梅雨に届く転入届

雨の中の山間の小屋

私の勤めは、山あいの小さな町の役場である。

住民係に配属されて、二年になる。

窓口に座り、書類に判を押す。

それが、私の一日のほとんどだった。

その年の梅雨は、長かった。

窓を打つ雨の音が、朝から晩まで続いた。

灰色の空が、谷を低く塞いでいた。

山の稜線は、雲に呑まれて見えなかった。

庁舎は古く、廊下はいつも薄暗い。

蛍光灯が、ひとつだけ、時おり瞬いた。

雨の日は、窓口に人が来ない。

番号札の機械が、黙ったまま赤く灯っている。

待合の長椅子は、冷たく光っていた。

私は奥の机で、古い帳簿の電子化を任されていた。

除籍簿という。

もうこの町を去った人、戸籍を抜けた人の控えである。

紙はどれも茶色く、墨の匂いがした。

湿った匂いが、指先に移った。

指でめくると、乾いた音が立った。

その音だけが、雨の合間に響いた。

私は一枚ずつ、画面に写し取っていった。

名前を打ち、生年を打ち、転出先を打つ。

それの繰り返しだった。

単調で、眠くなる仕事だった。

昼の休みには、窓の外を眺めた。

雨に濡れた山が、墨を流したように滲んでいた。

ある日のことだ。

昼を過ぎて、窓口の番号札が、ひとつ進んだ。

電子音が、ぴ、と鳴った。

私は顔を上げた。

誰も、ボタンを押していない。

待合の長椅子は、空のままだった。

入口の自動扉も、閉じたままだった。

私は機械の不調かと思った。

番号を呼ばず、そのままにしておいた。

だが、夕方になって、机の隅に一枚の紙があった。

いつ置かれたのか、覚えがない。

古い様式の、転入の届だった。

今は使われていない、罫線の細い用紙だった。

筆で書かれた、細い字だった。

墨は、まだ新しいようにも見えた。

住所の欄に、見慣れぬ地名があった。

――笹野、とあった。

私はその字を、知らなかった。

二年いて、一度も聞いたことのない地名だった。

町の地図を、棚から出して広げた。

古い、布張りの地図だった。

笹野は、町の北の外れにあった。

谷を一つ越えた、斜面の名だった。

だが、地図のそこには、家の印がなかった。

等高線のあいだに、ただ緑が塗られている。

道も、途中で途切れていた。

草の斜面、ということだ。

人の住む場所では、もうない。

私は届を、台帳に綴じようとした。

けれど、綴じ穴の位置が合わなかった。

様式が、今のものと違うのだ。

古い、ずっと古い紙だった。

私はそれを、引き出しの奥にしまった。

気味が悪かったが、忘れることにした。

雨は、まだ降っていた。

その夜、私はなかなか寝つけなかった。

細い筆の字が、目の裏に残っていた。

翌週も、番号札がひとつ進んだ。

同じ、昼下がりのことだった。

やはり、待合は空だった。

私は立ち上がり、窓口の外を覗いた。

雨に濡れた駐車場に、人影はなかった。

そして夕方、机の隅に、また一枚あった。

同じ笹野への、転入の届だった。

けれど、筆跡が違った。

前の週とは、別の手で書かれていた。

届出人の名も、違っていた。

知らない名だった。

私は背筋に、冷たいものを感じた。

その夜、私は庁舎に居残った。

古い帳簿を、奥まで遡った。

笹野の名を、探した。

あった。

何十年も前から、笹野への転入の届が綴じられていた。

年に一度。

きまって、梅雨のころに。

古い紙ほど、墨は褪せていた。

筆跡は、毎年ちがった。

名も、毎年ちがった。

男の名もあれば、女の名もあった。

けれど、行く先はいつも、同じ笹野だった。

誰も住まぬはずの、草の斜面だった。

私は帳簿を閉じた。

閉じる手が、少し震えていた。

翌朝、私は係長に尋ねた。

笹野とは、どういう場所ですか、と。

係長は、書きかけの判を止めた。

しばらく、黙っていた。

それから、低い声で言った。

――あそこは、もう人がいないことになっている。

昔、ひと冬のうちに、みな谷を下りた。

そういう土地だ、と。

理由は、言わなかった。

私は、転入の届のことを話した。

