夜の窓を覗く名取りの女

霧中の古い村と灯り

昭和五十七年の秋に、私は鵜頭という町へ移った。

市史を編む仕事の、臨時の雇いだった。

古い帳面を写し、年寄りから昔語りを聞き取る。

それだけの、地味な役目だった。

大学を出て二年、勤めた先がうまくいかず、知人の紹介でこの口を得た。

二十四になったばかりで、町には縁者も友人もいなかった。

赴任の朝、私は鈍行を乗り継いで、半日かけて鵜頭へ着いた。

駅は無人で、改札の脇に古い時刻表が一枚、貼られているだけだった。

川沿いの古い借家を一軒、町の世話で安く借りた。

二間きりの、平屋の貸家だった。

鵜頭は、川と山に挟まれた、細長い町だ。

家々は川に背を向けて建ち、裏手はすぐ低い山になっている。

朝はいつも、川から霧が湧いた。

霧は水の匂いを連れて、低く這い、軒先まで上がってきた。

歩くと、髪も帳面も、しっとりと湿った。

昼を過ぎる頃になって、霧はようやく薄れていく。

そういう町だった。

市史の編纂室は、町役場の二階の隅にあった。

そこに、田淵さんという年配の人が一人いた。

四十年、この町の役場に勤めあげた人だった。

私の写した字を、いつも黙って、朱筆で直してくれた。

「この町は、古いことを大事にする」と田淵さんは言った。

「だから、古いものには、迂闊に触らんことだ」とも言った。

私はそれを、年寄りの口癖くらいに思っていた。

仕事は、思っていたよりも、人を訪ねて回ることが多かった。

古い家の縁側に座って、茶をもらいながら、昔のことを聞く。

録音機はうまく働かないので、もっぱら手で書き取った。

私の鞄には、いつも分厚い手帳と、町から借りた写真機が入っていた。

写真機は、この町に一台きりの、貴重なものだった。

田淵さんは、それを渡すとき、「無駄打ちはするな」と言った。

私は、撮る前に、いつも、何を写すかを、帳面に控えた。

丘の祠を撮った日も、私は、几帳面に、それを控えていた。

あとになって、その控えの一行だけが、私の手もとに残った。

借家の裏手には、低い丘があった。

丘の中腹に、小さな祠がひとつあった。

屋根は苔むして、観音開きの扉は固く閉じていた。

祠のまわりには、何本もの古い椨の木が立っていた。

幹には、細い木札がいくつも、麻紐で掛けられていた。

墨で何か書いてあったが、雨に流れて、たいていは読めなかった。

私は仕事として、その祠の由来を調べることになった。

田淵さんに尋ねると、「あれは触らんでいい」と短く言われた。

けれど、市史に祠の項を欠かすわけにはいかなかった。

私は、町の古い家を、一軒ずつ訪ねて回った。

聞き取りのついでに、丘の祠のことを尋ねた。

たいていの年寄りは、その名を出すと、急に口をつぐんだ。

茶をすすり、外の霧を見て、するりと話を変えた。

ある日訪ねた、川下の婆さまだけが、低い声で教えてくれた。

「祠のことを、知りたいのかね」と婆さまは言った。

「市史に、載せたいのです」と私は答えた。

婆さまは、しばらく私の顔を見ていた。

「あれはな、名を書く神さんだ」と、やがて言った。

私には、その意味がわからなかった。

「名を、書くのですか」と聞き返した。

「願う者の名を木札に書いて、祠に納める」のだと婆さまは言う。

「縁を結びたい者の名、達者でいてほしい者の名」と。

「けれど、書いてはならん名も、あるんだよ」と続けた。

「どんな名ですか」と私は尋ねた。

「恨みの名さ」と婆さまは、声をひそめた。

「書けば、その名のところへ、向こうから届いてしまう」と。

私は手帳に、その言葉を、そのまま写し取った。

婆さまは、私の手の動きを、じっと見ていた。

「あんた、名を書く仕事かね」と言って、少しだけ笑った。

その笑いの意味が、そのときの私にはわからなかった。

ただ、なぜか胸の奥に、小さな冷たさが残った。

