
もう、六十年も昔の話になる。
これから話すのは、わたしが二十歳の年に出会った、不思議な話だ。
その頃わたしは、山あいの小さな町の、古い映画館で働いていた。
町は、三方を低い山に囲まれていた。
真ん中を、細い川が一本、町を縦に割って流れていた。
駅から続く一本の通りに、商店が肩を寄せ合うように並んでいた。
その通りの、いちばん奥に、映画館はあった。
「みどり座」という、古めかしい名の館だった。
戦の前から、ずっとそこに在ったという。
木造の、二階建て。
正面には、手で描いた大きな絵看板が掲げてあった。
看板の絵の具は、雨と日に灼かれて、ところどころ剥げ落ちていた。
それでも、夜になって電飾が灯ると、館はぼうっと、橙色に浮かび上がった。
わたしは、その館に、住み込みで雇われた。
切符をもぎり、売店に立ち、館の内を掃き清めるのが、わたしの務めだった。
身寄りの薄い娘だった。
遠い縁者の口利きを頼りに、この町へ流れてきた。
住むところと、三度の食事がつく。
それだけで、当時のわたしには、ありがたかった。
町に着いた日のことを、今でも、よく覚えている。
汽車を降りると、改札の向こうに、迎えの者が一人、立っていた。
鳥打帽をかぶった、小柄な老人だった。
それが、館の主人との、初めての顔合わせだった。
「遠かったろう」
主人は、それだけ言って、わたしの風呂敷包みを、黙って持ってくれた。
通りを歩きながら、わたしは、館の灯りを、初めて見た。
夕闇の中に、絵看板が、ぼうっと、浮かんでいた。
胸の奥が、少し、高鳴った。
これから、ここで暮らすのだ、と思った。
知る人とて、一人もいない町だった。
けれど、不思議と、心細さは、湧いてこなかった。
館の中に、あの賑わいが、待っている気がしたからだ。
館の主人は、与平さんという、無口な老人だった。
先代から館を継いで、もう四十年になる、と言っていた。
主人は、わたしに、多くを語らなかった。
ただ、仕事の手順だけを、ぽつり、ぽつりと教えてくれた。
わたしの寝起きする部屋は、館の裏にあった。
スクリーンの、ちょうど裏側にあたる、三畳ほどの小部屋だ。
壁、一枚を隔てて、その向こうが、客席だった。
夜、床に就くと、昼間の上映の名残が、まだ耳に残っているようだった。
客の笑い声や、すすり泣きや、拍手。
そういうものが、長い年月のあいだに、壁にしみ込んでいるような館だった。
古い木と、煙草と、埃の匂いが、いつも漂っていた。
夜更けに、ふと目が覚めると、その匂いが、いっそう、濃くなる気がした。
まるで、昼間の客たちが、まだ、そこに残っているように。
その頃、町の楽しみといえば、映画くらいのものだった。
テレビは、まだ、どこの家にもあるわけではなかった。
土曜の晩や、祭りの日には、館はよく賑わった。
子供から年寄りまでが、狭い客席を、ぎっしりと埋めた。
暗がりの中で、皆が同じところで笑い、同じところで息をのんだ。
その、ひとつに溶けたような気配が、わたしは好きだった。
もぎりの台に立っていると、人いきれと、ほのかな汗の匂いが流れてきた。
上映が始まると、扉の隙間から、笑い声がどっと漏れてくる。
わたしは、その声を聞くのが、何より好きだった。
忘れられない晩がある。
町の祭りの晩で、館は、立ち見が出るほどの、大入りだった。
掛かっていたのは、評判の、人情喜劇だった。
客席は、笑いと、すすり泣きとで、波打っていた。
可笑しい場面では、天井が抜けるかと思うほど、皆が、笑った。
わたしも、もぎりの台で、つられて、笑った。
見ず知らずの者同士が、同じ闇の中で、ひとつに、溶けていた。
あれが、映画というものの、いちばんの幸福だと、今でも思う。
その幸福が、まだ、館に、満ちていた頃のことだ。
