もっさ

学生の頃、私はよく金縛りにあった。

あまりに頻繁だったので、もう慣れっこになっていた。

当時、私が住んでいたのは、駅から遠い木造アパートだった。

家賃が安いだけが取り柄の、築何十年という古い建物だ。

壁は薄く、夜になると、隣の部屋の咳まで聞こえてきた。

私の部屋は、二階の角部屋だった。

アパートの階段は、一段ごとに、ぎしりと鳴った。

夜中にその音がすると、誰かが上ってくるようで、最初は身構えた。

だが、それも建物が古いせいだと、すぐにわかった。

隣には、無口な老人が一人で住んでいた。

会えば会釈はするが、言葉を交わしたことはなかった。

管理人は、月に一度、家賃を集めに来るだけだった。

その管理人も、前の住人の話になると、決まって口をつぐんだ。

日当たりは悪く、昼間でも、どこかひんやりしていた。

入居するとき、不動産屋は妙に言葉を濁していた。

前の住人が、急に出ていった、とだけ言っていた。

理由は教えてくれなかった。

まあ、家賃が安ければそれでいい、と私は気にしなかった。

幽霊だの祟りだのを、本気で信じる質ではなかったのだ。

金縛りに初めてあったのは、高校生の頃だった。

目は覚めているのに、体だけが鉛のように動かない。

最初は、本気で死ぬかと思った。

後で調べてみると、睡眠と覚醒のずれで起きる、ありふれた現象だという。

脳は起きているのに、体はまだ眠っている。

そう知ってからは、ずいぶん気が楽になった。

だから私は、金縛りそのものを、怖いとは思わなくなっていた。

金縛りは、その部屋に住み始めてから、急に増えた。

週に二、三度は、夜中に体が動かなくなった。

はじめは少し怖かったが、何も起きないので、すぐに慣れた。

「ああ、またか」

「眠いのに、面倒だな」

そんなふうに、暢気に考えるようになっていた。

金縛りのあいだ、私はいつも同じように過ごした。

瞼は重く、どうやっても開けられない。

真っ暗な部屋の中で、ただ、解けるのをじっと待つ。

そのうち、すうっと体が軽くなって、また眠りに落ちる。

その繰り返しだった。

だから、その夜も、いつもと同じだと思っていた。

試験前の、よく冷える晩だった。

夜遅くまで勉強して、布団に倒れ込むように眠った。

どれくらい経っただろうか。

ふと意識が戻ると、案の定、体が動かなくなっていた。

「はいはい、またね」

私は、心の中でため息をついた。

その晩は、特に冷え込んでいた。

窓の隙間から、すきま風が入ってきた。

私は布団を頭までかぶって、丸くなって眠った。

勉強疲れで、頭の芯がぼうっとしていた。

眠りは、いつもより深かったように思う。

ところが、その夜は、いつもと違った。

首筋に、何か、感触があったのだ。

さらり、と、髪の毛のようなものが触れた。

私の背筋が、ぴんと張りつめた。

来たか、と思った。

頭の中で、最悪の想像がふくらんだ。

長い黒髪の女が、私の顔をのぞき込んでいる。

そんな、お決まりの光景だ。

ファサ……と、髪が垂れてくる、あれだ。

私は、来るなら来い、と覚悟を決めた。

だが、その感触は、想像とは、まるで違った。

さらり、ではなかった。

もっさ、だった。

私は、必死に状況を整理しようとした。

金縛り中に、何かが触れてくる。

それ自体は、よくある怪談のパターンだ。

問題は、その「何か」が、まるで怖くないことだった。

もこもこ、ふわふわ、もっさり。

擬音にすると、すべてが間抜けに響く。

私の脳は、恐怖と笑いのあいだで、完全に混乱していた。

もっさ、と、何かが、首の両脇に降ってきた。

両側から、同時に、だ。

重みのある、もこもこした、ふくよかな感触。

とても、長い黒髪のそれではない。

目は、相変わらず開けられない。

だから、確かめることはできなかった。

けれど、私の頭の中に浮かんだイメージは、ひとつだった。

アフロのヅラ。

巨大なアフロのかつらが、私の首の両脇に、もっさりと降ってきたのだ。

左に、もっさ。

右に、もっさ。

完璧な、左右対称だった。

この恐怖が、わかるだろうか。

いや、これはもう、恐怖と呼んでいいのかどうか。

怖いような、おかしいような。

背筋は凍っているのに、頬は、なぜかゆるみそうになる。

幽霊なら、せめて怖くあってほしい。

長い髪でも、白い顔でも、なんでもいい。

なぜ、よりによって、アフロなのだ。

私は、金縛りの中で、必死にツッコミを入れていた。

そのアフロは、しばらく、私の首にかかっていた。

重くもなく、痛くもない。

ただ、もっさりと、そこにあった。

まるで、暖かいマフラーを巻かれているようでもあった。

いったい、何をしたいのか。

驚かせたいのか、なごませたいのか。

その意図が、まるで読めなかった。

気づけば、私は恐怖も忘れて、そのアフロの正体を考えていた。

結局、私は、そのまま眠ってしまった。

あれほどのことがあったのに、ぐっすりと、だ。

朝、目が覚めると、首には何もなかった。

枕も、布団も、いつもどおりだった。

もちろん、アフロのかつらなど、どこにも落ちていない。

昼間、私は友人たちに、この話をした。

全員、腹を抱えて笑った。

「お前、夢でも見たんだろ」

