
排水口の網は、右に半回転させてから持ち上げる。
左に回すと、縁に指が挟まる。
去年の十一月、駅前のスポーツクラブで夜間清掃の仕事を始めた。
私は三十二歳で、それまでは事務用品の会社で経理をしていた。
勤務は閉館後の二十三時十五分から、翌日の二時まで。
更衣室、浴室、シャワー室、トイレの順に回る。
床を流し、鏡を拭き、排水口の網を外して中身を袋に移す。
毎晩その繰り返しだった。
慣れると、考えなくても体が動く。
だから最初に違和感を持ったのも、頭より先に手のほうだった。
女子シャワー室の三番だけ、網の下の髪がいつも同じ長さだった。
同じ長さの髪が、毎晩、決まって三番の排水口に溜まっている。
それがこの話の入口になる。
面接は十月の終わりだった。
案内してくれたのは、総務の戸田さんという五十代の女性だった。
事務所の机の上に、書類と一緒に白いカードが二枚並べてあった。
「入館証は二枚お渡しします。一枚は使いませんが、返さなくて大丈夫です」
戸田さんはそう言って、二枚とも私の前に滑らせた。
「予備ですか」
「まあ、そんなところです」
それ以上は聞かなかった。
パートの清掃員に予備のカードが付くのは、ありがたい話だと思っただけだ。
一枚は財布に入れ、もう一枚は定期入れの奥に差し込んだ。
その頃の私の髪は、背中の真ん中まであった。
面接の前に美容院で整えたばかりで、艶もよく出ていた。
清掃の仕事に長い髪は邪魔なので、初出勤の前日に肩の下で切り揃えた。
思い切ったつもりだったが、鏡を見ると案外似合っていた。
毛先は不思議と傷まず、美容院の予約は二か月、頭の中で後回しにしていた。
研修は二日で終わった。
三日目から、私は一人で夜の館内に立った。
昼間は明るくて賑やかな建物が、閉館すると別の場所になる。
空調の音が止まり、プールの水面だけがゆっくり揺れている。
塩素の匂いが廊下の奥まで薄く伸びていた。
受付のカウンターには、閉館後も小さな常夜灯が点いている。
その明かりの下を通る時だけ、私は一度、必ず時計を見た。
二十三時十五分。
入館カードを機械にかざすと、短い電子音が鳴る。
ピ、と鳴る音が、いつもより少しだけ遅れて返ってくる気がした。
その時は、機械が古いせいだと思っていた。
思うことにした、と言うほうが近い。
私はその匂いの中を、ワゴンを押して歩いた。
引き継ぎノートの余白
前任者は榊原さんという女性だった。
私は一度も会っていない。
十月の半ばから連絡が付かなくなった、と戸田さんは言った。
「急に来なくなってしまって。携帯も繋がらないんです」
「ご家族には」
「そちらにも連絡しました。警察にも相談はしています」
戸田さんの声は事務的で、それ以上は何も足されなかった。
代わりに渡されたのが、青い表紙のノートだった。
榊原さんが使っていた引き継ぎ用のノートで、清掃の手順が箇条書きで並んでいる。
字は細く、まっすぐだった。
定規で引いたように行が揃っていて、几帳面な人だとすぐに分かった。
更衣室の窓は必ず二か所とも施錠する。
サウナの電源は、一番奥の盤で落とす。
ロッカーの忘れ物は袋に入れて受付へ。
そういう項目の最後に、ひとつだけ色の違うペンで書き足された行があった。
『三番の髪は燃えるごみに入れない。白い袋に分けて、更衣室の窓際へ置く。口は結ばない』
理由は書かれていなかった。
私は戸田さんに電話で聞いてみた。
「三番の白い袋って、何のためですか」
「ああ、それ。榊原さんの決めごとでしょう。衛生上の問題はありませんから、気になるなら従ってください」
「気になるなら、ですか」
「ええ。深く考えなくて大丈夫ですよ」
電話はそこで切れた。
私は理由を考えないことにした。
手順がひとつ増えただけだと思えば、それで済む。