けれど、その賑わいも、少しずつ、薄れはじめていた。
町にも、ぽつぽつと、テレビが入りだしていたのだ。
電器屋の店先に置かれた一台の前に、いつも人だかりができていた。
夜、その前を通ると、見覚えのある顔が、何人もそこにあった。
かつて、みどり座の客席にいたはずの顔だった。
客足は、目に見えて、減っていった。
平日の昼などは、客席に二人か三人ということも、珍しくなくなった。
がらんとした客席に向かって、それでも映写機は、律儀に回り続けた。
誰もいない闇に向かって、絵と音だけが、流れていく。
それを見ていると、わたしは少し、切ない心持ちになった。
主人は、何も言わなかった。
ただ、毎晩きちんと、最後の回まで、館を開けていた。
その晩も、最後の回が終わったあとのことだった。
わたしは、一人で、客席の掃除をしていた。
箒で、座席の間を、丁寧に掃いていく。
もう、誰もいない。
天井で、裸電球が一つ、ぼんやりと灯っているきりだった。
その時、ふっと、笑い声が聞こえた気がした。
低い、含み笑いのような声だった。
わたしは、手を止めた。
振り返ったが、誰もいない。
並んだ座席が、ただ、闇の中に沈んでいるだけだった。
風の音だろう、と思った。
古い館だ。隙間も、多い。
わたしは、また、箒を動かしはじめた。
けれど、その晩のことだけは、なぜか、長く忘れられなかった。
※
妙なことは、それから、少しずつ、増えていった。
朝、客席の掃除に入ると、座席が一列だけ、温かいことがあった。
前の晩、確かに誰も座らなかったはずの、いちばん前の列だ。
座面に手を当てると、人のぬくもりのような、淡い温かさが、まだ残っている。
陽のあたる場所でもないのに、と、わたしは首をかしげた。
映写室の灯りのことも、あった。
上映の無い昼下がりに、映写室の小窓から、光が漏れていることがあった。
機械の点け忘れかと思って、わたしは梯子段を上がってみる。
すると、映写室は真っ暗で、誰もいない。
機械も、冷たく、止まっていた。
今、確かに、光が見えたのに。
わたしは、狐につままれたような心持ちで、梯子段を下りた。
売店の品が、夜のあいだに、減っていることも、あった。
確かに数えて、しまったはずの、ラムネや、煎餅が。
朝には、いくつか、足りなくなっていた。
釣り銭の箱の小銭も、わずかに、動いている気がした。
まるで、誰かが、夜のうちに、買い物をしていったような。
わたしは、そう考えて、慌てて、首を振った。
夜、小部屋で寝ていると、壁の向こうから、物音がするようになった。
客席のほうだ。
座席を、ぱたん、ぱたんと、起こすような音。
誰かが、席に着くような音だった。
一つ、また一つと、その音は、夜ごとに増えていった。
まるで、無人の客席が、ゆっくりと、埋まっていくようだった。
わたしは、夜具の中で、息を殺して、それを聞いていた。
朝になって見に行くと、座席はみな、きちんと上がっていた。
そして、あの、笑い声だ。
はじめは、一人の、含み笑いだった。
それが、夜ごとに、少しずつ、数を増していった。
二人、三人と。
低い、ゲラゲラという笑いが、壁の向こうで、起きるようになった。
大勢が、何か可笑しいものを見て、一斉に笑うような声だった。
けれど、館は閉まっている。
客など、いるはずがない。
わたしは、何度も、自分にそう言い聞かせた。
鼠か。風か。あるいは、わたしの、空耳か。
そう、思おうとした。
けれど、その笑いは、あまりに、人のものに、似ていた。
あるとき、思い切って、主人に尋ねてみた。
夜、客席のほうから、人の声がする、と。
主人は、茶をすすりながら、しばらく、黙っていた。
それから、低い声で、ぽつりと言った。
「古い館だからな」
「いろんなものが、しみついておるのよ」
