
昭和四十九年の夏のことを、もう十数年も経った今になって、書き残しておこうと思う。
これは、年寄りが囲炉裏端で語るような怖い話の一つだと、はじめは私も思っていた。
だが、そうではなかった。
当時の私は二十八で、国土調査の外業班に属する測量の技師だった。
仕事は、山あいの集落の土地の境を、一筆ずつ図面に起こしていくことだ。
国の事業で、地番のあいまいな山村を一つずつ回り、杭を打ち、距離を測り、古い台帳と照らし合わせていく。
地味な仕事だった。
だが私は、人の住まなくなりかけた土地に分け入って、忘れられた境界線を引き直す、その静けさが嫌いではなかった。
山の土は、台帳の数字よりも正直だった。
杭を打てば、その場所の歴史が、足の裏から伝わってくるような気がした。
その年の夏、私たちの班は北陸の奥の、楢尾という小さな集落に入った。
県道の終点からさらに一時間、沢沿いの細い道を登った先にある、十数戸ばかりの村だった。
バスは県道の終点までしか通っていない。
そこから先は、機材を背負って、自分の足で登るほかなかった。
沢の音が、登るにつれて、だんだんと深くなっていった。
班は三人だった。
班長の黒田さんは四十がらみの無口な人で、機械の扱いにかけては、誰よりも確かだった。
測量の機械を覗くときの彼の背中は、いつも微動だにしなかった。
助手の三宅は二十一の若さで、口数が多く、何にでもすぐ首を突っ込みたがる男だった。
悪い男ではなかった。
ただ、知らないことを、知らないままにしておけない性質だった。
今思えば、それは私も同じだった。
私たちは村の外れの、空き家になっていた古い農家を借りて寝泊まりした。
梁の黒く煤けた、囲炉裏のある家だった。
土間は広く、夜は驚くほど冷えた。
夏だというのに、明け方には薄い布団が湿って、肌に貼りついた。
村は、思っていたよりも、ずっと静かだった。
昼間でも、人の姿をほとんど見かけない。
畑にいる老人に挨拶をしても、こちらを一度見て、軽く頭を下げるだけで、すぐに背を向けてしまう。
よそ者を警戒しているというより、何か別のものに気を取られているような、そんな素っ気なさだった。
村の上には、いつも薄い霧がかかっていた。
晴れた日でも、山の中腹から上は、白くぼやけて見えなかった。
その白さの奥に、何かがあるのだろうと、私は漠然と思っていた。
村には、神社が一つあった。
だが、その鳥居は、山とは反対の、谷のほうを向いて立っていた。
ふつう、神社は、山を背にして建てるものだと、私は思っていた。
楢尾の神社は、まるで、山に背を向けるように、建てられていた。
参道の石段は、苔むして、もう長いあいだ、人が登った様子が、なかった。
私が石段の写真を撮ろうとすると、通りかかった老婆が、無言で、私の腕を押さえた。
そして、首を、ゆっくりと、横に振った。
撮るな、ということらしかった。
私が、カメラを下ろすと、老婆は、それきり、何も言わず、去っていった。
初日の夕方、私は妙なことに気づいた。
日が傾きはじめると、村の家々が、いっせいに雨戸を閉てるのだ。
まだ西の空が赤いうちから、どの家も、山に面した側の戸を、先に閉めていく。
沢の水音のほかに音のない村で、その戸の鳴る音だけが、あちこちで重なって聞こえた。
からり、からり、と、乾いた木の音が、谷にこだました。
その音が止むと、村は、まるで一枚の絵のように、しんと静まりかえった。
その静けさは、ただの静けさでは、なかった。
何かが、息を潜めて、こちらの様子をうかがっているような、そんな静けさだった。
私は、測量の仕事で、これまで、いくつもの山村を見てきた。
だが、こんな静けさの村は、はじめてだった。
「ずいぶん早く閉めるんですね」
借家の様子を見にきてくれた村の世話役の老人に、私は何の気なしに尋ねた。
