裏山の御神木に釘を打つ女

月夜の森と古木

昭和四十年代の初めの話だ。

私はまだ二十歳で、北陸の山奥にあるダムの工事現場で働いていた。

飯場という、人夫が寝起きする小屋に住み込んでいた。

親の畑を継ぐのが嫌で、半ば家を飛び出すようにして来た口だった。

仕事は谷を掘り、土砂を運び、コンクリートを練る。

単純で、きつくて、それでも日銭が入るのがありがたかった。

朝は六時から、日が暮れるまで、谷の底で土を掘った。

夏場は、谷底にいても、汗が滝のように流れた。

半月に一度の給金日だけが、私たちのささやかな楽しみだった。

その日は麓の町まで下り、安酒を飲み、甘いものを腹いっぱい食べた。

飯場には十数人の男がいた。

その中で私が親しくしていたのは二人だ。

一人は源造さんという、四十がらみの古株の人夫。

もう一人は時夫といって、私と同い年の、口の軽い男だった。

飯場には、いつの頃からか居ついた野良犬が二匹いた。

黒いのをクロ、白いのをシロと、誰が決めるでもなくそう呼んでいた。

飯の余りをやるものだから、二匹はすっかり人に懐いていた。

夕方になると現場の入口まで迎えに来て、尻尾を振った。

私たちはその頭を撫でて、握り飯の欠片を分けてやった。

クロは臆病だが利口で、めったに人前で吠えなかった。

シロは反対に人懐こく、誰彼かまわず腹を見せて転がった。

夜になると、二匹は飯場の土間で、私の足にくっついて丸くなった。

飯場の暮らしは退屈で、辛いことも多かった。

それでも、その二匹がそばにいるだけで、家を出た寂しさが少し紛れた。

私は給金の半分を、こっそり二匹の煮干し代に消していた。

源造さんはそれを見て、「お前はあいつらの親代わりやな」と笑った。

二匹がいつから飯場にいたのかは、誰も知らなかった。

気づけば、当たり前のように土間に寝そべっていた。

私が初めて飯場に来た日、最初に出迎えてくれたのも、その二匹だった。

工事の現場は、谷をひとつ越えた向こうにあった。

飯場の裏手には、人の手の入らない暗い山が迫っていた。

その山に、古い祠と、一本の大きな御神木があるのだと、源造さんに聞いた。

昔この谷には小さな集落があり、御神木はその鎮守だったという。

集落はとうに無くなり、人はみな里へ下りてしまった。

それでも御神木だけは、誰も手を出さずに残されていた。

幹は、大人が三人で抱えても回らぬほど太かった。

その幹に、古い注連縄が幾重にも巻かれているのだという。

枝は谷に向かって大きく張り出し、昼でもその真下だけは薄暗いと聞いた。

沈んだ集落の者たちは、何か困りごとがあると、その木に願をかけたらしい。

願をかける者がいれば、人を呪う者もいた、と源造さんは言った。

木の根元には、今も古い祠が一つ、ひっそりと残っているそうだ。

源造さんは、酒が入るとよくその話をした。

「夜の裏山にだけは入るな」

それが、この飯場に古くからいる男たちの、暗黙の決まりだった。

「なしてですか」

私が訊くと、源造さんは盃を置いて、低い声で言った。

「あの御神木に、夜な夜な通う者がおるからよ」

それが何者なのかは、源造さんも口を濁して言わなかった。

ただ、関わるとよくないことが起きる、とだけ繰り返した。

一度だけ、源造さんはこんな話をした。

何年か前、この飯場に、私と同じような若い人夫がいたという。

その男も、決まりを破って、夜の裏山に入ったことがあった。

御神木のあたりで、何かを見たらしい。

何を見たのかは、誰に訊かれても、最後まで言わなかった。

ただ、それから幾日もせぬうちに、男は荷物をまとめて飯場を出ていった。

挨拶もなく、夜逃げのように消えたそうだ。

「あれ以来、誰もあの男の行方を知らん」

源造さんは、そう言って、湯呑みの酒を一息にあおった。

その横顔が、いつになく強張っていたのを覚えている。

