
もう四十年ほど前、昭和が終わりに近づいた頃の話だ。
当時の私は二十七で、県北の測量会社に入ったばかりの助手だった。
三脚とポールを担ぎ、朝から晩まで山に入る。
それが仕事だった。
梅雨の前の山は、下草が匂い立つように濃かった。
沢の水は冷たく、昼でも日の差さない斜面がいくらでもあった。
そんな山を、一日に何里も歩く。
若い私でも、夜には脛が棒のようになった。
それでも、山は嫌いではなかった。
人のいない場所には、人のいない場所の静けさがある。
笹倉さんは、その静けさの中で、いつも何かに耳を澄ませているように見えた。
何を聞いているのか、その頃の私には、まだ分からなかった。
山の境界を測り直す仕事には、必ず土地の古老が案内につく。
消えた沢の名も、朽ちた杭の位置も、古い人間の頭の中にしか残っていないからだ。
その年、私についたのが笹倉さんだった。
六十を少し越えた、営林署をとうに退いた人だった。
背は低く、首に巻いた手拭いはいつも汗で色が変わっていた。
ただの案内人ではない、と気づいたのは、山に入って三日目のことだ。
測量の合間に、笹倉さんはよく道を外れた。
獣道にもならない斜面を、匂いでも嗅ぐように登っていく。
そうして必ず、苔むした古い墓の前で足を止めた。
誰の墓とも知れない、名も彫られていないような石だ。
笹倉さんはそこに水をかけ、線香を立て、しばらく手を合わせる。
「野墓拾いだ」
本人はそう呼んでいた。
山に捨てられて、誰の記憶にも残っていない墓を拾って回るのだと。
「山はな、いた者の証をひとつ残らず土に仕舞い込む」
手を合わせたまま、笹倉さんは言った。
「だが、石だけは残る。だから拾ってやるのさ」
私は線香と落雁を入れたリュックを背負い、体のいい荷物持ちとして後をついて歩いた。
初めは、仕事の余計な寄り道だと思っていた。
だが笹倉さんは、墓を見つけるたびに、その石の主のことを話した。
どこの家の者で、何を生業にしていたか。
むろん、当てずっぽうだ。
だが、その口ぶりには、妙な確かさがあった。
「石を見りゃ、だいたい分かる」
笹倉さんはそう言って、笑わなかった。
墓を拾い終えると、決まってしばらく、その場を離れなかった。
何かを、待っているようにも見えた。
その考えが変わったのは、あの山に入ってからだ。
※
五月の半ば、少し遠くの、聞き慣れない名の山に入った。
戦後すぐまで小さな鉱山があり、集落ごと山を下りて久しいという土地だった。
「このあたりは、昔えらく人が住んどった」
笹倉さんは崩れた石垣の跡を、指でなぞった。
「人が多けりゃ、墓も多い。忘れられた墓も、な」
歩きながら、笹倉さんは集落のことを話した。
鉱山は、戦後すぐに掘るものが尽きたのだという。
人はひとり、またひとりと山を下りた。
最後まで残った家が、いくつかあったらしい。
「その最後の連中がな、妙な話を残しとる」
崩れた井戸の縁に腰を下ろして、笹倉さんは続けた。
「山の東の窪地には、近づくなと」
「風の入らん窪地だ。そこへ行った者は、里へ戻らんと言われとった」
「戻らんって、どこへ行くんです」
「さあな。神隠しとでも言うんだろう」
「だが、私はそうは思わん」
笹倉さんは、東の斜面の方を、しばらく見ていた。
「戻れんのだと思うよ。行った先から」
その時は、ただの土地の言い伝えだと思っていた。
笹倉さんは、それきり黙って腰を上げた。
集落の跡をひとしきり歩き、暮らしの範囲を見当づけて、笹倉さんは斜面に分け入った。
「こっちが匂う」
その勘は正しかった。
沢のそばに、二基の墓石が並んで残っていた。
苔を削ると、天保三年、と読めた。
江戸の後期だと笹倉さんは言った。
笹倉さんは、いつものように水をかけ、線香を立てた。
プラスチックの筒にしきびを挿し、米と落雁を供える。
手を合わせる横顔は、さっきまでの上機嫌とは、別人のようだった。
「縁もゆかりも無い人の墓に、なぜそこまでするんです」
「縁は、こっちで結ぶもんだ」
そう言って、笹倉さんは目を閉じた。
「見ろ。てっぺんの角だ」
言われて覗くと、四隅がそれぞれ砕いたように欠けている。