佐じい、と村の者から呼ばれている、痩せた老人だった。
年の頃は七十を越えていただろうか。
背は曲がっていたが、目だけは妙に光っていた。
佐じいは、私の顔ではなく、私の肩の向こうの、山のほうを見て、こう言った。
「日が落ちたら、山のほうの戸は、開けんことだ」
「水の音のするほうへは、目を向けんようにな」
私は、その言葉の意味を尋ねようとした。
だが佐じいは、それだけ言うと、もう背を向けて、暮れかけた道を帰っていった。
その晩、三宅は囲炉裏端で笑っていた。
「迷信ですよ、ああいう村のやつは」
「どうせ、昔なんかあった土地なんでしょう」
黒田さんは何も言わず、台帳の数字を、鉛筆の先で静かに追っていた。
私は、開けるなと言われた山側の戸の、その向こうから聞こえる沢の音を、なぜか少しのあいだ、黙って聞いていた。
水の音は、絶え間なく続いていた。
だが、その晩はなぜか、その音が、人の声のように聞こえてならなかった。
私は、布団に入っても、なかなか、寝つけなかった。
水の音は、夜が更けるほどに、はっきりと、人の声へと、近づいていくようだった。
それでも、私は、山側の戸を、開けなかった。
開けてはいけない、と、体のどこかが、告げていたからだ。
※
測量の仕事は、村の地形を頭に入れることから始まる。
私たちは数日かけて、楢尾の山と谷を歩き、図面と実際の地形を突き合わせていった。
歩くほどに、小さな引っかかりが、一つ、また一つと増えていった。
一つ目は、村の家の数が、合わないことだった。
台帳では、十四戸。
だが私が実際に歩いて数えると、どうしても、十三戸しか見つからない。
一戸だけ、地番はあるのに、その場所に家がないのだ。
草に埋もれた礎石だけが、ぽつんと、そこにあった。
黒田さんに言うと、彼は短く「廃屋だろう」と答えた。
だが、台帳には、その家の名義人の名が、消されもせず、はっきりと残っていた。
墨で書かれた、古い名だった。
廃屋なら、なぜ名を消さないのか。
私はそれを尋ねたが、黒田さんは、もう何も答えなかった。
あとで知ったことだが、その消えない名は、一つでは、なかった。
台帳の隅に、朱の墨で、いくつもの名が、小さく、書き添えてあった。
どれも、もう村には、いない者の名だと、佐じいは言った。
「みな、向こうへ、渡った者だ」
「名を、書いておかんと、こちら側が、忘れてしまうでな」
忘れられた者は、どうなるのか。
私は、それを、聞きそびれた。
二つ目は、村のどの家にも、山に向いた窓に、鏡の類が一切ないことだった。
洗面の鏡も、ガラス戸も、山と反対の側にしか置かれていない。
井戸には、どれも厚い木の蓋がされ、その上に、重たい石が載せてあった。
水を汲むときだけ蓋を取り、汲み終えると、すぐにまた閉める。
村の女たちは、それを、当たり前のように、手早くやっていた。
「水鏡を、つくらせないようにしているんですかね」
三宅が、面白がって言った。
「鏡に映るのが、そんなに嫌な村なんですかね」
私は答えなかった。
ただ、井戸の蓋の上の石が、どれも同じ大きさに揃えてあるのが、妙に気にかかった。
三つ目は、子どものことだった。
村で一人だけ見かけた、十ばかりの女の子がいた。
いつも、家の陰から、私たちの仕事を、じっと見ていた。
ある日、その子が、井戸端で、私の袖をそっと引いた。
そして、小さな声で、こう言った。
「おじさん、淵をのぞいたら、あかんよ」
私は、しゃがんで、その子に目を合わせた。
「淵って、どこの淵だい」
「山の、いちばん奥の」
「のぞいたら、どうなるんだい」
「名前を、とられるけぇ」
「名前をとられたら、どうなる」
その子は、答えなかった。
ただ、首を、ゆっくりと横に振って、それから、走っていってしまった。