三番のブースは、シャワー室の一番奥にある。
壁際の鏡の真下で、天井の照明が少し暗い。
他のブースより古い型で、蛇口のレバーが固かった。
最初の夜、網を外すと、髪が絡まって黒い小さな塊になっていた。
人の髪だと思う。
それ以外に言いようがない。
私は割り箸でそれをほぐし、白い袋に落とした。
袋は更衣室の窓際、洗面台の端に置いた。
口は結ばなかった。
結ばないことに意味があるのか、考えないと決めたのに、手を離すまで少し時間がかかった。
その夜は、他のブースの網には何の抵抗もなく手を入れられた。
一番にも二番にも四番にも、短い髪や長い髪が、好き勝手な向きで貼り付いている。
それを見て、私は少し安心した。
三番のものだけが、きれいに同じ向きで寝ていたからだ。
髪が同じ向きに寝るのは、誰かが梳いたあとだけだと、昔、美容院で聞いたことがある。
その言葉を思い出して、すぐに打ち消した。
打ち消してから、袋の中身をもう一度だけ見た。
袋の底に、同じ向きの髪が、薄く並んでいた。
翌日の夜、袋は洗面台の端にそのまま置かれていた。
口は開いたままで、中身は昨夜と同じ小さな塊だった。
ほっとして、私はそれを燃えるごみの袋ではなく、事務所の隅の箱へ移した。
箱には『三番』と、榊原さんの字で書いてあった。
箱の底には、乾いた髪の束がいくつも重なっていた。
箱は事務所の棚の、一番下に置かれている。
蓋は無い。
蓋を作ろうと思ったことは、一度もない。
どれも同じ茶色がかった黒で、同じ向きに寝ていた。
その時はまだ、私はそれを「几帳面な人の整理」くらいにしか思わなかった。
同じ長さの髪を測る
二週間ほど経った頃、私は気づいた。
他のブースの網にも髪は溜まるが、長さがばらばらなのだ。
短いもの、長いもの、細く縮れたもの、色の抜けたもの。
人が使えば当たり前にそうなる。
ところが三番だけは、どれを摘んでも、指の幅くらいの太さで同じ長さに見えた。
私は帰りに百円ショップで三十センチの定規を買った。
仕事に使う道具ではないし、誰かに見せるつもりもなかった。
ただ、確かめずに眠れる気がしなかった。
翌日の夜、網から髪を一本ずつ抜いて、更衣室のベンチに並べた。
一本、二本、三本。
定規の端に毛先を合わせ、もう一方の先を読む。
二十九センチ。
次の一本も二十九センチだった。
その次も、そのまた次も、二十九センチだった。
一本ずつ、息を止めるようにして十本まで測った。
同じ長さの髪は、ここまで来ると、もう偶然とは呼べなかった。
誤差はあっても、一ミリあるかどうかだった。
私はベンチに並べた髪を、しばらく眺めた。
二十九センチの髪は、行儀よく、同じ向きに寝ていた。
私が見ていない間に、誰かが定規を当てて並べ直したような並びだった。
さらに奇妙なのは毛先だった。
自然に抜けた髪なら、先は細く尖っているはずだ。
これは違った。
どの髪も、鋏で切ったように、毛先が真横に揃っていた。
百円のルーペで見ると、断面は鏡のように平らだった。
抜けた髪ではなく、切り落とされた髪だった。
それが毎晩、三番の排水口にだけ溜まっている。
同じ長さの髪は、毎晩同じ量だけ増えるのではなかった。
一日ごとに、ほんの少しずつ、量が多くなっていく。
最初の週は十本ほどで、二週目には二十本を超えていた。
増える数は、いつも二本か三本だった。
そして増えた分だけ、窓際の袋は軽くなって朝を迎えた。
袋が軽くなる理由は、考えないことにした。
私はスマートフォンで写真を撮った。
ベンチの上に二十九センチの髪が十本、定規の隣に並んでいる。
写真は後で見返すと、暗くて、何が写っているのか分かりにくかった。
それでも確かに、揃った毛先の列だけははっきり写っていた。
その夜は、三番のブースを念入りに洗った。
床も壁も、蛇口の根元も。