「金のあった家の墓石は、こうして欠かれる。欠片を財布に入れておくと、博打に勝つんだと」
笹倉さんはポシェットから小さな金槌を出し、欠けた角をこつこつと叩いた。
「いいんですか、他人の墓を」
「有名税さ。あの世に持って行けるのは六文だけだからな」
適当なことを言って、割れて落ちた中から大きな欠片を私にくれた。
気味の悪さより、好奇心が勝った。
私はそれを財布に仕舞った。
その財布が、その晩どうなるか、まだ知らなかった。
※
先代の墓がもっと奥にあるはずだ、と笹倉さんは探索を続けた。
だが日が傾き、地滑りの跡に行き当たっただけで終わった。
笹倉さんが悔しそうに斜面を見つめた、その時だ。
私と笹倉さんのちょうど間の落ち葉が、鈍い音を立てて宙に舞った。
驚いて見ると、続けざまに自分の足元でも同じことが起きた。
石だ。
どこからか、石が飛んでくる。
「痛」
笹倉さんがこめかみを押さえた。
沢の向こう岸に、猿が一匹座っていた。
歯茎を剥き出して、こちらを嗤うように唸っている。
手ごろな石を掴んでは、力任せに投げてくる。
遊びと呼ぶには、強すぎた。
私は逃げ腰になった。
だが笹倉さんは「痛いんだけど」と低く言うと、次の瞬間、沢へ駆け出した。
止める間もなかった。
水を跳ね上げて沢を渡り、斜面をよじ登り、木立の中へ猿を追って消えた。
猿だぞ、と私は呆然と思った。
素手の人間が、山で猿を追うなんて。
道もない斜面を走れば、崖もあれば折れた竹もある。
考えるほど、恐ろしかった。
名を呼びながら、私はただ待つしかなかった。
小一時間が過ぎた頃、茂みが揺れて笹倉さんが戻ってきた。
全身に、小枝と葉を絡ませている。
「逃げられた」
そう言って、顔をしかめた。
何度も転んだのか、頬に擦り傷がある。
だが右腕を見て、私は息を呑んだ。
肘から下に、血が滴っている。
慌ててタオルで拭った。
笹倉さんは自分の血に気づいてもいない様子で、私の手を邪険に払った。
「なんだ。大丈夫だよ」
とにかく傷を確かめようと、もう一度腕を掴む。
そして、動けなくなった。
傷が、無い。
頬にあるような擦り傷ひとつ、その腕には無かった。
では、この血は何だ。
タオルには、べっとりと赤が付いている。
見間違いではない。
「大丈夫だと言ってるだろう」
笹倉さんは袖を戻し、沢を渡り始めた。
私はタオルの赤と、その背中を見比べていたが、やがて放り捨てた。
見なかったことにしよう、と思った。
考えるほど、恐ろしかったからだ。
それでも私は、笹倉さんの後をついて歩いた。
帰り道を、私一人では見つけられなかったからだ。
この人がいなければ、山を出られない。
その事実だけが、足を前に進ませた。
その日はさらに二つ、笹倉さんは墓を見つけた。
最後の墓は名も無く、小さな石を二つ重ねただけのものだった。
言われなければ、気づきもしなかった。
「こういう小さな墓を見ると、なんだか嬉しくなる」
手を合わせたまま、笹倉さんは呟いた。
「なぜです」
意外だった。
「金が無かったのか、縁が無かったのか。名も付けてもらえなかった子かもしれん」
「それの、どこが嬉しいんです」
笹倉さんは、静かに顔を上げた。
「それでも、いた証に、石が残っている」
「名も、家も、何も残らんでも、石だけは残る」
「石を見た者が、手を合わせる。それで、じゅうぶんだ」
私は、その言葉をうまく飲み込めなかった。
台座に線香が二本、煙をまっすぐ立てていた。
「手を合わせる者だって、気まぐれにやってくる」
さあ帰ろう、と笹倉さんは立った。
「風の無い窪地はな、土がよく物を覚えている」
ふいに、そんなことを言った。
意味は、分からなかった。
ただ、その一言だけが、なぜか耳に残った。
※
帰り道は、来た道と違った。
近道のはずだと笹倉さんは言った。
山はもう真っ暗で、二人とも懐中電灯を掲げていた。
懐中電灯の輪の外は、何も見えない。
足元の落ち葉は、湿って柔らかかった。
下り坂は見通しが悪く、笹倉さんの背中だけを頼りに歩いた。
私の心は、まださっきの小さな墓に繋ぎ止められていた。
いた証か、と繰り返し考えていた。
誰の記憶にも残っていなくても、石だけは残る。
