
祖母の家は、瀬戸内海の小さな島にあった。
家のすぐ裏手が砂浜で、縁側を出ると、もう潮の匂いがした。
私はその家で、十歳の夏休みを過ごした。
毎朝、祖母と二人で、波打ち際を歩くのが、二人のお決まりだった。
祖母は歩くのが遅くて、私は何度も先に駆け出しては、振り返って手を振った。
砂に半分だけ埋もれた貝殻を拾うのが、祖母の癖だった。
「ほら、これはかわいいね」
そう言って、色の薄い桜貝を、私の掌にそっと乗せてくれる。
私はその貝殻を、台所の隅にあった古いガラス瓶に、一粒ずつ入れていくのが好きだった。
朝の浜辺は、遠くでフェリーの汽笛が鳴っているほかは、静かだった。
磯のにおいと、日に焼けた畳の香り。
祖母の白髪が、潮風に細くなびいているのを、今でもはっきりと覚えている。
※
夏休みが半分ほど過ぎた朝、祖母は庭石の苔で足を滑らせてしまった。
大事には至らなかったが、しばらくは散歩を控えるよう、叔父に言われていた。
「みかちゃんは、行っておいで」
祖母は、少し寂しそうに笑って、私の頭に麦わら帽子をかぶせた。
私は少し心細かったが、縁側を降りれば、いつもの砂浜があった。
一人で波打ち際を歩くのは、ほんの少しだけ大人になったような気がして、悪い気分ではなかった。
前から、誰かが歩いてくるのに気づいたのは、浜のちょうど真ん中あたりだった。
同じくらいの年の女の子が、こちらへ向かってくる。
水色の、膝丈のワンピース。
端が少しだけほつれた、古い形の麦わら帽子。
帽子のつばの影で、顔はよく見えなかった。
すれ違いざま、その子は立ち止まって、小さな掌を私に差し出した。
「これ、きれいでしょう」
掌の上には、朝の光にうすく赤くひかる、小さな貝殻が一つ乗っていた。
私が「ありがとう」と受け取ると、その子は小さく笑って、また波打ち際の方へ歩いていった。
振り返ったときには、もう砂浜の先、曲がった松の向こうに見えなくなっていた。
※
翌朝も、同じ場所で、同じ子に会った。
その日は、内側が虹色に光る、小さな巻貝をくれた。
「これ、けっこう珍しいんだよ」
と、少しだけ自慢げに言う。
私はお礼を言って、お返しに、祖母と拾った白い二枚貝をあげた。
その子は、それを両手で丁寧に受け取って、麦わら帽子の中に、そっとしまった。
次の朝も、その次の朝も、その子は同じ時間に、同じ場所にいた。
毎朝、違う貝殻を一つずつ、私に渡してくれる。
名前を聞いても、「んー」と笑うだけで、教えてはくれなかった。
どこから来ているのかも、分からなかった。
ただ、私が差し出したものは、いつも嬉しそうに受け取ってくれた。
家に戻ると、祖母は縁側で足を伸ばしていた。
「みかちゃん、今日も海の匂いがするねえ」
私はある日、思い切って、その子の話を祖母にしてみた。
毎朝会う、水色のワンピースの子のこと。
貝殻をくれること。
名前を教えてくれないこと。
祖母は、しばらく黙って、私の掌の貝殻を見ていた。
「この島にはね、もう、あんたくらいの年の子は、一人もいないんだよ」
祖母は、静かにそう言った。
叱る口調でも、笑う口調でもなかった。
どう返事をすればいいのか分からなくて、私は、祖母の湯呑みに麦茶を足しただけだった。
祖母は何も聞かず、いつものように、掌の貝殻を指の先で撫でていた。
※
夏休み最後の朝、私はいつもより早起きをして、浜に出た。
波打ち際を歩いていくと、その子はいつもより、少し遠い場所に立っていた。
近づくと、その子は今までと違う、真剣な顔をしていた。
手の中には、見たこともないような、大きな桜色の貝殻があった。
「今日で、お別れだね」
私が頷くと、その子は貝殻を、私の掌にそっと乗せた。
そして、じっと私の目を見て言った。
「おばあちゃんを、大切にしてあげてね」
ぺこり、と小さくお辞儀をする。
その子はいつものように波打ち際を、曲がった松のある方へ歩いていった。
後ろ姿が朝の光に溶けて見えなくなるまで、私はそこに立っていた。
ふと足元を見ると、砂の上には、私の足跡しかついていなかった。
その日、私は島を離れて、東京へ戻った。
祖母は、玄関で長いこと手を振ってくれた。
※
それからも、夏には必ず、祖母の家を訪ねていた。
浜にも毎朝出たが、もうあの子の姿を見ることはなかった。
高校に入る頃、祖母は足腰が弱って、島の家を離れ、叔父の住む街の施設に入った。
私の方も、学業や仕事に追われて、島を訪ねるのは、数年に一度になっていった。
祖母が亡くなったのは、私が二十八歳になった春のことだった。
葬儀のあと、母と叔母と一緒に、数年ぶりに島の家を片付けた。
台所の棚の奥から、私があの夏に貝殻を入れていたガラス瓶が出てきた。
瓶の中には、砂まで一緒に、あの頃のままの貝殻が残っていた。
私に何も言わず、祖母が長いあいだ、一人でしまっておいたらしかった。
仏間の押し入れからは、古いアルバムが何冊か出てきた。
セピア色のページをめくっていくと、一枚の写真に、私の目は止まった。
細かな砂粒の見える白黒の浜辺に、小さな女の子が立っている。
水色、と思える、膝丈のワンピース。
端のほつれた、少し古い形の麦わら帽子。
掌には、白い貝殻を一つ乗せていた。
写真の裏には、祖母の細い字で、たった一言だけ書かれていた。
「みどり 昭和三十年 八月」
「これ、誰?」
母に聞くと、母はしばらく黙って、その写真を見ていた。
「あなたのおばあちゃんの、三つ下の妹」
「十歳の夏にね、この浜で海に流されて、見つからなかった」
母は、ゆっくりと続けた。
「おばあちゃんはね、あの日、一緒に浜にいたんだって」
「自分があの子から目を離さなければ、って、ずっと気にしていた」
掌の中の、小さな貝殻たちの重さが、そのとき、急に思い出された。
あの夏、波打ち際でぺこりとお辞儀をして、松の方へ歩いていった、小さな背中。
「おばあちゃんを、大切にしてあげてね」
あの声が、私に向かって言われたものだったのか、それとも、姉のそばに残したい言葉だったのか、今でも分からない。
ただ、あの夏の朝だけ、あの子は姉のそばに、そっと帰ってきていたのだと思う。
祖母の瓶の中の貝殻は、一粒ずつ、私が東京に連れて帰った。
窓辺に置いたガラス瓶に、朝の光が差すとき、私はいつも、あの島の砂浜のにおいを、ほんの少しだけ思い出す。