渇水の川に立つ標尺の人

夕暮れの測量風景

あの日から、望遠鏡を覗くのは左目だけにしている。

右目で覗かない理由を、会社の人にはまだ話していない。

話すとすれば、対岸に立っていた標尺の人のことから始めなければならない。

去年の8月、最後の週のことだ。

私は測量会社に勤める31歳で、県の河川改修に伴う横断測量に出ていた。

その夏は、ほとんど雨が降らなかった。

上流のダムが放流を絞ったせいで、川は普段の三分の一ほどの幅まで痩せていた。

水の引いた川底は、白く乾いて、亀の甲羅のように割れていた。

歩くたびに、割れ目の縁がぱりっと崩れる。

足の裏に、薄い煎餅を踏むような感触が残った。

干からびた藻の匂いが、熱気と一緒に鼻の奥へ上がってくる。

堤防の林では、蝉が休みなく鳴いていた。

朝5時に会社を出て、コンビニで氷を買い込んだ。

袋入りの氷は、現場に着く頃には半分の重さになる。

塩田は、氷を齧りながら助手席で寝てしまった。

川の名前は、あけぼの川という。

橋の名前も、あけぼの橋。

地図で見れば、どこにでもある地方の中小河川だ。

私は大学で測量を学んで、この会社に入った。

地図の端に、数字を一つずつ足していく仕事が性に合っていた。

派手さはないが、数字は嘘をつかない。

そう信じて、10年近く現場に立ってきた。

同行したのは、入社2年目の塩田だった。

24歳で、背が高く、返事だけは社内の誰よりも早い。

首に保冷タオルを巻いて、車を降りた途端に「うわ、サウナだ」と笑った。

仕事は丁寧なのに、段取りを忘れる癖がある。

その分、私が先回りして指示を出すことになる。

現場に向かう車の中で、塩田がスマホの画面を見せてきたのを覚えている。

「先輩、今日の予報、最高気温37度ですって」

「雨は?」

「ゼロです。あと2週間は降らないそうです」

予報は最高気温37度、雨の気配はどこにもなかった。

私はクーラーバッグの麦茶を、ひとり2本ずつに詰め直した。

橋の下の日陰に車を停めて、機材を下ろす。

三脚、レベル、標尺、野帳、無線機。

並べてみると、いつもの現場の匂いがした。

橋脚の影に、錆びた水位標が立っていた。

目盛りは、水面から3メートルも上で止まっている。

去年の秋の増水のとき、ここまで水が来たのだという。

今は、その影の下まで、白い土が続いていた。

麦わら帽子とタオルと日焼け止めを、念入りに重ねる。

塩田は日焼け止めを顔にだけ塗って、首筋を忘れていた。

「首、真っ赤になるよ」

「あ、ほんとだ」

図面を広げると、川の昔の姿が、薄い線で重ねてあった。

この川は、昭和30年代に流れを付け替えられている。

旧い流れは埋め立てられ、いまは堤防の内側の草地になっている。

図面の隅に、色褪せた鉛筆書きが残っていた。

「旧測線 K-7 未了」

几帳面な字だった。

未了、というのは、観測が終わっていないという意味だ。

60年前の誰かが、ここで手を止めたまま、図面だけが役所の棚に残ったらしい。

私はその一行を、特に気に留めなかった。

図面を畳んで、作業ズボンのポケットに差した。

「先輩、今日は何本ですか」

「横断を一本。往復で測って、夕方には終わる」

「楽勝ですね」

「そういうことを言うと、だいたい長引く」

「ジンクスですか」

「経験則」

塩田は肩をすくめて、標尺を伸ばし始めた。

4メートルのアルミの棒が、がしゃんと三段に伸びる。

日差しを受けた目盛りが、白く光った。

私は三脚の脚を踏み込んで、地面に据えた。

レベルの気泡は、ぴたりと真ん中で止まった。

その時点では、何もおかしなことはなかった。

橋の上から、麦わら帽子の老人が、こちらを覗き込んでいた。

釣り竿を持っているが、川に水はほとんどない。

割れた川底の測線

老人は、橋の欄干から身を乗り出して声を掛けてきた。

「測量かい」

「はい。河川改修の調査です」

「今年は川が痩せたなあ。向こう岸まで歩いて渡れそうだ」

「ええ。おかげで仕事は早く済みそうです」

老人は、帽子のつばを持ち上げて、対岸の森を眺めた。

「六十年ぶりだわ。あっちの岸に、測量の人が立つのは」

「六十年?」

「川を付け替える前の話だよ。旗を振って、向こうとこっちで合図しとった」

「その調査は、終わったんですか」

「途中で雨が来てなあ。一回、やめたんだ。そのあとは、知らん」