その意味を、私はまだ測りかねていた。
ふと、背後で草を踏む音がした気がした。
振り返っても、闇があるだけだった。
笹倉さんの足音と、自分の足音。
それだけのはずなのに、もう一組、遅れてついてくる音がある気がした。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。
だが、足を止めると、その音も止まった。
「おい」
笹倉さんの声で、我に返った。
道の途中で足を止め、藪の切れた脇へ懐中電灯を向けている。
横顔が、心なしか強張っていた。
草を踏み分けた跡が、脇へ続いていた。
誰かが、そこを通った跡だ。
光の先に、窪地があった。
その窪地だけは、風が入らない。
木々は揺れているのに、そこの草だけが凪いでいた。
二つの光が交わった先に、人型のものがあった。
窪地の木の下、宙に、人の形をした影がぶら下がっている。
私は、生唾を飲んだ。
ひと気の無い夜の山で、人の形をしたものが宙にあるということが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
ぼんやりした霊を見たと言われた方が、まだましだった。
だが、それが霊でないことは、なぜか分かった。
霊には、重さが無い。
あの影には、確かな重さが、あった。
笹倉さんは、迷わずそちらへ動き出した。
止める間もなかった。
近づくと、影は思ったより高い所にあった。
背伸びしても、その足先に手は届かない。
匂いは、無かった。
この気温だ、二日も経てば匂うはずなのに、何も無い。
風の無い窪地は、空気そのものが淀んでいた。
息を吸うと、土と、鉄のような匂いがした。
だが、袖から出た手は、嫌に白かった。
血の通った色では、なかった。
笹倉さんは前へ回り込み、影の顔のあたりに光を向けた。
そして「おお」と短く漏らし、気味悪そうに後ずさった。
私は同じことをする気になれず、ただ見ていた。
やがて笹倉さんは、妙に弾んだ足取りで、その周りを歩き回り始めた。
「下ろしてあげた方が」
言いかけて、あの高さでは無理だと思った。
「まあ待て」
笹倉さんは何か企むような声で、ポシェットを探った。
さっきまで名も無い墓に手を合わせていた人間と、同じとは思えなかった。
おもちゃのような小さなスコップが出てきた。
笹倉さんは、宙の影の真下にしゃがみ込んだ。
そして、スコップを振り上げたまま、首だけこちらへ向けた。
「面白いことを教えてやる」
その声に、腹の表面を撫でられたような寒気がした。
ずく、と土にスコップが入った。
落ち葉ごと、地面が抉られていく。
「魂魄という言葉は、知っとるな」
手を動かしながら、笹倉さんが訊く。
魂魄。
魂のことか、と私は思った。
「道教ではな、魂は陽の気で、天から授かる。魄は陰の気で、地から授かる」
黙々と土を掘りながら、笹倉さんは続けた。
「人が向こうへ渡れば、どちらも肉を離れる。だが、行く先が違う」
頭上の闇から、影の足が悪い冗談のように垂れている。
寒気のする景色だった。
「魄は、その土地に沁みる。人の脂のようにな」
「一度沁みた土地は、なかなか元には戻らん」
「だから、同じ場所で、同じことが繰り返される」
里へ戻らん者がいる、という笹倉さんの言葉が、ふいに耳の奥で鳴った。
「天から授かった魂は、天へ帰る。地から授かった魄は、地へ帰る」
スコップを振る腕に、力がこもってきた。
「同じ場所でも、板の間やコンクリの上だと駄目なんだ。だが、こういう土の上だと、たいてい出てくる。真下からな」
ひゅ、と息が漏れた。
自分の口から出た音だと、しばらくして気づいた。
汗が引いて、得体の知れない冷たさが背を這っていた。
「出たぞ。来てみろ」
笹倉さんはスコップを放り、地面に顔を寄せた。
何が、土の下にあるというのだ。
動けない私に、笹倉さんは掘り出した何かを手のひらに乗せ、鼻先へ突きつけた。
茶色っぽい、とろとろとしたもの。
指の隙間から、糸を引いてこぼれていく。
「何だか分かるか」
口も利けず、首を振ることしかできなかった。
「私にも分からん。だが、こういう窪地の下には、たいていこれがある」