洗い終えて網を戻し、照明を落として、更衣室を出た。
二時前に忘れ物を取りに戻った時、網の上にはもう、新しい髪が薄く敷かれていた。
水は一滴も流れていないのに、髪は濡れて光っていた。
私は初めて、足が動かなくなった。
動かなくなったと言っても、立ったまましばらく、そのまま居ただけだ。
息をするたびに、塩素の匂いに混じって、髪の湿った匂いがした。
風呂場の排水口の、あの匂いだ。
私は割り箸で髪をすくい、白い袋に落とし、窓際へ置いた。
口は結ばなかった。
結べなかった、というほうが正しい。
朝番の先輩の言い分
朝番の土屋さんは、この店で二十年働いている人だった。
引き継ぎで顔を合わせるのは、毎朝の二分くらい。
その日は、私から話を切り出した。
「三番の排水口なんですけど、毎晩、髪が溜まりますよね」
「髪ですか」
土屋さんは首を傾げた。
「どこのブースも溜まるでしょう」
「三番だけ、長さが全部同じなんです」
言ってから、変な言い方だと自分でも思った。
土屋さんは、私の顔を見てから、事務所の時計を見て、それからゆっくり言った。
「朝の三番はね、いつも空っぽよ」
「空っぽ、ですか」
「そう。髪なんて、ここ五年、一本も掃除したことがないわ」
「でも、夜は」
「夜のことは、夜の人に聞いてください」
夜の人、というのは、この建物では私しか居ない。
土屋さんはそれを分かっていて、そう言ったのだと思う。
土屋さんはそれだけ言って、自分のロッカーのほうへ歩いていった。
冷たい言い方ではなかった。
ただ、聞き返すことを許さない声だった。
その日の昼、会員証の更新で来ていた黒川さんという七十代の常連にも聞いてみた。
黒川さんは週に五日、午前中に通っている。
受付の隣のソファに座って、杖を膝に置いたまま笑った。
「三番はねえ、あなたが来てから、誰も使わなくなったのよ」
「私が来てから、ですか」
「そう。それまでは、三番がいちばん人気だったの。奥だから落ち着くって」
「何かあったんですか」
「何かあったかしら」
黒川さんは少し考える顔をした。
「でもね、使ってるといつの間にか、髪を梳く人が隣に居るのよ」
「梳く、ですか」
「ええ。櫛じゃなくて、手で。優しく」
黒川さんは、とても優しい顔でそう言った。
怖がっている顔ではなかった。
懐かしいものの話をするような目をしていた。
私は何も言えず、ありがとうございますと頭を下げた。
黒川さんの話は、土屋さんの話と同じ場所を向いていた。
朝は何もなく、夜だけ何かがある。
そして三番が使われなくなったのは、私が来てからだという。
私が来る前から、そこには誰かが居たことになる。
私が来たことで、その誰かの居場所が、三番だけに狭まったのかもしれない。
そう考えてから、私は慌てて、その考えを頭の端へ押しやった。
帰り道、駅のホームで、自分の髪を耳の後ろにかけた。
毛先に指が触れた時、いつもより少し冷たいと思った。
思っただけで、深くは考えなかった。
電車の窓に映る私の髪は、肩のあたりできれいに揃っていた。
美容院に行かなくてもいいくらい、揃っていた。
鋏の音は配管の音
十二月に入ってから、聞こえるようになった音がある。
鋏の音だった。
ジャキ、と短く、乾いた音。
それが一定の間を置いて、二度、三度と続く。
最初は更衣室の奥から聞こえる気がして、床掃除の手を止めた。
耳を澄ますと、音はシャワー室のほうから来ている。
私はワゴンをその場に置いて、そっと近づいた。
シャワー室の扉は、少しだけ開いていた。
中は暗く、廊下の非常灯だけが床の水を薄く光らせている。
ジャキ。
音は、三番の方向からだった。
私は壁のスイッチに手を伸ばし、ためらい、結局押した。
蛍光灯が瞬いて、全部のブースが白く浮かんだ。
音は、止まっていた。
誰も居なかった。
