家賃三万五千円の二階
俺が住んでいた部屋で起きた、ちょっと変な話を聞いてくれないか。
あれは三年前、社会人になって、はじめての一人暮らしを始めた頃のことだ。
場所は、松山の道後から少し外れた、細い商店街の裏だった。
元は銭湯だった建物の、二階部分を住居に改装した物件だ。
一階は営業をやめてから十年以上、そのまま閉めてあるという話だった。
駅まで歩いて七分、商店街まで一分という好立地。
それなのに、家賃はたったの三万五千円だった。
いくらなんでも安すぎる、と俺も思った。
同じ広さの隣の物件は、軽く七万円はしていた。
その半額というのは、どう考えても異常だった。
でも、便利だし、金もなかったから、とりあえず住むことにした。
今思えば、安いのには、ちゃんと理由があったわけだ。
内見のとき、不動産屋がやけに言葉を濁していたのを覚えている。
「前の住人さんは、急に引っ越されまして」と、目を合わせずに言っていた。
そのときは、まあよくある話だろう、と気にも留めなかった。
鍵を受け取ったとき、不動産屋がぼそっと「何かあれば、すぐご連絡を」と言った。
その「何か」が、まさかこんな意味だったとは思わなかった。
引っ越しの初日、隣の乾物屋のおばさんに挨拶した。
おばさんは、俺が二階に入ると聞くと、一瞬、表情を固くした。
「あら……あそこに。お若いのに」と、なぜか同情された。
そのときも、俺はピンとこなかった。
今思えば、まわりはみんな、知っていたんだろうな。
※
電球だけが切れる場所
入居して三日目の夜、最初の異変が起きた。
風呂場の電球が、いきなりパチンと切れたんだ。
買ってきたばかりの新品だったのに。
仕方ないから、また新しいのに替えた。
そうしたら、つけた瞬間、またすぐに切れた。
光が、ふっと吸い込まれるみたいに消えるんだ。
三つ目の電球まで同じだった。
普通に考えれば、配線の不良を疑うところだ。
でも、つけた瞬間に消えるなんて、配線じゃ説明がつかない。
しかも、消える前に、一瞬だけ、誰かの影が横切った気がした。
妙なのは、切れるのが風呂場だけだったことだ。
台所も、居間も、玄関も、一度も切れない。
あとで間取り図を見て気づいたが、俺の風呂場の真下は、ちょうど旧浴場の湯船の位置だった。
俺はもう、面倒くさくなった。
だから、風呂は電気をつけずに入ることにした。
暗いと逆に落ち着くしな、と自分に言い聞かせた。
今でもあの真っ暗な風呂を思い出すと、自分のずぶとさに呆れる。
普通の人なら、この時点で引っ越しを考えるんだろうな。
※
気の利くルームメイト
その二日後だ。
今度は、部屋の電気が、いきなり全部消えた。
スイッチを押したら、すぐに戻った。
でも、また消える。
普通なら、ここで怖がるところだろう。
でも俺は、こう思った。
「あ、こいつ、わざわざ俺のために点けたり消したりしてくれてるのか」と。
なんて気の利くやつなんだ、と感心すらした。
気になって、一度だけ、不動産屋に電話をしてみたことがある。
前の住人はどうして急に出たのか、と。
担当は少し黙ってから、「音が、と仰っていました」と答えた。
「どんな音ですか」
「それは、聞いておりません」
妙に慌てた声だったので、俺はそれ以上は訊かなかった。
受話器を置いてから、部屋の中がやけに静かなことに気づいた。
次の日、会社で同僚にこの話をした。
そいつは、みるみる顔を青くして、「お祓い行きなよ」と本気で心配してくれた。
でも俺は、なんだか面白くなってきていた。
せっかくのルームメイトだ、もう少し付き合ってやろう、と思ったんだ。
思えば、一人暮らしは寂しいものだ。
誰かがいる気配があるというのは、案外、悪くないのかもしれない。
そんなふうに思えてしまうあたり、俺もたいがいだった。
我ながら、少し神経がおかしかったのかもしれない。
それからも、いろいろあった。
本棚から、いきなり本がばさっと落ちてきた。
普通に考えれば、心霊現象だ。
でも俺は、落ちた場所にわざと物を投げ返して、こう言った。
「お前じゃない。今のは俺がやった」
誰もいない部屋で、一人ドヤ顔をきめてやった。
本が落ちるたびに、俺は「またお前か」と話しかけるようになっていた。
返事はないが、なんとなく、向こうも反応している気がした。
一人暮らしの部屋に、いつのまにか、奇妙な会話が生まれていた。
今書いていても、自分でも意味が分からない。
ただ、不思議と、怖いとは思わなかった。
むしろ、こいつをどうやって驚かせ返してやろうか、と考えていた。
完全に、こっちが攻める側に回っていたんだ。
※
天井の人にトランプを投げた夜
