
私は携帯電話の基地局設備を管理する会社で、保守の仕事をしています。
これは、一昨年の年の瀬に、山頂のアンテナ鉄塔で体験したことです。
私はそれまで、幽霊や妖怪の類をまったく信じていませんでした。
仕事柄、夜中の山にも、無人の設備にも、何度も一人で入ってきました。
怖いと思ったことは、一度もありませんでした。
停電した真冬の無人局で、朝まで復旧作業をしたこともあります。
獣の鳴き声も、風で鉄骨が鳴る音も、慣れてしまえばただの音でした。
あの日、雪の林道で裸足の足跡を見るまでは。
今でも、あれが現実だったのか、疲れた頭が見せた幻だったのか、確信は持てません。
ただ、起きたことを、順番に書いておこうと思います。
十二月二十七日の午後、私は上司のKさんとTさんの三人で、県境の山の頂にある鉄塔の点検に出かけました。
年末年始の障害に備えた、毎年恒例の点検です。
Kさんは五十代のベテランで、この鉄塔を二十年近く担当してきた人でした。
冗談の好きな人で、現場ではいつも誰かを笑わせていました。
Tさんは四十代で、口数は少ないけれど、手の早い人でした。
二人とも、山の設備のことなら何でも知っていました。
私は入社三年目で、二人の後ろをついて回るのが精一杯でした。
社用車の四輪駆動のワゴンで、山道を登っていきました。
運転は、いちばん若い私の役目でした。
出発前、Kさんが缶コーヒーを三本買ってきて、一本ずつ配ってくれました。
「山の上は冷えるからな。今のうちに温まっとけ」
Tさんは、いつも助手席に座ります。
背が高いので、座るとすぐにシートを一番後ろまで下げるのが癖でした。
Kさんは、後部座席で点検表をめくっていました。
つづら折りの道を上がるたびに、町の屋根が少しずつ小さくなっていきました。
中腹を過ぎたあたりから、道に雪が目立ちはじめました。
その年は例年より雪が早く、私たちの車はまだスタッドレスタイヤに替えていませんでした。
山頂まであと一キロほどのところで、タイヤが空回りを始めました。
それ以上は、車では登れませんでした。
仕方なく、道の脇の小さな神社の前に車を停めて、歩いて登ることにしました。
車を降りると、空気が一段と冷たくなりました。
Tさんは、助手席から降りる前に、シートを元の位置に戻そうとして、やめました。
「帰りもどうせ乗るしな」
そう言って、ドアを閉めました。
古い石の鳥居の奥に、杉の木に囲まれた小さな社がありました。
鳥居には、太いしめ縄が掛かっていました。
ただ、しめ縄から垂れているはずの白い紙が、一枚もありませんでした。
縄だけが、雪をかぶって黒く垂れ下がっていたのです。
社の前の賽銭箱の上にも、雪がこんもりと積もっていました。
長いあいだ、誰も参っていないように見えました。
「風で飛んだんだろ」
Tさんは、鳥居を見上げて、小さく頭を下げていました。
私も、何となくそれに倣いました。
Kさんだけが、振り返らずに先に歩き出していました。
Kさんはそう言って、道具の入った鞄を肩にかけました。
鉄塔のドアの鍵
雪は表面が凍っていて、踏むたびにざくざくと音がしました。
不思議なことに、道の両側の木の枝には、雪がほとんど積もっていませんでした。
Kさんに理由を聞くと、「枝に積もった雪は、重くなるとすぐ落ちるからな」と教えてくれました。
景色を眺めたり、凍った轍に足を取られたりしているうちに、鉄塔の下にたどり着くまで三十分以上かかりました。
吐く息が白く、耳が痛くなるほど冷えていました。
鉄塔は、灰色の空に向かって、四本の脚を広げて立っていました。
先端のアンテナが、風で小さく唸っていました。
車道から林の中の細い道へ入ったあたりで、Kさんが上を見上げて言いました。
「木の枝に、何か引っかかってるぞ」
見上げると、地面から五メートルほどの枝に、細長い白いものが絡まって、風になびいていました。
さらに進むと、鉄塔を囲むフェンスや、ゲートの鉄格子にも、同じものが絡みついていました。
近づいてみると、それは布ではなく、紙でした。
黒い墨で何か書かれた紙を、細く裂いたもののようでした。
折り目が、稲妻のような形に規則正しくついていました。
どこかで見たことのある形だ、と思いました。
けれど、そのときは、どこで見たのか思い出せませんでした。
「山仕事の人のいたずらかな」
「気持ち悪いなあ」
そう言い合いながら、ゲートの南京錠を開けて中に入りました。
続いて、鉄塔の機械室のドアに鍵を差し込んで回しました。
開きませんでした。
