
年齢当ての男に会ったのは、真夜中まであと十分という時間だった。
私は、その日の最終のひとつ前の特急に揺られていた。
残業でくたびれ果てて、終電を一本、逃したのだ。
取引先との会食が、思いのほか長引いてしまった。
相手の課長が、二軒目を譲らなかったのだ。
断れば角が立つ、という種類の場だった。
私は、烏龍茶に切り替えてから、時計を三度見た。
見るたびに、終電までの時間が削れていった。
駅へ走ったときには、終電のテールランプが、ホームの先へ消えるところだった。
舌打ちをして、私は次の特急の時刻表を確かめた。
こんな時間に乗る客など、ろくにいないだろうと思っていた。
実際、がらんとした車内には、数えるほどしか乗客がいなかった。
四人掛けの席が、どれも一人ずつ埋まっている。
誰も、隣に人を置きたがらない時間だった。
床には、誰かの落とした切符が一枚、落ちていた。
拾う人はいなかった。
私は、進行方向に向かって左側の、窓際に座った。
背もたれに頭をつけると、車輪の音が骨に響いた。
その音を数えていると、眠くなるのだ。
暖房だけが、やけに効いていて、まぶたが重かった。
窓の外は、墨を流したように、ただ黒く塗りつぶされている。
時おり、対向列車の灯りが、稲妻のように窓を走り抜けた。
そのたびに、ガラスに映った自分の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
私は、座席にもたれて、半分眠りかけていた。
次の停車駅まで、まだ二十分以上はあるはずだった。
その、人気のない駅で、ひとりの男が乗り込んできた。
くたびれた灰色のコートを着た、痩せた中年の男だった。
頬がこけ、目の下には、深い隈が刻まれている。
男は、ドアが背後で閉まると、ふいにその場に立ち止まった。
そして、右手の指を、小さく動かしはじめた。
一、二、三、と数えるような動きだった。
車内の人数を、数えているのだとわかった。
数え終えると、男は、はっと我に返ったように顔を上げた。
数え終わるまでに、数秒かかった。
指は、途中で一度、戻るような動きをした。
数え直したのだと、そのときは思った。
いまでも、そう思おうとしている。
思えないから、この話を書いている。
あの夜のことを、私は誰にも話していない。
話せば、聞いた相手も数えられる気がするからだ。
それでも、書き残しておくことにした。
何かを、血相を変えて探しているような、切迫した目つきだった。
その目が、ひとりの乗客の顔で、ぴたりと止まった。
男は、つかつかと、その人のほうへ歩み寄っていく。
そして、唐突に、低く掠れた声で口を開いた。
「失礼ですが、あなたは、二十八歳ですね」
話しかけられたのは、ほかでもない、私だった。
暖房の効いた車内
私は、眠気が一瞬で吹き飛び、面食らった。
確かに、私はこの春で、二十八になったばかりだった。
「そうですけど……どうして、わかったんですか」
男は、私の問いには、いっさい答えなかった。
まるで聞こえなかったかのように、隣の席へ顔を向ける。
「あなたは、四十五歳ですね」
問われたサラリーマン風の男性が、ぎょっとして顔を上げた。
膝の上の鞄を、思わず抱え直していた。
「……ええ、そうですが。なぜ、それを」
男は、やはり答えず、また別の乗客へと移っていく。
「あなたは、六十二歳」
杖をついた老人が、戸惑いながらも、こくりと頷いた。
老人は、それから一度も顔を上げなかった。
「あなたは、十九歳ですね」
イヤホンをした若者が、ばつが悪そうに、はい、と呟いた。
男は、車両の前のほうにも、歩いていった。
そこには、眠った子どもを抱いた、若い母親が座っていた。
「お子さんは、三歳ですね」
母親は、驚いて、子どもを抱く腕に力を込めた。
「あなたは、三十一歳」