帰り道、霧がもう、川から町へ上がってきていた。

丘の祠のあたりだけ、霧が濃く凝っているように見えた。

気のせいだ、と私は自分に言い聞かせた。

その晩は、何ごともなく、私は眠れた。

夢も見なかった。

翌週、私は祠を写しに、丘へ登った。

市史の祠の項には、図と写真が要る。

曇った朝で、霧がなかなか晴れなかった。

私は借りた写真機を提げて、湿った斜面を登った。

祠は、思っていたよりも、手入れがされていた。

扉の前の地面が、新しく掃かれていた。

その扉の前に、木札が一枚、置かれていた。

墨が、まだ濡れて光って見えた。

私は屈んで、その木札を覗き込んだ。

木札には、女の子の名が、彫られていた。

鵜頭の在の、ある家の娘の名だと、あとで知れた。

名の下に、見たことのない一字が、彫り添えてあった。

火に似た、けれど火ではない、奇妙な字だった。

私は、仕事のつもりで、その木札を写真に撮った。

祠の中も、扉の隙間から、一枚だけ撮った。

中には、何も見えなかった。

ただ、黴の匂いと、古い線香の匂いがした。

撮り終えて、私は立ち上がった。

そして、振り返った。

丘の下に、人が立っていた。

女だった。

季節はずれの、丈の長い、灰色のコートを着ていた。

こちらをまっすぐに向いて、まったく動かなかった。

距離があって、顔はよく見えなかった。

私は、軽く会釈をした。

女は、会釈を返さなかった。

ただ、立っていた。

霧が、その足もとを、ゆっくりと流れていった。

私は、なんとなく気圧されて、丘を下りた。

下りきった道で、すれ違うはずだった。

けれど、女はもう、そこにいなかった。

霧の中に、灰色のコートの裾だけが、ちらと見えた気がした。

足音は、しなかった。

その日、編纂室に戻って、田淵さんに祠の話をした。

木札に、娘の名が彫られていたことも話した。

田淵さんは、写しかけの朱筆を、ふと止めた。

「その娘の名を、写真に撮ったか」と聞いた。

「撮りました」と私は答えた。

田淵さんは、少しの間、黙っていた。

「現像は、自分でせんでいい」と、低い声で言った。

「町の写真屋へ、わしが出しておく」と。

「どうしてですか」と私は尋ねた。

田淵さんは、それには答えなかった。

ただ、「触らんでいいと言うたろう」と、独り言のように言った。

私は、腑に落ちないまま、フィルムを田淵さんに渡した。

その日から、私は、町の古い帳面を、念入りに調べ始めた。

祠のことが、いくつかの帳面に、断片的に出てきた。

そのうちの一冊、十数年前の項に、ひとつの事故の記録があった。

坂の下の道で、荷を積んだ車が、谷へ落ちたとあった。

乗っていた母子のうち、母だけが、残された。

連れの夫と、幼い子は、その晩、向こうへ渡った。

記録には、車の前へ、子どもが飛び出した、とあった。

飛び出した子は、傷ひとつなく、助かった、とあった。

助かった子の名は、どこにも記されていなかった。

私は、その項を、何度も読み返した。

残された母が、その後どうなったかは、書かれていなかった。

私は、次の聞き取りで、その事故のことを尋ねてみた。

相手は、川上の、もの静かな老人だった。

老人は、湯呑みを置いて、声を落とした。

「あの女のことは、口にせんほうがいい」と言った。

「あの女、というのは」と私は聞いた。

「坂の下で、家の者を喪くした女さ」と老人は言う。

「事故のあと、すっかり、頭をやられてな」と続けた。

「今は、どちらに」と私は尋ねた。

「町の外れの、古い家に、一人でな」と老人は言った。

「あの女は、助かった子の名を、ずっと探しておる」と。

「探し当てては、丘の祠に、その名を書いて納めるんだ」と。

「名を、書く」と私は、婆さまの言葉を思い出した。

「町の者は、あれを、名取りの女と呼んでおる」と老人は言った。

私は、丘で見た、灰色のコートの女を思い出した。