夜中に寝ていると、天井に女の人が張り付いていたこともある。
長い髪を垂らして、じっとこっちを見下ろしていた。
普通なら、絶叫して逃げ出す場面だろう。
でも俺は、枕元にあったトランプを一枚、天井に投げつけた。
「そこかっ」と、忍者みたいに叫びながら。
女の人は、ふっと消えた。
たぶん、ドン引きされたんだと思う。
次の日も、その次の日も、女の人は出てこなかった。
よっぽど、トランプがこたえたんだろうか。
俺は少し、申し訳ない気持ちになった。
幽霊というのは、人を怖がらせて、その恐怖を糧にするらしい。
だとしたら、まったく怖がらない俺は、さぞ手強い相手だっただろう。
向こうからすれば、とんでもないハズレ物件だったに違いない。
※
三つで一組の音
いちばん困ったのは、壁の音だった。
壁や天井から、コンコン、と音が鳴り続ける。
うるさくて、まったく眠れない。
ひとつ、妙なことがあった。
壁を叩く音は、決まって三つで一組だった。
コン、コン、コン。
そして、しばらく間が空いて、また三つ。
四つでも二つでもなく、いつも三つ。
しかも、始まる時刻がほとんど同じだった。
夜の十時四十分ごろ。
俺は最初、舌打ちで対抗した。
でも、向こうも負けじと鳴らしてくる。
そのうち、だんだん腹が立たなくなってきた。
気づけば、俺は舌打ちでリズムを取り始めていた。
三つのあとの空白に、自分の音を入れていくのが、妙に気持ちよかった。
できもしないボイスパーカッションを、そこへ重ねた。
一人で、夜中に、本気で。
元が銭湯の建物だからか、音がやたらとよく響いた。
タイルの一階がまるまる空洞で、こちらの音が下へ落ちて、返ってくるのだ。
壁を一枚はさんだ向こうに、乾物屋のおばさんがいたはずだ。
今思えば、壁の音より、俺のボイパのほうが迷惑だったかもしれない。
でも、当時の俺は、完全に乗っていた。
ひとしきりやって満足したので、俺はそのまま寝た。
翌朝、音は、いつのまにかやんでいた。
向こうも、付き合いきれないと思ったのかもしれない。
こうして俺は、また一勝をあげた気でいた。
勝ち負けで数える話じゃないのは、自分でも分かっている。
でも、当時の俺は、本気で勝敗のスコアを心の中でつけていた。
電球三勝、壁の音一勝、天井の人に一勝、といった具合に。
※
フライパンを窓の外へ
極めつけは、台所だ。
何も置いていないはずの棚から、フライパンが落ちてきた。
がしゃん、と派手な音を立てて。
俺は床に落ちたフライパンを拾い上げて、こう思った。
「三秒ルールだから、まだ使えるな」
そして、なぜかそのフライパンを、窓の外へ放り投げた。
「お前も、たまには外の空気を吸え」と言いながら。
我ながら、何を言っているのか分からなかった。
今考えると、フライパンがもったいなかった。
後でこっそり、下まで拾いに行ったのは内緒だ。
幸い、誰にも当たっていなかった。
ただ、拾いに下りたとき、少しだけ妙な気分になった。
閉め切った一階の硝子戸の内側に、下足箱がそのまま並んでいたのだ。
木の札が、いくつも刺さったままだった。
硝子戸に顔を近づけて、中をのぞいてみた。
下足箱は二十四枚あって、札は十一枚だけ残っていた。
残りの十三枚は、抜かれたままだ。
抜いた人は帰った、ということになる。
数えてから、なんとなく気まずくなった。
誰も帰っていないみたいだな、と思って、俺はすぐに二階へ上がった。
※
いい加減にしろと怒鳴った夜
そんな日々が続いた、ある夜のことだ。
俺は、はじめて悪い夢を見た。
長い髪の毛で、首を巻かれる夢だった。
息ができない。
体も動かない。
これは、さすがにまずい。
視界が、だんだん暗くなっていく。
ああ、これはよくないな、と一瞬よぎった。
でも、次の瞬間、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
さんざん遊んでやったのに、最後は本気で来るのか、と。
そう思った瞬間、俺は夢の中で、ブチ切れた。
「いい加減にしろ」と、腹の底から怒鳴った。
夢の中なのに、声は驚くほどはっきり出た。
首を巻いていた髪の毛が、びくりと震えるのが分かった。
そして、するすると、ほどけていった。
夢の中で、俺ははっきりと感じた。
相手が、俺の言葉に、たじろいでいるのを。
立場が、完全に逆転した瞬間だった。
そこで、目が覚めた。
全身、汗びっしょりだった。
枕元の時計は、十一時を少し回っていた。
でも、部屋の空気が、なんだか変わっていた。
あれほど感じていた、嫌な気配が、きれいに消えていたんだ。
その日を境に、ぱたりと、何も起こらなくなった。
電球も切れない。
本も落ちない。
