
去年の、十一月の初めの話である。
私は神田の裏通りで、古書店を営んでいる。
父の代から数えれば七十年になる。
私が帳場に座ってからでも、五十年を越えた。
今年で七十七である。
間口は二間しかない。
棚は天井まで組み上げ、通路は人ひとりがようやく擦れ違えるほどだ。
扱うのは郷土史と、戦前の私家版が主である。
派手な商いではない。
一日に客が三人も来れば、よい日であった。
それでも五十年、店を畳まずに済んだのは、値のつけ方を父に叩き込まれたからである。
本の値は、珍しさで決まるのではない。
誰の手を、幾つ渡ってきたかで決まる。
父はそう言った。
手垢の付き方を見れば、その本がどんな家に置かれていたかがわかる、とも言った。
私は今でも、買い取りの本はまず小口を鼻に近づける。
煙草の家か、線香の家か、それだけで見当がつく。
十一月の初め、店の硝子戸に、その年はじめての霜が降りた。
朝、鍵を開ける前に、私は指の腹でそれを撫でるのが習いである。
薄く削れて、爪の先から冷えが上がってくる。
それが冬の始まりの合図であった。
帳場には、祖父の代からの柱時計が掛かっている。
ぜんまいの効きが悪く、しばしば数を打ち損じる。
その朝は、七つ鳴るところを六つで止まった。
六つで終わったあと、店の中がやけに静かになった。
棚に詰まった紙が、音を吸ってしまうのだ。
私は帳面をひらき、鉛筆を舐めて、その日の日付を書いた。
※
最初の客が来たのは、四時を過ぎた頃であった。
背の高い、痩せた男である。
歳は四十の半ばか、あるいはもう少し下かもしれない。
外套の肩に、湿った匂いを乗せていた。
その日、雨は降っていない。
「買い取りを、お願いしたいのですが」
男はそう言って、風呂敷を帳場に置いた。
結び目を解く手つきが、妙に丁寧であった。
中から出てきたのは、和装の一冊である。
表紙は臙脂の布装で、四隅がわずかに擦れていた。
題簽には、浅羽文庫蔵、とある。
私はその名を知っていた。
戦前、本郷の高台に、浅羽という篤志家が私設の貸本文庫を開いていた。
会員だけに本を貸す、小さな文庫であったという。
戦火で焼けて、蔵書のほとんどは失われたと聞く。
浅羽という人は、糸の商いで身代を築いた男であったという。
本郷の坂の上に洋館を建て、その一階を丸ごと書庫にした。
誰にでも貸したわけではない。
紹介がなければ会員になれず、会員は五十名を超えなかった。
貸し出しの規則が細かいことで知られていた。
本の背に指を掛けてはならない。
返す日を過ぎてはならない。
そういう類いの決まりが、いくつも紙に刷って配られていたそうだ。
戦の末期に、洋館は一晩で焼けた。
焼け跡から、書庫の鉄扉だけが黒く立っていたという写真を、私は郷土資料の中で見たことがある。
市場でもめったに出ない。
「よくお持ちでしたね」
「父の遺したものです」
そう言ってから、男は少し言い直した。
「いえ、父のものだったかどうかも、はっきりしません」
私は本をひらいた。
黴の匂いはしない。
むしろ、湯を通したばかりの綿のような、生ぬるい匂いがした。
指先に、紙の湿りが残った。
値をつけ、私は釣り銭を差し出した。
男は右手を伸ばし、指先だけでそれを摘まみ取った。
その男は、釣り銭を受け取るのに、掌を上に向けなかった。
私は妙に思ったが、口には出さなかった。
そういう癖の人は、たまにいる。
「ありがとうございました」
男は頭を下げ、硝子戸を引いて出て行った。
戸が閉まる音が、いつもより半拍遅れて聞こえた。
※
その本を棚に上げたのは、翌る日である。
値札を貼るとき、見返しに古い紙が貼りついているのに気づいた。
貸出票であった。
罫を引いた縦長の紙に、借りた者の名と、返した日付を書き込む欄が並んでいる。
貸出票には十七までの番号が振られ、十三の行だけが空いていた。
上から十二までは、几帳面な字で埋まっている。
十四から十七までも、同じように埋まっている。
十三だけが、白い。
返却の日付も、名も、何もない。
飛ばしたのではない。
罫はきちんと引かれ、番号も打たれている。
ただ、そこだけが使われずに残っている。
私は老眼鏡を上げて、しばらくそれを眺めた。
古い貸本には、こういう不思議がまま起こる。
書き損じて破り捨てたか、あるいは会員が途中で退いたか。
理屈はいくらでもついた。
私はそう思うことにして、本を棚に戻した。
※
二人目が来たのは、五日ののちである。