背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がった。

老人は、私の顔を、しばらく見ていた。

「あんた、丘の祠で、何ぞ撮らなんだか」と聞いた。

私は、すぐには答えられなかった。

「写真は、撮らんほうがよかったな」と老人は、それだけ言った。

「どうすれば、いいのですか」と私は、すがるように聞いた。

老人は、ゆっくりと、首を横に振った。

「いちど書かれた名は、もう、戻らんよ」と、低く言った。

私は、その言葉の重さを、まだ、本当にはわかっていなかった。

私は、礼を言って、その家を出た。

外は、もう、夕暮れの霧が下りていた。

その晩から、借家のまわりで、小さなことが続くようになった。

はじめは、井戸の蓋の上に、濡れた木札が一枚あった。

何も彫られていない、まっさらな木札だった。

私は、子どもの悪戯だと、思おうとした。

次の朝は、戸口の沓脱ぎに、泥の足あとが、ひとつだけあった。

片方だけの、女物の下駄の、あとだった。

私は、それも、霧で土がぬかるんだせいだと、思おうとした。

その日の昼、借家の軒下に、黒い鳥が一羽、落ちていた。

鴉だった。

翼を、左右にいっぱいに広げたまま、動かなかった。

まるで、誰かが、わざと、そう並べて置いたように。

傷は、どこにも、見当たらなかった。

私は、箒の先で、それを庭の隅へ寄せた。

夕方には、その鴉は、もう、なくなっていた。

猫が咥えていったのだと、私は、思おうとした。

けれど、軒下の同じ場所に、また、濡れた木札が一枚、置かれていた。

その木札にも、まだ、何も彫られてはいなかった。

次の日の夕方、私は、井戸へ水を汲みに出た。

霧が、もう、川から下りはじめていた。

井戸の向こう、丘へ続く小道の入口に、人影が、立っていた。

灰色の、コートだった。

私が、桶を取り落とすと、影は、すっと、霧に紛れた。

あとには、片方だけの、下駄のあとが、また、残っていた。

私は、水も汲まずに、家へ駆け込んだ。

心の臓が、しばらく、鳴りやまなかった。

その次の晩は、夜更けに、表で物音がした。

耳を澄ますと、丘のほうから、こつ、こつ、と音が聞こえた。

木に、何かを打ちつけるような、固い音だった。

音は、しばらく続いて、やんだ。

私は、夜具をかぶって、朝まで耳をふさいでいた。

翌日、編纂室でそのことを話すと、田淵さんの顔色が変わった。

「今日は、日が落ちる前に、家へ帰れ」と言った。

「戸締りを、念入りにして、灯りを点けすぎるな」とも。

「迷信では、ないのですか」と私は、笑おうとした。

けれど、田淵さんは、笑わなかった。

「名取りの女に、写真機を、見られたかもしれん」と言った。

「あんたの名は、もう、丘で書かれておるかもしれん」と。

私は、その言葉を、迷信だと振り払えなかった。

老人の声と、婆さまの笑いと、灰色のコートが、頭の中で重なった。

その日、私は、まだ明るいうちに、借家へ帰った。

川霧が、もう、軒先まで上がってきていた。

私は、表の戸を立て、鍵を二度、確かめた。

裏口も、縁側の雨戸も、確かめた。

そして、奥の間に、灯りをひとつだけ点けた。

湯を沸かし、茶を淹れ、帳面を写して、夜が更けるのを待った。

九時を、少し過ぎた頃だった。

表の戸の、磨り硝子の向こうに、ふいに、影が立った。

人の形だった。

背の高さほどの、黒い影が、戸の一尺ほど先に、立っていた。

私は、筆を置いた。

「どなたですか」と、声をかけようとして、やめた。

影は、動かなかった。

私も、動けなかった。

灯りを消したほうがいい、と頭では思った。

けれど、手が、動かなかった。

しばらくして、影の片手が、ゆっくりと、上がった。

戸の引手のあたりへ、その手が、伸びていった。

「キシ」と、戸が、小さく軋んだ。

鍵が、かかっている。