壁の音もしない。
あれから三年が経つが、もう一度も、何も出ていない。
夜中の物音も、視線も、何もかもが嘘のように消えた。
今では、ただの静かな部屋だ。
少しだけ、寂しい気もする。
あれだけ毎晩にぎやかだったのが、急に静かになったのだから。
なんだか、長く一緒にいた相棒に、出ていかれた気分だった。
※
乾物屋のおばさんの話
その年の夏、俺は乾物屋のおばさんと、店先で長話をした。
下の銭湯の話になったのは、俺が何気なく訊ねたからだ。
「あそこ、いつまでやってたんですか」と。
おばさんは、干し椎茸を袋に詰めながら、懐かしそうに笑った。
「ばあさんが番台に座っとってね。よう怒られた」
「うちの子らも、あそこで泳ぎ方を覚えたようなもんよ」
それから、こんなことを言った。
「終いはね、拍子木じゃった」
俺は、袋を受け取る手を止めた。
「拍子木、ですか」
「三つ、打つんよ。カン、カン、カン、って」
「そしたら、みんな、はいはい、言うて上がるんじゃ」
おばさんは、両手を軽く打ち合わせて、その調子を再現してみせた。
三つだった。
間の取り方まで、あの壁の音と同じだった。
「何時ごろでした」と俺は訊いた。
「十時半すぎかねえ。十一時には、もう硝子戸を閉めよったよ」
ついでに、こんなことも言っていた。
「ばあさんはね、最後の一人が上がるまで、番台を降りん人じゃった」
「気の長い人でねえ。何時までも、待っとった」
俺は、干し椎茸の袋を持ったまま、しばらく動けなかった。
三つ打つのは、この銭湯で、そろそろ上がってくれという合図だった。
※
怖がっていたのではなかった
家に帰って、俺はしばらく畳に座っていた。
あの音は、俺を脅かしていたのではなかった。
湯を落とすから、そろそろ上がってくれと、言っていたのだ。
電球が風呂場だけ切れたのも、たぶん同じことだ。
湯を落とすときは、まず明かりを落とす。
順番が、そういう順番なのだ。
そして、俺が怒鳴った夜。
時計は、十一時を回っていた。
硝子戸を閉める時刻を、とっくに過ぎていた。
俺は、あの晩、はじめて「もう終いだ」と言ったことになる。
言われるまで、あいつらは動かなかったのだ。
あいつらは、怖がっていたのではなく、上がる合図を待っていたのだ。
俺が勝ったのではない。
俺が、番台に座ってしまっただけだった。
※
隅で縮こまっているもの
後日、霊感の強い友達が、俺の部屋に遊びに来た。
部屋に入るなり、そいつは妙な顔をして立ち止まった。
そして、おそるおそる、俺にこう聞いてきた。
「……お前、なんかした」
「は。何が」と俺は答えた。
友達は、部屋の隅を指さして、声をひそめた。
「いや、あそこに何人か、いるんだけど」
「みんな、お前のことを、めちゃくちゃ気にしてる」
友達いわく、その連中は部屋の隅で、小さくなって並んでいるらしい。
近づこうとすると、さっと下がるのだという。
俺は、その隅の位置を、あとで間取り図と照らし合わせた。
ちょうど、一階の待合の長椅子があったあたりだった。
上がったあとに、みんなが腰かけて涼んでいた場所だ。
「お前、いったい何をしたんだよ」と、本気で気味悪がられた。
俺は、これまでの武勇伝を、得意げに語って聞かせた。
電球の話、天井の人の話、フライパンの話。
話せば話すほど、友達の顔は引きつっていった。
「お前、それ、笑い話じゃないからな」と、真顔で言われた。
でも、笑っている俺がいる以上、結果はこれでいいのだと思う。
気配というものが、必ずしも悪いものではないという話は、嫁姑を読んだときにも、ふと思い出した。
※
今も、三つだけ叩く
あの安かった家賃の理由は、たぶん本物だったのだろう。
でも、そこに住んでいた俺は、たまたま何も怖がらない人間だった。
だから、あいつらの合図を、ただの嫌がらせだと思い込めた。
思えば、あいつらも、ただ順番どおりにやっていただけなのかもしれない。
そこに、決まりを何も知らない人間が一人、転がり込んできた。
驚いたのは、案外、向こうのほうだったんじゃないか。
こんな変な人間に住み着かれて、災難だったろう。
俺は今でも、寝る前に、壁を三つだけ叩く。
コン、コン、コン。
返事はない。
返ってきたことは、一度もない。
それでも、やめられない。
夜の物音というのは、案外、何かの合図なのかもしれないと、布団から聞こえる声を読んでから、よけいにそう思うようになった。
あの部屋は、今も同じ家賃で募集が出ている。
もし、肝の据わった人がいたら、住んでみるといい。
ただし、十時四十分を過ぎたら、返事だけはしてやってほしい。
「はいはい、いま上がります」と、それだけでいい。