名札のある剥製の部屋

学問の部屋と鳥の標本

私の話を、学生の世迷いごとだと思って読んでほしい。

私は今年、大学院の二年になる。

専攻は、民俗学である。

人が物に名をつけ、物に祈る。

その古い癖を、調べている。

名というものは、不思議なものだ。

一枚の札、一筆の墨。

それだけで、人はただの物を、特別なものに変える。

私は長く、そのことばかりを考えてきた。

その夏、指導教授から、ひとつの仕事を紹介された。

「真鍋さんの蔵を、片づけてやってくれんか」

先生は、湯呑みを置きながら、そう言った。

真鍋という人は、その地方では知られた蒐集家であった。

鳥や獣の剥製を、生涯をかけて集めた人だという。

春の終わりに、その人は世を去った。

身寄りはなく、家だけが残された。

遺された品を、大学が引き取ることになったのだ。

その下調べに、院生の手が要る。

役得のような仕事だ、と先生は笑った。

珍しい蒐集を、間近で見られる。

私には、否やはなかった。

驚異の部屋、という言葉がある。

西洋の好事家が、珍奇な物を一室に集めた。

貝、鉱物、獣の骨、異国の品。

世界の縮図を、一部屋に収めようとしたのだ。

私は、その心持ちが、嫌いではない。

失われるものを、惜しむ心。

形あるうちに、留めておきたいという願い。

それは、人の、いちばん古い欲のひとつだ。

古墳に、人は宝を納めた。

社に、人は鏡を納めた。

失いたくないものを、人は、囲い込む。

真鍋氏の標本室も、ひとつの古墳のようなものだったのかもしれない。

町は、城下のなごりを残す、小さな土地だった。

川が一本、町の縁を流れていた。

古い商家が、軒を寄せて並んでいた。

人の姿は、まばらだった。

城は、とうに無かった。

石垣だけが、町の北に残っていた。

土地の者は、みな口数が少なかった。

道を尋ねても、目を合わせなかった。

私は七月のはじめ、梅雨の名残の雨のなかを訪ねた。

黒い板塀。

苔のふいた沓脱ぎ石。

門の奥に、平屋の旧家がうずくまっていた。

玄関を開けると、樟脳と埃の匂いがした。

古い家の、眠るような匂いだった。

出迎えたのは、君江さんという、年老いた家政婦だった。

真鍋氏の身のまわりを、長く世話してきた人だという。

背の低い、物静かな人だった。

「先生のお部屋は、奥でございます」

そう言って、君江さんは廊下の先を指した。

廊下は暗く、雨の音だけが、家じゅうに満ちていた。

板の軋む音が、足の裏から伝わった。

標本室は、家のいちばん奥にあった。

十二畳ほどの板の間。

壁の三方に、硝子戸のついた飾り棚が並んでいた。

棚は、天井まで届いていた。

硝子は、年経て、わずかに青みを帯びていた。

棚のなかには、鳥がいた。

獣がいた。

みな、生きているように、こちらを向いていた。

雉。

梟。

狐。

貂。

名も知らぬ、小さな鳥たち。

山鳥。

鼬。

瑠璃色の、小さな翡翠。

どれも、息を止めただけのように見えた。

剥製というものを、私はそれまで、間近に見たことがなかった。

生きていたものを、そのかたちのまま留める技。

本草の世界では、それを「不朽」と呼んだ。

朽ちぬもの、という意味である。

真鍋氏の剥製の標本は、どれも生きているように作られていた。

羽の一枚、毛の一筋まで、整えられていた。

眼には、硝子の玉が嵌められていた。

その硝子が、雨の光を受けて、濡れたように光った。

私は、息を呑んだ。

そして、少しだけ、心が浮き立った。

学者の、悪い癖である。

珍しいものを前にすると、私は恐れより先に、興がわいてしまう。

机の上に、一冊の帳面があった。

表紙に、几帳面な字で「目録」とあった。

真鍋氏が、生涯つけ続けた台帳だった。

私は、それを開いた。

一体ごとに、番号。

和名。

学名。

入手の年月。

すべてが、細い墨の字で記されていた。

字の乱れは、どこにもなかった。

何十年にわたって、同じ筆致が続いていた。

私は、その律儀さに、舌を巻いた。

リンネという博物学者は、世のすべての生き物に、名を与えようとした。

ラテンの名を、二つ重ねて。

名を与えることは、その物を、人の世の側へ引き寄せることだ。

混沌のなかから、ひとつだけ、選び出すことだ。

真鍋氏もまた、集めた生き物の一つひとつに、名を与えていた。

番号を振り、札をつけ、帳面へ移す。

それは、祈りに似た作業だったろう。

蒐集とは、世界を、手元に留めることだ。