今度は女であった。
六十を幾つか越えたくらいの、髪をきれいに結い上げた人である。
「買い取りを、お願いできますか」
声が低かった。
風呂敷の結び目を解く手つきが、あの男と同じであった。
出てきたのは、臙脂の布装の一冊である。
題簽に、浅羽文庫蔵、とある。
私は帳場の下から、五日前に買い取った本を出した。
二冊を並べた。
角の擦れ方まで同じであった。
奥付の刷りも、印の欠けた位置も、寸分違わない。
同じ版の同じ刷りが二冊出ることはある。
擦れ方まで同じということは、まず、ない。
「これは、失礼ですが、どちらで」
「母の家の押入れです」
女はそう答えた。
「片づけをしておりましたら、出てまいりました」
「ほかにも、同じような本が」
「いえ、これ一冊きりでございます」
「お母さまは、本をお読みになる方でしたか」
女は少し考えた。
「いいえ。家に本のある人ではありませんでした」
「では、この一冊だけが」
「はい。押入れの、いちばん奥の壁に立てかけてございました」
立てかけてあった、という言い方が、耳に残った。
しまわれていたのではない。
立てて、置かれていたのである。
私は二冊の見返しを、順にひらいた。
女の持ってきた本にも、貸出票が貼られていた。
やはり十七の罫があり、十三の行だけが空いている。
筆跡まで同じであった。
私はその時、はじめて背中に冷たいものを感じた。
値をつけ、釣り銭を渡した。
女は指先だけでそれを摘まみ取った。
掌を、上に向けなかった。
「ありがとうございました」
戸が閉まる音が、また半拍遅れた。
※
三日ののち、私は同業の老人を訪ねた。
すずらん通りの奥で、和本ばかりを扱っている男である。
私より十ほど上で、目録の作りにかけては神田で右に出る者がない。
店の奥の火鉢の前に、二人で座った。
炭の匂いと、古い糊の匂いが混じっていた。
「浅羽文庫を覚えているか」
「本郷のか」
老人は茶を淹れる手を止めた。
「あれは焼けたよ」
「蔵書が出回っているんだ」
「そりゃあ出るだろう。焼ける前に持ち出した者もいる」
「同じ本が二冊来た」
私がそう言うと、老人は顔を上げた。
「同じ本」
「刷りも、痛みも、貼ってある札も同じだ」
老人はしばらく黙っていた。
それから、湯呑を畳に置いた。
「札に、番号は振ってあったか」
私はうなずいた。
「十七まで」
「空いている行は」
私は答えなかった。
老人が先に言った。
「十三だろう」
炭が小さく爆ぜた。
「知っているのか」
「聞いたことがあるだけだ」
老人は火箸を取り、灰を掻いた。
灰の上に、何かを書くようにして手を動かしていた。
「浅羽の文庫はな、会員が本を返すまで、次の者に貸さなかったそうだ」
「当たり前だろう」
「そうじゃない」
老人は火箸を置いた。
「返せなくなった者の分は、次の者が代わりに背負う決まりだったと」
「背負う」
「札の順番のことだ」
老人は湯呑を持ち上げ、しかし口はつけなかった。
「浅羽の規則にな、貸し出しは順番に、という一条があった」
「どこの文庫でもそうだろう」
「順番は、人が決めるのではない、と書いてあったそうだ」
私は湯呑を置いた。
「では、誰が」
老人は答えなかった。
火鉢の炭が、赤いところを一つ残して灰になっていた。
私には、意味がわからなかった。
老人はそれ以上、説明をしなかった。
帰り際、戸口まで送りに出て、私を呼び止めた。
「順番を渡し終えていない者はな、掌を上に向けられん」
私は立ち止まった。
老人は、それだけ言った。
そして、もう一つ付け加えた。
「札の空いた行に、字を書くな」
※
店に戻ると、硝子戸に霜が残っていた。
昼を過ぎているのに、消えていなかった。
私は指で撫でた。
削れなかった。
指の腹が濡れもしなかった。
帳場に座り、二冊を並べた。
柱時計が四つ鳴って、止まった。
四時ではなかった。
まだ二時を回ったばかりであった。
私は貸出票をもう一度見た。
十三の行は、白いままである。
そこで、ひとつ思い出したことがある。
浅羽文庫の会員名簿が、うちの棚にあるはずであった。
父の代に、まとめて引き取った郷土資料の中にある。
私は梯子をかけ、いちばん上の段から、綴じた冊子を下ろした。
埃が舞い、鼻の奥が痛くなった。
名簿をひらく。
会員は五十名ほどであった。
一人ずつに番号が振られている。
十三番の欄に、名があった。
私の祖父の名であった。
※
