
平成八年の夏の話をする。
当時、私は三十四歳で、遠州の砂地に圃場を持つ種苗会社に勤めていた。
育種の担当だった。
花の種を作る仕事だと言うと、たいていの人は華やかな想像をする。
実際にやっていることの九割は、記帳と、掃除と、抜くことだ。
朝顔は明け方に開いて、昼前には萎む。
だから記録は日の出前にとる。
三時半に起きて、四時には圃場に入っていた。
ヘッドランプの光の輪の中で、鉢の番号を読み、萼の形を見て、花径を測り、野帳に書く。
それを二百鉢、三百鉢と続けていくと、終わる頃に空が白む。
十年やっていた。
体は慣れていた。
その年の六月に、上司から一枚の地図を渡された。
砂間という在の、集落から少し外れた場所に印がついていた。
車で四十分ほどの距離だった。
三隅という家が、江戸の終わりから変化朝顔の系統を継いでいる。
当主が高齢で、続けられなくなった。
系統を会社で引き取れないか、という話が去年から来ている。
夏のあいだ通って、選抜だけでも代わりにやってきてほしい。
上司はそう言った。
変化朝顔というものを、簡単に説明しておく。
普通の朝顔とは別の、江戸の園芸家たちが作り上げた奇形の系統のことだ。
花弁が細く裂けて糸のようになったもの、萼が花びらに変わって幾重にも重なったもの、葉が縮れて牡丹の葉のようになったもの。
そういう極端な姿のものを、二百年以上かけて選び続けてきた。
厄介なのは、いちばん美しい姿のものが、種を作れないという点だ。
出物と呼ぶ。
出物は子孫を残せないので、出物の兄弟にあたる、姿の普通な株から種を採る。
その種を翌年また百粒、二百粒と蒔く。
そのうちの何割かに、また出物が出る。
つまりこの園芸は、毎年たくさん蒔いて、ほとんど全部を捨てて、一つだけを取る、という作業を二百年繰り返してできている。
言葉にすると単純だが、実際にやると、これはかなり奇妙な仕事だった。
砂間という土地について、少し書いておく。
海から二キロほど内陸で、地面はどこを掘っても白い砂だ。
江戸の頃は松の防砂林しかなかったところに、少しずつ畑が開かれた。
水はけがよすぎて、稲も麦もろくに実らない土地だった。
そういう場所で、朝顔だけがよく育った。
根が浅く、水を欲しがらない植物だからだ。
在の家は昔からどこも、庭先で朝顔を作っていた。
三隅家は、そのなかで唯一、変わった姿のものだけを残し続けた家だった。
六月の終わりに、初めて三隅家へ行った。
黒い板塀に囲まれた古い家で、門の内側に大きな百日紅があった。
当主の三隅松次郎さんは八十三歳で、耳が少し遠かったが、話し方はしっかりしていた。
家の裏に、木枠のガラス室があった。
戦前に建てたものだと言った。
硝子が波打っていて、外の景色が少しずつずれて見えた。
中には低い木の台が三列に並び、その上に三寸鉢が隙間なく置かれていた。
数えると二百四十鉢あった。
すべて同じ土、同じ大きさの鉢で、札だけが違う。
札は薄い杉の板で、番号と、親の系統の記号が墨で書いてあった。
「番号は毎年同じにしとる」と松次郎さんは言った。
「株が変わっても、番号は畑のもんだで」
その言い方が、少し引っかかった。
番号は普通、株につけるものだ。
その日は帳面も見せてもらった。
和紙を綴じた縦長の帳面が、木箱に入って十七冊あった。
いちばん古いものは天保の年号が入っていた。
どの帳面も、書式が同じだった。
年、蒔いた数、咲いた数、残した株の番号、そして最後に「返し」という欄がある。
返しの欄には、毎年、その年に抜いた株の数が書かれていた。
百八十七、二百二、百六十四。
二百年ぶん、几帳面に書いてあった。
私はその欄の意味が分からず、ただ丁寧な仕事だと思った。
帰り際、松次郎さんが小さな油紙の包みをくれた。
中に大学ノートが一冊入っていた。
「西尾さんが置いていったもんだ」
西尾さんは、私の前にこの会社で育種をやっていた人だ。
私の師にあたる。
二年前の冬に、向こうへ渡った。
胃をやられていたと後で聞いた。
ノートを開くと、几帳面な鉛筆の字で、三隅家の系統についての観察が三十頁ほど続いていた。
知らない仕事だった。
