怖い話 文字起こしの四人目

夜の静寂と暖かな灯り

文字起こしの仕事を、もう十五年ほど続けている。

取材や対談の音源を聞いて、話された言葉を、ただ文字に直していく。

それだけの仕事だ。

派手なことは何もない。

誰かが話した言葉を、そっくりそのまま、後ろから受け取る。

自分の言葉は、ひとつも入れない。

会社を辞めてから、ずっと家で一人でやっている。

四十を過ぎて、この暮らしにもすっかり慣れた。

昼に起きて、夜に働く。

私の一日は、たいてい逆さまになっている。

深夜のほうが、音がよく聞こえるからだ。

昼間は、外を走る車や、上の階の足音が、声に薄くかぶさってくる。

夜になると、それがすうっと引いていく。

街の物音が消えて、ヘッドホンの中だけが、世界になる。

人の声の、息の継ぎ目や、言いよどみまでが、はっきりと届く。

その小さな揺れを拾うのが、私の仕事だ。

何百時間と、人の声だけを聞いてきた。

声には、その人の疲れや、ためらいが、にじむ。

言葉になる前の、息の形まで聞き取れるようになった。

そういう耳が、いつのまにか、身についていた。

だから、夜の静けさには、ずいぶん助けられてきた。

その夜も、いつもと同じはずだった。

机の上のコーヒーは、もうとっくに冷めていた。

私は、それを一口飲んで、仕事を始めた。

※

依頼は、小さな編集プロダクションからだった。

何度か仕事をしたことのある、丁寧な担当者だ。

対談の音源が一本。

二人分の声を起こしてほしい、という短い依頼だった。

内容までは、よく知らされていなかった。

ある書き手と、年配の語り手が、思い出を語り合う対談だという。

メールには、収録時間は五十二分、と書かれていた。

添付されたファイルを開くと、長さは五十八分あった。

六分の差を、私はそのとき気に留めなかった。

録音の前後に、雑談でも入っているのだろう、と思った。

機材の調整や、挨拶や、そういう余りの時間だ。

そう思おうとした、と言うほうが、正しいかもしれない。

私はヘッドホンを耳に当て、再生ボタンを押した。

最初に、低い男の声がした。

「もう、回ってますよ」

続いて、もう一人の、少し高い声が「はい」と答えた。

取材する側と、される側。

声は二つだけだった。

私はキーボードに指を置いて、言葉を追い始めた。

話は、ゆっくりと進んでいった。

古い町の話、なくなった店の話、もう会えない人の話。

年配の語り手は、言葉を選ぶように、ゆっくり話した。

書き手のほうは、その間を、丁寧に待っていた。

穏やかな対談だった。

私は、こういう静かな音源が、嫌いではない。

急かされず、言葉が、ひとつずつ置かれていく。

窓の外は、雨になりかけの匂いがしていた。

指は、いつものリズムで動いていた。

画面の中で、文字が、少しずつ積み上がっていった。

※

三十分ほど進んだあたりで、奇妙なことに気づいた。

二人の声の合間に、もう一つ、低い声が混じっている。

最初は、エアコンの音だと思った。

あるいは、隣の部屋のテレビの音か。

いったん再生を止めて、部屋の中の音を確かめた。

エアコンは切れていた。

隣の部屋には、誰もいない。

私はその数秒を、何度も巻き戻して聞いた。

音量を、少しずつ上げていった。

声だった。

はっきりと、人の声だった。

「うん」とか、「そうだね」とか、短い相づちを打っている。

会話の内容に、ちゃんと合わせて。

二人が一区切りつけると、その低い声が、間に挟まる。

まるで、三人で話しているようだった。

けれど、二人は、その声に一度も返事をしない。

気づいていないのだ。

その声が聞こえているのは、私だけらしかった。

取材者でもなく、被取材者でもない、三人目がいた。

私は手を止めて、しばらく画面を見ていた。

気のせいだと思いたかった。

私はクライアントに、短いメールを送った。

この対談は、何人で収録されましたか、と。

こんな間の抜けた質問をするのは、初めてだった。

返事は、思いのほか、すぐに来た。

「二人です。スタジオには、二人だけでした」

念のため確認しました、と担当者は付け加えていた。

間違いなく、二人だけだ、と。

私はもう一度、その箇所を聞いた。

三人目の声は、たしかにそこにいた。

二人が笑うと、少し遅れて、低く笑った。

二人が黙ると、その声も、黙った。

短く息を吸う音まで、聞こえた。

ヘッドホンの中の空気が、急に、近くなった気がした。

自分の耳の、すぐ後ろで、誰かが息をしているような。

私は一度ヘッドホンを外し、部屋を見回した。