私は座り直した。
祖父が浅羽文庫の会員であったという話は、聞いたことがない。
父からも、祖父自身からも、一度も。
祖父は私が十二の年に病を得て、そのまま還らなかった。
最期の数日、妙なことを言っていたと、母から聞かされたことがある。
返してこなければならない、と。
何を返すのかと問うと、順番だ、と答えたそうだ。
私はその話を、うわごとだと思っていた。
名簿の十三番の欄には、返却の印がなかった。
ほかの四十九名には、朱の丸がついている。
祖父の欄だけが、白い。
私はその白さを、しばらく見ていた。
札の白い行と、名簿の白い欄が、同じ形をしていた。
※
三人目が来たのは、その日の夕方である。
硝子戸が鳴った。
入ってきたのは、若い男であった。
二十代の半ばだろうか。
学生のような身なりをしていた。
「買い取りを、お願いします」
風呂敷の結び目を解く手つきが、先の二人と同じであった。
出てきたのは、臙脂の布装の一冊である。
私は本をひらかなかった。
手が出なかった、というほうが近い。
三冊目を開けば何か決まってしまうという気が、その時にはもうしていた。
「これは、どちらで」
「祖父の家です」
若い男はそう言った。
「祖父は、私が生まれる前に身罷っています」
「お名前を伺っても」
男は名乗った。
聞き覚えのない名であった。
私は値をつけ、金を渡した。
男は指先だけで摘まみ取った。
掌を、上に向けなかった。
「ひとつ、伺ってよろしいですか」
私は言った。
「この本を、お宅で開かれましたか」
男は少し考えて、首を振った。
「開けませんでした」
「開けなかった」
「表紙が、指に貼りつくようで」
「貼りつく」
「湿っているのとは、違うんです」
男は言葉を探すような顔をした。
「こちらの指のほうが、吸われるような感じで」
男はそう言って、自分の右手を見た。
私は礼を言った。
男は出て行った。
戸が閉まる音は、聞こえなかった。
※
三冊を帳場に並べた。
店の灯りを一つ足した。
私は一冊ずつ、見返しをひらいた。
一冊目。
十三の行は白い。
二冊目。
十三の行は白い。
三冊目。
そこに、字があった。
十三の行に、私の名が、私の字で書かれていた。
墨ではない。
私がいつも使っている、鉛筆の字であった。
右上がりの癖まで、そのままであった。
返却の日付の欄は、空いている。
私は自分の手を見た。
右の中指の腹に、鉛筆の胼胝がある。
五十年、帳面をつけてきた胼胝である。
その胼胝の下が、じんと熱かった。
私は鉛筆を手に取り、芯の先を見た。
前の日に削ったばかりの角が、丸くなっていた。
帳面をめくった。
この五日、私が書いた行はどれも短い。
鉛筆をこれだけ丸くするほどの字は、書いていない。
書いた覚えはない。
それでも、書かれていた。
私はその晩、店を閉めなかった。
灯りをつけたまま、帳場に座っていた。
柱時計は、それきり鳴らなかった。
※
翌朝、私は名簿をもう一度ひらいた。
十三番の欄の、祖父の名の下に、朱の丸がついていた。
前の日には、なかったものである。
返されたのだ、と思った。
返したのは私ではない。
私は誰にも、何も渡していない。
それでも、順番は動いた。
動いたということは、いま持っているのは私だということである。
※
数日して、同業の老人のところへ行った。
戸に、休みの札が下りていた。
近所に聞くと、しばらく店を閉めるという。
月の初めに、風呂敷を提げた客が来ていた、とも聞いた。
私は、札の空いた行に字を書くな、という言葉を思い出した。
あの老人は、私よりも先に、その札を見ていたのだと思う。
見ただけだったのか、書いたのか。
それは聞けずじまいになった。
※
店は、今も開けている。
朝、鍵を開ける前に、硝子戸を指で撫でる。
それが五十年の習いである。
硝子戸の霜は、内側から降りていた。
削れば、指の腹が冷える。
外は、まだ霜が降りるほどの季節ではない。
借りた覚えのない本が、私の帳場の下に、三冊のまま積んである。
私は、その本をまだ誰にも渡していない。
買い取りに来る客は、今も月に一度ほどある。
風呂敷の結び目を解く手つきで、私にはわかる。
私は値をつけ、釣り銭を渡す。
このごろは、私も掌を上に向けない。
柱時計は、七つのところを六つで止まる。
七つ目が鳴る日を、私は待っている。
待っているというのは、正しくないかもしれない。
待たされている、というほうが近い。