
その年、私は大学図書館の地下で、本を繕う仕事をしていた。
平成五年の春だった。
学部を出てすぐ、資料保存室という部署に配属された。
司書ではない。
本を貸す係でも、探す係でもない。
破れた本を繕い、崩れた綴じを直すだけの係だ。
部屋は地下二階の突き当たりにあった。
窓はない。
蛍光灯と、作業台の上のアームライトだけが明かりだった。
湿度を五十五パーセントに保つための除湿機が、一日中低い音を立てていた。
その音に慣れるまで、二週間かかった。
慣れてしまうと、今度は音が止まったときにだけ気づくようになった。
教えてくれたのは、海老原さんという人だった。
五十を過ぎた男性で、もとは町の製本所の職人だったという。
指の腹が平たくなっていた。
長年、紙を撫でてきた指の形だと本人は言っていた。
海老原さんはまず、糊の炊き方から教えた。
小麦の澱粉を水で溶いて、弱い火でゆっくり練る。
強い糊は紙を傷める。
弱いくらいでちょうどいい。
「あとで剥がせるようにしておくのが、この仕事の礼儀です」
そう言われた。
次に、虫損の繕いを習った。
虫が食った穴に、同じ厚さの和紙を漉き継ぐ。
穴の形に合わせて紙をちぎり、縁の繊維を毛羽立たせて重ねる。
うまくやると、光に透かしたときだけ継ぎ目が見える。
透かさなければ、どこを直したのか分からない。
それが良い繕いだと教わった。
最後に、文字のことを言われた。
虫が文字そのものを食っていることがある。
その場合は前後の文脈から推し量って、欠けた画を墨で補う。
「欠けた文字を推定で補うのが、この仕事のいちばん大事なところです」
海老原さんはそう言った。
私はうなずいた。
その時は、ただの技術の話だと思っていた。
補筆には決まりがあった。
補った画は、必ず日誌に書き残す。
どの文字の、どの画を、どういう根拠で補ったか。
後の人が疑えるようにしておくためだ。
「本を直すというのは、書き足すことです」
海老原さんはそう言って、少し笑った。
「だから、書き足しすぎてはいけない」
私はそれも、技術の話だと思った。
※
六月に、大きな寄贈があった。
県北の旧家が土蔵を畳むにあたって、蔵書を一括で大学に納めたのだという。
桑折家、と読む家だった。
段ボールで四十七箱。
和装本が中心で、写本、農書、家例を書き留めた帳面の類が混じっていた。
私と海老原さんの二人で、一年がかりで繕うことになった。
搬入の日は朝から雨だった。
台車が地下の廊下を通るたび、床のタイルが低く鳴った。
箱を開けると、土の匂いがした。
古い本は普通、乾いた埃と膠の匂いがする。
桑折家の箱は、雨に濡れた土の匂いがした。
除湿機のある部屋に一日置いても、その匂いは抜けなかった。
海老原さんは箱の中を覗いて、ひとつだけ蓋を閉め直した。
「これは後回しにしましょう」
理由は聞かなかった。
最初の一週間は、ただ数えて記録するだけで終わった。
虫損がひどかった。
特に帳面の類は、表紙から三分の一ほどが茶色い粉になっていた。
粉を筆で払うと、下から墨の線が出てくる。
その瞬間だけは、何度やっても手が止まった。
百年以上、誰も読んでいない線が、いきなり読めるようになる。
「これは楽しい仕事になりますよ」
海老原さんは笑っていた。
職人の言う楽しいは、面倒だという意味だと後で知った。
私は毎朝、地下の作業台に一冊ずつ運んで、穴の形を見た。
虫の食い跡には癖がある。
真っ直ぐ抜ける虫と、迷って渦を巻く虫がいる。
渦を巻いた跡を見つけると、少しうれしくなった。
その頃の私は、この仕事が好きだった。
昼は上の階の学食で、事務のヤナギダさんと定食を食べた。
ヤナギダさんは同い年で、話が長くて面白かった。
彼女は入館者名簿の管理をしていた。
「地下って、寒くない?」
「除湿機がうるさいだけです」
「幽霊とか出そうじゃん」
「出たら繕います」
そういう冗談を言える程度には、あの部屋を気に入っていた。
※
最初のことに気づいたのは、七月の頭だった。
前の晩、私は帳面の一冊に十二か所の継ぎを入れて帰った。
糊は薄く、紙は薄い。
翌朝には乾いているはずだった。
