動かない。

墨は乾き、線は固まり、その人の一生は、そこで閉じる。

帳面を閉じること。

それが、私の仕事の、最後の作法だった。

——そう思っていた。

一つの抽斗を、開けるまでは。

その抽斗には、墨で「音無(おとなし)」と書かれた、古い札が貼ってあった。

音無は、町のいちばん奥にあった字(あざ)である。

沢を二つ越えた先の、わずか七戸ばかりの集落だった。

古い郷土史を繰ると、地名の由来が記されていた。

谷が深すぎて、水の音さえ届かぬ土地。

だから、音無、というのだという。

冬は雪に閉ざされ、夏でも日が差すのは正午前後だけ。

痩せた土に、わずかな稗と蕎麦を作るのがやっとだった、とある。

明治の末に、その山が動いた。

長雨のあとの地滑りで、沢が埋まり、田も土の下になった。

人は、少しずつ里へ降りていった。

昭和の半ばには、もう誰も住まなくなった。

役場は音無を、正式に廃字とした。

帳面の上で、音無という土地は、そこで終わった。

——終わった、はずだった。

私がその抽斗を開けたのは、ある春の朝だった。

一通の封書が、役場気付で届いていた。

白い、ありふれた封筒である。

だが、消印がなかった。

切手も、貼られていなかった。

差出人の欄には、住所がない。

ただ「音無」とだけ、震えるような細い字で書いてあった。

中身は、出生届であった。

正式な様式の、それも、ずいぶん古い書式の用紙だった。

赤子は女児で、名は「とき」とある。

父母の本籍は、音無の七番地。

私は、机の前で少し笑った。

誰かの悪戯だろう、と思ったのだ。

あるいは、土地を出た古い住人の、里心であろうと。

同僚に見せると、彼も笑った。

「物好きもいたもんだ」と、それきり忘れた。

私はその届を、保留の箱へ入れた。

だが、翌年の春、また届いた。

同じ、消印のない封筒。

同じ筆跡。

同じ本籍。

赤子の名も、また「とき」。

私は、さすがに気味が悪くなった。

念のため、音無の原戸籍を、棚から引き出してみた。

音無、七番地。

そこに、「とき」という女児の記載が、確かにあった。

ただし、生まれは——明治四十一年であった。

百年以上も前に届け出られた赤子と、まったく同じ名。

同じ本籍、同じ親の名。

いや、それだけではなかった。

頁をさかのぼると、「とき」は、何代にもわたって現れた。

明治、大正、昭和。

およそ一世代ごとに、音無の七番地には「とき」が生まれていた。

そして、そのいずれの欄にも、同じ癖がある。

名の脇が、一度、墨でこすられているのだ。

何かを書いては、消したような跡だった。

私は、封筒の中の届を、もう一度ひらいた。

墨が、まだ、わずかに湿っているように見えた。

指先が、すっと冷たくなった。

書庫で、老主事に尋ねてみた。

私より二十ほど年上で、戦前の帳面まで諳んじている人だった。

「音無の届が、来るんです」と私は言った。

「出生届が。毎年、春に、消印もなく」

老主事は、帳面を繰る手を、ぴたりと止めた。

「触らんでええ」と、彼は低い声で言った。

「あそこの届だけは、受けても、返してもいかん」

「どういう意味です」と私は訊いた。

彼は、しばらく黙っていた。

それから、棚のほうを見たまま、ぽつりと言った。

「昔、音無では、子がなかなか育たなんだ」

「寒うて、貧しい土地でな」

「生まれても、すぐにいなくなる子が多かった」

「村は、その子らを『子戻し』と呼んだ」

「もういっぺん生まれ直しておいで、と山へ還す」

「そういう、ならわしじゃ」

私は、息を呑んだ。

「だが、ただ還すだけでは、子は迷う」と彼は続けた。

「次に生まれてくるまで、この世につなぎとめておかにゃならん」

「そのために、村は役場へ、届を出し続けたんよ」

「役場の帳面に名が載っとるかぎり、子は、まだこの世の者なんじゃ」

「だから、音無の戸籍は、決して閉じてはいかん」

私は、合理を尽くして反論したかった。

廃字の戸籍に、新たな届など、受理できるはずがない。