それを確かめると、手は、また、静かに下りた。

影は、また、動かなくなった。

それから、影は、戸に、ぴたりと顔を寄せた。

中の音を、聞いている。

私は、息を、止めた。

自分の鼓動が、戸の向こうまで、届きそうな気がした。

二分か、三分か、影は、そこにいた。

私には、それが、ずっと長く感じられた。

やがて、影は、一歩ずつ、後ろへ退がっていった。

影が薄れて、磨り硝子が、もとの、ぼんやりした白さに戻った。

行った、と思った。

けれど、少しも、安心はできなかった。

私は、奥の間の灯りを消し、闇の中で、壁を伝った。

縁側の雨戸を、もう一度、確かめなければと思った。

暗い廊下を、手探りで、奥へ進んだ。

床の冷たさが、足の裏から、這い上がってきた。

縁側の硝子戸は、いつも通り、閉まっていた。

レースの薄いカーテンも、引いてあった。

私は、そのカーテンの、左の端に、気づいた。

硝子の左の端に、こちらを覗く両手と、片方の目があった。

外からは、家の中が、真っ暗に見えるはずだった。

けれど、中から見ると、外の霧が、ぼんやりと明るかった。

だから、硝子に張りついた、その姿が、はっきりと見えた。

灰色のコートの女が、縁側の硝子に、守宮のように張りついていた。

両手を、目のまわりに当てて、家の中を、覗いていた。

私は、腰から、力が抜けた。

声を出すこともできず、その場に、しゃがみ込んだ。

女は、覗いたまま、硝子の真ん中のほうへ、横に、にじり寄ってきた。

そして、右の手で、硝子を、こすり始めた。

「キュ……キュ……」と、嫌な音がした。

細く、硬いもので、硝子を、ゆっくりと引っ掻く音だった。

音は、長く、長く、続いた。

左の手は、まだ、目のまわりに当てたままだった。

中を覗きながら、片手で、硝子を削っている。

何を、しているのか、わからなかった。

わからないことが、何よりも、怖かった。

私は、息の仕方を、忘れていた。

全身が、ひとりでに、小刻みに震えていた。

歯の根が、合わなかった。

硝子の、冷たい湿りが、こちらまで、伝ってくるようだった。

女が削っているのが、爪なのか、釘なのか、それすら、わからなかった。

ただ、その音だけが、暗い家じゅうに、響いていた。

私は、奥歯を噛んで、声が漏れるのを、こらえた。

見つかっては、いけない。

そう、本能が、命じていた。

そのとき、表の道に、白い光が、差した。

自転車の前灯のような、細く、揺れる光だった。

駐在所の巡査が、夜回りに、通りかかったのだ。

光が、近づいてきた。

その光が、塀の上を、なめるように動いた。

女は、硝子をこする手を、ぴたりと止めた。

そして、ふいに、後ろを振り返った。

次の瞬間、ものすごい速さで、霧の中へ、走り去った。

足音は、ほとんど、しなかった。

私は、しゃがんだまま、しばらく、動けなかった。

光が遠ざかり、また、闇と霧だけが、残った。

私は、震える手を伸ばして、縁側の硝子に、触れた。

硝子の真ん中に、深い傷が、幾筋も、ついていた。

鋭い、硬いもので、何度も、削った傷だった。

指でなぞると、その傷は、字のかたちにも、見えた。

何という字かは、わからなかった。

わかりたくも、なかった。

私は、震えながら、雨戸を立てて、奥の間へ逃げ込んだ。

その夜は、灯りも点けず、夜具にもくるまらず、膝を抱えて、朝を待った。

川の音だけが、ずっと、聞こえていた。

朝になって、霧が薄れるのを待って、私は駐在所へ走った。

夜回りの巡査は、まだ、詰所にいた。

私は、ゆうべのことを、つかえながら、話した。

巡査は、私の顔を見て、すぐに、何かを察したように頷いた。

「縁側の硝子を、見せてもらえますか」と言った。

二人で、借家へ戻った。

巡査は、硝子の傷を、しばらく、黙って見ていた。

「これは、釘の先か、何か……」と、低くつぶやいた。