私はその頃、その手の話を半分も信じていなかった。

山の年寄りが、若い者を脅すための作り話だろうと思っていた。

今思えば、その慢心こそが、すべての始まりだった。

七月の、蒸し暑い晩のことだ。

その日は工事が休みで、飯場の男たちは早くから酒を飲んでいた。

私と時夫は、酒よりも夜釣りがしたかった。

裏山の沢に、大きな岩魚がいると聞いていたからだ。

「夜の裏山には入るな」という決まりは、もちろん知っていた。

だが私たちは、沢のほうなら祠とは方角が違う、と勝手に決めた。

懐中電灯と釣り竿を持って、こっそり飯場を抜け出した。

クロとシロが、当たり前のように後をついて来た。

沢までは、暗い杉林を半時ほど登らねばならない。

昼に何度も通った道でも、夜はまるで知らない場所のようだった。

懐中電灯の丸い光の外は、ただ黒く塗りつぶされていた。

沢に着くと、私たちは岩に腰かけて糸を垂れた。

二匹の犬は、水際でしばらくはしゃいでいた。

魚はなかなか食いつかなかった。

それでも、半時ほどして、時夫の竿に大きな岩魚が一匹かかった。

私たちは小さく歓声をあげて、その一匹を魚籠に入れた。

「源造さんの言うてた話、ほんまやと思うか」

私が、竿を握ったまま訊くと、時夫は鼻で笑った。

「年寄りの脅しや。夜の山は危ないっちゅう、ただのそれよ」

「そやろか」

「そやって。鬼でも出るんなら、お目にかかりたいわ」

時夫は強がっていたが、その声は、どこか上ずっていた。

虫の声と、水の音だけが、いつまでも続いた。

小一時間ほどして、私はふと妙なことに気づいた。

あれほど鳴いていた虫の声が、いつの間にか止んでいた。

水の音だけが、やけに大きく耳に残った。

風が、いつの間にか止んでいた。

杉の葉の一枚も、揺れていなかった。

谷全体が、息を潜めているようだった。

クロとシロが、いつの間にか私たちの足元にぴたりと身を寄せていた。

二匹は山の奥のほうを向いて、低く唸っていた。

「どうした」

時夫が小声で言った。

私は懐中電灯を消した。

理由は自分でもわからない。

ただ、消さなければいけない気がした。

闇に目が慣れると、山の斜面の上のほうに、小さな光が見えた。

懐中電灯の明かりのようだった。

それは、ゆっくりと、御神木のある方角へ登っていく。

こんな刻限に、こんな山に、私たちのほかにも人がいる。

その事実が、まず私を驚かせた。

そして次に、幼い好奇心が頭をもたげた。

危険な好奇心だ。

今となっては、悔やむことしかできない。

「なあ、あれ、誰やと思う」

私が囁くと、時夫の目がいたずらっぽく光った。

「つけてみよか」

「やめとこや。源造さんの話もあるし」

「だいじょうぶや。遠くから、ちらっと見るだけや」

言うが早いか、時夫はもう斜面を登り始めていた。

私は一瞬ためらったが、後でへたれと言われるのも嫌だった。

渋々、その後を追った。

クロとシロは、唸ったまま、なかなか動こうとしなかった。

それでも、私たちが行ってしまうと、仕方なさそうに従いてきた。

枯れ枝を踏まぬよう、私たちは身を屈めて登った。

前を行く光との距離は、二、三十間ほどあっただろうか。

相手はこちらに気づく様子もなく、登り続けている。

私の心の臓は、岩を越えるたびに、喉まで上がってきた。

汗が目に流れ込んでも、それを拭うのも忘れていた。

すぐ前で、時夫の背中が、小刻みに上下していた。

二匹の犬は、低く唸りながら、しぶしぶ後ろを従いてくる。

何度も、引き返そうと言いかけて、そのたびに飲み込んだ。

やがて、光が一点で止まった。

そこだけ木がまばらで、月明かりがわずかに差していた。

その薄明かりの中に、御神木の太い影が立っていた。

光の主は、御神木の前に荷を下ろし、何かを始めた。

私たちは、すぐ手前の杉の陰に身を隠した。

