乗り過ごした先の知らない駅

霧の中の古びた駅

今年の春、実家に帰る途中で降りた知らない駅の話をする。

大学のある町を朝の七時に出た。

乗り継ぎを入れて、四時間で着く予定だった。

最初の特急で一時間半。

そこから、二両編成の地方私鉄に乗り替えた。

寝坊した朝だった。

前の晩は、ゼミの打ち上げで、三時間しか寝ていなかった。

改札を抜けたとき、駅員が眠そうに切符を切ってくれたのを覚えている。

ローカル線は、ワンマン運転だった。

運転席の後ろに、小さな表示器がある。

発車してすぐ、録音の声が告げた。

「終点まで、あと六駅です」

その数字を、俺はぼんやりと頭に入れた。

後になって、その数字が大事になるとは、思いもしなかった。

窓際の席に座ると、すぐに瞼が重くなった。

肘掛けにもたれて、そのまま意識が遠のいた。

手動で開くドア

目を覚ましたのは、ブレーキの摩擦音と、微かな振動のせいだった。

電車が停まっている。

窓の外には、無人のプラットフォームがあった。

駅舎は見えない。

どこかの途中駅だろうと思って、もう一度目を閉じた。

何分たっても、電車は動かなかった。

目を開けると、車内には誰もいなかった。

乗っていたのは、最初から俺だけだったのか。

そこの記憶が、ひどく曖昧だった。

網棚には何もなかった。

吊り革だけが、誰も触れていないのに、ゆっくり揺れていた。

窓ガラスの内側に、薄く白い曇りが広がっていた。

車内には、雨上がりの土のような匂いが漂っていた。

春なのに、湿り気だけが、やけに冷たかった。

降りてみることにした。

ドアは自動ではなかった。

内側のレバーを、手で引いて開けるタイプだった。

今どき、こんなドアは珍しい。

そう思ったのを覚えている。

外は薄曇りだった。

空の色が、少しだけ変だった。

どう変なのか、聞かれても説明しにくい。

ただ、いつもの曇りとは違う印象を受けた。

駅名標を探した。

どこにも見当たらなかった。

あるのは、古い木のベンチと、錆びた時刻表の箱だけだった。

時刻表の箱には、鍵がかかっていた。

ガラスの内側は、白く曇って読めなかった。

耳を澄ましたが、何の音もしなかった。

鳥の声も、風の音も、遠くの車の音もない。

自分の靴がホームのコンクリートを踏む音だけが、はっきり響いた。

それが、かえって落ち着かなかった。

音が、自分の周りにだけ存在しているようだった。

スマートフォンを取り出した。

画面の隅に、圏外と表示されていた。

地図アプリを開いても、現在地を示す青い点は、どこにも見当たらなかった。

地図の中の俺は、線路の上でも、駅の上でもなく、ただ白い空白の中に立っていた。

画面を閉じて、ポケットにしまった。

それ以上見ていると、足が動かなくなりそうだった。

午前十時五十三分

この知らない駅のベンチに腰を下ろして、周りを見渡した。

駅の奥から、商店街のような通りが続いていた。

歩いてみることにした。

入口に立った瞬間の印象は、「普通」だった。

電灯があり、看板があり、シャッターの開いた店もある。

ただ、何もかもが、微かにずれていた。

肉屋のような店のガラスケースは、空だった。

値札だけが、きちんと並んでいた。

布団屋のような店では、同じ柄の布団が、ずらりと干されていた。

風はないのに、布団の端だけが、ゆっくり揺れていた。

看板の文字が、読めなかった。

読めない言語、というのとも違う。

目で追っても、意味が頭に入ってこない。

文字というより、単なる図形に見えた。

軒先に、時計が三つ見えた。

肉屋のような店の前に一つ。

布団屋のような店の前に一つ。

角の薬局のような店の前にも、一つ。

三つの時計は、全て同じ時刻を指していた。

午前十時五十三分。

別の通りに行くと、別の時計があった。

やはり、午前十時五十三分だった。

自分の腕時計を見ると、午前十一時二十分を指していた。

二十七分の差があった。

その差が、何を意味するのか、そのときは考えなかった。

知らない駅の商店街

人がいた。

店から出てきた、女性だったと思う。

「すみません」

声をかけた。

彼女は、視線をそらした。

いや、そらしたのではなかった。

最初から、俺を見ていなかった。

まるで、そこに何もないかのように、まっすぐ俺の横を通り過ぎた。

他にも、何人か見かけた。

老人が一人、自転車を押す子どもが二人、買い物かごを下げた女性が一人。

「あの、ここは何という駅ですか」

誰も、返事をしなかった。

目が合うことさえ、一度もなかった。

道の端で、老人が箒を動かしていた。

俺が近づくと、箒の音が、ぴたりと止まった。

