
私はもう六十を過ぎた。
いまだに現場へ出ている。
大工というより、古い建てものの直しが本業だ。
柱を一本見れば、その家の年も、建てた職人の癖もだいたいわかる。
四十年、同じことばかりしてきた。
そんな私の道具箱の底に、一本の差し金が入っている。
真鍮でできた、ずいぶん古いものだ。
目盛りの切り方が、今の品とは少し違う。
これは、私が店で買ったものではない。
どこの金物屋を探しても、同じ品は出てこない。
それでも、線を引くときは必ずこれを使う。
この差し金で引いた線は、不思議と一度も曲がったことがない。
この一本を手にした夜のことを、私は今でもはっきり覚えている。
信じてもらえないかもしれないが、と、先に断っておく。
あれは、昭和の終わりの冬だった。
私はまだ二十代で、親方の下で修業をしていた。
その年の暮れ、私たちは東北の山あいの宿に泊まり込んでいた。
古い湯治宿の、大きな改修の仕事だった。
雪の深い土地で、十一月の末にはもう一面が白くなっていた。
朝は氷点下で、釘を握る指の先が痺れて感覚がなくなった。
鉋屑の匂いと、囲炉裏の煙の匂いだけが、宿に満ちていた。
湯の匂いも、宿のどこにいても、うっすらと漂っていた。
夜になると、梁のきしむ音が、家じゅうのあちこちで鳴った。
古い家ほど、夜はよく喋るものだ、と親方は笑っていた。
宿の主人は無口な老人で、夜になると囲炉裏の前から動かなかった。
「この奥はな、冬は人が入らんのだ」と、一度だけ言った。
「入って迷うと、戻ってこられん」とも。
私はその言葉を、ただの雪国の用心だと思って聞き流していた。
仕事そのものは、順調だった。
梁の入れ替えも、床板の張り替えも、思ったより早く進んだ。
親方は、腕のいい人だった。
寡黙で、滅多に人を褒めない。
けれど、線の引き方だけは、何度も何度も直された。
「線が曲がれば、家も曲がる」が、口癖だった。
夜なべに、親方が私の引いた墨線を、黙って指でなぞることがあった。
その指が止まると、私はいつも身がすくんだ。
「お前は、急ぐと曲げる」と、低い声で言われた。
叱られているのに、なぜか、心がほどけるようだった。
そんな日々が、ひと月ばかり続いた頃だった。
その親方が、現場の半ばで里へ降りることになった。
体の具合がよくないと言って、麓の医者にかかると。
いつもより、ずっと顔色が悪かった。
「あとは頼む」と、それだけ言って、雪道を下っていった。
半纏の肩には、私が縫った繕いの跡があった。
その繕いが、雪明かりの中で、小さく揺れていた。
それが、現場でその背中を見た、最後になった。
※
残った仕事を、私は一人で黙々と仕上げた。
十二月の半ば、ようやく宿が元の姿に戻った。
主人は囲炉裏の灰をならしながら、「ご苦労さん」と低く言った。
私は道具を背負い、ひとり里へ降りることにした。
宿から駅までは、雪道を一時間あまり歩く。
日は、もう山の端に傾いていた。
里へ出る最終の汽車は、たしか六時過ぎだったはずだ。
雪は、昼すぎから本降りになっていた。
道は白く埋まり、振り返ると自分の足跡だけが点々と続いていた。
山の木々は、雪の重みで、低く頭を垂れていた。
歩くたび、長靴が雪に深く沈み、ぎゅっ、ぎゅっと鳴った。
その音だけが、世界に残された、たった一つの音のようだった。
風はなく、ただ雪の落ちる、かすかな音だけがした。
頬に当たる空気は、刃物のように冷たかった。
その静けさが、かえって耳に痛いほどだった。
道の途中、古い石の道祖神が、雪をかぶって立っていた。
私はなぜか、その前で一度、手を合わせていた。
駅に着いたのは、六時を少し回った頃だった。
無人の、小さな駅だった。
板張りのホームに、裸電球が一つだけ灯っていた。
改札もなく、ただ古びた時刻表が、壁に貼ってあった。
指でなぞると、紙は湿って、ぼろりと角が崩れた。
最終の汽車は、とうに出たあとだった。
やってしまった、と思った。
だが、いまさら宿へ引き返すには、雪が深すぎた。
私は待合のベンチに腰を下ろし、始発を待つことにした。
冷えた木の感触が、ズボン越しに、背中までしみてきた。
ベンチの隅に、片方だけの手袋が、置き忘れられていた。
それは、すっかり雪をかぶって、石のように固まっていた。