朝、作業台に手を置いて、指先が湿った。
十二か所のうち、一か所だけが乾いていなかった。
他の十一か所はぱりっと乾いて、指の腹が滑った。
その一か所だけが、まだ濡れていた。
私はしばらくその紙を見ていた。
海老原さんに聞くと、糊が濃かったのだろうと言われた。
同じ刷毛で同じ日に同じ糊を引いた十二か所のうちの、一か所だけがそうなる理由は思いつかなかった。
けれど、そういうこともあるのかもしれないと思った。
その夜、私は湿っていた箇所を剥がして、貼り直した。
剥がすとき、紙の下に薄い鉛筆の線があった。
最初は下書きかと思った。
違った。
名前だった。
何人分かの名前が、縦に並んで薄く書かれていた。
桑折という姓ばかりだった。
帳面の紙の裏、本来なら誰も見ない場所だ。
その紙をあかりに透かすと、鉛筆の線は裏から見ても読めた。
妙な話だが、私はその時、少しだけ得をした気分になった。
古い本には、こういう隠れた書き込みがときどきある。
持ち主が家族の名を控えていたのだろうと思った。
私は日誌にその旨を書いて、その日は帰った。
※
翌週、二つ目のことが起きた。
桑折家の帳面には、大学が新しく作った貸出カードが挟んである。
まだ誰にも貸し出していないので、表は白紙のままだ。
その裏に、鉛筆で薄く名前が並んでいた。
図書館の様式ではない書き方だった。
姓と名の間を空けず、下に小さく丸を打つ。
古い帳面の裏にあった書き方と、同じだった。
私はカードを抜いて、名前を数えた。
七つだった。
七月十二日の日誌に、私は「七名」と書いた。
その次の週に数えたとき、八つになっていた。
私は日誌を見返した。
自分の字で、七名、と書いてあった。
新しく増えていたのは、上の七つと同じ薄さで、同じ癖の字だった。
一日で書き足されたようには見えなかった。
何十年も前から、そこにあったように見えた。
私は海老原さんを呼んだ。
海老原さんはカードを光に当てて、しばらく黙っていた。
それから、カードを封筒に入れて、金庫のある部屋に持って行った。
戻ってきて、こう言った。
「桑折の帳面は、しばらく私がやります」
理由は言わなかった。
私は少しだけ腹が立った。
新人扱いされたと思った。
その週、書庫の受入係の年配の嘱託の人が、廊下で私を呼び止めた。
桑折の箱を運んだ人だ。
「あれ、うちに来るの二度目でしょう」
初耳だった。
昭和五十年代に一度、寄贈の話があって、途中で流れたのだという。
理由は覚えていないと言った。
「当時の課長が、受けるなって言った気がするんだけどねえ」
その課長の名前を聞いた。
教えてもらった名前を、私は日誌の端に書き留めた。
今から思えば、それも書き足す行為だった。
※
八月に入って、三つ目のことがあった。
ヤナギダさんが、学食で妙なことを言った。
「昨日の夕方、地下で誰かと話してたでしょ」
私は資料の返却で地下に降りていた。
一人だった。
「話してないよ」
「話してた。閲覧室の床のスリットから、下の声って上がってくるの」
「独り言かも」
「二人だったよ」
ヤナギダさんは笑っていた。
私も笑った。
その日の夜、私は自分の作業台の椅子に座って、少し試した。
声を出してみた。
一人の声が、除湿機の音に混じった。
「あ」
と言った。
「あ」
と返ってきた。
反響だと思った。
そう思うことにした。
その週の金曜、ヤナギダさんと二人で駅前の中華に行った。
彼女は入館者名簿の誤記の話をした。
「山田太郎って書く人、月に三人はいるの」
「本名じゃないですよね」
「たぶんね。でも一回、本物の山田太郎さんが来て、疑われて可哀想だった」
私は笑った。
よく覚えている。
その二か月ほどは、私はまだよく笑っていた。
※
匂いのことに気づいたのは、九月の終わりだった。
六月の搬入の日にした、雨に濡れた土の匂い。
あれが、また部屋にあった。
箱はもう空になって、廊下に畳んで積んである。
本は全部、金属の棚に収まっている。
それでも、朝いちばんに扉を開けると、土の匂いがした。
昼にはもう消えている。
翌朝、また同じ匂いがする。