そのとき、

「コン」

と、甲高い音が、谷じゅうに響き渡った。

心の臓が止まるかと思った。

「コン、コン」

音は、規則正しく続いた。

一打ちごとに、その響きが、谷の底まで沈んでいった。

何かを、木に打ち込んでいる音だった。

私は息をひそめて、御神木のほうをうかがった。

光の主は、こちらに背を向けてしゃがんでいた。

肩までの、ほつれた髪。

細い背中。

身なりからして、どうやら女のようだった。

若くはない。

女は片手に金槌のようなものを握り、御神木の幹に向かって腕を振っていた。

打ちつけているのは、藁の束と、一枚の紙のようだった。

幹には、すでに幾本もの古釘が打ち込まれていた。

私はそのとき、源造さんの話を思い出した。

夜な夜な、御神木に通う者。

あれは、作り話などではなかったのだ。

女は、低い声で何かを唱えていた。

経のようでもあり、歌のようでもあった。

言葉の意味は、まるで聞き取れなかった。

ただ、その節回しが、背中を冷たくした。

聞いているうちに、頭の芯が、痺れるようだった。

「帰ろう」

私は時夫の袖を引いた。

だが時夫は、興奮した目で首を振った。

「もうちょっとや。顔、見たい」

時夫は、さらに距離を詰めようと、にじり寄った。

私は止めることもできず、ただその後ろにくっついていた。

女との間が、十間ほどに縮まった。

打ちつける音の合間に、女の荒い息づかいまで聞こえた。

そのときだった。

「ワン」

足元で、クロが吠えた。

張り詰めた空気が、その一声で裂けた。

女の動きが、ぴたりと止まった。

次の瞬間、女がこちらを振り向いた。

何が起きたのか、すぐにはわからなかった。

時夫が「うわあ」と叫んで、斜面を駆け下りはじめた。

私もはじかれたように立ち上がり、後を追った。

背後で、女が、聞いたこともない金切り声をあげた。

地を蹴る、速い足音が追ってくる。

その足の速いことといったら、人のものとは思えなかった。

逃げる途中、私は何かに足を取られて転んだ。

仰向けに倒れた私の胸を、上から強い力が踏みつけた。

女だった。

女は私の胸に片足を乗せ、ぐっと体重をかけた。

息ができなかった。

恐ろしさのあまり、痛みすら感じなかった。

女は、歯を食いしばり、小刻みに震えていた。

月明かりに、その顔がはっきりと浮かんでいた。

歳の頃は四十ばかり。

こけた頬。

見開かれた目。

女は、私の顔だけを、覚えるように見ていた。

私はその目から、目をそらすことができなかった。

そらした途端に、手にした金槌が振り下ろされる気がした。

そのとき、黒い影が、女の背に飛びかかった。

クロだった。

女がよろめいた。

続けてシロも、女の足にまとわりついた。

二匹は、人を恐れることを知らなかった。

いつも私たちと遊んでいたから、相手が誰であろうと、ただじゃれつくように飛びついた。

女の足が、私の胸から外れた。

私はその隙に、転がるように起き上がった。

「こっちや、はよ」

離れた木立の陰から、時夫が懸命に手を振っていた。

私はそちらへ向かって、無我夢中で走った。

背後で、鈍い音がした。

一度。

そして、もう一度。

私は振り返る勇気が、どうしても持てなかった。

ただ、足を動かし続けた。

山を抜けたとき、空は白みかけていた。

私と時夫は、ひと言も交わさず、飯場の手前まで走り通した。

飯場の灯りが見えたとき、私はその場にへたり込んだ。

全身が、汗と泥にまみれていた。

クロとシロは、戻ってこなかった。

私たちは、二匹を置き去りにして逃げたのだ。

夜が明けても、二匹は飯場に帰ってこなかった。

時夫は、布団をかぶったまま、ひと言も口をきかなかった。

私は、あの女の顔が、目を閉じるたびに浮かんで眠れなかった。

昼近くになって、私たちは意を決して、もう一度裏山に登った。