鍵穴の中で、何かが引っかかるような、重い手応えがありました。
おかしいと思って、反対に回すと、今度はすんなり開きました。
「ここ、最初から鍵が開いてたみたいですよ」
私がそう言うと、Kさんは首を振りました。
「そんなはずはない。前に来たとき、俺がちゃんと閉めた」
中に入ると、かすかに生臭い匂いがしました。
ほかの二人も気づいたようで、「なんか臭うな」と鼻を鳴らしていました。
電源盤や通信パネルを点検していると、奥の階段の下でTさんが声を上げました。
「んんん?」
行ってみると、階段の下に、茶色い獣の毛がばさっと落ちていました。
一頭分には足りないけれど、ひと抱えほどはある量でした。
毛の先は、どれも根元から引き抜かれたように、白い脂がついていました。
「鹿じゃないか、これ」
Kさんが、懐中電灯で照らしながら言いました。
Tさんは、しゃがみ込んで毛の一本をつまみ上げ、すぐに放しました。
「冷たくないな、これ」
私は聞かなかったふりをしました。
毛を靴の先でどけると、その下のコンクリートに、黒ずんだ染みがいくつか散っていました。
「ここで何かに食われたのかな」
Tさんが言いましたが、それにしては骨の一本も残っていません。
それに、ドアは閉まっていたのです。
鍵が開いていたとしても、獣がノブを回して入れたとは思えませんでした。
原因がわからないので、とりあえず毛を集めて外に捨てました。
染みは、外から雪を持ってきて擦ると、少しだけ薄くなりました。
Kさんは、しばらく黙ってその染みを見下ろしていました。
「年明けに、もう一回見に来るか」
独り言のように、そう言いました。
雪の上の裸足の足跡
寒いし気味が悪いしで、私は早く終わらせて帰りたい一心で、点検表を埋めていきました。
そのときです。
「ホゥゥゥゥ」
遠くのほうで、そんな声が聞こえました。
アンテナのほうへ上がっていたKさんの声だと思い、「Kさーん」と呼びました。
「なんだー」
返事は、声がしたのとはまったく別の方向から返ってきました。
あれ、と思いましたが、外にいたTさんが何か言ったのだろうと考えて、気にしないことにしました。
点検を終えてドアの外に出ると、誰もいませんでした。
鉄塔の周りをぐるりと回っても、Tさんの姿は見当たりません。
何となく、中に戻るのが嫌で、外で待っていました。
しばらくすると、KさんとTさんが並んで、階段から降りてきました。
「Tさん、さっき外で呼びませんでした?」
「いや。Kさんと二人で、上のボルトを見てたよ」
「おかしいな。ホゥって、誰かが叫んだのが聞こえたんですけど」
「それ、俺らも聞いた。てっきりお前だと思ってた」
「違いますよ」
「いや、お前が俺を呼んだ声が、やけに近くでしたから、変だなとは思ったんだ」
そんなことを言い合いながら、今度はドアに鍵を掛けたのを三人で確かめて、フェンスの外に出ました。
細長い紙切れは気味が悪かったので、誰も触れずに、そのままにしておきました。
日が傾いて、あたりが暗くなりかけていました。
私たちは、急いで車のところへ戻ることにしました。
下りは滑るので、KさんとTさんが先を歩き、私は少し離れて、足元を見ながらうつむいて歩きました。
林はとても静かで、ざくざくと雪を踏む音だけが聞こえていました。
雲の切れ間から、遠くの夕焼けが、細く赤く見えていました。
私はさっきのことを考えながら、ぼんやりと足元を見ていました。
そのうちに、奇妙なことに気づきました。
私たちは、上りも下りも道の左側を歩いていました。
つまり、上りのときの足跡は、道の反対側に残っているはずです。
私の目の前には、TさんとKさんの長靴の跡が、二列に並んでいました。
その二列のあいだに、もう一列、足跡があったのです。
その足跡は、私たちの長靴の跡よりずっと小さく、指の形までくっきりと残っていました。
裸足の足跡でした。
上りのときには、こちら側の雪は真っさらだったと、はっきり覚えています。
つまりこの足跡は、私たちが登ったあとに、誰かが下りながらつけたものということになります。
雪の上を裸足で歩く人間が、まともなはずはありません。
前の二人に声をかけようとして、私は視線を上げかけました。
そのとき、視界の上の端、私の足先のすぐ前に、白い裸足の足が見えました。
思わず、足を止めました。
すると、足は視界からすっと消えました。
恐る恐る顔を上げると、少し先をKさんとTさんが並んで歩いているだけで、ほかに人影はありません。
しかたなく、また足元を見て歩き出しました。
しばらくすると、また前に足が見えました。
