学生の頃、私はよく金縛りにあった。
あまりに頻繁だったので、もう慣れっこになっていた。
※
当時、私が住んでいたのは、駅から遠い木造アパートだった。
家賃が安いだけが取り柄の、築何十年という古い建物だ。
壁は薄く、夜になると、隣の部屋の咳まで聞こえてきた。
私の部屋は、二階の角部屋だった。
アパートの階段は、一段ごとに、ぎしりと鳴った。
夜中にその音がすると、誰かが上ってくるようで、最初は身構えた。
だが、それも建物が古いせいだと、すぐにわかった。
隣には、無口な老人が一人で住んでいた。
会えば会釈はするが、言葉を交わしたことはなかった。
管理人は、月に一度、家賃を集めに来るだけだった。
その管理人も、前の住人の話になると、決まって口をつぐんだ。
日当たりは悪く、昼間でも、どこかひんやりしていた。
※
入居するとき、不動産屋は妙に言葉を濁していた。
前の住人が、急に出ていった、とだけ言っていた。
理由は教えてくれなかった。
まあ、家賃が安ければそれでいい、と私は気にしなかった。
幽霊だの祟りだのを、本気で信じる質ではなかったのだ。
金縛りに初めてあったのは、高校生の頃だった。
目は覚めているのに、体だけが鉛のように動かない。
最初は、本気で死ぬかと思った。
後で調べてみると、睡眠と覚醒のずれで起きる、ありふれた現象だという。
脳は起きているのに、体はまだ眠っている。
そう知ってからは、ずいぶん気が楽になった。
だから私は、金縛りそのものを、怖いとは思わなくなっていた。
※
金縛りは、その部屋に住み始めてから、急に増えた。
週に二、三度は、夜中に体が動かなくなった。
はじめは少し怖かったが、何も起きないので、すぐに慣れた。
「ああ、またか」
「眠いのに、面倒だな」
そんなふうに、暢気に考えるようになっていた。
※
金縛りのあいだ、私はいつも同じように過ごした。
瞼は重く、どうやっても開けられない。
真っ暗な部屋の中で、ただ、解けるのをじっと待つ。
そのうち、すうっと体が軽くなって、また眠りに落ちる。
その繰り返しだった。
だから、その夜も、いつもと同じだと思っていた。
※
試験前の、よく冷える晩だった。
夜遅くまで勉強して、布団に倒れ込むように眠った。
どれくらい経っただろうか。
ふと意識が戻ると、案の定、体が動かなくなっていた。
「はいはい、またね」
私は、心の中でため息をついた。
その晩は、特に冷え込んでいた。
窓の隙間から、すきま風が入ってきた。
私は布団を頭までかぶって、丸くなって眠った。
勉強疲れで、頭の芯がぼうっとしていた。
眠りは、いつもより深かったように思う。
※
ところが、その夜は、いつもと違った。
首筋に、何か、感触があったのだ。
さらり、と、髪の毛のようなものが触れた。
私の背筋が、ぴんと張りつめた。
来たか、と思った。
※
頭の中で、最悪の想像がふくらんだ。
長い黒髪の女が、私の顔をのぞき込んでいる。
そんな、お決まりの光景だ。
ファサ……と、髪が垂れてくる、あれだ。
私は、来るなら来い、と覚悟を決めた。
※
だが、その感触は、想像とは、まるで違った。
さらり、ではなかった。
もっさ、だった。
私は、必死に状況を整理しようとした。
金縛り中に、何かが触れてくる。
それ自体は、よくある怪談のパターンだ。
問題は、その「何か」が、まるで怖くないことだった。
もこもこ、ふわふわ、もっさり。
擬音にすると、すべてが間抜けに響く。
私の脳は、恐怖と笑いのあいだで、完全に混乱していた。
※
もっさ、と、何かが、首の両脇に降ってきた。
両側から、同時に、だ。
重みのある、もこもこした、ふくよかな感触。
とても、長い黒髪のそれではない。
※
目は、相変わらず開けられない。
だから、確かめることはできなかった。
けれど、私の頭の中に浮かんだイメージは、ひとつだった。
アフロのヅラ。
※
巨大なアフロのかつらが、私の首の両脇に、もっさりと降ってきたのだ。
左に、もっさ。
右に、もっさ。
完璧な、左右対称だった。
※
この恐怖が、わかるだろうか。
いや、これはもう、恐怖と呼んでいいのかどうか。
怖いような、おかしいような。
背筋は凍っているのに、頬は、なぜかゆるみそうになる。
※
幽霊なら、せめて怖くあってほしい。
長い髪でも、白い顔でも、なんでもいい。
なぜ、よりによって、アフロなのだ。
私は、金縛りの中で、必死にツッコミを入れていた。
※
そのアフロは、しばらく、私の首にかかっていた。
重くもなく、痛くもない。
ただ、もっさりと、そこにあった。
まるで、暖かいマフラーを巻かれているようでもあった。
※
いったい、何をしたいのか。
驚かせたいのか、なごませたいのか。
その意図が、まるで読めなかった。
気づけば、私は恐怖も忘れて、そのアフロの正体を考えていた。
※
結局、私は、そのまま眠ってしまった。
あれほどのことがあったのに、ぐっすりと、だ。
朝、目が覚めると、首には何もなかった。
枕も、布団も、いつもどおりだった。
もちろん、アフロのかつらなど、どこにも落ちていない。
※
昼間、私は友人たちに、この話をした。
全員、腹を抱えて笑った。