今度は、現場で使う鳶口を一本ずつ握っていた。

昼の山は、嘘のように明るかった。

蝉が、降るように鳴いていた。

だが、御神木に近づくにつれ、足が重くなった。

鳶口の柄を握る手が、汗で滑った。

蝉の声が、かえって耳に痛いほどだった。

あの薄明かりの場所が、見えてきた。

御神木の幹には、夜のうちに打たれた藁束と、紙が残っていた。

近づいて、その紙を見て、私は言葉を失った。

それは、一枚の古い写真だった。

四つか五つの、幼い女の子が写っていた。

色のあせた、ずいぶん古い写真だった。

その顔の真ん中に、太い古釘が一本、深々と打ち込まれていた。

だが、私を凍りつかせたのは、それではなかった。

御神木の根元に、クロが横たわっていた。

もう、動かなかった。

額に、古釘が一本、刺さっていた。

私は、生き物が冷たくなるということの意味を、そのとき初めて知った。

時夫は、声を立てぬように、肩を震わせて泣いていた。

「シロは……シロはおらん。逃げたんかもしれん」

時夫がそう言って、私の袖を引いた。

私たちは、わらにもすがる思いで、沢のそばの炭焼き小屋へ向かった。

昔、炭を焼くのに使われていた、半ば崩れた石組みの小屋だ。

二匹は、よくそこをねぐらにしていた。

小屋が見えてきたとき、時夫が立ち止まった。

「……なんや、あれ」

小屋の入口の戸板に、何かが打ちつけられていた。

近づいて見ると、それは時夫の手拭いだった。

昨夜、逃げる途中に落としたものに違いなかった。

その手拭いが、何本もの古釘で、戸板に磔にされていた。

飯場の手拭いには、めいめいが墨で名を書く決まりだった。

手拭いには、確かに、時夫の名が記してあった。

私たちは、その意味を悟って、声も出なかった。

あの女に、時夫の名を知られてしまったのだ。

時夫は震える手で戸を開けた。

小屋の隅に、シロが横たわっていた。

クロと、同じだった。

私は、それ以上、見ていられなかった。

胸の奥から、酸っぱいものがこみ上げてきた。

目をそらした先の、小屋の壁が、目に入った。

板壁の一面に、無数の傷が刻まれていた。

刃物か、釘の先で彫ったものらしかった。

私は、その文字を読んで、その場に膝をついた。

『トキヲ呪トキヲ祟トキヲ呪トキヲ祟』

時夫の名と、おぞましい二文字が、壁いっぱいに彫り込まれていた。

数えきれぬほど、繰り返し、繰り返し。

その傷は、新しいものも、ひどく古いものもあった。

女が、幾度もこの小屋へ通っていたことの、証だった。

時夫は、自分の名を指して、ただ口をぱくぱくさせていた。

「なんで……なんで俺の名前……」

私には、答えようがなかった。

わかっていたのは、ただ一つ。

私たちは、関わってはならないものに、関わってしまったということだ。

「警察に言おう」

時夫が、かすれた声で言った。

だが私は、それをとどめた。

夜の裏山に入ったことが知れれば、飯場を追い出される。

親にも知らされる。

その頃の私は、女の祟りよりも、そちらのほうが恐ろしかった。

今思えば、なんと愚かなことを言ったものか。

私たちは結局、誰にも何も言わずに、山を下りた。

二匹の亡骸を、小屋のそばに埋めた。

小さな手で、ただ土を盛った。

墓標の代わりに、沢で拾った平たい石を、二つ並べて置いた。

手を合わせながら、私はずっと、二匹に詫び続けていた。

私たちが好奇心に負けなければ、二匹は今も飯場で眠っていたはずだ。

クロもシロも、私たちを守って、戻らぬものになった。

そのことが、長い歳月が過ぎた今も、胸の奥に刺さったままだ。

その日から、私と時夫は、その話を一度も口にしなかった。

夏が終わり、工事は山場を迎えた。

あの夜のことは、忙しさの中で、少しずつ遠のいていった。

だが、九月の半ばを過ぎた頃から、現場に妙な噂が立ち始めた。