止まると消え、歩き出すと現れるのです。
小さくて白い裸足が、私の一・五メートルほど前を、私と同じ速さで歩いていました。
かかとのあたりに、白っぽい布の裾がかかっているのが見えました。
その足は、雪を踏んでも、少しも音を立てていないように思えました。
後部座席の二人
やがて、前を行く二人の足音が止まりました。
同時に、目の前の裸足の足も、すっと消えました。
顔を上げると、いつの間にか神社の前の車のところまで来ていました。
心の底からほっとして、私は車に駆け寄りました。
ところが、KさんとTさんが、そろってこう言い出したのです。
「ここまで来て、神社に寄っておかないとだめだ」
「すぐ済むから、お前も来い」
あたりはもう、ほとんど暗くなっていました。
ここで時間を使えば、路面が凍って下りられなくなります。
二人とも、そんなことはわかっているはずでした。
鳥居の奥は杉が鬱蒼と茂っていて、社がどこにあるのかも見えません。
絶対に入りたくありませんでした。
かといって、ここに一人で残されるのも、同じくらい怖かったのです。
私は懸命に二人を説き伏せて、どうにか車に乗せました。
急いで車を出しましたが、雪道なので、速度を上げるとすぐに滑ります。
何度か危ない場面がありました。
それでも、二人とも声一つ上げず、黙って座っていました。
バックミラーをのぞくと、二人の首が、ぐらぐらと揺れていました。
眠っているようにも見えましたが、目は開いていて、じっと前を見ていました。
そこで、ようやく気づきました。
二人とも、後部座席に並んで座っていたのです。
肩と肩が触れるほど、ぴったりと寄り添っていました。
いつもなら、Tさんは必ず助手席に座るはずでした。
そう思った途端、助手席のほうを見ることができなくなりました。
私は前だけを見て、ハンドルを握り続けました。
助手席の窓ガラスが、内側から少しずつ白く曇っていくのが、目の端に映っていました。
暖房は、足元にしか出していなかったはずです。
ラジオをつけようと手を伸ばしましたが、雑音しか入りませんでした。
いるはずのない誰かの気配が残り続ける話を、電話機の下の金属板の正の字という題で読んだことがあります。
読んだときは、ただの作り話だと思っていました。
麓の町の明かりが見えてきたとき、二人がそろって言いました。
声の高さも、言い出す間合いも、まるで一人がしゃべっているようでした。
「ここで降ろしてくれ」
「近くに知り合いがいるから、会いに行く」
「その家まで送りますよ」
「お前は帰れ。この先は道がややこしい。帰りに迷う」
「会社に戻って、俺たちは先に帰ったと言っておいてくれ」
正直に言えば、私も一刻も早く帰りたかったのです。
私は、国道沿いのコンビニの前で、二人を降ろしました。
降りるとき、Tさんが何気ない様子で、助手席のドアを外から開け、すぐに閉めました。
何かを降ろしてやったような、そんな手つきでした。
全身に寒気が走り、私はそのまま会社まで車を飛ばしました。
国道の街灯が、一本ずつ後ろへ流れていきました。
信号で止まるたびに、助手席のほうから、かすかに衣擦れのような音がしました。
私は一度も、そちらを見ませんでした。
見てしまったら、そこに何かが座っていることを認めることになる気がしたのです。
あの鳥居のしめ縄から消えていた白い紙の形を、そのときようやく思い出しました。
稲妻のような折り目の、紙垂でした。
数の合わないものが一つだけ紛れ込む話を、積まれた石の数が合わないという題で読んだのも、その頃です。
会社の車庫の蛍光灯
会社の車庫に着いたのは、夜の八時過ぎでした。
蛍光灯の白い光の下で、私はしばらく運転席から降りられませんでした。
車庫の中は静かで、エンジンの冷えていく音だけが、かちかちと鳴っていました。
ようやく息を整えて、荷物を下ろそうと、助手席のドアを開けました。
助手席のシートは、一番後ろまで下がっていました。
Tさんが、行きにそうしたままだったのかもしれません。
山で車を降りるとき、Tさんが「帰りもどうせ乗るしな」と言っていたのを思い出しました。
そう思おうとして、足元に目が行きました。
助手席の足元のマットに、小さな裸足の足跡が二つ、濡れたまま並んでいました。
つま先は、まっすぐ前を向いていました。
翌日、KさんとTさんは、二人とも休みでした。
年明けの交代勤務にも、二人は出てきませんでした。
Tさんは、年明け早々に、郵送で辞表を出して会社を辞めました。
Kさんの携帯には、今も繋がりません。