西尾さんが個人的に三隅家へ通っていたことを、私はその時まで知らなかった。
最後の頁だけが白紙で、上のほうに一行だけ、鉛筆の書き込みがあった。
まだ書けない、と鉛筆で書いてあった。
その頁だけ、他より紙が波打っていた。
湿ったことがあるのだろうと思った。
七月に入って、通いが始まった。
週に三度、明け方に車で砂間へ行き、ガラス室で開花調査をして、昼前に会社へ戻る。
仕事そのものは、いつもと変わらなかった。
違ったのは、匂いだった。
夕方に一度、水やりのために寄った日がある。
七月十日だったと野帳にある。
ガラス室の戸を開けたとき、甘い匂いがした。
線香に少し似た、乾いた甘さだった。
朝顔は香らない。
これは常識ではなく、事実だ。
アサガオ属には香りを作る仕組みがほとんどない。
私は二百四十鉢のあいだをひととおり歩いて、匂いのもとを探した。
線香立ても、供物も、枯れた花もなかった。
土の匂いと、湿った木の匂いだけだった。
戸を閉めて外に出ると、匂いは消えた。
もう一度開けると、また甘かった。
その日はそれで帰った。
翌週、辰さんに会った。
三隅家で長く作男をしていた人で、七十を過ぎてからは近所に住んで、時々畑を見に来ていた。
軽トラックの荷台に腰かけて、麦茶を飲んでいた。
私が挨拶をすると、辰さんはガラス室のほうを顎で示した。
「あんた、抜くの、いつからだね」
八月の頭から始めます、と答えた。
辰さんは、少し黙ってから言った。
「三隅の畑はな、抜くときに一声かけるもんだ」
何と言えばいいんですか、と聞いた。
辰さんは麦茶を飲み干して、荷台から降りた。
「今の当主が言わんようになったで、わしも言わん」
それだけ言って、軽トラックで帰っていった。
私はその言い方を、田舎によくある年寄りの作法の話として受け取った。
実際、そういう作法は農家にいくらでもある。
苗代に酒をかけるとか、初物を仏に上げるとか、その類だと思った。
八月に入って、選抜が始まった。
出物が出そろうのは、この時期だ。
朝の光の中で、二百四十鉢を一つずつ見ていく。
葉の縮れ、萼の変わり方、花弁の裂け方。
基準に届かないものには、赤い紙のテープを札に巻く。
テープを巻かれた鉢は、その日のうちに抜いて、畑の隅に運ぶ。
畑の隅には、五坪ほどの何も植えていない区画があった。
松次郎さんはそこを捨て地と呼んだ。
二百年、そこにだけ返してきたのだという。
土は黒く、砂地なのにいつも湿っていた。
八月三日、私は三十一鉢に赤テープを巻いた。
株を抜き、根の土を落として、捨て地に置いた。
札は抜いた鉢から外して、木箱にまとめた。
これは私の癖だ。
札を残しておくと、翌年、同じ番号を使うときに手間が省ける。
その日の作業を終えて帰った。
翌朝、四時にガラス室へ入った。
台の三列目、いちばん端の鉢に、札が二枚挿さっていた。
一枚は昨日から挿さっている正規の札だった。
もう一枚は、私が昨日木箱にしまったはずの、抜いた株の札だった。
番号を確かめた。
確かに、昨日抜いた三十一鉢のうちの一つだ。
木箱を開けて数えると、三十一枚あるはずの札が三十枚しかなかった。
私は木箱を持ってガラス室を出て、母屋の縁側に座った。
まだ空が白んでいなかった。
札をヘッドランプの光にかざした。
番号は間違いなくその番号だった。
ただ、墨の色が違った。
木箱の中の三十枚は、私が見慣れた松次郎さんの字だ。
手の中の一枚は、字の形が同じなのに、墨が古かった。
杉の板も、他より薄く磨り減っていた。
何十年か前の札が、同じ番号で紛れていたのだと考えた。
そう考えるのがいちばん自然だったし、実際にそういうことはある。
私はその一枚を木箱に戻し、その日の調査を始めた。
その晩、家に帰ってから、西尾さんのノートを最初から読み直した。
それまでは、系統の記載だけを拾い読みしていた。
十九頁目に、観察とは関係のない書き込みがあった。
七月十日、夕、硝子室に甘い香。
線香に似る。
アサガオ属に香気成分の報告なし。
翌日再確認、無し。
私が匂いを嗅いだのと、同じ月日だった。
西尾さんが三隅家へ通っていたのは、私より三年前だ。
