巨頭オ

もう十年以上も前のことだ。

私は、文具メーカーの営業をしていた。

東北の取引先を回る途中、ひどい雷雨に降られたことがある。

山あいの細い県道で、視界はほとんどきかなくなった。

そんなとき、道沿いに一軒の小さな民宿を見つけた。

看板も出ていない、古い木造の宿だった。

飛び込みで頼むと、年老いた女将が、こころよく迎えてくれた。

小柄で、背の曲がった、白髪の女将だった。

だが、その目だけは、不思議なほど澄んでいた。

「ほかに、お客さんはいないからね。ゆっくりしていきなさい」

宿には、本当に、私のほかに誰もいなかった。

廊下の奥の部屋は、すべて襖が閉じられ、しんと静まり返っていた。

「こんな日に、よう来なさったねえ」

囲炉裏で乾かしてもらった服の、煙のにおいを今でも覚えている。

出された山菜の料理は、どれも滋味深く、忘れられない味だった。

わらび、ぜんまい、こごみ。

見たこともない、赤い実の和え物もあった。

「これは、お山からの、いただきものだよ」

女将は、そう言って、私の椀に、料理を盛った。

その晩は、雨音を聞きながら、深く眠った。

夢ひとつ見ない、おだやかな眠りだった。

いま思えば、あれが、最後のおだやかな夜だったのかもしれない。

女将は、ぽつりぽつりと、村のことを話してくれた。

村には、もう若い者はいないのだという。

残っているのは、年寄りばかりだと。

「みんな、山を下りていってしまったよ」

「でも、わたしらは、ここを離れられないの」

なぜ、と聞くと、女将は少し黙った。

それから、囲炉裏の火を見つめながら、こう言った。

「この村には、守らなきゃいけない、約束があるからね」

ずいぶん古い村で、よそ者はめったに来ないのだという。

「うちの村はね、昔から、お山にお返しをしてきたの」

「お山は、わたしらに、たくさんのものをくださる」

「だから、いただいたぶんは、ちゃんとお返しする」

「それが、この村の、いちばん大事な決まりごと」

女将は、そう言って、静かに微笑んだ。

火に照らされたその横顔は、どこか、覚悟を決めた人のように見えた。

その言葉の意味を、私は深く考えなかった。

ただ、人の温もりが、心にしみる一夜だった。

翌朝、礼を言って発つとき、女将はこう言った。

「もう、来ないほうがいいよ」

冗談だと思って、私は笑って受け流した。

「また、来ますよ。今度は、晴れた日に」

私がそう言うと、女将は、ゆっくりと首を横に振った。

「いいんだよ。一度、ご縁があれば、それで十分」

その言葉の重さに、私は気づかなかった。

その笑顔が、どこか淋しげだったことに、当時は気づかなかった。

それから十年あまりが過ぎた。

ある秋の連休、私はふと、あの村を思い出した。

なぜか、急に、無性に行きたくなったのだ。

あの女将は、まだ達者だろうか。

あの山菜を、もう一度食べたい。

妻には、日帰りで山にドライブに行く、とだけ告げた。

あの民宿のことは、なぜか、話す気になれなかった。

自分でも、不思議なほど、その村に心を引かれていた。

まるで、何かに、呼ばれているかのように。

私は記憶を頼りに、一人で車を走らせた。

道には、それなりに自信があった。

だが、山に分け入るにつれ、様子がおかしくなってきた。

対向車が、一台も来ないのだ。

連休だというのに、人の気配がまるでない。

カーナビは、いつの間にか、現在地を見失っていた。

画面には、道のない、まっさらな緑だけが表示されていた。

携帯電話も、圏外のままだった。

ラジオも、いつの間にか、砂嵐の音に変わっていた。

その砂嵐に混じって、ときおり、何かの呻きのような音が聞こえた。

低く、長く、尾を引くような呻きだった。

ラジオのつまみを回しても、その音だけは、消えなかった。

どの周波数に合わせても、ついてくる。

私は、ラジオの電源を、切った。

それでも、その呻きは、まだ、かすかに聞こえていた気がした。

気のせいだと、自分に言い聞かせた。

途中に、一軒のガソリンスタンドがあったはずだった。

だが、そこは、とうに廃墟になっていた。

給油機は錆びつき、雑草が、腰の高さまで生い茂っていた。

私は、不安を振り払うように、アクセルを踏んだ。

空はよく晴れているのに、谷だけに、薄い霧が溜まっていた。

やがて、村への入り口を示す、古い看板が見えてきた。

記憶では、たしか「この先◯km」と書かれていたはずだ。

速度を落として、その看板を見たとき、私は思わず声をあげた。

看板には、こう書かれていた。

「巨頭オ」

外国人が殴り書きしたような、たどたどしい文字だった。

白い塗料が、垂れたまま固まっていた。

意味は、まるで分からない。

ただ、見ているだけで、背筋がぞわりとした。