とろとろと、それが指を逃れて落ちていく。
まるで意思を持って、手のひらから逃げるように。
「昔の書物にも載っとる。掘ると、こういうよく分からんものが出る、とな」
笹倉さんは、左目の下を掻いた。
嬉しそうだった。
尋常な目付きでは、なかった。
私も奇妙な体験は幾度もしたし、怪談も集めたつもりだった。
なのに、こんな話は聞いたことがない。
なぜこの人は、こんなことを知っているのか。
底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じった。
「ああ、もう消える」
手のひらの茶色いものは、逃げるようにすべて流れ落ちた。
だが地面を見ても、落ちたはずの痕は無い。
どこへ、消えたのか。
「土に還る魄だ、とでも言えば、昔の人は得心したろうさ」
笹倉さんはもう一度掘ったが、やがて首を振った。
「な、面白いだろう」
私は、返事ができなかった。
面白いなどと、とても思えなかった。
ただ、この人から離れたい、とだけ思った。
笹倉さんが顔を上げた、その時だ。
強い風が吹いて、窪地の周りの木々を一斉に揺らした。
思わず首をすくめ、天を仰いだ。
そして、心臓に楔を打たれたようになった。
懐中電灯のぼんやりした光に、宙の人型の足先が見えた。
朽ちたズボンと、履き古した靴の先が、こちらを向いている。
さっきまで、影は背を向けていたはずだ。
光を、じわじわと上げていく。
不自然に曲がった首と、俯いた頭が、こちらを向いていた。
髪が伸びて、真下から覗かなければ顔は見えない。
風か。
風で、裏返ったのか。
だが、その窪地だけは、風が入らない。
木々は揺れても、そこの草は凪いだままだった。
首の据わらない人型は、風も無いのに、こちらへ向き直っていた。
捩れたのなら、また逆へ捩れ戻るはずだ。
息を殺して見ていたが、人型は硬直したまま動かない。
その、動く気配の無いことが、何より恐ろしかった。
私の恐怖に気づいているのかいないのか、笹倉さんは嬉々とした声を上げた。
「どっちだろうな」
そう言って、にこりと笑う。
どっちとは、何のことだ。
天を仰いでいた顔を、ゆっくりと笹倉さんへ向けた。
首の骨が、油の切れたように軋んだ。
「人がここで戻らぬ者になるから、土の下にあれが湧くのか」
笹倉さんは、真上を振り仰いだ。
頭上の人型の、顔のあたりを、まっすぐに見る。
視線を合わせようとするように。
「それとも、あれが土の下にあるから、人はここへ引かれて来るのか」
なあ、どっちだ。
そう言って、笹倉さんは宙の影に問いかけた。
肩が手の届く所にあれば、親しげに抱いて語りかけるような声で。
※
その後のことは、あまり覚えていない。
気づけば私は沢のそばまで下りていて、笹倉さんは何事も無かったように隣を歩いていた。
「近道だと言ったろう」
そう言って、笑った。
山を出て、車のヘッドライトが見えた時、私はようやく息を吐いた。
家に帰って、財布を開けた。
あの、墓石の欠片を見たかった。
手のひらに乗せた、確かな重さのものを。
だが、財布の中は空だった。
欠片は、ひとつ残らず消えていた。
どこかで落としたのだろう、と思おうとした。
だが、財布の口は、閉じたままだった。
笹倉さんとは、その夏の終わりに測量の仕事が切れて、それきりになった。
野墓拾いを続けているのか、今はもう分からない。
あの後、県北の山をいくつも測ったが、あの窪地のある山にだけは、二度と入らなかった。
仕事で近くを通っても、東の斜面へは、どうしても足が向かなかった。
ただ、あの窪地のことだけは、今も時々思い出す。
土がよく物を覚えている、という一言と一緒に。
里へ戻らん者がいる、と笹倉さんは言った。
あの窪地へ、その者たちが引かれて行くのか。
それとも、あの土の下のものが、里から人を呼ぶのか。
今も、私には分からない。
あの晩、笹倉さんの問いに、宙の影は答えなかった。
答えなかったことが、答えのような気もする。
あの窪地の草は、今も凪いだままだろうか。
山は、いた者の証をひとつ残らず土に仕舞い込む。
そして、時々、そこへ人を呼ぶのだ。