三年前の七月十日にも、同じ匂いがしていたことになる。
私は自分の野帳を出して、七月十日の欄を見た。
甘い匂い、とだけ書いてあった。
翌日に確認したかどうかは、書いていなかった。
翌朝、ガラス室で確かめた。
夕方まで待って、もう一度確かめた。
匂いは、無かった。
その夏は暑かった。
八月の半ばに、松次郎さんが縁側に西瓜を出してくれた日がある。
辰さんも来ていて、三人で食べた。
松次郎さんは種を庭に飛ばすのがうまかった。
狙って百日紅の根元に当てていた。
八十三でこれだで、と笑っていた。
辰さんが、若い頃に西瓜の種を鼻から出した男の話をして、松次郎さんが本気で怒った。
汚いことを客の前で言うな、という怒り方だった。
それから、江戸の朝顔の品種名の話になった。
帳面に出てくる名前は、どれも大仰だった。
青蜻蛉葉白采咲牡丹、黄斑入蝉葉紅細切采咲。
声に出して読むと、呪文のようだった。
松次郎さんは、そのうちのいくつかをそらで言えた。
「名前が長いほど、捨てた数が多いんだわ」
辰さんが笑って、それを聞いた松次郎さんは笑わなかった。
その日の夕方、遠くで盆の花火が鳴った。
海のほうだった。
音だけが、砂の上を滑ってくるように届いた。
私はその音を聞きながら、この仕事は悪くないと思っていた。
八月十九日の朝、辰さんが軽トラックで来た。
私がガラス室から出たところで、辰さんが言った。
「あんた、昨日の夕方、畑の隅で誰かと喋っとったろう」
私は前日、夕方には来ていない。
会社で会議があって、五時から七時まで座っていた。
そう言うと、辰さんは首を傾げた。
「そうか」
「後ろ姿だったで、あんただと思ったが」
何人でしたか、と私は聞いた。
自分でも、どうしてそういう聞き方をしたのか分からない。
辰さんは少し考えて、片手を上げた。
「向こうを向いて、こう、頭を下げとった」
それだけ言って、辰さんは畑のほうへ歩いていった。
その日、私は母屋で帳面をもう一度見せてもらった。
返しの欄を、古いほうから順に追った。
天保から昭和まで、一年も欠けずに数字が入っていた。
数字の下に、小さく丸が打ってある年と、打っていない年があった。
松次郎さんに聞くと、丸は「言うたしるし」だと言った。
何を言うんですか、と聞いた。
松次郎さんは急に耳が遠くなったような顔をして、湯呑みを持って立った。
丸は、昭和五十三年の欄で途切れていた。
それ以降の年にも数字は入っているが、丸はない。
昭和五十三年は、松次郎さんが家を継いだ年だった。
八月二十四日の朝、私は四時にガラス室へ入った。
その日は、いつもと空気が違った。
甘い匂いが、朝から出ていた。
夕方だけのものだと思っていたので、それが少し引っかかった。
台の二列目、真ん中あたりに、しおれた花が一つあった。
朝顔は明け方に開く。
四時に、その日の花が咲き終わっていることはない。
私は札の番号を確かめた。
前日の野帳を開いた。
その鉢は、前日は蕾が固く、開花は二日後と記録してあった。
花柄を指でつまんで持ち上げると、萼はすでに閉じて、実の形になりかけていた。
昨日咲いた花の形だった。
私は野帳に、その鉢の番号と、時刻と、状態を書いた。
書き終えてから、鉛筆を持った手を見た。
指の腹に、土が付いていた。
その朝、私はまだ土に触れていなかった。
※
八月三十日が、最後の選抜の日だった。
残っている鉢は二百四十のうち六十二。
このうちから、その年の一株を残す。
残りは、抜いて捨て地に返す。
朝の四時にガラス室へ入り、六十二鉢を三度見た。
三度目で決めた。
一列目の、番号百十七の鉢だった。
萼が完全に花弁に変わり、内側にもう一段、細い花弁が巻き込まれている。
写真で見た江戸の図譜に近い姿だった。
松次郎さんを呼んで見せると、しばらく黙って、それから小さく頷いた。
「うちのじいさんが見たら泣くわ」
そう言って、母屋へ戻っていった。
私は残りの六十一鉢に赤テープを巻いた。
巻き終えてから、テープの箱を持ったまま、しばらく台の前に立っていた。
辰さんの言葉を思い出していた。
抜くときに一声かけるもんだ、と言われた。
何と言えばいいのかは、教えてもらっていない。