いつから、そこにあるのか。
考えると、なぜか落ち着かなくなった。
待合の壁に、煤けたカレンダーが一枚、掛かっていた。
何の気なしに目をやって、私は手を止めた。
そこに刷られた年号が、どうにも合わない。
私の知らない、ずっと昔の年だった。
古い駅には、めくり忘れもあるだろう。
そう自分に言い聞かせて、私は目をそらした。
寒さのせいで、頭がうまく回らなかった。
白い息が、電球の光の中をゆっくりと昇っていった。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、線路の向こうに、ぽつりと灯りが見えた。
一両きりの、古い汽車だった。
雪をかき分けるように、こちらへゆっくり近づいてくる。
近づくにつれ、その輪郭が、雪の中にぼうっと滲んだ。
煙突からは、煙の一筋も、上がっていなかった。
こんな時間に、と思った。
時刻表のどこにも、この時刻の便はなかった。
それでも汽車は、私の前で、すうっと静かに止まった。
扉が、軋みながら横へ開いた。
中から、生あたたかい空気が、ホームへ流れ出した。
古い畳と、機械油の混じったような、妙な匂いがした。
その匂いに、わずかだが、線香のにおいも混じっていた。
私は、吸い寄せられるように乗り込んでいた。
※
車内には、先客が何人かいた。
みな、ずいぶん古い身なりをしていた。
綿入れの半纏に、手拭いの頬かむり。
誰一人、こちらを見ようとしなかった。
床には、藁くずのようなものが、散らばっていた。
天井の電球が、息をするように、ゆっくりと明滅していた。
窓の外は、ただ白い闇だった。
雪明かりだけが、ぼんやりと後ろへ流れていく。
汽車は、ほとんど揺れもせずに進んだ。
おかしかったのは、音だった。
レールの継ぎ目を踏む、あの規則正しい音が、しない。
耳を澄ますほど、その無音が、背中を這うようだった。
どこかで、誰かの咳が、一つ、低く響いた。
それきり、また、深い静けさが戻った。
私は、自分の心臓の音だけを、やけに大きく聞いていた。
私は思いきって、向かいの老人に声をかけた。
「この汽車は、どこまで行きますか」
老人は、首だけをゆっくりとこちらへ回した。
「終いまでだ」と、それだけ言った。
終いが、どこなのかは、言わなかった。
目だけが、私の背後の何かを見ているようだった。
私は、それ以上を聞くことができなかった。
車内の灯りが、一度だけ、ちらりと弱まった。
気がつくと、汽車はもう止まっていた。
扉が開き、つめたい雪の匂いが、また流れ込んできた。
※
私は、その駅で降りた。
降りたのは、私一人だった。
汽車は音もなく扉を閉じ、闇の奥へ消えていった。
駅の名は、墨で書かれた古い木札だった。
その字が、どうしても読めなかった。
なのに、なぜか胸が締めつけられるほど、懐かしかった。
ホームの先に、提灯の灯りがいくつも並んでいた。
小さな、雪に埋もれた集落だった。
雪は、いつの間にか止んでいた。
提灯の灯りは、風もないのに、ゆらゆらと揺れていた。
集落のどこからか、餅をつくような、鈍い音がしていた。
人の営みの音のはずなのに、それはひどく寒々しかった。
雪を踏む自分の足音さえ、どこか遠くに聞こえた。
軒先に、人影がいくつも立っていた。
みな、こちらをじっと見ていた。
その中に、見覚えのある背中が一つあった。
半纏の、肩の繕いの跡。
それは、ほかでもない、私が縫ったものだった。
親方だった。
「親方」と、私は呼んだ。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
振り返った顔は、間違いなく親方だった。
麓へ降りたあの日より、ずっと顔色がよかった。
ただ、その口から吐かれる息は、白くならなかった。
それに気づいて、私は思わず、半歩あとずさった。
「来たのか」と、親方は静かに言った。
私を見ても、少しも驚いた様子はなかった。
「現場は、無事に仕上がりました」と、私は言った。
「ああ。よくやった」
親方が、初めて、私の仕事を褒めた。
胸の奥が、じんと熱くなった。
だが、それと同じだけ、背中が冷たくなっていった。
なぜ親方が、こんなところにいるのか。
そもそも、ここはどこなのか。