毎年、梅雨に来ること。

誰も窓口にいないのに、届だけが残ること。

係長は、驚かなかった。

とうに知っている、という顔だった。

――判だけ押して、綴じずに置いておけ。

そう言った。

代々、そうしてきた決まりだ、と。

なぜ、と私は聞いた。

係長は、答えなかった。

ただ、窓の雨を見ていた。

その横顔は、ひどく疲れて見えた。

私は、それ以上、聞けなかった。

その日から、私はその決まりを守った。

番号札が進むたび、机の隅を見た。

きまって、一枚あった。

いつ置かれるのか、見た者はいない。

私は判を押し、綴じずに置いた。

届出人の名は、見ないようにした。

見てはいけない気が、していた。

夏が近づいても、雨は続いた。

庁舎の壁に、黒い染みが広がった。

私は毎日、判を押した。

笹野へ、また一人。

笹野へ、また一人。

その繰り返しだった。

いつしか、私はその名を覚えていた。

覚えてはいけない名を、覚えていた。

ある休みの日、私は北へ車を走らせた。

笹野を、自分の目で見たかった。

谷を越える道は、細く曲がりくねっていた。

両側から、濡れた草が覆いかぶさってきた。

やがて、道は途切れた。

その先は、膝までの草の斜面だった。

私は車を降りて、しばらく歩いた。

土の下に、固いものが当たった。

足で払うと、石垣の跡だった。

昔、ここに家があったのだ。

よく見れば、平らに均された段が、いくつもあった。

田の跡か、家の跡か。

草に埋もれて、輪郭だけが残っていた。

風が吹くと、草がいっせいに鳴った。

人の話し声のように、聞こえた。

私は、長くはいられなかった。

誰かに見られている気が、したのだ。

振り返っても、誰もいなかった。

ただ、草が揺れているだけだった。

私は車に戻り、町へ引き返した。

バックミラーに、斜面が遠ざかっていった。

その晩から、私は夢を見るようになった。

草の斜面に、灯りがいくつも点る夢だった。

灯りは、ひとつずつ増えていった。

目が覚めると、枕が汗で濡れていた。

窓の外では、まだ雨が降っていた。

灯りの数を、私は数えてしまっていた。

前の晩より、ひとつ多かった。

梅雨の終わりが、近づいていた。

空の色が、少しずつ薄くなっていった。

最後の雨の日だった。

その日も、番号札が、ひとつ進んだ。

ぴ、と、いつもの音が鳴った。

私は机の隅を見た。

一枚、あった。

いつもの、笹野への転入の届だった。

私は判を取り、押そうとした。

その日、私はふと、名の欄を見てしまった。

見るつもりは、なかった。

目が、勝手にそこへ落ちたのだ。

いちばん新しい一枚の名前の欄に、私の名が記してあった。

生年月日の欄には、まだ来ぬ年が書かれていた。

私の生まれた日ではなかった。

これから先の、見知らぬ年だった。

私は、息ができなかった。

筆の字は、乾ききっていた。

ずっと前から、そこにあったように。

いつ書かれたものか、わからなかった。

窓の外で、雨がやんだ。

急に、あたりが静かになった。

谷の上の雲が、少しだけ切れた。

薄い光が、廊下に差し込んだ。

北の斜面が、遠くに見えた。

草が、風に光っていた。

そこに、家はない。

誰も、いない。

けれど、私の転入の届は、もう出されていた。

私は判を押さなかった。

その一枚を、そっと引き出しに戻した。

手が、冷たくなっていた。

次の梅雨が来るまで、まだ間がある。

それまでは、何も起こらない。

そう、自分に言い聞かせている。

あれから、何度も季節が巡った。

私は今も、同じ窓口に座っている。

判を押し、書類を綴じる。

何も変わらない、毎日だ。

ただ、雨の音を聞くと、今でも机の隅を見てしまう。

役場の窓口の、番号札の灯を見てしまう。

そして、誰も押していないのに、それが進む日を、待っている自分に気づくのだ。

いつか、私の番が来る。

そのことだけは、もう、わかっている。

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