「アフロの幽霊なんて、聞いたことないぞ」

誰も、まともに取り合ってはくれなかった。

まあ、無理もない。

私だって、人から聞いたら、絶対に信じない。

中には、面白がって、わざわざ私の部屋に泊まりに来る友人もいた。

アフロの幽霊を、自分も見たいと言うのだ。

だが、そういう夜に限って、もっさは現れなかった。

友人は、つまらなそうに帰っていった。

もっさは、どうやら、私にしか降ってこないらしかった。

少しだけ、特別に選ばれたような気もした。

そんなことで選ばれても、まったく嬉しくはないのだが。

だが、それからも、もっさは、時々やってきた。

金縛りになると、ふいに、首の両脇に降ってくる。

もっさ、もっさ、と。

何度目かには、もう私も驚かなくなった。

「ああ、来たな」と思うだけだ。

もっさが来る夜には、なんとなく、前ぶれがあった。

部屋の空気が、いつもより少しだけ、重くなるのだ。

そういう晩は、ああ、今夜は来るな、とわかった。

ある夜は、もっさが、いつもより念入りだった。

左、右、ともう一度左、と三回に分けて降ってきた。

まるで、念入りに巻き直しているようだった。

私は、心の中で「丁寧だな」と感心していた。

なんなら、少しだけ、ほっとするようにすらなった。

私は、あの部屋の前の住人のことを、ふと考えた。

急に出ていったという、その人。

もしかして、すごいアフロの人だったのではないか。

そして、お気に入りのヅラを、置いていったのではないか。

そんな、ばかげた想像が、頭から離れなくなった。

確かめるすべは、もうないけれど。

私は一度、思い切って管理人に聞いてみた。

前の住人は、どんな人だったのか、と。

管理人は、少し迷ってから、ぽつりと言った。

「変わった髪型の、若い人でしたよ」

私は、思わず聞き返した。

「もしかして、アフロですか」

管理人は、驚いた顔で、こくりとうなずいた。

その人は、ある日突然、荷物も置いたまま、姿を消したのだという。

残されたものの中に、立派なヅラが、ひとつあったらしい。

その話を聞いて、私はしばらく言葉を失った。

アフロのヅラ。

私が金縛りのたびに感じていた、あのもっさ。

両者が、頭の中で、ぴたりと重なった。

管理人は、気味悪そうに付け加えた。

「そのヅラ、処分しようとしたんですけどね」

「なぜか、いつのまにか、また部屋に戻ってるんですって」

私は、思わず鳥肌が立った。

だが次の瞬間、なぜか、笑いがこみ上げてきた。

そんなに大事なヅラなら、仕方ない。

持ち主にとっては、よほどの宝物だったのだろう。

その夜から、私は、もっさを少し違う気持ちで迎えるようになった。

これは、ただの心霊現象ではない。

前の住人が、置いていったヅラの、忘れ物の挨拶なのだ。

取りに来られないかわりに、せめて、私の首を温めている。

そう考えると、あのもっさが、急にいとおしく思えてきた。

金縛りになると、私はもう、身構えなくなった。

むしろ、来るのを待つようにすらなっていた。

結局、その部屋には、卒業まで住んだ。

金縛りも、もっさも、最後まで続いた。

引っ越しの日、私は誰もいない部屋に向かって、頭を下げた。

「いろいろ、ありがとうございました」と。

なんとなく、そう言いたくなったのだ。

あれから、ずいぶん経つ。

新しい家では、金縛りにあうこともなくなった。

もっさが降ってくることも、もちろんない。

少し静かすぎて、たまに物足りないくらいだ。

卒業して部屋を出るとき、私はあのヅラを探してみた。

押し入れも、天井裏も、隅々まで見た。

けれど、どこにも見当たらなかった。

あれだけ、もっさと降ってきたのに。

まるで、最初から存在しなかったかのようだった。

今になって思う。

あれは、寂しさのかたちだったのかもしれない。

急に居場所を失った誰かの、置き去りにされた想い。

それが、ヅラという、なんとも間の抜けた姿で、私に触れていた。

怖がらせるためではなく、ただ、そばにいたかっただけ。

そう考えると、もう、少しも怖くはない。

ある寒い晩、もっさは、いつもより長く、首にかかっていた。

その温かさが、なんだか、人のぬくもりのようだった。

私は、目を閉じたまま、小さくつぶやいた。

「今夜は、寒いもんな」

返事は、もちろん、なかった。

けれど、もっさが、ほんの少し、ふわりと動いた気がした。

気のせいかもしれない。

それでも、私は、それでよかった。

今でも、ふと思う。

あのアフロは、いったい、何を伝えたかったのだろう。

驚かせたかったのか。

たまに、ひどく疲れた夜には、ふと首筋がむずむずする。

あの、もっさの感触を、体が覚えているのだ。

そんなとき、私は布団の中で、少しだけ待ってしまう。

もう一度だけ、降ってきてくれないかと。

けれど、もう二度と、もっさが降ってくることはない。

あの間の抜けた温もりは、あの部屋に、置いてきてしまったのだ。

今では、それが、ほんの少しだけ、寂しい。

それとも、ただ、誰かに首を温めてほしかっただけなのか。

答えは、いまだに、わからないままだ。

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