失われゆくものを、形のまま、押しとどめること。

真鍋氏は、それを、独りで続けたのだ。

この、雨の多い土地で。

私の仕事は、その目録と、棚の中身を、照らし合わせることだった。

番号の札と、帳面の番号。

それが合っているかを、確かめる。

ただ、それだけの、静かな仕事だった。

最初の数日は、何ごともなかった。

私は朝に通い、夕に帰った。

宿は、町はずれの古い旅館だった。

朝、川沿いの道を歩いて、真鍋家へ向かう。

蝉が、まだ鳴いていなかった。

梅雨の雲が、低く垂れていた。

君江さんが、昼に茶と握り飯を出してくれた。

握り飯には、梅干しが入っていた。

「先生は、よう、この子らに話しかけとられました」

ある昼、君江さんがふと言った。

「話しかける、とは」

「おはよう、おやすみ、と。まるで、生きとるみたいに」

私は、笑って受け流した。

蒐集家とは、そういうものだろう、と。

物に名を与え、物に語りかける。

それは、子どもが人形に名をつけるのと、同じ心の働きだ。

古い器物には、魂が宿るという言い伝えがある。

古い物には、長い年月のうちに、魂が宿るという。

人が名を呼び続けた物には、なおさらだ。

私は、そんなことを考えながら、帳面を繰った。

札を確かめ、番号を書き写していった。

作業は、はかどった。

私は、番号を読み上げ、帳面に印をつけた。

声は、棚の硝子に、かすかに反響した。

ときどき、誰かに見られている気がした。

硝子玉の眼の、せいだろう。

私は、そう思うことにした。

三日目までに、半分が済んだ。

四日目の朝だった。

私は、棚の鳥の向きが、変わっていることに気づいた。

前の日、こちらを向いていた梟が、奥を向いていた。

ちょうど、背を向けるように。

私は、首をひねった。

湿気で、台が動いたのだろう。

私は、そう考えた。

梅雨どきには、板も棚も、わずかにゆがむ。

理屈はついた。

理屈がつくと、人は安心する。

私も、安心した。

だが、その日の夕方、数が合わなくなった。

帳面では、その棚に、十二体。

私は十三、数えた。

私は、机に座り直した。

数え間違いだろう、と思った。

もう一度、左から、ゆっくりと数えた。

やはり、十三だった。

帳面には、十二。

私は、棚のなかを、一体ずつ見ていった。

番号の札は、すべて青い紙だった。

真鍋氏の、几帳面な筆である。

墨の色も、紙の褪せ方も、揃っていた。

ところが、いちばん端に、一枚だけ。

白い札の鳥がいた。

小さな、名も知らぬ、灰色の鳥だった。

青い札のなかに、その白だけが、浮いていた。

私は、その白い札を、覗き込んだ。

そこには、学名も、和名も、なかった。

人の名が、書いてあった。

「佐田 文夫」

そして、その下に、年月が一つ。

ただ、一つだけ。

入手の年月ではない、と思った。

入手なら、帳面に番号があるはずだ。

だが、この鳥には、番号がない。

私の背を、冷たいものが伝った。

私は、帳面を、最初から繰った。

一枚、一枚、指で押さえながら。

佐田、という名は、どこにもなかった。

番号の抜けも、なかった。

帳面のうえでは、この鳥は、存在しないのだ。

存在しないものが、そこに、いる。

私は、指先が冷えていくのを感じた。

硝子戸を、そっと開けてみた。

古い羽の、乾いた匂いがした。

灰色の鳥は、身じろぎもしなかった。

私は、硝子戸を、そっと閉じた。

指に、埃が、白くついた。

その埃の古さと、白い札の新しさが、合わなかった。

古い棚に、たった今置かれたような、一枚。

当たり前だ。

剥製なのだから。

私は、君江さんを呼んだ。

「この鳥のことを、ご存じですか」

君江さんは、白い札を見て、しばらく黙った。

それから、低い声で言った。

「佐田さん、いうたら」

「ご存じなんですか」

「昔、先生のお手伝いをしとられた方です」

剥製の技を、真鍋氏に学んでいた弟子だという。

若い、腕のいい青年だったと。

「その方は、いまは」

「さあ。ある日から、ぱったり、来んようになりました」

君江さんは、それだけ言って、茶を下げていった。

廊下の奥へ、足音が消えた。

私は、白い札の鳥を、もう一度見た。

灰色の羽は、なめらかで、傷一つなかった。

よくできた剥製だった。

だが、私は知っている。

帳面には、この鳥はない。

昨日まで、ここには十二体しか、なかった。

その晩、私は宿から、教授に電話をかけた。

真鍋氏に、弟子がいたかと尋ねた。