そして、仕事の上でも、おかしなことが、起きはじめた。
山の奥に近づくほど、方位磁石の針が、定まらなくなるのだ。
北を指すはずの針が、ゆっくりと、同じ方向へ、回りつづける。
その方向は、いつも、村の最奥の、水の音のするほうだった。
黒田さんは、磁石が狂うのは、地中の鉄分のせいだと言った。
理屈の上では、そうなのだろう。
だが、私が前の日に打った杭が、翌朝、抜かれていることが、何度かあった。
獣の仕業だろう、と三宅は言った。
だが、抜かれた杭は、いつも、きれいに、もとの穴のそばに、並べて置いてあった。
先のとがった側を、そろえて、四本、五本と。
獣が、そんなことを、するだろうか。
四つ目は、佐じいの口数が、日を追うごとに、減っていったことだ。
初めは世話を焼いてくれた老人が、私たちが山の奥の地形を尋ねるたびに、目をそらすようになった。
村の最奥に、地図にも台帳にも載っていない、深い淵があるらしかった。
鏡淵、と村の者は、それを呼んでいた。
私はある晩、囲炉裏端で、思いきって、佐じいにその淵のことを尋ねた。
火が、ぱちぱちと音を立てていた。
佐じいは、長いあいだ、黙っていた。
それから、火を見つめたまま、低い声で、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「あの淵はな、向こう側と、こっち側の、境になっとる」
「向こう側、というと」
「人が、最後に渡る側だ」
私は、黙って、続きを待った。
「昔から、向こうへ渡らにゃならん者が出ると、村ではな、あの淵に頼んだ」
「淵の水に、その者の名を、唱える」
「すると、しばらくして、その者は、静かに眠りにつく」
「苦しまずに、な」
「それは、誰が唱えるんですか」
私の問いに、佐じいは、火から目を上げなかった。
「淵のほとりで、夜ごと、名を呼ぶ者がおる」
「それは、人ですか」
「さあ、な」
「わしも、見たことはない」
「見た者は、みな、もう、おらんからな」
「その、名を呼ぶ者は」
私は、声を、落として、尋ねた。
「もとは、村の、人だったんですか」
佐じいは、はじめて、私の顔を、まっすぐに見た。
「昔な、向こうへ渡るはずだった者が、一人、おった」
「だが、その者は、渡りそこねて、こちら側に、残ってしもうた」
「以来、あの淵で、夜ごと、名を、呼んでおる」
「自分の代わりに、向こうへ渡る者を、探して、な」
「だから、よそ者は、近づけてはならんのだ」
佐じいは、そこで、口を、つぐんだ。
そのひと言で、囲炉裏のまわりの空気が、すっと冷えた気がした。
三宅は、いつのまにか、笑うのをやめていた。
佐じいは、それから、念を押すように、こう言った。
「のぞいた者は、水に、顔を映される」
「映されたら、名を、覚えられる」
「覚えられたら、いつか、必ず、呼ばれる」
「五年か、十年か、それとも、もっと先か」
「呼ばれる順は、こっちでは決められん」
「向こうが、決める」
火が一つ、ぱちりと、大きく爆ぜた。
黒田さんだけが、相変わらず台帳を見ていた。
だが、その鉛筆は、さっきから一度も、動いていなかった。
これは、ただの田舎の怖い話ではない。
そのとき私は、なぜか、はっきりと、そう感じていた。
※
私たちは、行ってはいけなかった。
今なら、そう言える。
だが二十代の私たちには、佐じいの話は、恐ろしさよりも先に、強い好奇心を呼んだ。
地図にない淵。
台帳にない一戸。
消えない名義人の名。
それらが、測量という仕事の理屈の中で、どうしても、つながらなかった。
つながらないものを、私たちは、どうしても確かめたかった。
それが、技師としての性だったのか、ただの若さだったのか、今でも、わからない。
言い出したのは、三宅だった。
「一度だけ、見てくるだけですよ」
「のぞかなければ、いいんでしょう」