老人は、顔を上げなかった。

俺が通り過ぎて、五歩ほど歩いたところで、箒の音がまた始まった。

一歩目の音から、ずっと同じ間隔だった。

まるで、俺が通るのを、息を止めて待っていたかのように。

視界の中に、俺は入っている。

けれど、彼らの視界の中に、俺はいないのだろう。

その判断が正しいのかどうかは、わからない。

通りの突き当たりまで、歩いた。

そこには、何もなかった。

ただ、白い壁があった。

引き返すことにした。

来た道を、同じ速さで戻った。

三つの時計は、まだ、午前十時五十三分だった。

知らない駅のホームには、電車がまだ停まっていた。

俺が乗り込むと、ドアが勝手に閉まった。

手動だったはずのドアが、自動で。

閉まる直前、ホームのベンチの上に、俺の鞄が置かれているのが見えた。

手には、ちゃんと提げているのに。

目を凝らしたときには、ベンチには何もなかった。

いや、手動と自動の境目が、そもそも曖昧だったのかもしれない。

席に座ると、少し遅れて電車が動き出した。

窓の外の景色が、来たときと同じ順番で、逆に流れ始めた。

雑然とした植生。

田畑らしい、茶色い区画。

低い木々。

何分か乗ると、見覚えのある駅に着いた。

次の駅だった。

ホームの柱には、見慣れた駅名が書かれていた。

その文字を読んだとき、肩から力が抜けた。

読める、というだけのことが、これほど安心するものだとは知らなかった。

そこから先は、乗客でいっぱいになった。

いつもの景色が、戻ってきた。

車内の隅には、買い物袋を提げた主婦がいた。

イヤホンをつけた高校生が、スマートフォンを眺めていた。

その当たり前の光景が、ひどくありがたかった。

財布から、切符を取り出した。

乗り替えの駅で買った、いつもの切符だった。

裏返すと、見覚えのない薄い判が、端に押されていた。

滲んだ数字が並んでいたが、読み取ることはできなかった。

指で擦っても、薄くなることはなかった。

誰かが俺の存在に気づいて、肩が当たると、軽く頭を下げた。

ただそれだけのことで、喉の奥が、少し熱くなった。

消えたカメラロール

実家に着いて、母に聞いてみた。

「乗り替えのローカル線って、何駅あったっけ」

母は、不思議そうな顔をした。

「何言ってるの。六駅だよ」

俺は、途中で降りた知らない駅のことを話した。

母は、首をかしげたまま、聞いていた。

台所では、味噌汁の湯気が立っていた。

父は、居間でテレビを見ていた。

「顔色、悪いね。ちゃんと寝てるの」

「寝てるよ。ただ、ちょっと変なことがあって」

母は、それ以上は聞かなかった。

代わりに、湯呑みを、俺の前にそっと置いた。

湯気の向こうで、壁掛け時計の秒針が動いていた。

午後二時を少し過ぎていた。

俺は、乗り替えのローカル線の時刻を、頭の中で何度も数え直した。

どう計算しても、あの停車は、三十分もなかったはずだった。

けれど、実家の玄関に着いた時刻は、予定より一時間以上、遅れていた。

その遅れを、母にも父にも、うまく説明できなかった。

「そんな駅、時刻表に載ってないよ」

「うちの路線は、そこまで行かないもの」

その夜、スマートフォンのカメラロールを開いた。

ホームも、商店街も、三つの時計も、撮ったはずだった。

カメラロールには、何も記録されていなかった。

午前十時から十一時半のあいだの写真が、すべて消えていた。

削除した覚えはなかった。

画面を、何度も上下にスクロールした。

その時間だけが、きれいに欠けていた。

翌朝、腕時計を見た。

十一時二十分を指していた俺の時計は、いつのまにか、二十七分、遅れていた。

合わせ直した。

次の日の朝には、また、二十七分遅れていた。

あの日から、腕時計は、二十七分遅れたままだ。

電池を替えても、店で調べてもらっても、異常はないと言われた。

あれが何だったのかは、今も、わからない。

ただ、あの切符だけは、今も財布の奥に入れてある。

捨てようとすると、なぜか手が止まるのだ。

ただ、それ以来、乗り継ぎのあるローカル線は避けている。

理由を聞かれても、うまく説明できない。

実は何も起きていないのかもしれないし、別の何かが起きたのかもしれない。

似たように、聞いてはいけない問いを残したまま終わる話が、ほかにもある(二階の窓から)。

誰も俺を見ない商店街の隣には、母だと思っていた人が他人だった話も、並んでいる(赤の他人)。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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