貝殻をくれた子

浜辺

祖母の家は、瀬戸内海の小さな島にあった。

家のすぐ裏手が砂浜で、縁側を出ると、もう潮の匂いがした。

私はその家で、十歳の夏休みを過ごした。

毎朝、祖母と二人で、波打ち際を歩くのが、二人のお決まりだった。

祖母は歩くのが遅くて、私は何度も先に駆け出しては、振り返って手を振った。

砂に半分だけ埋もれた貝殻を拾うのが、祖母の癖だった。

「ほら、これはかわいいね」

そう言って、色の薄い桜貝を、私の掌にそっと乗せてくれる。

私はその貝殻を、台所の隅にあった古いガラス瓶に、一粒ずつ入れていくのが好きだった。

朝の浜辺は、遠くでフェリーの汽笛が鳴っているほかは、静かだった。

磯のにおいと、日に焼けた畳の香り。

祖母の白髪が、潮風に細くなびいているのを、今でもはっきりと覚えている。

夏休みが半分ほど過ぎた朝、祖母は庭石の苔で足を滑らせてしまった。

大事には至らなかったが、しばらくは散歩を控えるよう、叔父に言われていた。

「みかちゃんは、行っておいで」

祖母は、少し寂しそうに笑って、私の頭に麦わら帽子をかぶせた。

私は少し心細かったが、縁側を降りれば、いつもの砂浜があった。

一人で波打ち際を歩くのは、ほんの少しだけ大人になったような気がして、悪い気分ではなかった。

前から、誰かが歩いてくるのに気づいたのは、浜のちょうど真ん中あたりだった。

同じくらいの年の女の子が、こちらへ向かってくる。

水色の、膝丈のワンピース。

端が少しだけほつれた、古い形の麦わら帽子。

帽子のつばの影で、顔はよく見えなかった。

すれ違いざま、その子は立ち止まって、小さな掌を私に差し出した。

「これ、きれいでしょう」

掌の上には、朝の光にうすく赤くひかる、小さな貝殻が一つ乗っていた。

私が「ありがとう」と受け取ると、その子は小さく笑って、また波打ち際の方へ歩いていった。

振り返ったときには、もう砂浜の先、曲がった松の向こうに見えなくなっていた。

翌朝も、同じ場所で、同じ子に会った。

その日は、内側が虹色に光る、小さな巻貝をくれた。

「これ、けっこう珍しいんだよ」

と、少しだけ自慢げに言う。

私はお礼を言って、お返しに、祖母と拾った白い二枚貝をあげた。

その子は、それを両手で丁寧に受け取って、麦わら帽子の中に、そっとしまった。

次の朝も、その次の朝も、その子は同じ時間に、同じ場所にいた。

毎朝、違う貝殻を一つずつ、私に渡してくれる。

名前を聞いても、「んー」と笑うだけで、教えてはくれなかった。

どこから来ているのかも、分からなかった。

ただ、私が差し出したものは、いつも嬉しそうに受け取ってくれた。

家に戻ると、祖母は縁側で足を伸ばしていた。

「みかちゃん、今日も海の匂いがするねえ」

私はある日、思い切って、その子の話を祖母にしてみた。

毎朝会う、水色のワンピースの子のこと。

貝殻をくれること。

名前を教えてくれないこと。

祖母は、しばらく黙って、私の掌の貝殻を見ていた。

「この島にはね、もう、あんたくらいの年の子は、一人もいないんだよ」

祖母は、静かにそう言った。

叱る口調でも、笑う口調でもなかった。

どう返事をすればいいのか分からなくて、私は、祖母の湯呑みに麦茶を足しただけだった。

祖母は何も聞かず、いつものように、掌の貝殻を指の先で撫でていた。

夏休み最後の朝、私はいつもより早起きをして、浜に出た。

波打ち際を歩いていくと、その子はいつもより、少し遠い場所に立っていた。

近づくと、その子は今までと違う、真剣な顔をしていた。

手の中には、見たこともないような、大きな桜色の貝殻があった。

「今日で、お別れだね」

私が頷くと、その子は貝殻を、私の掌にそっと乗せた。

そして、じっと私の目を見て言った。

「おばあちゃんを、大切にしてあげてね」

ぺこり、と小さくお辞儀をする。

その子はいつものように波打ち際を、曲がった松のある方へ歩いていった。

後ろ姿が朝の光に溶けて見えなくなるまで、私はそこに立っていた。

ふと足元を見ると、砂の上には、私の足跡しかついていなかった。

その日、私は島を離れて、東京へ戻った。

祖母は、玄関で長いこと手を振ってくれた。

それからも、夏には必ず、祖母の家を訪ねていた。

浜にも毎朝出たが、もうあの子の姿を見ることはなかった。

高校に入る頃、祖母は足腰が弱って、島の家を離れ、叔父の住む街の施設に入った。

私の方も、学業や仕事に追われて、島を訪ねるのは、数年に一度になっていった。

祖母が亡くなったのは、私が二十八歳になった春のことだった。

葬儀のあと、母と叔母と一緒に、数年ぶりに島の家を片付けた。

台所の棚の奥から、私があの夏に貝殻を入れていたガラス瓶が出てきた。

瓶の中には、砂まで一緒に、あの頃のままの貝殻が残っていた。

私に何も言わず、祖母が長いあいだ、一人でしまっておいたらしかった。

仏間の押し入れからは、古いアルバムが何冊か出てきた。

セピア色のページをめくっていくと、一枚の写真に、私の目は止まった。

細かな砂粒の見える白黒の浜辺に、小さな女の子が立っている。

水色、と思える、膝丈のワンピース。

端のほつれた、少し古い形の麦わら帽子。

掌には、白い貝殻を一つ乗せていた。

写真の裏には、祖母の細い字で、たった一言だけ書かれていた。

「みどり 昭和三十年 八月」

「これ、誰?」

母に聞くと、母はしばらく黙って、その写真を見ていた。

「あなたのおばあちゃんの、三つ下の妹」

「十歳の夏にね、この浜で海に流されて、見つからなかった」

母は、ゆっくりと続けた。

「おばあちゃんはね、あの日、一緒に浜にいたんだって」

「自分があの子から目を離さなければ、って、ずっと気にしていた」

掌の中の、小さな貝殻たちの重さが、そのとき、急に思い出された。

あの夏、波打ち際でぺこりとお辞儀をして、松の方へ歩いていった、小さな背中。

「おばあちゃんを、大切にしてあげてね」

あの声が、私に向かって言われたものだったのか、それとも、姉のそばに残したい言葉だったのか、今でも分からない。

ただ、あの夏の朝だけ、あの子は姉のそばに、そっと帰ってきていたのだと思う。

祖母の瓶の中の貝殻は、一粒ずつ、私が東京に連れて帰った。

窓辺に置いたガラス瓶に、朝の光が差すとき、私はいつも、あの島の砂浜のにおいを、ほんの少しだけ思い出す。

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