それだけだった。
けれど、その目が、何かを知っている者の目だと、わたしは感じた。
館には、源さんという、年老いた映写技師が、一人いた。
先代の頃から、ずっと機械を回してきた人だった。
ある晩、わたしは、思い切って、源さんに尋ねてみた。
「源さん。夜中に、客席から、笑い声を聞くことは、ありませんか」
源さんは、フィルムを巻く手を、ふと止めた。
「お前さんも、聞いたか」
そう言って、こちらを見た目が、少し、悲しげだった。
「あれはな、止めようがないんだ」
「機械を切っても、館の戸を閉めても、あの笑いだけは、残る」
わたしは、その声の何たるかを、尋ねずにいられなかった。
「あれは、いったい、何なんです」
源さんは、長いこと、答えなかった。
それから、古いフィルム缶を、一つ、棚から下ろした。
缶には、題名が、書かれていなかった。
「これは、もう、どこにも掛けられん一本だ」
「あの晩、回っていた、喜劇のフィルムよ」
あの晩、と源さんは言った。
わたしが、その意味を尋ねると、源さんは、首を横に振った。
「それは、わしの口からは、言えん」
「町の年寄りに、お聞き」
源さんは、それきり、口をつぐんでしまった。
ただ、帰りぎわに、ぽつりと、付け加えた。
「お前さんも、夜は、客席を、覗かんことだ」
「覗けば、向こうも、こちらに、気づく」
「気づかれたら、もう、いかん」
わたしは、その言葉の重さを、まだ、分かっていなかった。
ただ、ランプの灯りに照らされた源さんの手が、小刻みに、震えていたのだけは、覚えている。
数日後、わたしは、町の銭湯で、近所の婆さんと一緒になった。
みどり座で働いている、と話すと、婆さんは、妙な顔をした。
「あんた、夜中に、変な声を、聞かんかね」
わたしが、黙っていると、婆さんは、声を低めた。
「あの館はな、昔、いっぺん、燃えたことがあるんよ」
戦の終わった、すぐあとのことだという。
夜の回の、最中だった。
満員の客席で、皆、腹を抱えて、笑っていた。
喜劇の、いちばん可笑しい場面だったそうだ。
火の手が回り、煙が満ちるまで、誰一人、気づかなかった。
皆、笑うのに、夢中だったのだ。
煙が、客席に、低く、垂れこめていったという。
それでも、可笑しい場面は、続いていた。
スクリーンの中の役者が、おどけて、転んでみせる。
客は、笑った。
煙に咳き込みながらも、なお、笑っていたそうだ。
可笑しさと、苦しさの、区別が、つかなくなるほどに。
「笑いながら観とった客の、幾人かはな」
「朝が来て、明るうなっても、とうとう、外へ出てこんかった」
婆さんは、そう言って、口をつぐんだ。
湯気の向こうの、その横顔が、ひどく、こわばって見えた。
戻ってこなかった人たちのことを、町の者は、長く、語らなかったという。
みどり座は、その後、建て直して、また、館を開けた。
けれど、あの晩の笑い声だけは、新しい館にも、移ってきた。
「笑うとる、いちばん楽しい時に、あんなことになったでなあ」
「あの人らは、まだ、続きを、観とるんよ」
婆さんの言葉に、わたしは、背筋が冷えた。
その夜から、わたしは、客席のほうを、見ないようにして暮らした。
けれど、笑い声は、夜ごとに、確かに、数を増していった。
主人の帳場に、古い帳面が、一冊あった。
先代から続く、館の覚え書きだった。
ある雨の日、わたしは、それを、こっそり、めくってみた。
戦後すぐの頁に、墨で、こう、記されていた。
あの晩のことは、書くまい、と。
ただ、戻らなかった客の数だけが、隅に、小さく、記してあった。
わたしは、その数を、じっと見つめた。
夜ごとに増えていく、あの笑い声の数と。
その数が、少しずつ、近づいていくようで、恐ろしかった。
わたしは、そっと、帳面を閉じた。