「親方は、医者にかかったんじゃ、なかったんですか」
私が言いかけると、親方は、ゆっくり首を振った。
「わしはもう、降りる駅を過ぎてしまった」
その言葉の意味が、私にはわからなかった。
いや、わかりたくなかった、というほうが近い。
親方は、ふと、私の足元へ目を落とした。
「お前、ここの土を、もう踏んだか」
「いえ、まだです」
私はホームの縁に立ったまま、一歩も動いていなかった。
「踏むなよ」と、親方は言った。
低い、けれど刃物のように鋭い声だった。
「お前はまだ、帰る側の人間だ」
その一言で、足が、根が生えたように動かなくなった。
喉の奥が、からからに乾いていた。
軒先の人影が、いっせいにこちらを向いた気がした。
親方は、懐から何かを取り出した。
一本の、古い差し金だった。
「これを持って、戻れ」
「線を引くときは、これで引け」
私は、震える手で、それを受け取った。
真鍮は、雪の中だというのに、不思議と温かかった。
まるで、たった今まで、誰かが握っていたかのように。
「親方も、これで線を引いとったんですか」
問いかけると、親方はかすかに、笑ったようだった。
「お前が、まっすぐ引けるようになるまではな」
そのとき、遠くで、汽笛が一つ鳴った。
さっきの汽車が、戻ってくる音だった。
「乗れ」と、親方は言った。
「次は、もう来ん」
私は、ホームを駆けた。
一度だけ、振り返った。
親方は、もう私のほうを見ていなかった。
提灯の灯りの中を、集落のほうへ、ゆっくり歩いていく背中だった。
その肩の繕いが、灯りに合わせて、かすかに揺れていた。
私は、滑り込んできた汽車に、転がるように飛び乗った。
※
扉が閉まると、車内は真っ暗だった。
さっきまでの先客は、もう一人もいなかった。
私は、もらった差し金を、ただ握りしめていた。
その一本だけが、手の中で温かかった。
いつ眠ってしまったのか、まるで覚えていない。
肩を強く叩かれて、私は目を覚ました。
始発を入れに来た、駅員だった。
「兄さん、こんなとこで寝たら、本当に凍えるよ」
私は、あの無人駅のベンチに、座っていた。
朝の光が、ホームの雪に、白く跳ねていた。
壁のカレンダーは、ちゃんと、その年のものだった。
私は駅員に、昨夜の真夜中の汽車のことを尋ねた。
「夜中の便? そんなもん、何十年も前になくなったよ」
駅員は、不思議そうに笑って、そう言った。
それでも、私の手の中には、古い差し金があった。
真鍮の、見たことのない目盛りの、あの一本が。
里へ降りて、私はその足で、親方の家を訪ねた。
戸口で、おかみさんが、深く頭を下げた。
親方は、ひと月も前に、向こうへ行っていた。
麓の医者へ着くより、ずっと前のことだったという。
つまり、現場を下りた、あの雪の日から、いくらも経たぬうちに。
私が一人で、宿を仕上げていた、ちょうどその間に。
おかみさんは、仏壇の前で、ぽつりと言った。
「あの人、最後の最後に、『線だけは、まっすぐ引け』って」
「それだけ、何度も繰り返しておりました」と。
それは、私が雪の駅で聞いた言葉と、寸分たがわなかった。
仏壇の蝋燭の火が、すうっと一度、傾いた。
私は、ただ、何も言えなかった。
懐の差し金が、その間ずっと、ほのかに温かかった。
※
あれから、もう四十年が過ぎた。
私は今も、あの差し金で、線を引いている。
これで引いた線は、一度として、曲がったことがない。
弟子には、由来を聞かれても、ただ古い物だとだけ答えている。
本当のことを話せば、誰もが、私の正気を疑うだろうから。
ときどき、夜更けの誰もいない現場で、ふと手を止める。
どこか遠くで、汽笛が鳴った、ような気がして。
あれが異世界の駅だったのか、今もって、私にはわからない。
夢にしては、手の中に残ったものが、たしかすぎた。
あの集落の餅をつく音を、私はときどき、夜更けに思い出す。
ただ一つ、確かなことがある。
あの駅の土を、私はとうとう、踏まなかった。
親方が、それだけは、させなかった。
もし踏んでいたら、今ごろ私は、どうなっていたろう。
親方の、あの低い声を、今でも思い出す。
お前はまだ、帰る側の人間だ、と。
まだ、と、親方はたしかに言った。
その「まだ」が、いつまで続くのかは。
とうとう、聞きそびれてしまった。