
私の勤めは、山あいの小さな町の役場である。
住民係に配属されて、二年になる。
窓口に座り、書類に判を押す。
それが、私の一日のほとんどだった。
その年の梅雨は、長かった。
窓を打つ雨の音が、朝から晩まで続いた。
灰色の空が、谷を低く塞いでいた。
山の稜線は、雲に呑まれて見えなかった。
庁舎は古く、廊下はいつも薄暗い。
蛍光灯が、ひとつだけ、時おり瞬いた。
雨の日は、窓口に人が来ない。
番号札の機械が、黙ったまま赤く灯っている。
待合の長椅子は、冷たく光っていた。
私は奥の机で、古い帳簿の電子化を任されていた。
除籍簿という。
もうこの町を去った人、戸籍を抜けた人の控えである。
紙はどれも茶色く、墨の匂いがした。
湿った匂いが、指先に移った。
指でめくると、乾いた音が立った。
その音だけが、雨の合間に響いた。
私は一枚ずつ、画面に写し取っていった。
名前を打ち、生年を打ち、転出先を打つ。
それの繰り返しだった。
単調で、眠くなる仕事だった。
昼の休みには、窓の外を眺めた。
雨に濡れた山が、墨を流したように滲んでいた。
※
ある日のことだ。
昼を過ぎて、窓口の番号札が、ひとつ進んだ。
電子音が、ぴ、と鳴った。
私は顔を上げた。
誰も、ボタンを押していない。
待合の長椅子は、空のままだった。
入口の自動扉も、閉じたままだった。
私は機械の不調かと思った。
番号を呼ばず、そのままにしておいた。
だが、夕方になって、机の隅に一枚の紙があった。
いつ置かれたのか、覚えがない。
古い様式の、転入の届だった。
今は使われていない、罫線の細い用紙だった。
筆で書かれた、細い字だった。
墨は、まだ新しいようにも見えた。
住所の欄に、見慣れぬ地名があった。
――笹野、とあった。
私はその字を、知らなかった。
二年いて、一度も聞いたことのない地名だった。
町の地図を、棚から出して広げた。
古い、布張りの地図だった。
笹野は、町の北の外れにあった。
谷を一つ越えた、斜面の名だった。
だが、地図のそこには、家の印がなかった。
等高線のあいだに、ただ緑が塗られている。
道も、途中で途切れていた。
草の斜面、ということだ。
人の住む場所では、もうない。
私は届を、台帳に綴じようとした。
けれど、綴じ穴の位置が合わなかった。
様式が、今のものと違うのだ。
古い、ずっと古い紙だった。
私はそれを、引き出しの奥にしまった。
気味が悪かったが、忘れることにした。
雨は、まだ降っていた。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
細い筆の字が、目の裏に残っていた。
翌週も、番号札がひとつ進んだ。
同じ、昼下がりのことだった。
やはり、待合は空だった。
私は立ち上がり、窓口の外を覗いた。
雨に濡れた駐車場に、人影はなかった。
そして夕方、机の隅に、また一枚あった。
同じ笹野への、転入の届だった。
けれど、筆跡が違った。
前の週とは、別の手で書かれていた。
届出人の名も、違っていた。
知らない名だった。
私は背筋に、冷たいものを感じた。
その夜、私は庁舎に居残った。
古い帳簿を、奥まで遡った。
笹野の名を、探した。
あった。
何十年も前から、笹野への転入の届が綴じられていた。
年に一度。
きまって、梅雨のころに。
古い紙ほど、墨は褪せていた。
筆跡は、毎年ちがった。
名も、毎年ちがった。
男の名もあれば、女の名もあった。
けれど、行く先はいつも、同じ笹野だった。
誰も住まぬはずの、草の斜面だった。
私は帳簿を閉じた。
閉じる手が、少し震えていた。
※
翌朝、私は係長に尋ねた。
笹野とは、どういう場所ですか、と。
係長は、書きかけの判を止めた。
しばらく、黙っていた。
それから、低い声で言った。
――あそこは、もう人がいないことになっている。
昔、ひと冬のうちに、みな谷を下りた。
そういう土地だ、と。
理由は、言わなかった。
私は、転入の届のことを話した。