教えてもらっていないのだから、言えるはずがない。
そう自分に言って、テープの箱を置いた。
今になって思うのは、あのとき私は、言い方を知らなかったのではないということだ。
聞き返さなかっただけだ。
辰さんは、二度目を聞けば教えるつもりだったのだと思う。
そして、一鉢ずつ抜き始めた。
抜くというのは、実際には株の根元を握って、鉢から土ごと引き出す作業だ。
根が回っていれば、土がひとかたまりで出てくる。
根が弱いと、途中で切れて土が崩れる。
その日は、どの鉢も気持ちよく抜けた。
一輪車に載せて、捨て地へ運ぶ。
四往復した。
最後の一輪車を捨て地の縁で止めて、株を一つずつ下ろしていた。
数えながら下ろしていた。
五十九、六十、六十一。
最後の一株を土の上に置いたとき、後ろで声がした。
先に済んだ、と、鉢のほうから声がした。
男の声とも女の声ともつかない、低い、短い声だった。
私は振り返らなかった。
振り返らなかったというより、首が動かなかった。
一輪車の取っ手を握ったまま、しばらくそうしていた。
背中側の空気が、少し湿った。
汗が引いていくのとは違う、外から寄ってくる湿りだった。
どのくらいそうしていたか分からない。
気がつくと、空が白んでいた。
私は一輪車を押して、ガラス室へ戻った。
戸を開けて中に入り、台の上を見た。
二百四十の鉢のうち、残っているのは一つだけだった。
番号百十七の鉢が、三列の真ん中に、ぽつんとあった。
私はその鉢の前に立って、野帳を開いた。
最後に記録をつけるつもりだった。
野帳に挟んであった西尾さんのノートが、床に落ちた。
拾って、開いた頁を見た。
最後の白紙の頁が開いていた。
白紙だったはずのその頁に、私の名と、その年の日付が、墨で入っていた。
鉛筆ではなかった。
西尾さんの字でもなかった。
帳面の「返し」の欄と、同じ書き癖だった。
私はノートを閉じて、鞄に入れた。
その日は、松次郎さんに挨拶をせずに帰った。
※
会社に戻って、上司に、三隅家の系統は引き取らないほうがいいと言った。
理由を聞かれたので、株の状態が悪く、系統としての価値が低いと言った。
これは嘘だった。
番号百十七の株は、私が見た中でいちばんいい出物だった。
上司は納得しなかったが、私が強く言ったので、話は流れた。
その秋、私は会社に辞表を出した。
理由は特に説明しなかった。
翌年から、農業とはまったく関係のない仕事に就いた。
今もその仕事を続けている。
三隅家のことは、辰さんから年賀状で少しずつ知った。
松次郎さんは平成十一年の冬に、静かに眠りについた。
朝顔は、その前の年から蒔いていなかったそうだ。
辰さんも、平成十六年に先に逝った。
最後の年賀状に、一行だけ、手書きで書いてあった。
「畑の隅、まだ湿っとります」
それだけだった。
三隅家の変化朝顔は、二百年余りで途絶えた。
系統を引き取る話を止めたのは私だから、途絶えさせたのは私だ。
それについて、後悔しているかと聞かれると、答えに困る。
ただ、あの年、私が残した番号百十七の鉢が、その後どうなったのかは知らない。
誰も引き取らなかったのなら、あの株も、いつかは捨て地に返されたはずだ。
そのとき、誰が一声かけたのかは分からない。
帳面の「返し」という欄について、辞めてから何度か考えたことがある。
返すという言葉は、普通、借りたものに使う。
二百年、あの家は毎年百何十かを借りて、そのぶんを返していたことになる。
何を借りていたのかは、帳面のどこにも書いていなかった。
書く必要がなかったのだと思う。
毎年やっている者には、当たり前のことだからだ。
そこまで考えて、私はいつも考えるのをやめる。
西尾さんのノートは、まだ持っている。
最後の頁は、あれから増えていない。
増えていないことを確かめるために、年に一度だけ開く。
今も、日の出前に目が覚める。
三時半きっかりに目が開いて、しばらく天井を見ている。
記録するものは、もう何もない。
ただ、八月の終わりの何日かだけ、部屋の中で土の匂いがする。
乾いた甘い、線香に少し似た匂いだ。
その匂いのする朝は、決まって、指の腹に土が付いている。