母親は、答えずに、ただこくりと頷いた。
その腕の中で、幼い子は、すうすうと安らかに眠っていた。
男は、その子の寝顔を、しばらくじっと見下ろしていた。
そして、何も言わずに、すっとその場を離れた。
その横顔が、なぜかほっとしたように、私には見えた。
安心した、というより、間に合った、という顔だった。
何に間に合ったのかは、そのときはわからなかった。
そのどれもが、寸分の狂いもなく当たっているらしかった。
問われた者は皆、判で押したように驚いた顔をした。
中には、気味悪そうに、そっと目を逸らす者もいた。
どうやらこの男には、奇妙な力がそなわっているらしい。
顔をひと目見ただけで、その人の年齢を言い当てるのだ。
当てられた側は、笑うか、黙るかのどちらかだった。
笑った人も、二度目は笑わなかった。
笑いというのは、逃げ道のある人だけができるものだ。
車内には、次の駅まで逃げ道がなかった。
次の駅までは、まだたっぷり時間が残っている。
逃げ場のない車内で、乗客たちの視線が男に集まりはじめた。
年齢当ての男の手
はじめは気味悪がっていた人々も、次第に面白がりはじめた。
「すごいな。ぜんぶ当たってるじゃないか」
「あんた、占い師か何かかね」
そんな囁きが、深夜の車内に、さざ波のように広がっていく。
誰かが、自分の連れの年齢を当ててくれと言った。
男は、そちらを見もしなかった。
求めに応じる気は、まったくないようだった。
けれど年齢当ての男は、その称賛に、まるで反応しなかった。
表情ひとつ変えず、ただ淡々と、次の年齢を告げていく。
私は、そのとき、奇妙なことに気づいた。
男の額には、びっしりと汗が滲んでいたのだ。
暖房のせいにしては、その汗はあまりに多すぎた。
コートの襟のところが、色が変わるほど濡れていた。
外は、氷点下に近い夜だった。
デッキの扉が開くたび、足元に冷たい空気が流れ込んだ。
それでも、男の汗は引かなかった。
真剣すぎる、と私は思った。
ただの座興にしては、男の目は、まるで笑っていない。
何かに、ひどく追い立てられているような、追われる者の目だった。
言い当てるたびに、その顔は、わずかに歪んでいくように見えた。
私は、これまで男が告げた数字を、ぼんやりと思い返していた。
二十八。四十五。六十二。十九。三十一。
それらが、もし、年齢ではないとしたら。
そんな考えが、ふと頭をかすめた。
いや、まさか、と私はその考えを打ち消した。
ただの、当てもののはずだ。
そう思おうとするほど、胸の奥の冷たさが増していった。
二十八。
その数字を、私は口の中で転がしてみた。
年齢としては、正しい。
それ以外の意味を持たせると、急に重くなった。
車内に、ふいに、車掌のアナウンスが流れた。
次の停車駅と、到着時刻を告げる、抑揚のない声だった。
その無機質な声が、かえって、この異様な空気を際立たせた。
乗客の何人かは、もう男から顔をそむけていた。
関わりたくない、という空気が、車内に満ちていく。
だが、誰も席を立とうとはしなかった。
立てば、次は自分が見られてしまう気がしたのだろう。
私も、同じだった。
動けば、男の視線が、もう一度こちらを向く。
それが、たまらなく恐ろしかった。
窓に映る車内を見ていると、男の背中だけが黒く見えた。
ガラスの反射のせいだと、自分に言い聞かせた。
男の手元を見て、私は、ふと息を詰めた。
だらりと下げたその両手が、小刻みに震えていたのだ。
見たくないものを、無理やり見せられているような震えだった。
年齢を当てるたびに、男は、ほんのわずかに目をつぶった。
そして、また目を開けて、次の数字を口にする。
その繰り返しが、見ているこちらの神経を削っていった。
いつか聞いた、怪談の断片が頭をよぎった。
人ならぬものが見える者は、たいてい長くは生きられない。
