電話帳の最後

古い家の中の光と影

祖父が亡くなったのは、七年前の春のことだった。

今年の七回忌は、例年より少し小規模で済ませることになった。

遠方の親戚は来られないものも多く、近くに住む者だけで法要を終えた後、母から「ついでに納戸の整理を手伝ってほしい」と頼まれた。

俺は東京で一人暮らしをしている。実家は茨城の田舎で、最寄り駅まで車で二十分かかる。帰省するのも年に一度か二度で、だいたい盆か正月だった。

久しぶりに見る実家は、少し縮んだような気がした。

庭の柿の木は相変わらず、手入れされないままそこにあった。祖父が生きていた頃は、毎年秋になると大量の柿が実って、近所にも配っていた。今は誰も採らないから、熟れすぎた実が落ちて地面を汚している。

納戸は家の裏手にあり、祖父母が長年使い続けた農機具や生活用品が詰め込まれていた。

古いリンゴ箱。使われなくなった漬物樽。祖父が着ていた作業着が束になって吊るされている。

母と二人で段ボール箱に仕分けていると、奥まった棚の隅に、布張りの手帳があるのに気づいた。

表紙は藍色で、縦書きで「連絡先」とだけ書かれていた。

触れると表紙の角が擦り切れていて、長年使い込まれた感触があった。

母は「ああ、じいちゃんの電話帳だ。古いやつだね」と言って、また別の棚に目を向けた。

俺は何となく手帳を開いた。

細かい字で、人名と電話番号が並んでいた。

隣保組の人たち。農協の担当者。出入りの農機具屋。遠い親戚の住所と電話番号。昭和の頃から少しずつ書き足されたらしく、インクの色もページによってまちまちだった。

懐かしい名前もあった。

幼い頃、よく家に来ていた隣の田村のお爺さん。盆になると必ず顔を出していた遠縁の叔母さん。七五三の写真に一緒に写っていた近所の婆ちゃん。

そのほとんどは、もう会えない人たちだった。

ページを半分ほどめくったあたりで、俺は少し奇妙なことに気づいた。

いくつかの名前の横に、小さく印がついている。

黒いボールペンで書かれた「×」の記号と、そのすぐ横に数字の羅列。

年号と月と日のように見えた。

最初は誕生日かと思った。

でも日付はバラバラで、同じ月に固まっているわけでも、特定の季節に集中しているわけでもなかった。

気になって、印のついた名前をひとつずつ確認し始めた。

田村のお爺さん。八年前に脳梗塞で亡くなったと母から聞いていた。

「×」の隣の日付を見た。

一致していた。

農協の鈴木さん。たしか十二年前に、農道での事故だったと。

その日付も、合っていた。

遠縁の叔母。去年の冬、入院していたと母が電話で話していたのを覚えている。

その日付も、正確だった。

祖父は誰かが亡くなるたびに、この手帳にその人の命日を書き込んでいたのだ。

電話をかけようとして、繋がらなくなった人の記録。

弔い方とはこういうことか、と思った。

冠婚葬祭の細かい日付を手帳に書き留める人は多い。でも祖父のそれは少し違った。

記録というよりも、忘れないために書いていたのだと思う。もう連絡先として使うことのできなくなった人の名前を、消さずにそのままにして、ただ日付だけを添えていた。

なんとなく、泣きそうになった。

母に「じいちゃんの手帳、命日が書いてある」と声をかけると、母はちらりと手帳を見て、「ああ、そういうことしてたんだね」と静かに言って、またリンゴ箱を段ボールに移し始めた。

ページを最後まで読み終えようとしたとき、俺は少し迷った。

印のない名前がたくさんある。まだ生きている人たちの名前が、ずっと続いていた。

元気なはずの親戚。毎年年賀状をやり取りしている近所の人。

その人たちの名前を目にするのが、なぜか少しだけ怖かった。

いつかこの余白に、「×」の印が書き込まれる日が来るのかもしれない。

それでもめくり続けて、最後のページに差し掛かった。

見覚えのある名前があった。

俺の名前だった。

東京の携帯番号も、正確に書いてあった。

祖父が亡くなる前の年に帰省したとき、「何かあったときのために」と伝えたのだろうと思う。

印はついていなかった。

当たり前だ。俺はまだ生きている。

少しほっとして、手帳を閉じようとした。

でも何かが引っかかって、俺は再び最後のページを開いた。

自分の名前の右側の余白に、うっすらと何かが書いてある気がした。

インクが薄くて、最初は気づかなかった。

手帳を窓のほうへ持っていき、午後の光にかざして見た。

数字だった。

年号と月と日。

見間違いかと思って、目を細めてもう一度確かめた。

今日から、三日後の日付だった。

俺は手帳を閉じた。

棚の奥に、元あった場所に戻した。

母には何も言わなかった。

どう言えばよかったのかも、今もわからない。

帰りの電車の中で、ずっとその数字のことを考えていた。

祖父が書き込んだものではないはずだ。祖父は七年前に亡くなっている。

では誰が書いたのか。

インクの色は、他のページと同じだった。

手帳を処分しようとは思わなかった。

処分すれば、その日付が消えるわけでもないのはわかっている。

ただ、手帳がなくなれば見間違いだったと思い込めるかもしれない、という気持ちが少しあった。

でも実際には、手を伸ばせなかった。

棚に戻したまま、俺は納戸を出た。

三日後が来るのが怖い。

でも正直に言えば、その日が来て何事もなかったとしても、それはそれで怖い気がしている。

何も起きなかったとして、では俺があの日付をどう解釈すればいいのか、まだわからないから。

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