夜神楽の三十四枚目の面

祭り

その晩、笛が一節で切れました。

続きが来ると思って、私は杓子を持ったまま待っていました。

待っているあいだに、竈の火が落ちました。

それきり、朝まで何も鳴りませんでした。

昭和四十四年の、十一月の終わりのことです。

私は四十二でした。

日向の山の中で、県道を広げる工事の飯場の賄いをしておりました。

賄いというのは、つまり男衆の飯を炊く役です。

朝は暗いうちに起きて、握り飯をこしらえます。

昼は現場まで背負って運びます。

夜は汁と煮物を出して、それで一日が終わります。

難しい仕事ではありません。

ただ、数を間違えないことだけが、務めでした。

男衆は三十三人おりました。

私が握る飯は、三十四でした。

一つは、土間の隅に置く決まりでした。

飯場を建てたときに、在の年寄りがそうしろと言ったのだそうです。

誰が食べるでもなく、翌朝には固くなっているのを、私が下げていました。

訳は聞きませんでした。

山の仕事の場では、そういう決まりが一つや二つあるのは、珍しくありませんでしたから。

飯場は、椎ノ迫という在の外れに建っておりました。

戸数は二十と少し。

そのうち、若い者のいる家は三軒だけでした。

あとは年寄りばかりで、昼間は里に人の姿がありません。

道を広げるという話が来たとき、在の者は喜んだそうです。

道が広がれば、出ていった子が帰ってきやすくなる。

そういう言い方を、私は何度も聞きました。

山は、十一月に入ると急に暗くなりました。

四時を回ると谷の底から先に翳ってきて、五時には手元が見えなくなります。

その代わり、空だけがいつまでも明るいのです。

稜線の上に、白い帯のような光が長く残りました。

その光が消える頃に、どこかで笛が鳴りはじめました。

神楽の稽古でした。

椎ノ迫では、十一月の終わりから師走にかけて、夜通しの神楽を上げます。

夜神楽です。

日が落ちてから翌朝の日の出まで、三十三番を続けて舞います。

番付は決まっていて、順番を入れ替えることも、途中で抜くこともしないのだと聞きました。

一番から三十三番まで、それぞれに面があります。

面は在の宿の奥にしまわれていて、神楽の晩にだけ出されます。

私は一度だけ、その面袋を見せてもらったことがあります。

飯場の女が珍しかったのでしょう。

在の年寄りが、こっちへ来いと手招きをしました。

袋は麻で、思っていたよりずっと大きなものでした。

面は、想像していたほど恐ろしい顔ではありませんでした。

古びて、鼻の頭だけが白く擦れていて、どれも人の顔よりひとまわり小さいのです。

一枚ずつ布に包まれて、袋の中に立てて並べてありました。

数えると三十三枚ありました。

それから、袋の底に、もう一枚ありました。

彫っていない白い板が一枚、袋の底に縫い付けられていたのです。

目も口もなく、面の形に切っただけの、ただの板でした。

糸は新しいものでした。

麻の袋の色に比べて、その糸だけが妙に白く見えました。

何ですかと聞くと、年寄りは留だと言いました。

とめ、と平たい声で言って、それ以上は何も言いませんでした。

私は、大事なものなのだろうと思いました。

番付にも載らず、舞われもせず、袋の底に縫い留められている。

そういうものは、たいてい一番尊いものだと、私は思っていたのです。

そう思っていたことを、あとになって何度も思い返しました。

十一月の半ばに、在の寄合が長引いた晩がありました。

神楽の舞手が、一人足りないという話でした。

椎ノ迫の舞手はもともと十人で、一人が三番から四番を受け持って、一晩で三十三番を回します。

その年は、二人が町の工場へ出て、一人が腰を痛めて立てなくなっていました。

どう割り振っても、最後の三番だけが空くのだそうです。

年寄りたちは、番を抜くことだけは考えませんでした。

抜くくらいなら他所から借りる、と決まりました。

それで飯場に話が回ってきたのです。

借りられたのは、喜三郎さんという男でした。

四十の半ばで、宮崎の平野の方から来ていた人夫でした。

無口で、飯の礼を必ず言う人でした。

飯場の中では、いちばん年嵩でした。

舞など知らんと喜三郎さんは言いました。

在の年寄りは、覚えなくていい、立っているだけでいいと言いました。

面を着けて、囃子に合わせて足を踏み替えて、鈴を振っていればいい。

それで三十三番はそろう。

そういう説明でした。

喜三郎さんは、二晩ほど宿へ通って足の運びを教わりました。

