内線の向こう

電話待ち

受付業務は、決して派手な仕事ではない。

来客の対応、来訪予約の確認、内線の取次。

それだけを、午前八時四十五分から十八時まで、毎日ただ繰り返す。

会社は渋谷の古い雑居ビルの六階にあった。

ITとは名ばかりで、実際は小さなソフトウェアの開発会社で、社員は五十人ほどいた。

私はそこで、受付と事務を兼任していた。

入社して半年が経った頃の話である。

その日は、昼休みが終わる少し前だった。

外回りの社員はまだ戻っておらず、フロアは静かだった。

受付のデスクでお茶をひとくち飲んだ瞬間、内線のランプが、ぽつんと点いた。

外線ではなく、内線だった。

つまり、社内のどこかから、受付宛にかけてきているということになる。

「はい、受付です」

受話器の向こうで、小さく息を吸うような音がした。

「田中くんを、呼んでもらえるかな」

落ち着いた、穏やかな男性の声だった。

年齢でいえば、五十代後半か、六十代か。

電話口にしては、随分とゆっくりとした話し方だった。

うちの会社には、田中という姓の社員が三人いる。

「どちらの田中でしょうか」

少しの沈黙があって、声は言った。

「昭和五十三年入社の、田中くん」

妙な言い方だった。

入社年で人を指定する言い方を、私はそれまで聞いたことがなかった。

それに、昭和五十三年といえば一九七八年のことだ。

今年で五十歳を過ぎた社員でも、入社は平成に入ってからのはずだった。

「少々お待ちください。部署はお分かりですか」

「営業二課の、田中亮一くん」

確かに、そうはっきりと名前を言った。

私は電話を保留にしてから、隣の総務の先輩に声をかけた。

「営業二課の、田中亮一さんって、います?」

先輩は少しだけ目を伏せた。

そして、受付の方をちらと見た。

「今、内線?」

「はい。昼休みが終わる頃からです」

「切って大丈夫よ。もう、出なくていいから」

先輩の声は、いつもの先輩とは少しだけ違って聞こえた。

私が電話に戻ったとき、もう回線は切れていた。

保留音も、相手の声もなく、受話器の中はしんとしていた。

先輩は、仕事に戻りながら、こちらを見ないで言った。

「うち、昔は営業二課ってあったのよ」

「今は、一課に合併しちゃったけどね」

「田中さんという方は、その時の?」

「ええ」

それ以上は、教えてくれなかった。

午後になって、私は総務の棚にある古い社史を、何気なく手にとった。

三十周年記念の社員集合写真が、中ほどのページにあった。

壇上の社長の隣に、四十代ほどの男性が、少し困ったような笑顔で写っていた。

田中亮一。

営業二課。

昭和五十三年入社。

平成三十年、在職中に逝去。

私は、そっと社史を閉じた。

それからも、内線は時々鳴った。

月に一度、あるいは二ヶ月に一度、決まって昼休みの終わる頃に。

毎回、同じ声で「田中くんを呼んでくれるかな」と言う。

私は決まって「少々お待ちください」と答えて、保留にする。

三十秒ほど置いて戻ると、電話はいつも、もう切れている。

先輩は「気にしないで。そういうものだから」と言うだけだった。

会社の人たちも、この電話について誰も特別なことを言わない。

新しく入った人には、最初の一度きり、先輩がそっと教えるのだと、あとで知った。

私も、後輩が入ったとき、同じように小さな声で教えた。

私が入社して、ちょうど三年になる春のことだった。

先輩が、定年まで半年を残したところで、体調を崩して退職することになった。

本当は、まだ辞めたくなかったのだと思う。

送別会の席でも、先輩は最後まで、次の春のことを楽しそうに話していた。

最後の出社日の、昼休みが終わる頃だった。

内線のランプが、ぽつんと点いた。

私は、いつものように受話器を取った。

「はい、受付です」

いつもの穏やかな声が、その日は、なんとなく少し嬉しそうに聞こえた。

「受付の、南さんを呼んでもらえるかな」

私の、名字だった。

咄嗟に、内線の表示を見た。

表示は「未設定」とだけ出ていた。

そもそもこの内線は、会社のどこからかけられているのか、最初から、ずっと分からなかったのだ。

そのことに、三年もかかって、私はようやく気づいた。

先輩のデスクを振り返った。

先輩は、もう、椅子にはいなかった。

挨拶回りに出ているだけだと、その時の私は思い込もうとした。

三日後、先輩が自宅で亡くなっていたという連絡が入った。

最後の出社日の朝、家を出る前に、心臓が止まっていたのだという。

あの昼過ぎの電話は、きっと、先輩のことを私に知らせようとしていたのだと思う。

ただ、電話の向こうのあの人が、どうして私の名前まで知っていたのか。

そして、なぜ「呼んでくれ」と、私に言ったのか。

それは、今もわからない。

今日も私は、同じ雑居ビルの六階で、受付の椅子に座っている。

昼休みが終わる頃、内線のランプが点くたびに、受話器を取る手が、ほんの少しだけ止まる。

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