三番の床にだけ、水が薄く広がっていた。
そして鏡の縁に、櫛の歯のような細い水の筋が、何本も並んでいた。
鏡の縁の高さは、私の頭の位置より少し低かった。
濡れた足跡は、どこにもなかった。
翌日、設備の北川さんという若い男性が点検に来たので、聞いてみた。
「夜、シャワー室から鋏みたいな音が聞こえるんです」
「ああ、配管じゃないですか」
北川さんは工具箱を足元に置いて、あっさり言った。
「古い建物なので、温度差で金属が鳴くんですよ」
「一定の間隔で、ですか」
「ええ、まあ。ああいう音は、案外規則的です」
「三番だけ、なんですが」
「奥は配管が長いので、その分響くんでしょう」
北川さんは三番の壁を叩き、耳を当て、特に異常はないと言った。
言い方に迷いがなかった。
彼は帰り際に三番の前で足を止め、鏡の縁を指でなぞった。
濡れた指先を、少しのあいだ眺めていた。
「これ、結露じゃないですね」
「何ですか」
「いえ。気のせいです」
気のせいです、が口癖の人なのだと、その時は思った。
それでも、帰る時にだけ、彼は小さな声で付け足した。
「夜、あんまり奥で一人にならないほうがいいかもしれないですね」
私は笑って「気をつけます」と答えた。
私は袋を窓際に置く時、毎晩一度だけ、耳を澄ますようになった。
音がするのは、決まって二十三時四十分前後だった。
ジャキ、が四回。少し間があって、また四回。
八回で止まる夜もあれば、十二回続く夜もあった。
止まる時は、いつも急に、糸を引くように止まった。
止まったあとの静けさのほうが、音よりも重かった。
回数に規則があるのかどうかは、分からなかった。
その夜から、私は防犯カメラの映像を、確認の名目で見るようになった。
事務所のモニターに、更衣室の入口を映した映像が流れている。
時刻の表示は、二十三時四十一分。
私が掃除をしている間の映像だった。
私の背中が画面の端に出たり入ったりしている。
ところが、映像の中の私は、見覚えのない動きをした。
三番のほうを向いて、ほんの数秒、立ち止まる。
その間、時刻の表示は止まっていた。
二十三時四十一分のまま、二秒、三秒。
次の瞬間、時刻は二分ぶん戻って、二十三時三十九分になった。
私は何度も巻き戻して見たが、毎晩、同じように二分戻った。
毎晩、同じ場所で、二分だけ。
二枚目の入館証
年が明けてすぐ、私は事務所の戸田さんに入館記録を見せてほしいと頼んだ。
理由は「忘れ物の問い合わせ」にした。
戸田さんは少しだけ迷って、パソコンの画面をこちらへ向けた。
入館証は、ICカードの記録として一枚ずつ残る。
清掃員の私の欄には、毎晩二十三時十五分に一件、入館の記録があった。
そのすぐ下にもう一行、同じ時刻の記録が並んでいる。
同じ時刻、同じ入口。
カード番号だけが違った。
二枚目の入館証は、毎晩、私と同じ時刻に館内へ入っていた。
「これ、私のカードの二枚目ですよね」
「そうですね」
「私、二枚目は使っていません。定期入れの奥に入れたままです」
私は定期入れを出して、机に置いた。
白いカードは、確かにそこにあった。
裏返すと、カード番号の隣に、小さな文字で『三番』と印刷されていた。
更衣室の番号ではない。
ロッカーの番号でもない。
戸田さんは、それを見ても驚かなかった。
戸田さんは画面を見たまま、小さく息を吐いた。
「出ていく記録は」
「二枚目には、ありません」
「入るだけ、ですか」
「ずっと、そうです」
私は画面の記録を、先月まで遡ってもらった。
十一月の初日から、一日も欠けずに二行ずつ並んでいる。
その前の月には、榊原さんの名前で、同じように二行ずつ。
さらに前の月にも。
名前だけが違い、二行目のカード番号は、ずっと同じだった。
私は定期入れの奥のカードを出して、番号を確かめた。