夕暮れの作業道に、白っぽい着物の女が立っているという。

女は、通りかかる人夫の一人ひとりの顔を、覗き込むように見るのだという。

誰かと探しているような目つきだった、と言う者もいた。

白い顔で、口の中で何かを唱えていた、と言う者もいた。

人夫たちは、夕暮れにその作業道を通るのを、嫌がるようになった。

その噂を聞いたとき、私の背中を、冷たいものが伝った。

あの夜、女が私の顔を覚えるように見ていたことを、思い出したからだ。

私は、間近で顔を見られた、ただ一人だった。

時夫は、名を知られた、ただ一人だった。

源造さんに、それとなく女の話を向けてみたことがある。

源造さんは、湯呑みを置く手を止めて、しばらく黙っていた。

「……顔を見られたんか」

低い声で、そう訊き返された。

私が小さく頷くと、源造さんの顔から、すっと血の気が引いた。

私が黙っていると、源造さんはそれ以上、何も言わなかった。

ただ、その晩、私の枕元に、塩の包みを一つ、黙って置いていった。

「お前は、塩を絶やすな」

翌朝、源造さんはそれだけ言った。

私はわけもわからぬまま、その言いつけだけは、頑なに守り続けた。

枕元の塩を、毎晩、新しいものに替えた。

おかげかどうかは知らない。

私の名は、ついぞ呼ばれることはなかった。

だが、間近で顔を見られた恐ろしさだけは、消えてくれなかった。

十月に入って、時夫が体を崩した。

高い熱が続き、夜になると、誰かに名を呼ばれると言ってうなされた。

医者は、ただの疲れだろうと言った。

だが時夫は、日に日に痩せていった。

そのうち、誰もいない方を向いて、何かを呟くようになった。

名を呼ばれる、と時夫は言った。

女の声で、自分の名を、繰り返し呼ばれるのだと。

はじめは笑っていた飯場の男たちも、やがて時夫に近づかなくなった。

夜、時夫がうなされる声を聞くたび、私はあの壁の彫り文字を思い出した。

あの女は、時夫の名を覚え、毎晩それを呼んでいるのではないか。

そう思うと、私は朝まで一睡もできなかった。

工事が終わるのを待たず、時夫は故郷へ帰っていった。

飯場を出るとき、時夫は私に小さく頭を下げた。

「あの山のことは、誰にも言うなよ」

それが、時夫と交わした最後の言葉になった。

その後、時夫がどうなったのかを、私は知らない。

風の便りに、故郷でも長く臥せっていたと、一度だけ聞いた。

だが、それきり、消息は途絶えてしまった。

知るのが、恐ろしかったのかもしれない。

ダムが出来上がり、谷は水の底に沈んだ。

あの御神木も、炭焼き小屋も、二匹を埋めた土も、すべて湖の底だ。

もう、誰も近づくことはできない。

あの女が、その後どうなったのかも、私は知らない。

水の底に沈んだのか、今もどこかの山を歩いているのか。

それを考えるだけで、背中に冷たいものが伝う。

それから、長い歳月が流れた。

私も、すっかり老いた。

髪も白くなり、足腰も、すっかり弱った。

あの夜のことは、誰にも話さずに、ここまで来た。

所帯を持ち、子も孫もでき、表向きは穏やかな日々を送っている。

ただ、今でも、夕暮れに人混みを歩いていると、ふと足が止まることがある。

誰かが、私の顔を、じっと見ている気がするのだ。

振り返っても、そこには誰もいない。

それでも、その気配だけは、いつも確かにそこにある。

だが、あの女の、見開かれた目だけは、今もはっきりと思い出せる。

あれは、私の顔を、覚えるための目だった。

そして私は、いまだに、あの女の顔を忘れることができずにいる。

忘れられないということは、向こうも、私を忘れていないということではないか。

そう思うたびに、私は、夕暮れの空から、そっと目を伏せるのだ。

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