それから、戸口のほうへ、回った。

沓脱ぎの石の、すぐ脇に、木札が一枚、置かれていた。

ゆうべ、戸締りをしたときには、なかったものだった。

巡査が、それを、そっと拾い上げた。

私は、その手もとを、覗き込んだ。

木札には、見覚えのある墨字で、私の名が彫られていた。

名の下に、あの祠で見たのと、同じ一字が、添えてあった。

私は、その場に、座り込みそうになった。

巡査が、とっさに、私の腕を支えてくれた。

「やはり、名を、書かれましたか」と、巡査は言った。

「あの女のことを、ご存じなのですか」と私は聞いた。

「町で、長いこと、手を焼いておるんです」と巡査は、木札を布に包んだ。

そして、低い声で、女のことを、話してくれた。

「十数年前に、坂の下で、あの女は、家の者を、いっぺんに喪いました」と。

「車の前へ飛び出した子を、避けようとして、谷へ落ちたんです」と。

「飛び出した、その子は」と私は聞いた。

「無事でした。傷ひとつ、ありませんでした」と巡査は言う。

「子の家には、申し訳が立たんと、誰も、責めはしませんでした」と。

「けれど、あの女の心は、あの晩のまま、止まってしまった」と。

「それから、ずっと」と私は、先を促した。

「助かった子の名を、探し続けておるんです」と巡査は言った。

「探し当てた名を、丘の祠に、書いて納める」と。

「そして、祠で名を書くところを、見た者まで」と、巡査は言葉を切った。

「見た者まで、どうするのですか」と私は聞いた。

「その者の名も、取って、祠に納めるんです」と巡査は言った。

私は、丘で、写真を撮ったことを、思い出した。

木札の娘の名を、写真機に、納めたことも。

あの霧の中から、女に、ずっと見られていたのだ。

会釈を返さず、ただ立っていた、灰色のコートを思い出した。

私は、その日のうちに、田淵さんの家へ、移らせてもらった。

借家には、もう、戻れなかった。

田淵さんは、私を責めなかった。

「触るな、と言うたのにな」と、ただ、寂しそうに笑っただけだった。

数日して、巡査が、女を取り押さえた、と知らせに来た。

夜更けに、私の借家の戸口に、女が、しゃがんでいたという。

枯草の束を抱え、油の匂いをさせ、燐寸を擦ろうとしていた、と。

巡査の夜回りが、ぎりぎりで、間に合ったのだ。

女は、取り押さえられても、ずっと、何かを叫んでいたそうだ。

「あの子の名を、まだ、書き終えていない」と。

私は、その話を聞いても、少しも、ほっとは、しなかった。

巡査は、言いにくそうに、最後に、こう付け足した。

「あの女は、頭の病で、長くは、留め置けません」と。

「治る病でも、ありません」と。

「またすぐに、町へ、戻ってくるでしょう」と。

私は、その言葉に、安堵ではなく、底の見えない絶望を感じた。

私は、市史の仕事を、ひと月で切り上げ、鵜頭を離れた。

祠の項は、田淵さんが、私の名を伏せたまま、仕上げてくれた。

撮ったはずの写真が、どうなったのかは、聞かなかった。

田淵さんも、最後まで、何も言わなかった。

あれから、長い年月が、過ぎた。

私は、もう、あの頃の年寄りたちよりも、年をとった。

鵜頭の町が、今もあるのかどうかも、私は、知らない。

あの川霧が、今も毎朝、町を浸しているのかも。

それでも、今も、人の名を帳面に書くとき、ふと、手が止まる。

書く前に、私は、窓のほうを、一度だけ、確かめてしまう。

硝子の端に、こちらを覗く片目が、ないことを、確かめてしまう。

鵜頭の祠に、私の名の木札が、今も納められているのか。

それとも、とうに取り出されて、誰かの手に、渡っているのか。

それだけは、どうしても、確かめる気に、なれない。

霧の濃い朝には、今でも、あの硝子を引っ掻く音が、耳の奥で鳴る。

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