除湿機のフィルターを外して洗った。
匂いは翌朝も同じだった。
私は、自分の鼻がおかしくなったのだと思うことにした。
※
九月、私は桑折家の来歴を調べた。
海老原さんが帳面を引き取ってしまったので、手が空いていた。
郷土資料の棚に、県北の村誌があった。
桑折の名は、江戸期の終わりから庄屋として出てくる。
面白いのは、家の記録の残り方だった。
桑折家は、代ごとに「厄帳」というものを付けていたらしい。
村誌の筆者は、それを「災厄の記録」と説明していた。
凶作、火事、流行り病。
その年に村で起きた悪いことを、当主が書き留める。
ここまでは珍しくない。
珍しいのは、その次だった。
桑折家の厄帳には、災厄の記述の下に、必ず人の名が書き添えられる。
村誌の筆者は、それを「厄除けの名代」と呼んでいた。
災いが降りかかるはずの者の名を、別の紙に書き写す。
書き写された名の者が、代わりに引き受ける。
そういう考え方だったらしい。
村誌には引用が一つ載っていた。
天保の飢饉の年の記述だという。
「此年 麦不熟 東の谷 十七戸 疫」
その下に、名が四つ。
名の左に、小さく丸が打たれている。
丸は書き終わりの印だと、村誌の注にあった。
書き終われば、移る。
そういう意味の印らしい。
村誌には、批判的な一文が添えられていた。
「近隣の家からの奉公人に、この名が多く見られる」
私はそこで本を閉じた。
気味の悪い風習だと思った。
それだけだった。
その頃はまだ、自分の仕事と結びつけていなかった。
一つだけ、頭の隅に引っかかったことがある。
名の左の、小さな丸。
桑折家の紙の裏にあった鉛筆書きにも、同じ丸があった。
帳面の中の墨の名にも、同じ丸があった。
ただし、墨の名のいくつかは、丸が無かった。
虫が食っているのだろうと、その時の私は思った。
※
十月の半ばに、四つ目のことが起きた。
私は作業日誌を、日付と作業内容だけの簡単な形で毎日つけていた。
その日、前の月のページを繰っていて、手が止まった。
十月三日が、二度あった。
十月三日、十月三日、十月四日、と並んでいる。
どちらも私の字だった。
どちらにも、違う作業内容が書いてあった。
一つは「桑折七三 表紙補修」。
もう一つは「桑折七三 表紙補修 継ぎ十一」。
私は自分の記憶をたどった。
十月三日に何をしたか、思い出せなかった。
思い出せないこと自体は、珍しくない。
毎日同じことをしている。
けれど、同じ日付を二度書いたことは、一度もなかった。
私はその日、早めに部屋を出た。
階段を上がるとき、下から紙を繰る音がした。
一枚ずつ、ゆっくり繰る音だった。
除湿機は、その日は止まっていた。
※
十一月の第一週に、海老原さんが倒れた。
朝、作業台の前で、椅子ごと横になっていた。
私が見つけた。
救急車を呼んで、大学の職員が二人ついて行った。
意識は戻らなかった。
その日の午後、私は封筒の中のカードを見た。
金庫のある部屋の鍵は、資料保存室にも一本ある。
カードを取り出して、裏を見た。
名前は、九つになっていた。
いちばん下の一つだけ、鉛筆ではなく墨だった。
そして、上の八つとは字の癖が違った。
私の字だった。
そこに書いてあるのは、海老原さんの名だった。
私は、その字を見たことがある。
自分で書いた字だからだ。
けれど、いつ書いたのかは思い出せなかった。
その日の夕方、海老原さんの引き出しを開けた。
道具の下に、私物の手帳があった。
七月十二日のところに、一行だけ書いてあった。
「補筆記録 要確認」
それ以降のページには、日付だけが並んでいた。
何をしたかは書いていない。
最後のページに、和紙の切れ端が挟んであった。
薄く漉いた紙の上に、墨の丸が二十ほど並んでいる。
どれも、紙ごと切り取られていた。
帳面から、丸だけを抜き取っていたのだ。
私が打った印を、あの人は九月から黙って外していた。
外した分だけ、間に合わなかったのだと思う。
※
私は棚から桑折家の帳面を全部出して、床に並べた。
繕った順に並べた。
繕った順は、日誌に残っている。
それから、金庫の封筒に戻していた厄帳の写しを開いた。