その文字の下に、小さく、何かが書き足されていた。

目をこらすと、それは、人の数を数えるような、正の字の連なりだった。

いくつも、いくつも、書き重ねられていた。

まるで、誰かが、この村に入った者を、数えているかのようだった。

嫌な予感がした。

引き返すなら、ここしかなかった。

バックミラーに映る、来た道を見た。

いつの間にか、その道にも、薄い霧が降りはじめていた。

霧は、まるで、私の退路を、ふさごうとしているようだった。

心臓が、嫌な音を立てていた。

だが、せっかく来たのだからと、私はそのまま車を進めてしまった。

いま思えば、それが間違いだった。

村に入って、私は言葉を失った。

そこは、廃村になっていた。

家々は朽ち果て、屋根は落ち、蔦が建物を覆いつくしていた。

井戸の縁は崩れ、覗き込むと、底のほうから、冷たい風が吹き上げてきた。

畑だった場所は、背の高い枯れ草に飲み込まれていた。

その枯れ草の合間に、古い石仏が、いくつも並んでいた。

どれも、首から上が、きれいに失われていた。

折れたのではなく、もぎ取られたような断面だった。

電線は垂れ下がり、電柱は傾いていた。

鳥の声ひとつ、虫の音ひとつ、聞こえなかった。

あまりにも、静かすぎた。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。

私は、無意識に、息を殺していた。

何かに、気づかれてはいけない。

そんな本能が、はたらいていたのだと思う。

その静けさが、かえって、耳が痛くなるほどだった。

人の住んでいる気配は、どこにもなかった。

あの民宿が、どれだったのかも、もう分からない。

ただ、村のいちばん奥に、一軒だけ、形を残した家があった。

その家の戸口に、色褪せた、小さな暖簾がかかっていた。

十年前、私がくぐった、あの暖簾に、よく似ていた。

風もないのに、その暖簾だけが、ゆらり、と揺れた。

中を覗こうと、一歩、足を踏み出したときだった。

おかしい、と思った。

十年前、たしかにここには、人の暮らしがあったのだ。

車を降りて、確かめようとした、そのときだった。

二十メートルほど先の、崩れた家の影。

そこから、何かが、ぬっと姿を現した。

人だった。

いや、人のかたちをした、何かだった。

頭が、異様に大きかった。

体の三倍はあろうかという、ぶよぶよとした頭。

両手は、ぴったりと足につけたまま、だらりと垂れていた。

その巨大な頭を、ぐらぐらと、左右に揺らしている。

重すぎて、首が支えきれないかのようだった。

右に、左に、不規則に。

まるで、何かを、探っているような動きだった。

音や、においを、嗅ぎ分けているのかもしれない。

揺れるたびに、首から、ぎちぎちと、軋むような音がした。

顔は、よく見えなかった。

のっぺりとして、目も鼻も、判然としない。

ただ、口だけが、ぽっかりと、暗く開いていた。

その口から、低い唸りが、漏れていた。

言葉のようでもあり、ただの風のようでもあった。

耳を澄ますと、それは、何かを繰り返しているように聞こえた。

「おかえり」と、言っているように。

気のせいだと、思いたかった。

だが、その声には、どこか、聞き覚えがあった。

あの夜の、女将の声に、似ていた気がした。

それが、ゆっくりと、車のほうへ向かってくる。

私は、ハンドルを握ったまま、固まってしまった。

声も出なかった。

そして、気づいてしまった。

それは、一体ではなかった。

崩れた家の影から、影から、次々と。

二体、三体、いや、もっと。

同じかたちのものが、ぞろぞろと、湧き出してきたのだ。

どれも、巨大な頭を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。

歩幅は、おそろしく小さい。

だが、確実に、距離を詰めてくる。

そのなかの一体が、ふと、足を止めた。

ほかの個体も、つられたように、次々と足を止めた。

そして、いっせいに、巨大な頭を、私のほうへ向けた。

無数の、見えない視線が、車のなかの私に、突き刺さった。

そして、揺れる頭を、ぴたりと、私のほうへ向けた。

見えないはずの目が、たしかに、私を捉えた気がした。

ぎち、ぎち、と、無数の軋む音が、谷に響いた。

車から、降りなくてよかった。

本当に、降りなくてよかった。

もし、あの暖簾をくぐっていたら。

もし、ほんの少しでも、車から離れていたら。

私は、もう二度と、帰ってこられなかっただろう。

そう確信できるほど、それらの動きには、明確な意志があった。

私を、逃すまいとする意志が。

あの群れは、訪れる者を、待っていたのだ。

十年もの長いあいだ、ただ、待ち続けていたのだ。