そんな、根も葉もない言い伝えだった。
数字にまつわる話は、ほかにも聞いたことがある(名札の裏の数字は誰が書くか)。
なのに、その晩に限って、それは妙に現実味を帯びていた。
薄紅色のショール
車両のいちばん奥の席に、ひとりの女性が座っていた。
品のいい、初老の女性だった。
白髪をきれいにまとめ、薄紅色のショールを肩にかけている。
膝の上で両手を組み、静かに目を閉じていた。
その佇まいだけが、ざわめく車内で、ぽつんと凪いでいた。
膝の上に、小ぶりの紙袋を置いていた。
紙袋には、洋菓子店の名前が刷ってあった。
誰かに渡すつもりだったのか、自分のためか。
訊く機会は、結局なかった。
紙袋の口は、きちんと折り返してあった。
几帳面な人なのだと、それだけでわかった。
その女性は、私が乗り込んだときから、ずっとそこに座っていた。
会食の酒で火照った私に、彼女は一度、そっと会釈をしてくれた。
見知らぬ者にも向けられる、その品のよさが、印象に残っていた。
きっと、長く、穏やかに生きてきた人なのだろうと思った。
そう思わせる人が、世の中にはいる。
何をしてきたのかは知らないのに、そう見えるのだ。
そんな人の前で、男が足を止めようとしている。
私は、なぜか見てはいけない気がして、目を伏せた。
それでも、耳だけは、二人のやりとりを追っていた。
年齢当ての男は、とうとう、その女性の前に立った。
そして、これまでと同じように、静かに尋ねた。
「あなたは……五十歳、ですね」
女性は、ゆっくりと目を開け、ふっとやわらかく微笑んだ。
「あら、惜しいわねえ」
鈴を転がすような、穏やかな声だった。
「ほとんど当たっているんですけれど」
女性は、左手首の、小さな腕時計に目を落とした。
「あと五分もすれば、日付が変わるでしょう」
「実はね、今夜が、わたしの誕生日なんですよ」
「日付が変わったその瞬間に、わたしは、五十一になるんです」
「この歳になると、誕生日なんて、どうでもよくなるものですけれど」
「今年は、なんだか待ち遠しくて」
そう言って、女性は窓の外へ目をやった。
外は、何も見えないはずだった。
女性は、少女のように、嬉しそうにそう言った。
周りの乗客から、おめでとう、と、ささやかな笑みがこぼれた。
だが、その瞬間だった。
年齢当ての男の顔から、すうっと血の気が引いた。
男は、その場に、棒立ちのまま凍りついた。
次々と年齢を当てて回っていた、あの余裕は、跡形もなく消えた。
額に浮いた汗が、つうっと、こけた頬を伝い落ちる。
見開かれた目だけが、女性の顔に釘付けになっていた。
見てはいけないものを、見てしまった。
その横顔は、まさに、そんな顔をしていた。
私は、理由もわからぬまま、ぞくりと背筋が寒くなった。
暖房の効いた車内の空気が、急に冷えた気がした。
おかしい、と私は思った。
百発百中で当て続けてきた男が、なぜ、たった一歳を外したのか。
そして、なぜ、その一歳のことで、これほど青ざめるのか。
外したことが、怖いのではない。
外していない、とわかったから怖いのだ。
そう気づいたとき、私は自分の膝が震えているのを見た。
日付が変わる五分前
私は、たまらなくなって、思わず男に声をかけた。
「あの……すごいですね。さっきから、ぜんぶ的中してる」
「いったい、どうやって、当ててるんですか」
男は、油の切れた人形のように、ぎこちなく私を振り向いた。
その顔は、血の気を失って、紙のように白かった。
男が次に口を開くまでの、ほんの数秒が、永遠のように感じられた。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
周りの乗客も、固唾を呑んで、男の言葉を待っていた。
さっきまでの、軽い好奇心は、もうどこにもなかった。