老人はそれきり、橋の向こうへ歩いていった。

私は、深く考えなかった。

昔の調査が雨で中断されることは、珍しくない。

水準測量は、二人一組で行う。

一人が三脚にレベルを据え、望遠鏡で遠くの物差しを読む。

もう一人が、その物差しを真っ直ぐに立てる。

物差しの名前が、標尺だ。

長さ4メートル、赤と白の目盛りが細かく刻まれた、アルミの棒である。

標尺を持つ側は、現場では標尺の人と呼ばれる。

名前ではなく、役割で呼び合うのが習わしだった。

「標尺、立てて」

「標尺、読みます」

そう声を掛け合って、高さを少しずつ地面に刻んでいく。

その日の測線は、橋の下流30メートルを横切る一本だった。

こちら岸の水準点から、川底を渡って、対岸の杭までを結ぶ。

図面上の川幅は、41.2メートル。

水が引いたいまなら、歩いて渡れる距離だった。

対岸の杭の頭には、色の抜けた札が括りつけてあった。

文字は薄れて、K-7とだけ読めた。

図面の隅の書き込みと、同じ番号だった。

私は右目でレベルを覗く癖がある。

左目は閉じて、右目だけに視野を集める。

大学の実習のときから、ずっとそうだ。

私は水準点の真上にレベルを据え直した。

「読んだ数字は、読んだ人のものだ」と、新人のとき先輩に叩き込まれた。

誤読も、見間違いも、読んだ人の責任になる。

だから私は、数字を書く前に必ず二度確かめる。

塩田が標尺を持って、水準点に立った。

標尺の石突きを、自分の足の甲にこつんと当てる。

塩田の癖だ。

長さを確かめているつもりらしい。

入社の頃に一度注意したが、直らなかった。

「後視、いきます」

接眼レンズの向こうで、標尺が揺れて、止まった。

読み取り値は、1.482。

野帳に鉛筆で書きつける。

鉛筆は、HBを3本。

消しゴムは使わない決まりだった。

間違えたら、線を引いて、横に書き直す。

後から読んだ人が、何を直したかわかるように。

「前視をお願い。対岸の杭まで渡って」

「了解です。渡ります」

塩田が標尺を肩に担いで、川底へ降りていく。

白い背中が、陽炎の中で少しずつ小さくなった。

太陽は、真上に近づいていた。

アスファルトのない川底には、日陰というものがない。

こめかみから落ちた汗が、野帳の端に丸い染みを作った。

私は麦茶を一口飲んで、残りを首筋に当てた。

氷は、もう半分以上溶けていた。

蝉の声が、背後の堤防から降ってくる。

ふと、気づいたことがあった。

蝉は、こちら側の林でしか鳴いていない。

対岸の森は、同じ高さの緑なのに、音がなかった。

暑さで鳴き疲れたのだろう、と私は思った。

思ったことは、それだけだった。

対岸に立つ標尺の人

塩田は川底の真ん中あたりで、一度立ち止まって振り返った。

右手を大きく挙げて、手を振る。

私も手を振り返した。

無線機から、ざらついた声が届く。

「先輩、足元ぼろぼろです。割れ目に靴が入ります」

「ゆっくりでいい。急がないで」

「了解です。……あれ、もう誰か来てるんですか」

「誰か?」

「いえ、先輩の側から見てどうかなって」

私はレベルの望遠鏡を、対岸の杭へ向けた。

倍率は32倍。

視野の中で、対岸が手の届く距離まで近づく。

杭のそばに、標尺が一本立っていた。

塩田は、まだ川底の真ん中にいる。

彼が持っているはずの標尺は、肩の上だ。

つまり、杭の標尺は、別の誰かのものだった。

その標尺を、人が持っている。

灰色の作業着に、地下足袋。

標尺は真っ直ぐに立てられ、持ち手は、その後ろに半分隠れている。

持ち方は、教科書どおりだった。

背筋が伸びて、標尺は一ミリも傾いていない。

熟練した人の立ち方だ。

顔は、標尺に隠れて見えなかった。

標尺を顔の前に立てるのは、読み取りやすくする持ち方で、現場では普通のことだ。

だから最初は、他の班だと思った。

「塩田、杭のところに人がいる。他班かもしれない」

「ほんとですか。ぼくからは見えないです」

「あと10メートルで着く?」

「はい。……着きました」

塩田が杭の前に立った。

望遠鏡の視野の中で、塩田と標尺の人が、1メートルも離れずに並ぶ。

「先輩、杭、ありました。ぼく、標尺立てます」

「その隣に人がいるでしょう。挨拶して」

「え?」

「隣」

「……誰もいませんけど」

