
三年前の、梅雨の入りの話だ。
私は東京の外れで、小さな古書店をやっている。
父から継いだ店で、間口は二間もない。
床板は歩くたびに軋む。
雨の日は、紙の匂いが濃くなる。
湿った紙というのは、少しだけ甘い。
店の奥の柱時計は、三十年前から四分遅れている。
直す気はない。
四分だけ世間から遅れて暮らす。
それが性に合っていた。
客は多くない。
午後に二人も来れば良い日だ。
売上のほとんどは、買い取った蔵書を市に出して立てている。
だから電話が鳴ると、私はいつも少しだけ姿勢を正す。
六月の初め、その電話が鳴った。
「本を、引き取っていただけますか」
低い、少し掠れた声だった。
「どのくらいの冊数でしょうか」
「三百か、四百か。数えたことがないもので」
「では、伺います」
「助かります。急いでいるわけではないのですが」
急いでいるわけではない、という言い方が耳に残った。
私の商売では、たいてい皆が急いでいる。
家を畳む。
部屋を空ける。
誰かの荷物を片づける。
どれも期限のある用事だ。
期限のない蔵書の始末というのは、あまり聞かない。
翌日は朝から雨だった。
私鉄の駅から、傘を差して十五分ほど歩いた。
昭和四十年代の建売が並ぶ一角だった。
どの家も同じ形の生垣を持っている。
目指す家の生垣だけが、丁寧に刈り込まれていた。
門柱の表札は、彫りが浅くなって読みにくかった。
呼び鈴を押すと、少し間があって戸が開いた。
七十を過ぎたくらいの男が立っていた。
「わざわざ、雨の中を」
「お邪魔します」
廊下は暗かった。
昼だというのに、電灯をつけていない。
雨の音が、家の中でだけ低く響いていた。
奥の間に通された。
畳の縁が擦れて白くなっている。
壁の三方が書架だった。
郷土史。
辞書。
文学全集。
古い旅行案内。
背表紙はどれも、指の脂で艶が出ていた。
読まれた本の艶だ。
私はそれを見ると、少しだけ安心する。
「ゆっくり見てください」
男はそう言って、部屋を出て行った。
しばらくして、襖が静かに開いた。
盆に湯呑みが二つ載っていた。
女の人だった。
年格好はわからない。
ずっと俯いていたからだ。
奥さんは、私の顔を見ずに湯呑みを畳へ置いた。
それだけで、また襖の向こうへ消えた。
足音はしなかった。
雨の音が大きかったのだと、そのときは思った。
湯呑みは、二つとも私の側に置かれていた。
三時間かけて、三百二十冊を検分した。
値のつくものは、そのうち六十冊ほどだった。
郷土史の端本に、思いのほか良いものが混じっていた。
私は金額を紙に書いて、男の前に置いた。
男はそれを見ても、何も言わなかった。
「これで、よろしいでしょうか」
「ええ。数が減れば、それでいいので」
数が減れば。
私は聞き返さなかった。
本を手放す人は、たいてい妙な言い方をする。
荷造りを終えて、玄関で靴を履いた。
「奥様にも、お礼をお伝えください」
男は、うん、とも、いや、とも言わなかった。
ただ、生垣のほうを見ていた。
雨脚が強くなっていた。
※
店に帰ると、私はまず本を拭く。
それから一冊ずつ、頁を繰る。
古本には、前の持ち主の暮らしが挟まっている。
押し花。
映画の半券。
病院の領収書。
子供が書いた父の日の手紙。
古書の紙片というのは、たいていそういう暮らしの切れ端だ。
私はそれを痕跡と呼んで、抜いては箱にしまう。
捨てはしない。
売り物に混じっていると困るから、抜くだけだ。
その日の四冊目は、昭和三十年代の郷土史だった。
二百六頁と二百七頁の間に、紙が挟まっていた。
藁半紙を四つに切ったものだった。
指で摘むと、思ったより厚みがあった。
鉛筆で、日付が書いてあった。
その下に、数字がひとつ。
紙片の隅には、鉛筆で小さく「あと九」と書かれていた。
読書の記録だろうと思った。
読み終えるまであと九日、というような。
私は痕跡箱に入れて、その日は店を閉めた。
雨は夜通し降っていた。
翌朝、同じ本を棚に上げようとした。
癖で、もう一度だけ頁を繰った。
二百六頁と二百七頁の間に、紙が挟まっていた。
同じ藁半紙だった。
同じ鉛筆の字だった。
日付だけが、一日進んでいた。
数字は「あと八」になっていた。
痕跡箱を開けた。
昨日の紙片は、無かった。
箱の底に、薄く四角い跡だけが残っていた。
私は自分の物忘れを疑った。
六十を過ぎてから、そういうことは増えている。
抜いたつもりで抜かず、抜いたと思い込んだ。