いつもの六畳の部屋に、いつもの本棚があるだけだった。

※

私は、長く使っている音声編集のソフトを立ち上げた。

波形を見れば、何かわかるかもしれないと思った。

二人の声は、画面の上で、なだらかな山になって並んでいた。

その合間に、もう一つ、小さな山があった。

二人が話していない、無音のはずの場所に。

低い声の部分だけを、取り出してみようとした。

周りの音を削り、その声だけを残す作業だ。

いつもなら、雑音を消すための手順だった。

けれど、削れば削るほど、その声は、くっきりとしてきた。

消そうとするほど、近づいてくるようだった。

私は途中で、作業をやめた。

これ以上はっきりさせては、いけない気がした。

その声が何を言っているのか、全部わかってしまう前に。

画面を閉じて、また、ただの文字起こしに戻った。

聞こえたものを、聞こえたまま、文字にするだけだ。

そう、自分に言い聞かせた。

窓の外で、とうとう雨が降り始めていた。

細い雨の音が、声の下に、薄く敷かれていく。

対談の中の二人は、その雨を知らないはずだった。

録音されたのは、晴れた日の午後だと聞いていた。

それなのに、三人目の声の後ろにだけ、雨の音がした。

私の部屋の窓を打つ雨と、同じ調子で。

私は、それも考えないことにした。

※

四十五分を過ぎたあたりで、私は完全に手を止めた。

三人目の声が、こう言ったからだ。

「このへん、聞き取りにくいよね」

ちょうど、二人の声が重なって、聞き取りにくい箇所だった。

私は何度も、その数秒を、巻き戻していた。

うまく文字にできず、苦労していたところだった。

その声は、録音された対談に向けたものではなかった。

いま、これを聞いている私の作業に、相づちを打っていた。

録音は、何日も前のものだ。

それなのに、いまの私の手の動きを、知っているようだった。

手のひらに、汗をかいていた。

それでも、再生は止めなかった。

止めてしまえば、何かを認めることになる気がした。

残りは、あと十分ほどだった。

部屋の時計の、秒を刻む音が、やけに大きく聞こえた。

私はいつもの癖で、口を開きかけた。

疲れた夜に、決まって出てしまう独り言がある。

自分でも、半分は無意識に呟く、短い言葉だ。

言おうとした、その、ほんの直前だった。

ヘッドホンの中で、三人目の声が、はっきりと言った。

「あと少しだ」

低い、疲れたような声だった。

それは、私がいつも呟く独り言だった。

私が、これから口にしようとしていた言葉だった。

一字も、違わなかった。

三人目は、私がこれから言う言葉を、先に言った。

私は口を、開いたまま閉じた。

結局、その独り言は、その夜は言えなかった。

言えば、二度目を、なぞることになる気がした。

長いあいだ、私は暗い画面を見ていた。

秒針の音だけが、部屋に残っていた。

※

音源は、明け方までかかって、最後まで起こした。

三人目の声のことは、報告書には書かなかった。

どう書けばいいのか、わからなかった。

納品すると、クライアントから、丁寧なお礼のメールが届いた。

いつも通りの、何の変哲もないやり取りだった。

それきり、その会社からの依頼は、来ていない。

催促する気には、なれなかった。

あの六分の差が何だったのか、今もわからない。

五十二分の収録に、五十八分の音が入っていた。

余った六分の中に、誰がいたのか。

その人は、いつから、そこにいたのか。

考えないように、している。

ただ、ときどき思うことがある。

あの声は、録音の中から、私を聞いていたのではない。

私のいる、この部屋の側にいて、録音の中に紛れていただけだ。

二人の対談を聞いていたのは、私だ。

そして、私を聞いていた誰かが、もう一人いた。

晴れた日の録音に、私の部屋の雨が降っていた理由は、たぶんそれだ。

あの声は、ずっと、こちら側にいた。

今も、私は同じ仕事を続けている。

夜に、ヘッドホンをつけて、人の声を、文字にする。

生活を変えるほどの、勇気はなかった。

ただ、ひとつだけ、変わったことがある。

独り言を言う前に、一瞬、間を置くようになった。

その言葉が、先に聞こえてこないかを、確かめるために。

口を開く前の、その短い沈黙が、いちばん怖い。

何も聞こえなければ、私は、安心して呟く。

自分の言葉が、ちゃんと自分のものだと、確かめてから。

今のところ、先に言われたことは、一度もない。

今のところは。

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