俺が住んでいたマンションで起きた、ちょっと変な話を聞いてくれないか。
あれは三年前、社会人になって、はじめての一人暮らしを始めた頃のことだ。
場所は、福岡の博多区にある、駅近のマンションだった。
駅まで歩いて五分、コンビニまで一分という好立地。
それなのに、家賃はたったの三万五千円だった。
いくらなんでも安すぎる、と俺も思った。
同じ広さの隣の物件は、軽く七万円はしていた。
その半額というのは、どう考えても異常だった。
でも、便利だし、金もなかったから、とりあえず住むことにした。
今思えば、安いのには、ちゃんと理由があったわけだ。
内見のとき、不動産屋がやけに言葉を濁していたのを覚えている。
「前の住人さんは、急に引っ越されまして」と、目を合わせずに言っていた。
そのときは、まあよくある話だろう、と気にも留めなかった。
鍵を受け取ったとき、不動産屋がぼそっと「何かあれば、すぐご連絡を」と言った。
その「何か」が、まさかこんな意味だったとは思わなかった。
契約書にハンコを押す俺を、不動産屋が少し気の毒そうに見ていた気もする。
引っ越しの初日、隣の部屋のおばさんに挨拶した。
おばさんは、俺の部屋番号を聞くと、一瞬、表情を固くした。
「あら……あの部屋に。お若いのに」と、なぜか同情された。
そのときも、俺はピンとこなかった。
今思えば、まわりはみんな、知っていたんだろうな。
入居して三日目の夜、最初の異変が起きた。
風呂場の電球が、いきなりパチンと切れたんだ。
買ってきたばかりの新品だったのに。
仕方ないから、また新しいのに替えた。
そうしたら、つけた瞬間、またすぐに切れた。
光が、ふっと吸い込まれるみたいに消えるんだ。
三つ目の電球まで同じだった。
普通に考えれば、配線の不良を疑うところだ。
でも、つけた瞬間に消えるなんて、配線じゃ説明がつかない。
しかも、消える前に、一瞬だけ、誰かの影が横切った気がした。
俺はもう、面倒くさくなった。
だから、風呂は電気をつけずに入ることにした。
暗いと逆に落ち着くしな、と自分に言い聞かせた。
今でもあの真っ暗な風呂を思い出すと、自分のずぶとさに呆れる。
普通の人なら、この時点で引っ越しを考えるんだろうな。
その二日後だ。
今度は、部屋の電気が、いきなり全部消えた。
スイッチを押したら、すぐに戻った。
でも、また消える。
普通なら、ここで怖がるところだろう。
でも俺は、こう思った。
「あ、こいつ、わざわざ俺のために点けたり消したりしてくれてるのか」と。
なんて気の利く幽霊なんだ、と感心すらした。
次の日、会社で同僚にこの話をした。
そいつは、みるみる顔を青くして、「お祓い行きなよ」と本気で心配してくれた。
でも俺は、なんだか面白くなってきていた。
せっかくのルームメイトだ、もう少し付き合ってやろう、と思ったんだ。
思えば、一人暮らしは寂しいものだ。
誰かがいる気配があるというのは、案外、悪くないのかもしれない。
そんなふうに思えてしまうあたり、俺もたいがいだった。
我ながら、少し神経がおかしかったのかもしれない。
それからも、いろいろあった。
本棚から、いきなり本がばさっと落ちてきた。
普通に考えれば、心霊現象だ。
でも俺は、落ちた場所にわざと物を投げ返して、こう言った。
「お前じゃない。今のは俺がやった」
誰もいない部屋で、一人ドヤ顔をきめてやった。
本が落ちるたびに、俺は「またお前か」と話しかけるようになっていた。
返事はないが、なんとなく、向こうも反応している気がした。
一人暮らしの部屋に、いつのまにか、奇妙な会話が生まれていた。
今書いていても、自分でも意味が分からない。
ただ、不思議と、怖いとは思わなかった。
むしろ、こいつをどうやって驚かせ返してやろうか、と考えていた。
完全に、こっちが攻める側に回っていたんだ。
幽霊というのは、人を怖がらせて、その恐怖を糧にするらしい。
だとしたら、まったく怖がらない俺は、さぞ手強い相手だっただろう。
向こうからすれば、とんでもないハズレ物件だったに違いない。
夜中に寝ていると、天井に女の人が張り付いていたこともある。
長い髪を垂らして、じっとこっちを見下ろしていた。
普通なら、絶叫して逃げ出す場面だろう。
でも俺は、枕元にあったトランプを一枚、天井に投げつけた。
「そこかっ!」と、忍者みたいに叫びながら。
女の人は、ふっと消えた。
たぶん、ドン引きされたんだと思う。
次の日も、その次の日も、女の人は出てこなかった。
よっぽど、トランプがこたえたんだろうか。
俺は少し、申し訳ない気持ちになった。
いちばん困ったのは、ラップ音だった。
壁や天井から、コンコン、ピシッと音が鳴り続ける。
うるさくて、まったく眠れない。
俺は最初、舌打ちで対抗した。
でも、向こうも負けじと鳴らしてくる。
そのうち、だんだん腹が立たなくなってきた。
気づけば、俺は舌打ちでリズムを取り始めていた。
ラップ音に合わせて、できもしないボイスパーカッションを披露した。
一人で、夜中に、本気で。