箱の跡は、埃の抜けた跡だと考えた。
そう考えれば、辻褄は合う。
その日は、それで済んだ。
※
三日目は、済まなかった。
朝、私は紙片を抜いて、店先の炭火に近づけた。
焼くつもりだった。
痕跡を焼いたことは、それまで一度もない。
手が止まったのは、紙が湿っていたからだ。
梅雨の湿りではない。
人の掌に握られていたような、生温い湿りだった。
私は焼くのをやめて、机の抽斗に入れた。
鍵をかけた。
鍵をかけたことも、それまで一度もない。
翌朝、抽斗は施錠されたままだった。
中の紙片は無かった。
郷土史の二百六頁に、それはあった。
「あと七」。
その頃から、店の匂いが変わった。
紙と黴と、糊の匂いの店だ。
そこに、石鹸の匂いが混じるようになった。
洗い立ての手拭いのような匂いだった。
客が持ち込む匂いではない。
客が来ない日にも、それは夕方になると濃くなった。
夜、書架の奥で紙の擦れる音がした。
鼠かと思って、粘着板を敷いた。
かかったのは埃だけだった。
音は、決まって柱時計が九つ鳴ったあとに始まった。
四分遅れの九つだから、世間ではもう九時四分だ。
私はその四分が、急に長いものに思えた。
※
七日目に、私はようやく二百六頁を読んだ。
紙片を抜くばかりで、中身を読んでいなかった。
古本屋というのは、案外、本を読まない。
読むより先に、値を見てしまう。
その頁は、郷土史の第四章だった。
「戸口改め」という項だった。
江戸の末、このあたりは武蔵野の外れの村だった。
今、建売が並んでいる一帯が、そのまま村の田だったらしい。
村では、年に一度、戸口を改めた。
家ごとに人の数を数えて、帳面に記す。
当たり前の役目だ。
その村では、当たり前に済まなかった。
数え直すたびに、帳面の合計がひとり足りない。
家ごとの数を足せば合う。
村としての合計だけが、ひとつ足りない。
役人は、足りない分を「留」と書いた。
留め置く、という意味の留だ。
翌年に繰り越す、ということでもある。
繰り越しは、九年続いたと書いてあった。
十年目に、帳面は合った。
合った理由は、書かれていなかった。
著者は、そこで章を終えていた。
巻末の索引を引いてみた。
その村の名は、索引に載っていなかった。
項目が抜けているのではない。
村の名だけが、五十音の並びから外れていた。
私は本を閉じて、しばらく手を洗った。
石鹸を使った。
使ってから、その匂いに気づいた。
店に満ちていたのと、同じ匂いだった。
私の家の石鹸ではない。
店の流しに置いてあったのは、私の買ったものではなかった。
いつからそこにあったのか、思い出せなかった。
※
同業の市で、古参の男に話してみた。
名前は伏せる。
三十年、一緒に札を入れてきた男だ。
「本に挟まった紙が、翌朝また戻っているんだ」
「抜いたつもりで抜いてないんだろう」
「抽斗に鍵をかけた。それでも戻った」
「じゃあ、あんたが寝ぼけて戻してるんだ」
「そうかもしれない」
「気味が悪いなら、その本ごと市に流しな」
「流していいものかな」
「本は場所を選ぶが、人は選ばんよ」
男はそう言って笑った。
笑いながら、私の顔を見なかった。
あの家の奥さんと、同じ顔の伏せ方だった。
私は市を早く切り上げて、店に戻った。
その日の紙片は「あと五」だった。
数字は、私が抜いた回数と同じだけ減っていた。
一日で一つではない。
抜けば、減る。
抜かなければ、その日は動かない。
試してみたから、わかった。
二日続けて、頁を繰らずに置いた。
三日目に開くと、数字は「あと五」のままだった。
私が抜いた分だけ、何かが進んでいた。
何が進んでいるのかは、わからなかった。
※
買い取り伝票の番号に、電話をかけた。
呼び出し音は鳴った。
十六回鳴らして、切った。
翌日も、その翌日も同じだった。
六日目、私は電車に乗った。
梅雨の晴れ間で、生垣の匂いが強かった。
目指す家は、すぐにわかった。
生垣だけが、伸びきっていたからだ。
あれから半月も経っていない。
半月で、あんなに伸びるものだろうか。
呼び鈴を押した。
押し込んだまま、指を離しても戻らなかった。
中で鳴っている気配はなかった。
雨戸が、全部閉まっていた。
隣家の庭で、老婦人が鉢を並べていた。
「あの、こちらのお宅の方は」
「入院なさってますよ。先週から」
「ご容体は」
「長いそうです。もう戻られないかもしれないって」
「奥様は、どうされているんでしょう」