黒田さんは、しばらく黙っていた。
それから、低い声で、ただ一言「機械は置いていけ」と言った。
反対は、しなかった。
班長も、本当は、確かめたかったのだ。
その晩、月のない夜を選んで、私たちは三人で、村の最奥へ向かった。
懐中電灯の光を絞り、沢の音だけを頼りに、奥へ、奥へと登った。
道は、途中から、消えていた。
それでも、水の音が、私たちを導くように、だんだんと、大きくなっていった。
草を分け、倒木を越え、ぬかるんだ斜面を、手をついて登った。
途中で、三宅が、ふいに、足を止めた。
「誰か、いますね」
声が、聞こえる、と彼は、小さく言った。
私には、まだ、沢の音しか、聞こえなかった。
だが、黒田さんも、無言で、うなずいた。
やがて、私の耳にも、それは、届きはじめた。
水の音に、まじって、低い、人の声のようなものが、たしかに、聞こえていた。
引き返すなら、今だった。
だが、誰も、引き返そうとは、言わなかった。
やがて、木立が、ふいに切れた。
そこに、黒い水をたたえた、大きな淵が、目の前に開けていた。
風が、ないのに、水面が、かすかに揺れていた。
まるで、下から、誰かが、息をしているように。
そして、淵のほとりに、人が、いた。
白い着物の、女の、うしろ姿だった。
長い髪が、背中に、まっすぐに垂れていた。
女は、水際に、しゃがみこんでいた。
そして、水面に向かって、何かを、低く、つぶやいていた。
その声は、歌のようでもあり、数を、数えているようでもあった。
耳をすますと、それが、人の名を、一つずつ、唱えているのだと、私は気づいた。
聞いたことのない名が、いくつも、いくつも、水の上に、落とされていった。
その一つ一つに、水面が、ぴくり、ぴくりと、応えるように揺れた。
三宅が、私のそばで、息をのむ音がした。
その音は、ほんの、小さなものだった。
だが、風のない谷では、それは、十分に、大きかった。
女の声が、ぴたりと、止んだ。
水面の揺れも、止まった。
谷じゅうの音が、いっせいに、消えた。
そして、女は、ゆっくりと、こちらを、振り向いた。
私は、その顔を、見ていない。
懐中電灯の弱い光は、女の足元の、水面しか、照らしていなかったからだ。
だが、その水面に、三つの顔が、映っていた。
黒田さんの、顔。
三宅の、顔。
そして、私の、顔。
三人とも、淵を、のぞきこんでいた。
のぞくな、と、あれほど言われていたのに。
そして、私は、見た。
水の中の、三つの顔を、女の影が、上から、静かに、撫でたのを。
指で、一つずつ、なぞるように。
次の瞬間、私たちは、どうやってか、もう、村の借家まで、駆け戻っていた。
その間のことを、私は、何も、覚えていない。
気づくと、三人とも、囲炉裏端に座り込み、肩で、息をしていた。
誰も、一言も、話さなかった。
ただ、三宅の額に、夏だというのに、玉のような、冷たい汗が、浮いていた。
それを、私は、今でも、はっきりと、覚えている。
※
私たちは、予定を切り上げて、村を出た。
残りの測量は、別の班に、引き継がせた。
理由は、誰にも、話さなかった。
話せるような理由では、なかった。
村を出る朝、佐じいは、何も言わなかった。
ただ、私たち三人の顔を、一人ずつ、長いあいだ、見ていた。
まるで、覚えておこうとするように。
あるいは、もう、覚えられてしまった、と知っているように。
その目を、私は、今も忘れられない。
村を出てから、私は、しばらく、そのことを、忘れようとした。
仕事は忙しく、季節は、いくつも、過ぎていった。
忘れたふりは、できた。
だが、雨の夜、水たまりのそばを通るたびに、私は、足を、速めた。
水面に、自分の顔が、映るのが、怖かったのだ。
それから、五年が、過ぎた。
はじめに呼ばれたのは、三宅だった。