「ああ、いたよ」

教授の声は、すこし重かった。

「佐田くんといってね。腕のいい青年だった」

「その人は、どうされたんです」

「行方知れずさ。三十年も前の話だ」

真鍋氏の家から、ある日、忽然と消えた。

荷物も、書きかけの帳面も、そのままに。

「妙な話があってね」

教授は、声をひそめた。

「真鍋さんは、晩年、こう言っていた」

「『あれは、いちばん良い出来になった』とね」

私は、受話器を握ったまま、動けなかった。

良い出来。

それは、剥製の話だろうか。

それとも。

窓の外で、雨が、また強くなっていた。

私は、その先を、考えないことにした。

考えれば、眠れなくなる。

私は、布団をかぶった。

それでも、墨を擦る音が、耳の奥で続いた。

しゃり、しゃり、と。

宿のどこにも、硯などないのに。

翌朝、私は早くに、標本室へ行った。

白い札の鳥を、確かめるためだった。

雨は、上がっていた。

家のなかは、しんと静まっていた。

棚の前に立って、私は、息を止めた。

鳥が、増えていた。

端の白い札の、隣に。

もう一体、白い札の獣がいた。

小さな、痩せた猫だった。

昨日まで、そこには、何もなかった。

私は、その白い札に、顔を寄せた。

人の名が、書いてあった。

私の知らない、女の名だった。

そして、その下に、年月が一つ。

札の墨は、まだ濡れていた。

私は、後ずさった。

喉の奥が、からからに乾いていた。

足が、板の間に、貼りついて動かない。

墨が濡れている、ということの意味を、考えた。

誰かが、たった今、書いたのだ。

この家には、私と、君江さんしかいない。

墨をする者など、ほかにいない。

真鍋氏は、もう、いないのだ。

私は、君江さんを探した。

台所にも、廊下にも、姿がなかった。

名を呼んでも、返事はなかった。

玄関の沓脱ぎに、君江さんの下駄だけが、揃えてあった。

出かけた様子は、なかった。

私は、家の奥へ、声をかけた。

「君江さん」

返ってきたのは、雨だれの音だけだった。

柱時計が、こつこつと、時を刻んでいた。

私は、その音を、長く聞いていた。

時計だけが、生きているようだった。

ほかのすべては、留められ、止められていた。

私は、標本室へ、戻った。

戻ってはいけない、と思いながら、戻った。

学者の、悪い癖である。

知りたい、という気持ちが、恐れを上回ってしまう。

白い札は、二枚から、三枚に増えていた。

青い札の列の端に、白が、三つ。

いちばん新しい一枚に、私は、近づいた。

そこに書かれた名を、私は、読んだ。

読んでは、いけなかった。

読んで、しまった。

それは、人の名ではなかった。

「学生の方」

そう、書いてあった。

下の年月の欄は、まだ、空いていた。

墨は、濡れていた。

私の、すぐ後ろで。

かたり、と、硝子戸の鳴る音がした。

私は、その日のうちに、町を出た。

帳面も、荷物も、置いたまま。

宿の払いだけ済ませ、最初の汽車に乗った。

教授には、仕事を続けられない、とだけ伝えた。

理由は、言わなかった。

言っても、信じてもらえまい。

私は今も、あの灰色の鳥の、なめらかな羽を覚えている。

傷一つなく、生きているように作られていた。

不朽、という言葉を、私は今も、うまく口にできない。

朽ちぬ、ということが、安らぎなのか、呪いなのか。

私には、分からなくなった。

東京に戻って、半月が過ぎた。

昨夜、教授から、電話があった。

真鍋氏の蔵は、別の院生が引き継いだという。

「君のあとに、入ってもらった子がね」

教授は、少し言いにくそうだった。

「先週から、連絡が、つかなくてね」

私は、何も言えなかった。

ただ、ひとつ、思い出していた。

あの白い札の、空いた年月の欄を。

あれは、誰の欄だったのか。

名は、もう書かれていた。

「学生の方」と。

私は、民俗学を学んでいる。

人が物に名をつけ、物に祈る、その癖を。

名を与えることは、その物を、人の世の側へ引き寄せること。

では、人に物の名を与えることは。

いったい、何を、どちら側へ、引き寄せることなのだろう。

私の机の、いちばん上の抽斗に。

今朝から、一枚の、白い紙が入っている。

誰が入れたのか、私は、知らない。

札の形に、切り揃えてある。

まだ、名は、書かれていない。

ただ、墨が、少し、湿っている。

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