塩田は、きょとんとした顔で、左右を見回した。

視野の中の彼は、標尺の人の肩に触れそうな距離にいる。

それでも、一度も目が合わなかった。

標尺の人は、石突きを自分の足の甲に、こつんと一度当てた。

塩田の癖と、同じ動きだった。

私は望遠鏡から目を離して、肉眼で対岸を見た。

そこには、塩田が一人で立っていた。

もう一度、覗く。

いる。

肉眼では、いない。

私は車から双眼鏡を取ってきて、対岸を見た。

倍率は10倍。

杭のそばには、塩田一人。

スマホのカメラで、最大までズームしてみた。

画面の中の杭は、苔むした石の頭だけを出していた。

標尺の人は、どこにも写っていない。

レベルの望遠鏡だけが、その人を映していた。

私は無線機を置いて、車から赤白の旗を取り出した。

測量の古い合図に使う旗で、いまはもう使わない。

大学の実習で一度だけ、教わった。

旗を上げれば、標尺を上げろ。

旗を下げれば、標尺を下げろ。

右に振れば、右へ寄れ。

私は試しに、旗をゆっくり上げた。

標尺の人が、標尺を上へ上げた。

旗を下げる。

標尺が、下がる。

右へ振る。

標尺の人が、一歩、右へ寄った。

合図が、通じている。

「先輩、何してるんですか。旗なんか振って」

無線から、塩田の笑い声が混ざった。

「ちょっと、試してる」

「誰に向けてですか」

「……あとで説明する」

縮んでいく川幅

私は、塩田の標尺を読んだ。

前視、1.264。

野帳に書く。

手が、少し震えていた。

念のため、川幅も測り直すことにした。

レーザー距離計を、杭に向けて引き金を引く。

画面に出た数字は、41.2メートル。

図面どおりだった。

安心して、もう一度測る。

39.8メートル。

三度目は、38.1メートル。

誰も動いていない。

塩田は、杭の横で標尺を握って突っ立っている。

「塩田、そこから動いてないよね」

「動いてません。ずっと同じ場所です」

「距離計が変な数字を出してる」

「故障ですか」

「かもしれない」

私は、レベルの足をもう一度踏み込んで、気泡を確かめ直した。

気泡は、真ん中から動いていない。

機械は狂っていない。

もう一度、引き金を引いた。

36.4メートル。

川幅が、測るたびに縮んでいく。

縮む幅は、少しずつ大きくなった。

塩田が、杭のそばで叫んだ。

「先輩! 声が近いです!」

「近い?」

「無線じゃなくて、生の声が聞こえます。川幅、そんなにないですよ」

肉眼で見ると、対岸の塩田は、さっきよりずっと大きく見えた。

川底の白い帯が、細くなっている。

いつのまにか、声を張らなくても届く距離になっていた。

無線機が、雑音を混ぜはじめた。

ざあ、という音の奥で、雨の降る音が聞こえた気がした。

気のせいだ、と言い聞かせて、スイッチを切り替えた。

望遠鏡を覗くと、対岸の様子が、さっきと違っていた。

杭のまわりの地面が、黒く濡れていた。

雨上がりの色だった。

こちら側の川底は、白く乾いたままだ。

太陽は、私の背中を焼いている。

対岸だけ、日が当たっていないように見えた。

森の木々は暗く、枝先から雫が落ちている。

標尺の人の灰色の作業着も、肩のあたりが濡れて、色が濃くなっていた。

「塩田、そっちの天気はどう」

「天気? 晴れてますよ。暑いです」

「地面は濡れてない?」

「からっからです。先輩、大丈夫ですか」

大丈夫、と私は答えた。

大丈夫ではなかった。

「塩田、その標尺の人に、手を伸ばしてみて」

「だから、誰もいませんって」

「いいから、肩のあたりに」

塩田は、半信半疑で右手を伸ばした。

望遠鏡の中で、彼の手が、標尺の人の肩をすり抜ける。

「うわ」

塩田が、手を引っ込めた。

「今、冷たい風が通りました。あれ、なんだろう。雨の前みたいな」

標尺の人が、ゆっくりと標尺を持ち替えた。

目盛りが、下から上へ滑っていく。

私は目を離そうとして、離せなかった。

右目はレンズに吸いつき、左目は、いつものように閉じていた。

十字線が、標尺の中央で止まった。

1.500。

きっちり1.500。

赤い目盛りと黒い線が、一番美しい形で重なっていた。

「いまの読みは、なかったことにする」

声に出してみた。

野帳に書いていないだけで、数字はもう頭の中にあった。

標尺の人は、標尺の向こうから、こちらを見ているようだった。