そう言いかけて、口をつぐんだ。

老主事の横顔が、ひどく疲れて見えたからだ。

「お前さんも、もう若うない」と、彼は最後に言った。

その言葉の意味を、私はそのとき、まだ分かっていなかった。

私は、音無のことを、もっと知りたくなった。

町に一人だけ、音無で生まれた人がいると聞いた。

もう九十を越えた、ハナという名の老婆だった。

町外れの、小さな借家に独りで暮らしていた。

訪ねると、老婆は縁側で、豆を莢から外していた。

「音無の戸籍の者です」と名乗ると、その手が止まった。

「まだ、来とるんかね」と、老婆は言った。

私は、何のことかと訊き返した。

「届よ。とき坊の、出生の届」

私の背中に、薄い汗がにじんだ。

「あんたで、何人目じゃろうな」と、老婆は遠くを見た。

「音無はな、神さんに、子を預ける土地じゃった」

「育たぬ子を、いったん山へお返しする」

「谷の奥に、子戻しの祠があってな」

「そこへ小さな着物を掛けて、また来年、と頼むんじゃ」

「そのあいだ、村は役場に名を残す」

「名さえ消えねば、子は、いつか必ず帰ってくる」

「そういう、約束じゃった」

私は、ならば、なぜ音無は絶えたのかと訊いた。

老婆は、しばらく黙っていた。

「山が動いて、祠が、土の下になった」と、ようやく言った。

「帰る場所を、なくしてしもうたんよ、あの子は」

「それでも、名だけは、まだ役場にある」

「だからとき坊は、いまも、帰る順番を待っとる」

「役場の帳面の中だけで、ずっとな」

私は、言葉が出なかった。

老婆は、また豆を外しはじめた。

「届を、止めなさんな」と、背を向けたまま言った。

「止めたら、あの子は、近くにいる者を、親に選ぶ」

帰り道、私はその意味を、考えまいとした。

だが、考えずには、いられなかった。

その年の秋、私は音無へ行くことにした。

廃字とはいえ、町の区域には違いない。

簡易な測量の立会い、という名目はあった。

だが本当のところ、私は確かめたかったのだ。

いったい誰が、あの届を出しているのかを。

林道は、途中で笹に呑まれて消えていた。

私は車を捨て、沢沿いを歩いた。

熊笹が、肩の高さまで茂っていた。

葉ずれの音のほかに、何も聞こえない。

鳥の声も、虫の音も、ぴたりと絶えていた。

音無、という名が、ふいに重く感じられた。

沢の水は、なぜか、ひとすじも音を立てていなかった。

ただ、黒く、ゆっくりと流れているだけだった。

途中、道ばたに、苔むした小さな石が並んでいた。

子戻しの祠の、なれの果てかもしれなかった。

石のひとつに、色の褪せた布の切れ端が、からみついていた。

私は、足を速めた。

空気が、やけに湿って、土の匂いが濃かった。

歩くほどに、足の裏から冷えが上ってくる。

日は、まだ高い。

それなのに、谷の底だけが、夕暮れのように青く沈んでいた。

やがて、屋根が見えてきた。

七戸の家は、半ば土に還っていた。

柱は黒く濡れ、屋根は落ち、軒には苔が垂れていた。

人の気配など、あろうはずもない。

——はずだった。

だが、いちばん奥の一軒だけ、煙が立っていた。

細い、青い煙だった。

味噌を煮るような、妙に懐かしい匂いが、風に乗ってきた。

私の喉が、ひとりでに鳴った。

戸口の前の土に、足跡があった。

小さな、子どもの裸足の足跡だった。

土は、まだ湿って、黒く光っていた。

足跡は、戸口から外へ向かい、途中で、ふっと消えていた。

「どなたか、おられますか」と、私は声をかけた。

返事はない。

だが、家の奥で、何かが、かすかに動いた。

私は、朽ちかけた戸を、そっと押した。

土間に、冷たい灰の匂いが満ちていた。

奥の壁ぎわに、小さな仏壇があった。

その横に、子どもの古い着物が一枚、掛けてあった。

色は褪せているのに、なぜか、新しく見えた。

囲炉裏の灰に、手をかざしてみた。

灰は、ほのかに、温かかった。

囲炉裏の鉤に、小さな鍋が掛かっていた。

覗くと、わずかに、湯気が立っていた。