私は、震える手で、車をバックさせた。

狭い山道を、後ろ向きのまま、めちゃくちゃに飛ばした。

ガードレールに、何度も車体をこすった。

火花が散る音が聞こえた。

だが、止まる気には、到底なれなかった。

止まれば、追いつかれる。

その確信だけが、私を突き動かしていた。

何度も脱輪しそうになりながら、私はその村から逃げ出した。

ルームミラーには、揺れる頭の群れが、いつまでも映っていた。

国道に出るまで、私は一度も、ブレーキを踏まなかった。

対向車のヘッドライトが見えたとき、私は、声をあげて泣きそうになった。

人のいる世界に、戻ってこられた。

それだけで、震えが止まらなかった。

道の駅の駐車場に車を停め、私はしばらく、ハンドルに突っ伏していた。

全身が、汗でぐっしょりと濡れていた。

エンジンを切ると、耳の奥で、まだ、あの軋む音が響いていた。

家に帰り着いたのは、夜中だった。

私は、汗だくのまま、しばらく動けなかった。

翌日、私は、古い地図を引っ張り出した。

念のため、十年前の手帳も探し出した。

あの出張のとき、私は、宿の名前を書き留めていたはずだった。

だが、その日のページだけが、なぜか、白紙になっていた。

前後の予定は、きちんと書いてある。

その一日だけが、まるで、最初から存在しなかったかのように。

あの村の場所を、もう一度、確かめたかったのだ。

十年前に泊まった村と、昨日たどり着いた場所は、間違っていなかった。

同じ場所だった。

だが、地図には、その村の名は、もう載っていなかった。

数年前に、廃村として、地図から消されていたのだ。

では、十年前に私を泊めてくれた、あの女将は。

あの温かい囲炉裏は、あの山菜の料理は。

考えれば考えるほど、足元が崩れていくようだった。

あの夜、私を泊めてくれた女将は、もうこの世の人ではなかったのかもしれない。

あるいは、村ごと、とうに終わっていたのかもしれない。

それなのに、私は、たしかにあの宿で、一夜を過ごした。

温かいもてなしを受け、山菜を食べ、煙のにおいを嗅いだ。

あれは、いったい、何だったのか。

妻に話しても、信じてはもらえなかった。

疲れて、夢でも見たのだろう、と笑われた。

それでよかった。

むしろ、夢だと言ってもらえることが、救いだった。

だが、私自身は、知っている。

あれは、夢などではなかった。

翌週、私は、念のため、地元の図書館で郷土史を調べた。

その村の名は、たしかに記録に残っていた。

古くから、独特の信仰を守ってきた、小さな村だと。

そして、ある年を境に、住民が、ひとり残らず消えていた。

「集団離村」と、記録には、そっけなく書かれていた。

だが、行き先を記した文書は、どこにもなかった。

誰ひとり、その後、ふもとの町で見かけた者はいなかったという。

私は、それ以上、調べるのをやめた。

あの村のことを、思い出すのも、やめた。

ただ、ひとつだけ、いまも忘れられない言葉がある。

女将が、最後に言った、あの言葉だ。

「うちの村はね、昔から、お山にお返しをしてきたの」

いったい、何を、返していたのか。

そして、返すものが尽きたとき、何が起きたのか。

あの揺れる頭が、かつての村人だったのではないか。

そう思うと、いまでも、背筋が冷たくなる。

あの正の字は、村に入った者を数えたものだったのだろうか。

だとすれば、私の一画も、いつか、あそこに書き足されるのだろうか。

返すものが尽きた村は、訪れた者を、返してもらおうとしたのかもしれない。

私が無事だったのは、ただ、車から降りなかったからだ。

あと一歩、踏み出していたら。

私もまた、あの群れの一体に、なっていたのかもしれない。

頭を揺らし、訪れる者を待ちながら。

いつまでも、あの霧の谷で。

そう考えると、いまでも、足がすくむ。

もちろん、私はもう、二度とあの村へは行かない。

ただ、ときどき、夢に見る。

目を覚ますと、決まって、明け方だ。

そして、窓の外を確かめずにはいられない。

そこに、揺れる頭の影が、ないことを。

いまのところ、それは、夢のなかだけにとどまっている。

ただ、最近、ひとつだけ、気がかりなことがある。

夢に出てくるあの村が、少しずつ、近づいてくるのだ。

はじめは、谷の向こうに見えるだけだった。

それが、今では、暖簾のかかった、あの戸口の前まで来ている。

次に夢を見るとき、私は、その暖簾をくぐってしまうのだろうか。

だが、ご縁は一度で十分だと、あの女将は言った。

私は、二度目のご縁が訪れないことを、ただ、祈っている。

霧の谷から、ぎち、ぎち、と、こちらへ近づいてくる、あの音を。

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