
今でも、梯子を支える役だけは断っている。
理由を聞かれたら、腰が悪いからと答えている。
本当の理由は、去年の11月に取った木守りの柿にある。
木守りの柿とは、収穫のときに枝へ一つだけ残す実のことだ。
来年もよく実るようにという願掛けで、鳥への分け前だとも言われる。
私は造園会社で働いている。
従業員は6人の小さな会社で、仕事は剪定と伐採が中心だ。
34歳。この仕事は、もう12年になる。
作業着の左袖には、青い当て布が付いている。
前の年に枝へ引っかけて破き、自分で縫った跡だ。
色が合わなくて、現場でよく笑われる。
父も植木職人だった。
その父が、梯子についてだけは口うるさかった。
上がる者より、下で持つ者のほうが責任は重い。
その言葉を、私は今でも覚えている。
中学生のとき、父の梯子を持たされたことがある。
父は庭の柿の木の上で、鋸を引いていた。
腕が痺れてきて、私は何度か力を抜きそうになった。
下から見上げる枝は、驚くほど遠かった。
「手を離すなよ」
父は上から、顔も見せずに言った。
「お前が持っとる間は、おれは落ちん」
そのときは、ただの冗談だと思った。
後輩のカイは入社2年目の22歳だ。
高いところが苦手で、いつも梯子の下に回りたがる。
手先は器用なのに、体重のかけ方だけが少し下手だった。
その日もカイは、朝から梯子の位置ばかり気にしていた。
「今日は、高いところ、少なめだといいんですけど」
「柿の木があるでしょう」
「ありますよね……」
11月の第2木曜、朝は冷え込んでいた。
トラックの助手席で、カイは干し柿の話をしていた。
祖母が毎年作るのだという。
「あれ、ほんとに甘くなるんですよ。渋かったのが嘘みたいに」
「渋柿なんだから、そういうものでしょう」
私は前を見たまま答えた。
前の週は雨続きで、庭仕事は延びに延びていた。
やっと晴れた朝の空気は、よく澄んでいた。
道沿いの畑では、刈り取られた稲の株が列をなしていた。
信号待ちの間、カイは窓の外ばかり見ていた。
その日の依頼は、郊外の住宅地にある空き家の庭木の整理だった。
築50年の平屋だ。
住んでいた女性が春に亡くなり、土地を売ることになったという。
依頼主は、東京に住む息子さんだった。
立ち会いはなく、鍵は玄関脇の箱に入れてあった。
依頼書には、剪定と伐採の指示が並んでいた。
最後の一行だけ、ボールペンの手書きだった。
「柿の実は、すべて落としてください」
幹に掛かった古い梯子
午前7時40分、現場に着いた。
空き家の庭は、思ったより広かった。
手入れされていた形跡はある。
生垣は刈り込まれ、飛び石の苔も薄い。
ただ、半年ほど人が入っていない空気があった。
縁側の軒下に、干し柿用の縄が束ねて掛けてあった。
10個ずつ吊るすための結び目が、等間隔に並んでいる。
去年の分だろう。縄の端に、紙の札が付いていた。
「とよさんへ」
鉛筆で、そう書かれていた。
私は札に触れずに、その場を離れた。
乾いた落ち葉の匂いに、かすかに甘い匂いが混じっていた。
庭の奥に、大きな柿の木が立っていた。
渋柿だ。高さは7メートルほどある。
葉はほとんど落ちて、枝に橙色の実だけが残っていた。
遠目には、小さな提灯が並んでいるように見えた。
地面にも、落ちた実が点々と転がっていた。
半年のあいだに熟し、潰れ、土に還りかけたものもある。
踏むと、ぬるりと甘い匂いが立った。
その匂いを、鳥も虫も避けているようだった。
「うわ、すごい数ですね」
カイが首を反らして言った。
数えてみると、100個は下らなかった。
下の枝は、手で取れる。
中ほどは、高枝ばさみで落とす。
てっぺん近くは、梯子に上がるしかない。
そのてっぺん近くに、実が一つだけ残っていた。
細い枝の先で、他の実から少し離れて揺れていた。
梯子を探して幹に目をやると、先客がいた。
古い木製の梯子が、幹に立てかけてあった。
踏み桟は2本欠けている。
側板は、手垢で黒光りしていた。
「施主さんが出しておいてくれたんですかね」
カイが言った。
依頼書にも、息子さんからの連絡にも、そんな話はなかった。
うちのトラックには、伸縮式のアルミ梯子が積んである。