その頃から、館の柱時計が、よく狂うようになった。
最後の回が終わり、時計を見ると、十時を回っている。
なのに、掃除を済ませて小部屋に戻ると、針は、また十時のままだった。
夜が、そこで、長く伸びていくようだった。
わたしの眠りは、浅くなる一方だった。
目を閉じても、壁の向こうの気配が、瞼の裏に、立ち上がってくる。
誰かが、息を殺して、わたしの目覚めを、待っているような。
そんな夜が、幾晩も、続いた。
それでも、わたしは、館を出ようとは、思わなかった。
出てゆく当てなど、どこにも、無かったからだ。
それに、どこか、心の隅で。
あの笑い声に、ほんの少し、惹かれてもいたのだ。
あれほど楽しげなものが、なぜ、こんなにも、恐ろしいのか。
そのことが、わたしには、分からなかった。
※
あれは、秋も深い、冷え込む晩だった。
その晩、笑い声は、これまでと、まるで、違っていた。
夜半過ぎ、わたしは、その声で、目を覚ました。
壁の向こうの客席が、笑いで、満ちていた。
一人や、二人ではない。
何十人もの、大勢の、哄笑だった。
ゲラゲラ、ゲラゲラと、館じゅうが、揺れるようだった。
子供の甲高い笑いも、年寄りの、しわがれた笑いも、混じっていた。
満員の客席が、何か可笑しいものを観て、沸き返っている。
そうとしか、思えなかった。
わたしは、夜具の上に、起き上がった。
心の臓が、痛いほど、打っていた。
見てはいけない、と、頭のどこかが、叫んでいた。
けれど、わたしの足は、もう、立ち上がっていた。
わたしは、小部屋の戸を開け、暗い廊下へ、出た。
笑い声は、客席の扉の向こうで、渦を巻いていた。
板張りの床が、その響きで、足の裏に、震えて伝わってくる。
わたしは、廊下を、一歩ずつ、進んでいった。
壁に手をつき、客席の扉のほうへ、近づいていく。
近づくほどに、笑い声は、大きくなった。
何百もの口が、いっせいに、開いているような声だった。
その声に混じって、ぱちぱちと、拍手の音まで、聞こえた。
誰かが、調子に乗って、床を踏み鳴らしてもいた。
館じゅうが、祭りの晩のように、沸き返っていた。
閉め切った、無人のはずの、その館が。
わたしは、その扉に、手をかけた。
冷たい、金物の、感触がした。
指先が、痺れるほど、冷たかった。
そして、わたしは、ほんの少し、その扉を、押し開けた。
客席は、人で、埋まっていた。
暗がりの中に、無数の頭が、ずらりと、並んでいた。
どの席も、どの席も、人の影で、塞がっていた。
皆、一様に、前を向いていた。
スクリーンを見上げ、肩を揺すって、笑っていた。
ゲラゲラと、大きく口を開けて、笑い続けていた。
けれど、その顔は、どれも、薄暗くて、よく見えなかった。
ただ、笑っている、ということだけが、分かった。
わたしは、その視線の、先を追った。
皆が見上げ、笑い転げている、その、スクリーンを。
スクリーンには、何も、映っていなかった。
ただ、白い布が、闇の中に、ぼうっと、浮かんでいるだけだった。
映写機は、回っていなかった。
あの、光の帯も、伸びていなかった。
何も映らない白い布を見上げて、満員の客が、笑い続けていた。
その時だった。
いちばん前の席の影が、ぐるりと、こちらを、向いた。
顔は、見えなかった。
けれど、笑ったまま、わたしを、手招きしているのが、分かった。
こちらへ来て、一緒に観よう、とでも言うように。
空いた席が、その隣に、一つだけ、ぽつんと、あった。
わたしは、声にならない声を上げて、扉を、閉めた。
小部屋へ駆け戻り、夜具を、頭から、かぶった。
歯の根が、合わなかった。
笑い声は、それからも、長いこと、続いていた。
わたしは、朝が来るまで、ただ、震えていた。
※
夜が明けると、笑い声は、嘘のように、消えていた。