顔は見えないのに、視線の重さだけが、レンズを通って届く。

気づいたときには、数字は私の頭の中に入っていた。

読んでしまった。だからあれは、もう私の数字になった。

乾いた土の湿った足跡

野帳を持つ左手の甲に、冷たいものが落ちた。

見上げた空には、雲ひとつなかった。

37度の午後に、雨の一滴が、野帳の数字の上に落ちた。

鉛筆の線が、黒くにじんだ。

二滴目は、落ちてこなかった。

望遠鏡の中の標尺の人は、もういなかった。

杭の横には、塩田の標尺だけが立っている。

「先輩、戻っていいですか」

「うん。往路は終わり。復路を測るから、戻ってきて」

塩田が、川底を引き返してくる。

その歩く道筋を、私は目で追った。

彼が戻ってくるまでの間、私は川底の土の匂いを嗅いでいた。

乾いた土の匂いに、一筋だけ、雨上がりの匂いが混じっていた。

濡れた草と、湿ったアスファルトの匂い。

夏の夕立のあとに、必ず立ちのぼる匂いだ。

私は鼻を押さえて、深く息を吸った。

胸の奥まで、冷たい空気が入ってくる。

こちら側の気温は、37度のはずだった。

腕の汗が、すっと引いていく。

乾いた川底の亀裂の上に、足跡があった。

塩田のスニーカーの跡は、すぐにわかる。

波形の靴底が、白い土に浅く沈んでいる。

その少し離れた横に、もう一列、別の足跡が続いていた。

二つに割れた、地下足袋の跡だった。

足跡は、湿っていた。

周りの土は、からからに乾いているのに、足跡だけが濃い茶色に濡れている。

指で触れると、冷たかった。

私は巻尺を出して、足跡の歩幅を測った。

62センチ。

塩田の歩幅より、ずっと広い。

足跡の深さは、浅い。

体重が軽いのか、ほとんど沈んでいなかった。

一番手前の足跡の縁から、小さな水滴が、ゆっくり土に吸われていく。

乾いた土が、その水を受け取るのをためらっているようだった。

塩田が追いついて、足跡を見下ろした。

「うわ、なんですかこれ。誰か、先に歩いたんですかね」

「他の班、じゃない?」

「でも、この地下足袋、今どき履いてる人います?」

「釣りの人とか」

「水、ないのに?」

塩田は笑おうとして、途中でやめた。

「冷たい。氷みたいです」

足跡に指を入れた塩田が、手を拭った。

「先輩、今日、もう切り上げませんか」

「あと復路だけ。ここで止めたら、60年前と同じになる」

自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。

足跡は、対岸の杭から始まっていた。

川底を真っ直ぐに渡って、こちらへ向かっている。

一歩ずつ、同じ歩幅で。

列は、一度も蛇行しなかった。

迷いも、立ち止まりもない。

目的地を知っている人の歩き方だった。

私は、その列を目でたどった。

足跡は、対岸から私の三脚まで続いていた。そこから先には、一つもなかった。

ゼロの並んだ野帳

復路は、塩田に標尺を立てさせて、手早く終わらせた。

往きと帰りの高低差は、普通なら数ミリ食い違う。

その日は、食い違いがゼロだった。

ゼロになるには、誰かが私の読みの誤差を、ちょうど埋めなければならない。

「ぼく、どこか読み間違えました?」

「ううん。むしろ、合いすぎてる」

「合いすぎてる、ってどういうことですか」

「測量は、必ず少しずれるの。ずれが出ないのは、誰かが直しているとき」

塩田は、それ以上聞かなかった。

野帳を閉じて、片づけを始めた。

夕方、車に機材を積み込んでいると、塩田がふいに手を止めた。

「先輩」

「何?」

「先輩の後ろ、さっきからずっと立ってる人、誰ですか」

「どこ?」

「標尺で顔を隠した人です。灰色の服の」

私は振り返らなかった。

振り返れなかった。

「……もういない?」

「いえ。今、先輩の三脚のとなりに」

三脚は、私の足元で、白い土の上に立っていた。

となりには、何も見えなかった。

ただ、そこだけ、足元の土が濡れていた。

会社には、「機器の不調で一部再測」とだけ報告した。

あの日のことは、まだ誰にも言っていない。

私は今も、望遠鏡を覗くのは左目だけだ。

右目で覗くと、視野の隅に、こちら側へ傾いた標尺の先が映る。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。