古い梯子は使わない。
腐っていたら危ないので、触らないことにした。
私は朝一番の習慣で、庭の全景を写真に撮った。
カイもスマホで、進捗写真を撮り始めた。
会社の日報アプリには、写真が撮影時刻つきで自動的に上がる。
トラックにはドライブレコーダーも付いている。
運転席の中まで映る、前後2カメラ型だ。
どちらも、そのときは気にも留めていなかった。
8時から、下の枝に取りかかった。
実は、触れると冷たかった。
ヘタを指で折ると、ぽとりと袋に落ちる。
その単調な音が、庭に響いた。
カイが、こっそり1つかじった。
「渋っ」
顔をしかめて吐き出すのを見て、私は笑ってしまった。
「だから言ったでしょう」
「いや、見た目が甘そうなんですよ」
「持ち帰りは禁止。依頼書のとおり、全部処分」
「はあい」
カイの祖母の干し柿は、軒先に吊るして2週間かかるのだという。
「乾くまでの間、毎朝ひっくり返すんです。面倒だけど、いい匂いで」
「お祖母さんは、元気?」
「元気ですよ。梯子には絶対上がらせないですけど」
「正しい判断ね」
軽口を交わしながら、手だけは休めなかった。
カイは口をすすぐふりをして、袋に戻った。
10時までに、手の届く実は袋に収まった。
袋は7つ。どれも、ずしりと重かった。
袋の口を縛るとき、ふと庭を見回した。
鳥の声がしなかった。
この季節の柿の木には、普通ならヒヨドリが来る。
一羽も、枝に止まっていなかった。
隣家の木守りの柿
「ああ、取ってしまうのかね」
柵の向こうから、声がした。
隣家の庭に、小柄な女性が立っていた。
80代だろう。割烹着に、薄いカーディガンを重ねている。
「隣のトヨです。ミヨさんとは、60年のつきあいでね」
「作業中、お騒がせしております」
私は帽子を取って、頭を下げた。
「いいんだよ。ただ、取ってしまうのは惜しくてね」
トヨさんは、柿の木を見上げた。
「ミヨさんの家はね、毎年、干し柿を作って配っとったんだわ」
「そうでしたか」
「最後の一つは、いつも残しとった。木守りの柿だで」
知っている言葉だった。
でも、私は仕事の顔で答えた。
「ご依頼で、すべて落とすことになっています」
「そうかい。そりゃそうだわね。売るんだもの」
トヨさんは笑った。
笑ったが、目は柿の木から離れなかった。
「ミヨさんはね、毎年11月の終わりになると、夕方に庭へ出てきてね」
「夕方に、ですか」
「日が暮れるまで、柿の木の下に立っとった。何をするでもなく、じいっと」
「収穫の見張りでしょうか」
「さあねえ。私は、一度も聞かなんだ」
「ただね。一つは、残しとくもんだよ」
「木のためですか。それとも、鳥のため?」
冗談のつもりで聞いた。
トヨさんは、すぐには答えなかった。
「どっちでもないよ」
風が、枝を一度だけ鳴らした。
「上にいる人の、帰り道だわ」
そう言って、トヨさんは自分の庭の奥へ戻っていった。
カイが小声で言った。
「なんか、気まずいですね」
「仕事だから」
私はそれしか言えなかった。
言いながら、胸のどこかが少しだけ冷えていた。
正午になった。
トラックの荷台に腰かけて、カイと弁当を開いた。
柿の木までは、10メートルほど離れている。
おにぎりの海苔が、湿気を吸ってしんなりしていた。
カイは卵焼きを半分に割って、私に差し出した。
「食べます? コンビニのですけど」
「ありがとう」
こういう何でもない昼が、私は好きだった。
風はやんでいた。
コン。
乾いた音がした。
コン。
もう一度。
指の関節で、木を叩くような音だった。
音のしたのは、柿の木の根元だ。
「今、鳴りましたよね」
カイが箸を止めた。
「鳥じゃない?」
「鳥が、2回きっかりで叩きますか」
私は弁当を置いて、木の根元まで歩いた。
誰もいなかった。
古い梯子が、幹にもたれているだけだった。
側板に指を当てた。
ひんやりしていた。
朝より少し、湿っている気がした。
踏み桟の欠けた場所に、指をかけてみた。
体重をかける気にはならなかった。
梯子の脚は、土に半分ほど沈んでいる。
ずいぶん長いあいだ、同じ場所に立っていたらしい。
音の出どころは、他に思いつかない。