毎年、梅雨に来ること。
誰も窓口にいないのに、届だけが残ること。
係長は、驚かなかった。
とうに知っている、という顔だった。
――判だけ押して、綴じずに置いておけ。
そう言った。
代々、そうしてきた決まりだ、と。
なぜ、と私は聞いた。
係長は、答えなかった。
ただ、窓の雨を見ていた。
その横顔は、ひどく疲れて見えた。
私は、それ以上、聞けなかった。
その日から、私はその決まりを守った。
番号札が進むたび、机の隅を見た。
きまって、一枚あった。
いつ置かれるのか、見た者はいない。
私は判を押し、綴じずに置いた。
届出人の名は、見ないようにした。
見てはいけない気が、していた。
夏が近づいても、雨は続いた。
庁舎の壁に、黒い染みが広がった。
私は毎日、判を押した。
笹野へ、また一人。
笹野へ、また一人。
その繰り返しだった。
いつしか、私はその名を覚えていた。
覚えてはいけない名を、覚えていた。
ある休みの日、私は北へ車を走らせた。
笹野を、自分の目で見たかった。
谷を越える道は、細く曲がりくねっていた。
両側から、濡れた草が覆いかぶさってきた。
やがて、道は途切れた。
その先は、膝までの草の斜面だった。
私は車を降りて、しばらく歩いた。
土の下に、固いものが当たった。
足で払うと、石垣の跡だった。
昔、ここに家があったのだ。
よく見れば、平らに均された段が、いくつもあった。
田の跡か、家の跡か。
草に埋もれて、輪郭だけが残っていた。
風が吹くと、草がいっせいに鳴った。
人の話し声のように、聞こえた。
私は、長くはいられなかった。
誰かに見られている気が、したのだ。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ、草が揺れているだけだった。
私は車に戻り、町へ引き返した。
バックミラーに、斜面が遠ざかっていった。
その晩から、私は夢を見るようになった。
草の斜面に、灯りがいくつも点る夢だった。
灯りは、ひとつずつ増えていった。
目が覚めると、枕が汗で濡れていた。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
灯りの数を、私は数えてしまっていた。
前の晩より、ひとつ多かった。
梅雨の終わりが、近づいていた。
空の色が、少しずつ薄くなっていった。
最後の雨の日だった。
その日も、番号札が、ひとつ進んだ。
ぴ、と、いつもの音が鳴った。
私は机の隅を見た。
一枚、あった。
いつもの、笹野への転入の届だった。
私は判を取り、押そうとした。
その日、私はふと、名の欄を見てしまった。
見るつもりは、なかった。
目が、勝手にそこへ落ちたのだ。
いちばん新しい一枚の名前の欄に、私の名が記してあった。
生年月日の欄には、まだ来ぬ年が書かれていた。
私の生まれた日ではなかった。
これから先の、見知らぬ年だった。
私は、息ができなかった。
筆の字は、乾ききっていた。
ずっと前から、そこにあったように。
いつ書かれたものか、わからなかった。
窓の外で、雨がやんだ。
急に、あたりが静かになった。
谷の上の雲が、少しだけ切れた。
薄い光が、廊下に差し込んだ。
北の斜面が、遠くに見えた。
草が、風に光っていた。
そこに、家はない。
誰も、いない。
けれど、私の転入の届は、もう出されていた。
私は判を押さなかった。
その一枚を、そっと引き出しに戻した。
手が、冷たくなっていた。
次の梅雨が来るまで、まだ間がある。
それまでは、何も起こらない。
そう、自分に言い聞かせている。
あれから、何度も季節が巡った。
私は今も、同じ窓口に座っている。
判を押し、書類を綴じる。
何も変わらない、毎日だ。
ただ、雨の音を聞くと、今でも机の隅を見てしまう。
役場の窓口の、番号札の灯を見てしまう。
そして、誰も押していないのに、それが進む日を、待っている自分に気づくのだ。
いつか、私の番が来る。
そのことだけは、もう、わかっている。