飯場に帰ってくると、足の裏が痛いと言って笑っていました。

私はそれを聞きながら、翌朝の米を研いでいました。

何も、考えませんでした。

神楽の晩は、風のない、よく晴れた日でした。

在の宿の庭に注連を張って、四方に竹を立てて、真ん中に篝火を焚きました。

飯場からも何人か見物に降りていきました。

私は握り飯を届けに行って、そのまま隅に座って見ていました。

一番から順に舞われていきました。

面が替わるたびに、囃子の調子が変わります。

太鼓が先に変わって、笛があとから追いつく。

そういう鳴り方でした。

夜半を過ぎると、見物の者はだいたい眠ってしまいます。

それでも舞は止まりません。

私は膝を抱えて、火の粉が上がるのを見ていました。

三十三番が終わったのは、空がうっすら白みかけた頃だったと思います。

最後の面が下がって、囃子が締めに入りました。

そこで、笛が一節で切れたのです。

太鼓は鳴っていました。

笛だけが、途中でやめました。

私は、笛の人が息を継ぎ損ねたのだと思いました。

そのとき庭に出てきたのが、喜三郎さんでした。

白い板の面を着けていました。

番付にない、三十四番目でした。

年寄りたちが、留を出して被せたのです。

足りない三番のうち、最後の一番だけ、面が回りきらなかったのだと、あとで聞きました。

それで、袋の底の糸を切って、留を外したのだそうです。

喜三郎さんは、教わったとおりに足を踏み替えていました。

鈴を三度振って、頭を下げて、それで下がりました。

拍子木が鳴って、朝になりました。

在の者は誰も、おかしなことをしたとは思っていませんでした。

尊い面をやっと使ったのだ、というような顔をしていた人さえいました。

私も、そう思いました。

帰り道で、山の上が一度に明るくなったのを覚えています。

異変というほどのものは、しばらくありませんでした。

最初に気づいたのは、笛でした。

神楽の次の晩から、日が落ちてしばらくすると、笛が鳴るのです。

一節だけ鳴って、途中で切れます。

稽古にしては短すぎました。

それに、神楽が済んだのに稽古をする理由がありません。

私は男衆に聞いてみました。

聞こえんと言う人が半分、聞こえると言う人が半分でした。

聞こえると言った人たちに、どの節かと尋ねると、皆が同じ節を口ずさみました。

締めの、いちばん最後の節でした。

そして誰も、その先を歌えませんでした。

三日ほどで、私は気にしないことにしました。

次に気づいたのは、土間の足跡です。

飯場の土間は叩き土で、雨の日は男衆の足跡が残ります。

それを朝に掃くのが私の仕事でした。

その朝は雨ではありませんでしたが、土間が濡れていました。

外から入ってきた跡と、外へ出ていった跡が、はっきり残っていました。

私は掃きながら、何となく数えました。

入ってきた跡が三十三でした。

出ていった跡が三十四でした。

数え直しました。

やはり、出ていくほうが一つ多いのです。

入らずに出た者がいる、ということになります。

私はしばらく箒を持ったまま、土間の真ん中に立っていました。

それから、掃きました。

誰にも言いませんでした。

言えば、そういう話が好きな者が騒ぐと思ったのです。

三つ目は、人の口から来ました。

在の駐在の黒木さんが、飯場へ茶を飲みに寄ったときのことです。

黒木さんは、椎ノ迫の年寄りが妙なことを言うと話しはじめました。

神楽帳のことでした。

神楽帳というのは、その年の番付と舞手の名を書きつけておく帳面です。

毎年、宿の主が墨で書いて、閉じて、次の年まで仕舞っておきます。

その年の頁に、一行多いのだそうです。

三十三の番と名のあとに、もう一行、名が書いてある。

黒木さんは、喜三郎さんの名だろうと言いました。

私も、そう思いました。

けれど年寄りは、書いた覚えがないと言うのです。

書いた覚えがないのに、自分の字だとも言うのだそうです。

黒木さんは笑って帰っていきました。

その二日あとに、隣の樅ヶ野という在の神楽宿から人が来ました。

樅ヶ野でも神楽を上げます。

椎ノ迫とは番付が少し違って、年によって行き来もあると聞いていました。

来た人は、樅ヶ野の宿の主に頼まれて、椎ノ迫の神楽の晩の刻限を確かめに来たのだと言いました。

何時に始めて、何時に終わったか。

それだけを、几帳面に聞いて帰りました。

四つ目は、私の帳面でした。

飯場の賄いは、米と味噌と炭の出入りを帳面につけます。