あるのは、得体の知れないものへの、純粋な怯えだけだった。
誰も、席を立たなかった。
立てば、この話の続きを聞き逃してしまう。
聞きたくないのに、聞き逃したくもなかった。
男の喉仏が、ごくりと上下するのが見えた。
そして、唇を震わせながら、絞り出すように言った。
「……私に見えているのは、あなたがたの、年齢ではないんです」
私は、思わず息を呑んだ。
男は、女性のほうをちらりと見て、声を落とした。
「私に見えているのは……あなたがたの、寿命です」
その言葉の意味が、じわりと胸の底に染み込んできた。
時計の針は、もう真夜中の十二時を指そうとしている。
奥の席のあの女性は、にこにこと窓の外を眺めていた。
あと、いくらも経たぬうちに、日付が変わる。
彼女は、五十一の誕生日を迎えるはずだった。
けれど男は、彼女のことを五十歳だと言った。
五十までしか、見えなかったのだ。
私は、奥の席に目をやった。
彼女は、何ひとつ知らない。
自分に残された時間が、もう、ほんのわずかであることを。
言うべきだろうか、と私は迷った。
いや、たとえ言ったところで、どうなるというのか。
そんなこと、言えるはずがなかった。
時計を見ると、真夜中まで、あと二分だった。
その二分が、ひどく長く感じられた。
奥の女性は、相変わらず、穏やかに窓の外を見ている。
その膝の上で、組まれた両手が、かすかに動いた。
何か思い出したように、彼女は小さく微笑んだ。
幸せそうな、満ち足りた微笑みだった。
その笑顔を見て、私はいっそう、いたたまれなくなった。
幸福の絶頂で、人は自分の終わりを知らない。
そのことが、これほど酷いとは思わなかった。
そのとき、列車が、ゴトン、と大きく揺れた。
天井の車内灯が、一度、ちかちかと不穏に瞬いた。
男は、もう、誰の顔も見ようとしなかった。
深く俯いて、ただ自分の靴の先を見つめている。
やがて、時計の針が、ぴたりと真夜中を指した。
その瞬間、車両の奥で、こと、と小さな音がした。
あの女性の手から、何かが滑り落ちた音だった。
周りの乗客が、いっせいにそちらを振り返る気配がした。
けれど、私は、どうしてもそちらを見ることができなかった。
次の駅で、私は逃げるように電車を降りた。
無人のホームに、私の足音だけが、こつこつと響いた。
決まった時刻にだけ起こることの怖さを、あとになって知った(8時半の電話)。
振り返ると、走り去る列車の窓に、あの男の白い顔が見えた。
私は、二度と夜の特急には乗るまいと、固く心に決めた。
それから、三日が過ぎた。
新聞の片隅のベタ記事
私は、努めて、あの夜のことを忘れようとしていた。
気の迷いだ、悪い夢だったのだと、自分に言い聞かせていた。
だが、その朝、何気なく開いた新聞の片隅で、私の指は止まった。
小さな、ベタ記事だった。
先日の深夜、特急の車内で初老の女性が倒れ、搬送先で帰らぬ人となった。
持病の発作だろう、と書かれていた。
女性は、その日が誕生日だったらしい。
記事には、五十歳、と記されていた。
五十一には、わずかに届かなかったのだ。
私は、新聞をそっと閉じた。
そして、あの男の白い顔を思い出した。
思い出しているうちに、私は、あの最初の場面に戻っていた。
男が乗り込んで、指を動かしていた、あの数秒だ。
私は、あのとき数えられた指の動きを思い出した。
一、二、三、と、確かに動いていた。
八回だった。
そこで、私の手が止まった。
あの車両には、私と、四十五の男性と、六十二の老人。
十九の若者と、母親と、その子ども。
そして、奥の席の女性。
それから、いちばん前の扉のそばに、もうひとり座っていた。
帽子を目深にかぶった、動かない人影だった。
男が数えた乗客は八人で、私を入れると九人いた。
私は、その日から、夜の窓に映る自分の顔を正視できない。