同じ番号だった。
同じカードが、何年分も、同じ時刻に入館している。
「ずっと、というのは」
戸田さんは、少しだけ口を開いて、閉じた。
それから、静かに言った。
「榊原さんの時も、二枚持っていました」
「榊原さんも」
「ええ。ただ、榊原さんは、二枚目を使っていました。自分で、毎晩」
その言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。
使っていた、というのは、どういうことなのか。
自分で入館証を二枚使い分けていたのか。
あるいは、二枚目が勝手に使われているのを、本人が知っていたのか。
戸田さんはそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、画面を閉じて、書類の山の上に手を置いた。
「あなたは大丈夫だと思ったんです」
ぽつりと、そう言った。
「どうして」
「面接の時、髪が長かったから」
理由になっていない理由を、戸田さんは真顔で口にした。
私は聞き返さなかった。
聞き返せば、答えが返ってくる気がした。
その答えを、まだ自分の中に入れたくなかった。
事務所を出る時、戸田さんが背中に声を掛けた。
「三番の袋、今夜も窓際に置いてくださいね」
私は振り返らずに、はい、と答えた。
定規の目盛り
その夜、仕事を終えて家に帰ったのは、三時近くだった。
玄関の鍵を閉めて、洗面所の電気を点けた。
洗面所の床に新聞紙を敷いて、髪を梳かした。
抜け毛が何本か落ちる。
私はそれを拾って、一本ずつ並べた。
どの毛も、毛先は尖っていた。
自然に抜けた髪の、普通の形だった。
ほっとしかけて、気づいた。
抜けたのは根元の側で、毛先のほうは、全部、すでに切られていたのだ。
鏡の前で、百円の定規を机から取り出した。
手が震えていたわけではない。
ただ、確かめなければ眠れないと思った。
洗面台の水を細く出して、指先を濡らした。
水の冷たさは、季節のせいだと思うことにした。
濡れた指で毛先を揃えると、髪は逆らわずに、一本の線になった。
自分の髪の毛先を一本つまみ、根元の生え際に定規の端を当てる。
鏡に映った自分の顔は、疲れていた。
目の下に薄く影があり、頬が少し細くなっていた気がする。
定規の目盛りは、二十九センチを指していた。
私は何度も測り直した。
二十九センチ。
毛先は、鋏で切ったように、真横に揃っていた。
私は髪を切った覚えが、十一月の初出勤の前日以来ない。
あの日に切った長さは、肩の下だったはずだ。
それから二か月以上、髪が伸びていないことになる。
伸びていないのではなく、伸びるたびに、揃えられているのかもしれない。
スマートフォンで、面接の前に撮った写真を探した。
履歴書に貼るために撮影した、証明写真のデータだった。
画面に出た私は、背中の真ん中まで髪を垂らして、まっすぐ前を見ていた。
履歴書の写真の私は、もっと長かった。
私は画面を閉じて、洗面所の電気を消した。
暗い鏡の中に、自分の顔の輪郭だけが残った。
その後ろで、誰かが髪を梳いているような気がした。
優しく、手で。
私は振り返らなかった。
振り返っても、居ないことは分かっていた。
翌朝、土屋さんに会った。
土屋さんは私の髪を見て、目を細めた。
「綺麗に揃ってるわね」
「ありがとうございます」
それ以外に、答えようがなかった。
私は今も、あのスポーツクラブで夜の清掃を続けている。
辞めるつもりも、辞められる気もしていない。
二枚目の入館証は、定期入れの奥に入れたままだ。
毎晩、二十三時十五分に、二枚目は私より先に入口を通る。
私はそれを確かめてから、更衣室に入る。
今夜も、三番の袋は窓際に置いてきた。
口は結ばなかった。
排水口の網は、右に半回転させてから持ち上げる。