月末に頭の城戸さんに見せるので、日付だけは間違えないようにしていました。

その月の終わりに合わせてみると、一日足りないのです。

炭の減りも、米の減りも、三十日分あるのに、日付は二十九日までしか書いていない。

書き落としたのだと思って、前の月と見比べました。

書き落としたのではありませんでした。

神楽の晩の日付が、一日だけ、二度書いてあったのです。

同じ日付の頁が二つあって、その二枚とも、私の字でした。

私は、この帳面を人に見せるのをやめました。

月末の分は、新しい紙に書き写して城戸さんに渡しました。

五つ目は、飯です。

師走に入って何日かした朝、握り飯が一つ足りませんでした。

三十四こしらえたはずが、笊の上に三十三しかありません。

数え間違えたのだろうと思って、その日は自分の分を土間の隅に置きました。

次の朝も、足りませんでした。

その次の朝も、足りませんでした。

私は、笊に布巾を掛けてから、その上に鍋の蓋を伏せて重しを載せました。

朝になると、蓋も布巾もそのままで、握り飯だけが一つ減っていました。

足りないのは、いつも土間の隅に置く分ではありませんでした。

隅の分は、翌朝きちんと固くなって残っています。

減っているのは、男衆に配るほうの一つでした。

つまり、三十三人のうちの誰かが、その朝、握り飯を持っていないことになります。

けれど、誰も足りないとは言いませんでした。

私は、配るときに顔を見ることにしました。

三十三人、みんな受け取っていきました。

一人も欠けていません。

それで笊が空になりました。

こしらえたのは三十四です。

土間の隅の分は、手をつけずに置いてあります。

つまり私は、その朝、三十四人に配ったことになります。

何度数え直しても、そうなりました。

それからです。

喜三郎さんが、人の数を数えるようになったのは。

飯場に戻ると、まず土間で男衆を数えます。

指を折って、口の中で数えて、それから座ります。

どうしたのかと聞くと、喜三郎さんは、合わんのだと言いました。

何が合わないのかは、言いませんでした。

夜中に起き出して、外を見ていることもありました。

私が竈の火を落としに行くと、戸口に立って、山の上のほうを見ているのです。

声をかけると、すみませんと言って、寝床に戻りました。

その頃から、笛の一節は、飯場のすぐ外で鳴るようになりました。

師走の半ばに、樅ヶ野の宿の主が椎ノ迫へ来ました。

弥之助さんという、七十をいくつか過ぎた人でした。

背が低くて、耳が遠いのか、話すときに顔をぐっと近づけてくる人でした。

在の年寄りと長いこと話したあと、飯場にも寄りました。

賄いの人に聞きたいことがある、というのです。

私は土間に茣蓙を敷いて、茶を出しました。

「あの晩、笛はどこで切れましたな」

「締めの、最後の節です」

「途中で切れましたか」

「はい。太鼓だけが鳴っていました」

「そのとき、庭には誰が出ておられた」

「まだ誰も。切れてから、飯場の喜三郎さんが出てきました」

弥之助さんは、しばらく黙っていました。

それから、袋の底のことを聞きました。

白い板を見たか、というのです。

見ましたと答えると、糸のことを聞かれました。

私は、糸だけが新しかったと言いました。

弥之助さんは、その糸は五十年前に樅ヶ野の者が縫ったものだと言いました。

「一度、外した者がおるということです」

「外して、また縫ったのですか」

「縫うたのは、外したあとに困った者です」

「あれは、尊い面ではないのですか」

「面ではありません」

「では、何ですか」

「栓です」

私は、意味が分かりませんでした。

弥之助さんは、茶碗を置いて、指を三本立てました。

夜神楽は、一晩で三十三の神を順に招く。

招くたびに、面と舞手が一対になる。

一番の面には一番の舞手、二番の面には二番の舞手。

三十三の対がそろっているあいだ、この庭には空いた席が一つもない。

だから、外にいるものは入れない。

そういう話でした。

「外にいるもの、と言いますと」

「番付に名のないものです」

「山におるのですか」

「おるというより、待っておるのです」

「何を待っているのですか」

「席が一つ空くのを、です」

弥之助さんは、袋の底の板は三十四番目の席をふさぐためのものだと言いました。

三十三の対がそろっていても、庭には必ず三十四番目の空きができる。

舞う者と、舞われる神と、その両方を見ている者がいるからだと。

だから昔の者は、彫らない面を一枚こしらえて、袋の底に縫い留めた。