老婦人は、鉢を持ったまま私を見た。
「奥さん」
「ええ。先日、お茶を出していただいたので」
「あのお宅は、十年こっち、ご主人おひとりですよ」
手にした鉢の底から、土がぱらぱらと落ちた。
「奥さんは、十年前の冬に長く患われてね」
「それきり、家には戻られなかったの」
あの家に、奥さんはいないはずだった。
私は礼を言って、駅まで歩いた。
歩きながら、湯呑みのことを思い出していた。
二つとも、私の側に置かれていた。
あれは、客の分と、主人の分ではない。
客の分が、二つだったのだ。
※
店に戻ると、店の戸が開いていた。
鍵はかけて出たはずだった。
中は荒らされていなかった。
むしろ、片づいていた。
書架の並びが変わっていた。
背の高い順に、きれいに並べ替えられていた。
私は背の高さで本を並べない。
分野で並べる。
二十年、そうしてきた。
郷土史は、いちばん右の端にあった。
抜いて、開いた。
二百六頁と二百七頁の間に、紙が挟まっていた。
日付は、その日のものだった。
「あと一」と読めた。
私は紙片を持ったまま、しばらく立っていた。
石鹸の匂いが、鼻のすぐ先にあった。
背中に、風呂上がりのような湿った空気を感じた。
振り向かなかった。
振り向いてはいけない気がした。
そういう理屈ではない。
ただ、振り向く順番ではないと思った。
柱時計が九つ鳴った。
鳴り終わってから、紙の擦れる音が始まった。
音は、書架の奥ではなかった。
私の手の中だった。
紙片が、掌の上で一度だけ動いた。
開くと、裏側に鉛筆の字が増えていた。
日付でも、数字でもなかった。
私の名前だった。
苗字も、名も、字画のひとつまで正しかった。
筆跡は、これまでと同じ鉛筆の細い字だった。
私は自分の字を知っている。
それは、私の字ではなかった。
手が震えていたのを、そのとき初めて知った。
紙の縁が、細かく鳴っていたからだ。
喉が渇いて、唾を飲むと耳の奥で音がした。
膝の裏が冷たかった。
六月の夜に、そこだけ秋の風が当たっているようだった。
私は帳場に戻って、椅子に腰を落とした。
座ってから、両手を膝に置いた。
掌が、石鹸の匂いを吸っていた。
洗っていない手が、洗い立ての匂いをさせていた。
私はその手で、しばらく何も掴まなかった。
※
その晩、私は店に泊まった。
帰る気にならなかった。
帳場の椅子で、電灯をつけたまま朝を待った。
眠ってはいない。
眠っていないのに、夜が短かった。
戸の隙間が白くなったとき、私は郷土史を開いた。
二百六頁と二百七頁の間に、紙は無かった。
どの頁にも、無かった。
痕跡箱にも、抽斗にも無かった。
店じゅうを探して、無かった。
石鹸の匂いも、消えていた。
私は少しだけ息を吐いた。
それから、柱時計を見た。
柱時計は、四分ではなく、きっかり合っていた。
※
時計屋を呼んで、中を見てもらった。
「触った跡はありませんね」
「勝手に合うことはありますか」
「四分早まる細工は、私にはできませんよ」
時計屋は、そう言って帰った。
以来、その時計は正確に時を刻んでいる。
三十年遅れていたものが、一日で追いついた。
追いついた四分が、どこへ行ったのかを私は考える。
あの家の主人は、その年の秋に病院を出た。
どこへ移られたかは、聞かないことにしている。
郷土史は、市に流さず店に置いてある。
値札はつけていない。
棚の右端、背の高さの合う場所に立ててある。
並べ替えられたときの、あの並びのままだ。
客がその本を抜こうとすると、私は声をかける。
「それは売り物ではないんです」
たいていの客は、素直に戻してくれる。
戻さない客も、たまにいる。
そういう客の手の中で、頁が薄く鳴ることがある。
私はそのとき、いつも同じことを思う。
あの数字は、何が「あと一」だったのか。
数えていたのは、日数ではなかったのだろう。
抜けば減った。
抜かなければ、動かなかった。
つまり、数えていたのは私の手だ。
手が九つ、八つ、と減って、一つになった。
一つのあとに、何が来るのかは書かれていなかった。
書かれていたのは、名前だけだった。
今でも、私は本の頁を繰るのが仕事だ。
日に何百回も繰る。
繰るたびに、指の腹が紙を撫でる。
その感触が、たまに湿ることがある。
梅雨でなくても、湿ることがある。
そういう朝は、店を開ける前に柱時計を見る。
合っていれば、その日は普通に店を開ける。
遅れていたことは、まだ一度もない。