壁を一枚はさんだ向こうに、隣の住人がいたはずだ。
今思えば、ラップ音より、俺のボイパのほうが迷惑だったかもしれない。
でも、当時の俺は、完全に乗っていた。
幽霊と人間のセッションなんて、そうそう経験できるものじゃない。
ひとしきりセッションして満足したので、俺はそのまま寝た。
翌朝、ラップ音は、いつのまにかやんでいた。
向こうも、付き合いきれないと思ったのかもしれない。
こうして俺は、また一勝をあげた気でいた。
勝ち負けで数える話じゃないのは、自分でも分かっている。
でも、当時の俺は、本気で勝敗のスコアを心の中でつけていた。
電球三勝、ラップ音一勝、天井の女に一勝、といった具合に。
極めつけは、キッチンだ。
何も置いていないはずのキッチンから、フライパンが落ちてきた。
がしゃん、と派手な音を立てて。
俺は床に落ちたフライパンを拾い上げて、こう思った。
「三秒ルールだから、まだ使えるな」
そして、なぜかそのフライパンを、霊ごと窓の外へ放り投げた。
「お前も、たまには外の空気を吸え」と言いながら。
我ながら、何を言っているのか分からなかった。
今考えると、フライパンがもったいなかった。
後でこっそり、ベランダの下まで拾いに行ったのは内緒だ。
幸い、誰にも当たっていなかった。
霊にフライパンを投げる人間も、なかなかいないだろう。
そんな日々が続いた、ある夜のことだ。
俺は、はじめて悪夢を見た。
長い髪の毛で、首を絞められる夢だった。
息ができない。
体も動かない。
これは、さすがにまずい。
視界が、だんだん暗くなっていく。
ああ、俺はここで死ぬのか、と一瞬よぎった。
でも、次の瞬間、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
さんざん遊んでやったのに、最後は本気で殺しにくるのか、と。
そう思った瞬間、俺は夢の中で、ブチ切れた。
「いい加減にしろ!」と、腹の底から怒鳴った。
夢の中なのに、声は驚くほどはっきり出た。
首を絞めていた髪の毛が、びくりと震えるのが分かった。
そして、するすると、ほどけていった。
夢の中で、俺ははっきりと感じた。
相手が、俺の怒りに、たじろいでいるのを。
立場が、完全に逆転した瞬間だった。
そこで、目が覚めた。
全身、汗びっしょりだった。
でも、部屋の空気が、なんだか変わっていた。
あれほど感じていた、嫌な気配が、きれいに消えていたんだ。
その日を境に、ぱたりと、何も起こらなくなった。
電球も切れない。
本も落ちない。
ラップ音もしない。
あれから三年が経つが、もう一度も、何も出ていない。
夜中の物音も、視線も、何もかもが嘘のように消えた。
今では、ただの静かな部屋だ。
少しだけ、寂しい気もする。
最初のうちは、少し物足りないくらいだった。
あれだけ毎晩にぎやかだったのが、急に静かになったのだから。
なんだか、長く一緒にいた相棒に、出ていかれた気分だった。
後日、霊感の強い友達が、俺の部屋に遊びに来た。
部屋に入るなり、そいつは妙な顔をして立ち止まった。
そして、おそるおそる、俺にこう聞いてきた。
「……お前、なんかした?」
「は? 何が?」と俺は答えた。
友達は、部屋の隅を指さして、声をひそめた。
「いや、あそこに何人か、霊がいるんだけど」
「みんな、お前のことを、めちゃくちゃ怖がってるんだよ」
友達いわく、霊たちは部屋の隅で、小さくなって震えているらしい。
近づこうとすると、さっと逃げていくのだという。
あの強気だった連中が、隅で縮こまっているらしい。
なんだか、急にかわいく思えてきた。
「お前、いったい何をしたんだよ」と、本気で気味悪がられた。
俺は、これまでの武勇伝を、得意げに語って聞かせた。
電球の話、天井の女の話、フライパンの話。
話せば話すほど、友達の顔は引きつっていった。
「お前、それ、笑い話じゃないからな」と、真顔で言われた。
でも、生きて笑っている俺がいる以上、結果オーライだろう。
友達は、最後まで、引きつった笑いを浮かべていた。
どうやら俺は、知らないうちに、霊に勝っていたらしい。
ボイスパーカッションと、忍者トランプと、フライパン投げで。
あの安かった家賃の理由は、たぶん本物だったのだろう。
でも、そこに住んでいた俺のほうが、何枚も上手だったというわけだ。
今でもたまに、あの部屋の連中は元気にしているかな、と思う。
怖がらせて、悪かったな。
思えば、あいつらも、ただ自分の居場所を守りたかっただけなのかもしれない。
そこに、空気を読まない人間が一人、転がり込んできた。
驚いたのは、案外、向こうのほうだったんじゃないか。
こんな変な人間に住み着かれて、災難だったろう。
だから、もし今も近くにいるなら、ひとこと言いたい。
もし生まれ変わったら、今度は一緒にセッションでもしよう。
あの部屋は、今も同じ家賃で募集が出ている。
もし、肝の据わった人がいたら、住んでみるといい。
ただし、ボイスパーカッションの心得は、あったほうがいいかもしれない。