彼は所帯を持ち、子も生まれ、穏やかに暮らしていた、はずだった。
年賀状には、いつも、子どもの写真が、刷ってあった。
ある秋の朝、三宅は、布団の中で、眠ったまま、冷たくなっていた。
医者は、心臓のことだと、言った。
二十六の、どこも悪くない男が、である。
葬儀の帰り道、私と黒田さんは、どちらからともなく、あの淵の話をした。
五年か、十年か、それとも、もっと先か。
佐じいの言葉が、二人の頭の中で、同じように、鳴っていた。
三宅の通夜の晩、私は、彼の枕元の、小さな鏡台に、布が、かかっているのに気づいた。
奥さんに、誰がかけたのかと尋ねると、不思議そうな顔を、された。
「主人が、自分で、かけるようになったんです」
「亡くなる、少し前から」
「鏡を見るのが、怖い、と言って」
三宅も、覚えていたのだ。
あの夜のことを。
そして、自分の番が、近づいていることを。
「順は、向こうが決める、と言っていましたね」
私が言うと、黒田さんは、ただ、うなずいた。
「次が、私か、お前か」
そう言って、彼は、力なく、笑った。
私は、何も、言い返せなかった。
黒田さんが呼ばれたのは、それから、さらに、数年あとだ。
彼は退職して、海辺の町に、移り住んでいた。
山から、できるだけ遠い場所を、選んだのだと、後で聞いた。
だが、海もまた、水だった。
ある朝、いつものように散歩に出たまま、黒田さんは、戻らぬ人となった。
波打ち際に、彼の靴だけが、きちんと揃えて、残されていたという。
村を出る朝、佐じいが、私たちの顔を、一人ずつ見ていたのを、思い出した。
あれは、見送りでは、なかったのだ。
順を、確かめていたのだ。
黒田さんの葬儀には、私は、行かなかった。
行けば、次は自分だと、認めることに、なる気がしたのだ。
今思えば、それは、ただの、子どもじみた、おそれだった。
順番は、私が認めようと、認めまいと、すでに、決まっていたのだから。
こうして、あの夜、淵をのぞいた三人のうち、残っているのは、私だけに、なった。
私は今、山から遠く離れた、町で暮らしている。
鏡のある暮らしを、できるだけ、避けている。
洗面所の鏡には、いつも、白い布を、かけてある。
日が落ちると、私はまず、家中の、水のあるものに、蓋をする。
洗面器も、風呂も、台所の桶も。
水鏡を、つくるな。
あの村の者が、そうしていたように。
それでも、ときどき、夜中に、目が覚める。
枕元に置いた、コップの水が、わずかに、揺れていることがある。
風のない、締め切った部屋で。
下から、誰かが、息をしているように。
私は、もう、五十を、過ぎた。
三宅も、黒田さんも、若いままで、向こうへ渡っていった。
一人だけ、年を取っていくのは、奇妙なものだ。
私だけが、あの夜から、少しずつ、こちら側に、取り残されていく。
淵で名を呼びつづける、渡りそこねた者の気持ちが、近頃、わかるような気がする。
そういう夜は、私は、決して、水面を、のぞかない。
のぞけば、そこに、三つではなく、一つだけに、なった顔が、映るのを、知っているからだ。
そして、その一つの顔の、すぐ、うしろを。
あの夜、ついに見なかった、女の顔が、今度こそ、のぞきこんでいるのを。
私の名は、もう、唱えられているのだろう。
五年か、十年か、それとも、もっと先か。
順を決めるのは、私では、ない。
いつ呼ばれても、いいように、私は、近頃、身のまわりを、少しずつ整えている。
だから私は、今のうちに、これを、書いておくことにした。
これは、ただの怖い話では、ない。
覚え書きであり、そして、後から来る者への、警告だ。
あの淵を、のぞいてはいけない。
水に、顔を、映されてはいけない。
名を、覚えられては、いけない。
覚えられたら、いつか、必ず、呼ばれる。
水の音のするほうへは、目を向けないことだ。