乾いた木が、温度で鳴ったのだろう。
そう思おうとした。
でも、あの2回の間には覚えがあった。
下で梯子を持つ人が、上の人に送る合図だ。
「持ったよ」と知らせる、間だった。
上の人はもう下りたか
午後1時過ぎ、中ほどの実を取り終えた。
柵の向こうで、トヨさんが洗濯物を取り込んでいた。
目が合うと、トヨさんは手を止めて言った。
「上の人は、もう下りたかい」
「上、ですか」
「柿の木の上だよ。朝から、ずっと上がっとるでしょう」
私は木を見上げた。
枝の間に、人影はなかった。
「誰も上がっていませんよ」
「そうかい」
トヨさんは、少し首をかしげた。
「じゃあ、まだなんだね」
それだけ言うと、洗濯物を抱えて家に入った。
カイが小声で聞いた。
「上の人って、誰のことですか」
「さあ。ご高齢だから、混ざってるんでしょう」
私はそう答えた。
そう答えるしかなかった。
その後の1時間、私は何度か木のてっぺんを見た。
見るたびに、枝の間の闇が、少しずつ濃くなっている気がした。
陽はまだ高いのに、そこだけ夕方が早く来ている。
3時を回って、最後の一つだけが残った。
てっぺん近い、細い枝の先の実だ。
伸縮式のアルミ梯子を幹に掛けて、足元を確かめた。
「カイ、持ってて」
「はい」
カイは梯子の下に回り、両手で側板を握った。
「ちゃんと持ってます」
彼は、そう言った。
一段ずつ、上がった。
冷たい風が、首筋を撫でた。
頭の中で、父の声がした。
「お前が持っとる間は、おれは落ちん」
あの日の声が、今になって耳の奥に戻ってきた。
私は一段ずつ、梯子を握り直した。
カラスが一羽、遠くの電線で鳴いた。
それを最後に、庭の音が消えた。
地上から4メートルを過ぎたあたりで、気がついた。
梯子が、揺れない。
カイの持つ梯子は、いつも小さく鳴る。
足元でずれて、金具が音を立てるのだ。
その日は、杭を打ったように動かなかった。
上がるほどに、妙な安心があった。
下から誰かが、私の呼吸に合わせて支えている。
そんな感じがした。
てっぺん近くの枝に、手が届いた。
木肌の一部が、艶を帯びていた。
そこだけ樹皮が擦れて、手のひらの形に磨かれている。
人が長い年月、同じ場所を掴んだ跡だった。
私は、そこを避けて枝を持った。
理由は、うまく言えない。
他人の手形に自分の手を重ねるのは、失礼な気がしたのかもしれない。
実は、思ったより小さかった。
他の実より色が濃く、皮に艶があった。
ハサミで枝を切ると、掌に収まった。
重い。
見た目の倍はあった。
冷たいのに、底のほうだけが体温のようにぬるかった。
その瞬間、下でコン、と音がした。
1回だけだった。
「受け取ったよ」とでも言うように。
私はしばらく、枝の上で動けなかった。
足元の梯子は、相変わらず少しも揺れない。
下を見ると、カイは両手で側板を握ったまま、私の足元を見上げていた。
それなのに、手応えが彼の力だけとは思えなかった。
私は実を、腰の袋に入れた。
土に残った足の跡
地上に下りると、カイが背中をそらして笑った。
「先輩、今日の梯子、ほとんど動きませんでしたよ」
「そう」
「地面が固いんですかね。俺、全然ふらつかなかった」
彼は、自分の手柄のように言った。
私は足元を見た。
梯子の脚の前、土がむき出しになった場所に、足跡があった。
2つ、並んでいる。
つま先は、梯子のほうを向いていた。
私の安全靴の底は、深い波形だ。
カイの靴は、四角い模様が並んでいる。
その足跡は、どちらでもなかった。
底が平らで、親指だけが離れている。
地下足袋の跡だった。
今どき地下足袋で庭に入る職人は、うちの会社にもいない。
しかも、土は乾いていた。
朝から、雨は一滴も降っていない。
それなのに足跡だけが、濡れたような色をしていた。
証拠を残そうと、スマホを構えた。
画面に映った土は、ただの乾いた地面だった。
足跡は、どこにもなかった。
顔を上げると、足跡は確かにそこにある。
画面を見ると、ない。
私は2度、それを繰り返した。
「どうしたんですか」
カイが覗き込んできた。
「いや、何でもない」
彼には、足跡は見えていないようだった。