災厄の記述の下に、名前が並んでいた。
その帳面の名前は、私が繕った順に並んでいた。
私は床に座ったまま、順に指でなぞった。
指がどこで止まるかは、なぞる前から分かっていた。
一冊目を繕った週に、寄贈の受け入れを担当した事務の男性が郷里に帰った。
二冊目の週に、隣の部署の学生アルバイトが来なくなった。
三冊目の週に、除湿機の点検に来た業者が階段で足を折った。
どれも、その時は関係のない出来事だった。
私は自分の手を見た。
虫が食った穴には、文字の一部が欠けていることがある。
その場合は、前後から推し量って、欠けた画を墨で補う。
私は、欠けた名を、推定で補っていた。
桑折家の当主が半分だけ書いて、虫が残りを食った名前を、私が完成させていた。
書き写された名の者が、代わりに引き受ける。
村誌には、そう書いてあった。
私は九か月かけて、その帳面を、読める状態に戻していた。
それから、日誌を最初から読み返した。
補筆の記録は、規則どおり全部残っていた。
何月何日、どの丁の、どの文字の、どの画を補ったか。
海老原さんの言いつけを、私はよく守っていた。
補った画のほとんどは、名前の下の、小さな丸だった。
虫は円い形をよく食う。
だから丸ばかり欠けるのだと、私は日誌にそう書いていた。
根拠として、そう書いていた。
丸は書き終わりの印だと、村誌の注にはあった。
私は九か月かけて、書き終わりの印を、二百近く打っていた。
※
翌日、私は県北へ行った。
特急を降りて、一日に四本のバスに乗った。
車窓から見えるのは、刈り終わった田と、赤い屋根の農家ばかりだった。
不気味な土地には見えなかった。
そこがいちばん、こたえた。
桑折家の土蔵はもう無かった。
更地に、細い杭が四本立っているだけだった。
杭の内側だけ、草の色が違っていた。
近くの家で、七十くらいの女性に話を聞いた。
桑折の名を出すと、その人は玄関の敷居から出てこなくなった。
それでも、少しだけ話してくれた。
蔵を畳むとき、隣村の寺から和尚を呼んだこと。
和尚が、帳面だけは焼けと言ったこと。
桑折の当主が、大学なら安全だろうと言って、焼かなかったこと。
「学があるところなら、誰も本気にせんから、と言うてね」
その言い方を、私はよく覚えている。
本気にしなければ効かない、という理屈ではなかった。
本気にしない人間のところへ置けば、丁寧に扱ってもらえる。
そういう理屈だった。
帳面は、大事にされることを必要としていたのだ。
その当主は、寄贈の三か月後に、戻らぬ人になったこと。
「あんた、あれを触ったのかい」
そう聞かれた。
私は答えなかった。
「触っただけなら、まだええ」
そう続けられた。
「書いたんなら、あんたが名代や」
私はまだ、答えなかった。
その人は、敷居の内側から、塩を撒いた。
私にではなく、私が立っていた地面に撒いた。
帰りのバスの中で、私は何度も指の腹を擦り合わせた。
糊の感触が残っている気がした。
座席の窓に、自分の顔が薄く映っていた。
その向こうを、刈り終わった田がゆっくり流れていた。
※
その年の暮れに、私は資料保存室を辞めた。
海老原さんは春に病院で先に逝った。
ヤナギダさんは翌年、実家の都合で職場を移った。
それきり連絡は取れていない。
桑折家の蔵書は、貴重書庫に移されて、閲覧禁止になっている。
理由は「保存状態不良のため」と書かれている。
私が繕ったので、状態は悪くないはずだ。
辞めるとき、私は一枚だけ紙を持ち出した。
自分が最初に継ぎを入れた、一枚目の紙だ。
盗んだと言われれば、そのとおりだ。
今も封筒に入れて、押し入れの奥に置いてある。
去年の暮れ、久しぶりにそれを出して、電球の下で見た。
うまく繕えば、光に透かしたときだけ継ぎ目が見える。
そう教わった。
光に透かすと、継ぎ目はどこにもなかった。
一枚の紙として、漉き上がっていた。
そして、透かしの中に、細い縦の線が何本か入っていた。
名前の形をしていた。
何本あるのかは、数えていない。
数えれば、それも一つの記録になる。
記録は、書き終わりの印を必要とする。
だから、まだ数えずにいる。