つい今しがたまで、誰かがここにいた。

そう思わせる、生々しい温もりだった。

だが、土の床には、私のほかに、足跡ひとつなかった。

壁ぎわに、子どもの草履が、きちんと揃えて置いてあった。

片方の鼻緒だけが、新しく挿げ替えられていた。

破れた障子の向こうに、影が座っていた。

老人らしい、痩せた背中だった。

「役場の、お方かね」と、影が言った。

私は、答えられなかった。

「ご苦労さまです」と、影は静かに続けた。

「ときの届は、毎年、ちゃんと出しとりますで」

背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がった。

「あの子は、何度生まれても、すぐにいなくなる」と影は言った。

「だから毎年、出し直すんです」

「役場が受けてくれんと、あの子は、この世に居場所がないのですわ」

私は、一歩、後ずさった。

足が、思うように動かない。

影は、こちらを振り向かない。

ただ、畳の上に、一冊の古い帳面を、すっと押し出した。

音無の、戸籍簿だった。

役場の書庫にあるものと、寸分たがわぬ書式の。

いちばん新しい頁が、開かれていた。

そこには、これから生まれる子の欄が、すでに刷られていた。

父の名を書く欄に、見覚えのある字が、もう記されていた。

私の、名だった。

墨は、まだ、湿って光っていた。

「次の子の戸籍には、もう、あんたの名が書いてある」

影は、そう言った。

私は、声を上げて逃げ出した。

笹を分け、沢を越え、車まで一息に走った。

一度も、振り返らなかった。

振り返れば、あの小さな足跡が、後ろからついてくる気がしたのだ。

役場に戻り、私はあの抽斗を、二度と開けなかった。

音無の届は、その後も、春ごとに届いた。

私は、見なかったことにした。

ただ、保留の箱へ入れる。

それだけは、なぜか、やめられなかった。

捨てれば、何かが、もっと悪くなる気がしたのだ。

保留の箱は、やがて、いっぱいになった。

老主事は、その冬に役場を去った。

そして、ほどなく、彼自身も、帳面に名を移される側になった。

私は何も訊けぬまま、彼を送った。

彼の葬儀の帰り道、ふと思った。

あの人は、若い頃、どの抽斗に、いちばん長く触れていたのだろう、と。

やがて、私も定年で役場を去った。

合併で、役場そのものが消えた。

古い帳面は、市の倉庫の奥へ運ばれたと聞く。

音無の抽斗も、きっと、その暗がりのどこかにある。

——もう、誰も開けはしないだろう。

だが、去年の春のことだ。

自宅の郵便受けに、一通の封書があった。

白い、ありふれた封筒。

消印はない。

差出人の欄に、住所もない。

ただ「音無」と、あの震える細い字で書いてあった。

私は、それを、まだ開けていない。

開けずとも、中身は分かっている。

出生届だ。

赤子の名は、「とき」。

そして父の欄には、きっと、私の名が書いてある。

あの谷で聞いた、最後の言葉のとおりに。

いまになって、老主事の言葉の意味が、ようやく分かる。

止めなさんな、と、あの老婆も言った。

止めれば、あの子は、近くにいる者を親に選ぶ、と。

私は四十年、誰よりも長く、あの抽斗に触れてきた。

音無の戸籍を継ぐのは、いつも、いちばん長くあの抽斗に触れた者なのだ。

私は四十年、生きた者と去った者の境を引いてきた。

その境は、一本の、細い墨の線にすぎない。

こちら側と、向こう側。

名が載っているか、消されているか。

ただ、それだけの違いだと、思っていた。

だが、音無の帳面には、閉じられない頁がある。

生まれもせず、去りもしない、宙づりの名がある。

そして、その親の欄は、いつも、空いている。

その線の、向こう側へ。

私は今年、七十六になる。

私が、いまここから消えた集落の側へ回るとき。

音無の戸籍の、次の父の欄には。

いったい、誰の名が、入るのだろう。

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