わたしは、客席を見に行く勇気が、どうしても、出なかった。
朝の務めも、その日は、できなかった。
主人は、わたしの顔を見て、すべてを、察したようだった。
「見たか」
低い声で、そう、尋ねた。
わたしが、こくりと頷くと、主人は、長い息を、吐いた。
「わしも、若い頃に、一度だけ、見た」
「あれを見た者は、もう、ここには、おれんようになる」
主人は、そう言って、静かに、目を伏せた。
わたしは、その数日後、みどり座を、去った。
主人は、引き止めなかった。
ただ、わずかな給金に、餞別を添えて、持たせてくれた。
「達者で、な」
それが、主人と交わした、最後の言葉だった。
源さんは、館の戸口まで、見送りに来てくれた。
「よう、無事で、出られたな」
源さんは、そう言って、わたしの肩を、軽く、叩いた。
その手が、少し、震えていた。
みどり座は、それから、いくらも経たぬうちに、館を閉じた。
町から、客足が、すっかり、絶えてしまったのだ。
テレビが、どこの茶の間にも、収まる頃のことだった。
建物は、ほどなく、取り壊されたと、人づてに聞いた。
わたしは、その後、遠い町に出て、所帯を持ち、子を育てた。
長い、長い年月が、過ぎた。
あの晩のことは、とうとう、誰にも、語らなかった。
語っても、信じてはもらえまい、と思った。
それに、口にすれば、また、あの笑い声が、耳に戻ってくる気がした。
※
つい、何年か前のことだ。
わたしは、ふと思い立って、あの町を、訪ねてみた。
六十年ぶりの、町だった。
駅も、通りも、すっかり、様変わりしていた。
みどり座のあった場所は、小さな駐車場に、なっていた。
白い線の引かれた地面に、車が、何台か停まっているだけだった。
かつて、あれほどの笑いが満ちた館があったとは、誰も、思うまい。
わたしは、その隅に、しばらく、立っていた。
近くの店で、年老いた店主に、みどり座のことを、尋ねてみた。
「ああ、昔、映画館が、ありましたねえ」
店主は、懐かしそうに、目を細めた。
「子供の頃、よう、通うたもんですよ」
「あそこは、よう、笑える映画ばかり、掛けてましてねえ」
わたしは、それ以上は、聞かなかった。
あの晩のことを、知る人は、もう、いないのだろう。
片隅に、古い石が、一つ、残されていた。
みどり座の、礎石だったのかもしれない。
わたしは、その冷たい石に、そっと、手を触れた。
すると。
地の底から、ごく微かに。
あの、ゲラゲラという笑い声が、聞こえたような、気がした。
空耳だ、と、わたしは思った。
思おう、とした。
けれど、その声は、どこか、楽しげだった。
恐ろしい声では、なかった。
あの人たちは、今も、続きを観ているのだろうか。
何も映らない、白い布を、見上げて。
いちばん楽しかった、あの晩の、続きを。
そう思うと、不思議と、恐ろしさよりも、もの悲しさが、勝った。
あんなに大勢を、笑わせた館は、もう、跡形も、ない。
残ったのは、地の底に、しみ込んだ、笑い声の、こだまだけだ。
あれが、何だったのか。
今も、わたしには、分からない。
ただ、起きたことを、こうして、述べるしか、ない。
怖い話、というには、あの笑い声は、あまりに、明るかった。
だから、わたしは、これを、不思議な話として、語ることにしている。
ひとつだけ、忘れられないことがある。
あの晩、いちばん前の席で、わたしを手招きした、あの影。
去り際に、駐車場の隅で、あの石に手を触れた、その時。
わたしの手の甲に、ふっと、温かいものが、触れた気がした。
人の、指の先のような、淡い、温かさだった。
もし、あなたが、もう無いはずの場所で、楽しげな笑い声を聞いても。
どうか、その輪の中だけは、覗かないでほしい。
覗けば、いちばん前の席が、あなたのために、一つ、空けてあるかもしれないのだから。