面の形をしているが、目も口もない。

誰にも被せず、誰の顔にもならないまま、席を一つ埋めておく。

それが留であり、栓でした。

「あれを人が被ったら、どうなりますか」

「栓が抜けます」

私は、喜三郎さんの足の運びを思い出しました。

教わったとおりに踏み替えて、鈴を三度振って、頭を下げた。

あの晩、栓は庭に出て、席を空けたことになります。

そして空いた席には、待っていたものが座った。

弥之助さんは、それから神楽帳のことを言いました。

神楽帳に名を書かれた者は、次の年から招かれる側になる。

招く側ではなく、招かれる側です。

番付に載った神は、その晩、必ず来ます。

来なければ神楽になりませんから、必ず来るのです。

「書いたのは、椎ノ迫の年寄りではないのですか」

「書いたのは、席に座ったほうです」

「では、あの一行の名は」

弥之助さんは答えませんでした。

代わりに、土間の隅を見ました。

握り飯が一つ、布巾を掛けて置いてあります。

「あれは、誰が置けと言いましたな」

「飯場を建てたときに、在の年寄りが」

「年寄りは、訳を言いましたか」

「いいえ」

「訳を知っておったら、飯場をここへ建てさせておりません」

弥之助さんは、そう言って立ちました。

帰り際に、土間の足跡のことを聞かれました。

入りが三十三で、出が三十四でしたと言うと、うなずいて、それだけでした。

その晩、私は笊の前に座って、朝まで起きていました。

何も起きませんでした。

朝になって、握り飯は三十四のままありました。

喜三郎さんは、飯場にいませんでした。

寝床の布団は、たたんでありました。

荷物も、置いたままでした。

草鞋だけが、なくなっていました。

在の者と飯場の男衆で、三日ほど山を捜しました。

駐在の黒木さんが署に上げて、隣の郡からも人が来ました。

何も見つかりませんでした。

喜三郎さんの平野の家には、身内がいませんでした。

それで、話はそこで止まりました。

工事は春に終わりました。

県道は広がりましたが、その頃には椎ノ迫の若い者は誰も帰ってきませんでした。

在は、四年か五年で人がいなくなりました。

最後まで残っていた年寄りが町の子の所へ移って、それきりです。

神楽は、その前の年で上げなくなりました。

舞手が足りないという理由でした。

面は、どこへ行ったのか分かりません。

在が解けるときに、いくつかは町へ、いくつかは寺へ、残りは行き先が知れなくなりました。

私は飯場を出て、宮崎の市内で長く働きました。

神楽の話は、誰にもしませんでした。

十四年ほど前に、県の資料館で古い面を並べる催しがありました。

新聞に写真が出ていたので、孫を連れて見に行きました。

硝子の箱の中に、面が三十枚あまり、立てて並べてありました。

そのいちばん端に、白い板がありました。

目も口もない、面の形に切っただけの板です。

札には、作者不明、用途不明と書いてありました。

麻の袋は、隣の箱に、たたんで入れてありました。

底の糸は、切ったままでした。

私は、その前からしばらく動けませんでした。

孫が手を引くので、それで出ました。

出てから気がついたことがあります。

あれは今、袋の底にありません。

誰の顔にもなっていませんが、栓としても使われていません。

樅ヶ野の夜神楽は、今も続いております。

毎年、十二月の第一土曜だと聞きました。

番付は三十三番のままです。

去年、その刷り物を人から見せてもらいました。

番と、面の名と、舞手の名が、順に並んでいます。

最後の三十三番の下に、一行だけ、番のない名がありました。

喜三郎さんの名は、次の年の番付にも、その次の年の番付にも、刷られていました。

在が解けても、宿の主が代替わりしても、その一行だけは写し続けられているのだそうです。

訳を知っている人は、もういません。

写すものだから写している、と、今の主は言ったそうです。

私は八十を二つ越えました。

今でも、人が集まっている所へ行くと、数えてしまいます。

出るときにも、もう一度数えます。

入った数と、出た数が合っていれば、それでいいのです。

一度だけ、合わなかったことがあります。

その晩は、日が落ちてから、笛が鳴りました。

一節で切れました。

私は、続きを知りません。

知らないほうがいいのだと、今は思っております。

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