私は木を見上げた。
最後の実は、もうなかった。
枝には、ひとつも残っていなかった。
「全部、取りましたね」
カイは満足そうに言った。
「一つぐらい残さなくていいんですか」
「依頼書にあるでしょう」
「ですよね」
4時前に、片付けに入った。
カイは落とした実を袋に詰める。
私は切った枝を束ねる。
日が傾いて、庭の影が長くなった。
柿の木の影は、塀を越えて隣家の庭まで伸びていた。
4時5分、私はトラックの運転席に座った。
日報を書くためだ。
アプリに作業内容を入れるには、座って落ち着く必要がある。
運転席の窓から、柵の向こうにトヨさんが立っているのが見えた。
じっと、柿の木のほうを見ている。
窓を開けて会釈をすると、トヨさんは近づいてきた。
「ありがとうね」
「いえ、仕事ですので」
「いいや。あんたが、下を持ってくれたでしょう」
「私は、梯子を持っていませんが」
「そうかい」
トヨさんは、うなずいた。
「ミヨさんも、いつもそう言っとった」
そう言って、深く頭を下げた。
風で白髪が揺れた。
その向こうの柿の木の根元に、誰かが立っているのが見えた。
作業着の背中だった。
カイだと思った。
私は日報の入力に戻った。
四時十二分の写真
その夜、事務所でカイの写真を確認した。
アプリには、午後の進捗写真が並んでいる。
16時12分。
柿の木の全景だった。
塀際から、少し引いて撮ったものらしい。
前後の写真も確かめた。
16時10分と16時14分の2枚には、木と古い梯子と塀の影しか写っていない。
人は、どこにもいない。
人が写っているのは、16時12分の1枚だけだった。
画面を指で広げた。
写真の梯子は、アルミではなく、幹に立てかけてあった古い木製のものだった。
梯子の上に、人がいる。
てっぺん近くの枝の間に、作業着の背中が見えた。
帽子を深くかぶって、顔は見えない。
そして梯子の下に、もう一人。
側板を両手で握り、上を見上げている。
梯子を握る作業着の左袖に、青い当て布が付いていた。
色の合わない、下手な縫い目まで写っていた。
私の袖だった。
指先が冷たくなった。
画面の中の私は、わずかに首を傾けていた。
上の人の足元を、見守る角度だった。
カイを呼んで、画面を見せた。
「ああ、それですか。いい写真でしょう」
彼は得意げだった。
「先輩、最後までずっと下で持ってあげてましたよね」
「この時間、私は」
「上の人も、全然怖がってなかったじゃないですか」
「上の人って」
「え? 元から上にいた人ですよ」
カイは、不思議そうな顔をした。
「先輩、声かけてたじゃないですか。『ゆっくりでいい』って」
私は、そんなことを言っていない。
カイの声は、嘘をついているときの調子ではなかった。
むしろ彼は、思い出して少し嬉しそうにさえ見えた。
「上の人も、先輩の声で落ち着いたみたいで。撮りながら、ちょっと感動しました」
翌朝、息子さんに電話をした。
作業完了の報告のあとで、梯子のことを聞いた。
「木の梯子ですか。父が使っていたものなら、とうにありませんが」
「幹に立てかけてありました」
「そんなはずは。父が最後に使ったあと、母が納屋ごと片付けたと聞いています」
「そうですか」
「母は毎年、日が傾くと庭に出ていました。理由は、聞いたことがないんです」
「あの木の下で、母はよく立っていました。梯子を持つ形に、両手を前に出して」
「……」
「変なことを言いました。忘れてください」
電話を切ってから、会社のトラックの記録を呼び出した。
日報アプリの編集履歴は、16時05分から16時41分まで、運転席での入力を示していた。
ドライブレコーダーの映像にも、運転席でスマホを見つめる私が映っていた。
窓の外では、トヨさんが頭を下げていた。
その向こうに、梯子の下で上を見上げる作業着の背中が小さく映っていた。
その時刻、私はトラックの運転席で日報を書いていた。
あの人は「残しとくもんだよ」と言った。
柿のことだけを言ったのではなかったのだと、今は思っている。
梯子を支える役を頼まれるたび、私は断っている。
断らないと、私の左手がまだあの梯子を握っている気がするからだ。