「お前、夢でも見たんだろ」
「アフロの幽霊なんて、聞いたことないぞ」
誰も、まともに取り合ってはくれなかった。
まあ、無理もない。
私だって、人から聞いたら、絶対に信じない。
中には、面白がって、わざわざ私の部屋に泊まりに来る友人もいた。
アフロの幽霊を、自分も見たいと言うのだ。
だが、そういう夜に限って、もっさは現れなかった。
友人は、つまらなそうに帰っていった。
もっさは、どうやら、私にしか降ってこないらしかった。
少しだけ、特別に選ばれたような気もした。
そんなことで選ばれても、まったく嬉しくはないのだが。
※
だが、それからも、もっさは、時々やってきた。
金縛りになると、ふいに、首の両脇に降ってくる。
もっさ、もっさ、と。
何度目かには、もう私も驚かなくなった。
「ああ、来たな」と思うだけだ。
※
もっさが来る夜には、なんとなく、前ぶれがあった。
部屋の空気が、いつもより少しだけ、重くなるのだ。
そういう晩は、ああ、今夜は来るな、とわかった。
ある夜は、もっさが、いつもより念入りだった。
左、右、ともう一度左、と三回に分けて降ってきた。
まるで、念入りに巻き直しているようだった。
私は、心の中で「丁寧だな」と感心していた。
なんなら、少しだけ、ほっとするようにすらなった。
※
私は、あの部屋の前の住人のことを、ふと考えた。
急に出ていったという、その人。
もしかして、すごいアフロの人だったのではないか。
そして、お気に入りのヅラを、置いていったのではないか。
そんな、ばかげた想像が、頭から離れなくなった。
確かめるすべは、もうないけれど。
※
私は一度、思い切って管理人に聞いてみた。
前の住人は、どんな人だったのか、と。
管理人は、少し迷ってから、ぽつりと言った。
「変わった髪型の、若い人でしたよ」
私は、思わず聞き返した。
「もしかして、アフロですか」
管理人は、驚いた顔で、こくりとうなずいた。
その人は、ある日突然、荷物も置いたまま、姿を消したのだという。
残されたものの中に、立派なヅラが、ひとつあったらしい。
その話を聞いて、私はしばらく言葉を失った。
アフロのヅラ。
私が金縛りのたびに感じていた、あのもっさ。
両者が、頭の中で、ぴたりと重なった。
管理人は、気味悪そうに付け加えた。
「そのヅラ、処分しようとしたんですけどね」
「なぜか、いつのまにか、また部屋に戻ってるんですって」
私は、思わず鳥肌が立った。
だが次の瞬間、なぜか、笑いがこみ上げてきた。
そんなに大事なヅラなら、仕方ない。
持ち主にとっては、よほどの宝物だったのだろう。
※
その夜から、私は、もっさを少し違う気持ちで迎えるようになった。
これは、ただの心霊現象ではない。
前の住人が、置いていったヅラの、忘れ物の挨拶なのだ。
取りに来られないかわりに、せめて、私の首を温めている。
そう考えると、あのもっさが、急にいとおしく思えてきた。
金縛りになると、私はもう、身構えなくなった。
むしろ、来るのを待つようにすらなっていた。
※
結局、その部屋には、卒業まで住んだ。
金縛りも、もっさも、最後まで続いた。
引っ越しの日、私は誰もいない部屋に向かって、頭を下げた。
「いろいろ、ありがとうございました」と。
なんとなく、そう言いたくなったのだ。
※
あれから、ずいぶん経つ。
新しい家では、金縛りにあうこともなくなった。
もっさが降ってくることも、もちろんない。
少し静かすぎて、たまに物足りないくらいだ。
卒業して部屋を出るとき、私はあのヅラを探してみた。
押し入れも、天井裏も、隅々まで見た。
けれど、どこにも見当たらなかった。
あれだけ、もっさと降ってきたのに。
まるで、最初から存在しなかったかのようだった。
※
今になって思う。
あれは、寂しさのかたちだったのかもしれない。
急に居場所を失った誰かの、置き去りにされた想い。
それが、ヅラという、なんとも間の抜けた姿で、私に触れていた。
怖がらせるためではなく、ただ、そばにいたかっただけ。
そう考えると、もう、少しも怖くはない。
ある寒い晩、もっさは、いつもより長く、首にかかっていた。
その温かさが、なんだか、人のぬくもりのようだった。
私は、目を閉じたまま、小さくつぶやいた。
「今夜は、寒いもんな」
返事は、もちろん、なかった。
けれど、もっさが、ほんの少し、ふわりと動いた気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、私は、それでよかった。
※
今でも、ふと思う。
あのアフロは、いったい、何を伝えたかったのだろう。
驚かせたかったのか。
たまに、ひどく疲れた夜には、ふと首筋がむずむずする。
あの、もっさの感触を、体が覚えているのだ。
そんなとき、私は布団の中で、少しだけ待ってしまう。
もう一度だけ、降ってきてくれないかと。
けれど、もう二度と、もっさが降ってくることはない。
あの間の抜けた温もりは、あの部屋に、置いてきてしまったのだ。
今では、それが、ほんの少しだけ、寂しい。
それとも、ただ、誰かに首を温めてほしかっただけなのか。
答えは、いまだに、わからないままだ。