怖い話 数えてはいけない函

雪の中の静かな行列

これは、私がまだ表具の修業を終えたばかりの頃の話である。

昭和も四十年代の半ば、北国の、雪の深い土地でのことだ。

今でも、これは、私が出会った中でいちばん静かな怖い話だと思っている。

今となっては、あの函(はこ)のことを、どう語ればよいのか、自分でもよくわからない。

派手な祟りも、血の匂いもしない。

ただ、数が、ひとつずつ増えていっただけのことだ。

それだけのことが、これほど人を冷たくさせるとは、当時の私は知らなかった。

ともあれ、起きたことを、順に述べるよりほかにない。

私には、師匠がいた。

表具一筋に生きた、無口な老人だった。

掛軸を仕立て、屏風を継ぎ、古い経巻の傷んだ紙を、息を詰めるようにして繕う人だった。

糊の濃さ、紙の目、裏打ちの刷毛の運び方を、師匠は言葉ではなく、手つきだけで教えた。

「紙には、紙の都合がある」

それが、師匠の口癖だった。

古いものには古いものの理屈があり、人がそれを急かしてはならぬ、という意味だったと思う。

その師匠が、ある冬の朝、仕事場の机に向かったまま、静かに眠りについた。

昼を過ぎても物音がせぬので襖を引くと、筆を握ったまま、もう動かぬ姿になっていた。

枕元には、繕いかけの古い巻物が、そのまま広げられていた。

雪あかりが障子を白く染め、部屋はひどく静かだった。

私は、しばらく、敷居の前から動けずにいた。

弔いがすみ、四十九日も過ぎて、私は、師匠の仕事場と、その奥の蔵を、そっくり継ぐことになった。

身寄りのない師匠には、ほかに継ぐ者がいなかったのだ。

蔵の片付けにかかったのは、雪の解けはじめた春先のことである。

古い屏風や、黴の匂いのする掛軸の合間に、ひとつだけ、見覚えのない包みがあった。

ほかの道具はどれも師匠の手で几帳面に札がつけられていたのに、その包みにだけ、何も記されていなかった。

煤けた木箱の中に、さらに桐の箱が納められ、その中に、それはあった。

黒漆の、両手にちょうど載るほどの小さな函だった。

蓋には継ぎ目が見えず、どこから開くのかも分からぬほど、隙なく仕立てられていた。

漆は古いのに、妙に艶があり、私の指の影をぬらりと映した。

函のまわりには、麻の細い紐が、幾重にも結ばれている。

その結び目が、表面のあちらこちらに、こぶのように盛り上がっていた。

結び目はどれも固く、いつ、誰が結んだものか、見当もつかなかった。

桐箱の底に、師匠の手とは違う、古い墨で書かれた紙片が一枚あった。

「決して数えるな」と、それだけが書かれていた。

達筆ではないが、一字ずつ念を押すような、奇妙に力のこもった筆だった。

私は、何のことか分からぬまま、その紙片を蓋の上に戻した。

ただ、その函を手にしてから、蔵の空気が、わずかに重くなったような気がした。

そういえば、と私は思い出した。

生前、師匠が一度だけ、蔵の奥を指して、妙なことを言ったことがある。

「あの隅のものだけは、わしが片づける。お前は触らんでいい」

そのときは、何か高価な道具でも仕舞ってあるのだろうと、気にも留めなかった。

けれど今、思い返せば、師匠はあの函のことを言っていたのだ。

触れさせまいとした師匠の声が、急に、別の意味を帯びて耳に残った。

その函のことを知る者が、ひとり、訪ねてきた。

師匠と長く付き合いのあった、古道具を商う老人だった。

弔いに間に合わなかった詫びを述べたあと、その人は蔵の隅の函に目を留め、しばらく黙っていた。

「やはり、まだ、ここにあったか」

そう呟いた声が、妙に低かったのを覚えている。

私は茶を出し、その函の由来を尋ねた。

老人の話は、半分は世間話のように、半分は独り言のように続いた。

この国の北のはずれに、樫生(かしおい)という名の、小さな山あいの集落があったという。

周りの村からは長く隔てられ、人の行き来もほとんどない土地だったらしい。

痩せた斜面に、肩を寄せ合うように家が建ち、冬は半年近く雪に閉ざされた。

昔、ひどい飢饉の年が、幾度も続いたことがあった。

蓄えは底をつき、雪の下から掘り出せるものは、もう何も残っていなかった。

そのたびに、樫生の人々は、口を減らすために、家のうちの誰かを、山の向こうへと送り出した。

「向こうへ渡る」と、土地の者はそれを呼んだ。

渡る者は、わずかな塩と、草鞋の替えだけを持たされ、峠の道を登っていった。

麓のどこかに、食い扶持を得られる土地があると、誰もが信じていたのだ。

けれど、峠を越えて出ていった者は、ついに、誰ひとり戻ってはこなかった。

便りのひとつも、届かなかった。

戻らぬ人の数だけ、集落の暮らしは細り、やがて家々の灯も、ひとつずつ消えていった。

残された者たちは、その悲しみを、どこにも捨てられなかった。

土に埋めれば土が荒れ、川に流せば川が濁ると、彼らは信じていた。

送り出してしまったという悔いが、雪のように、家の中に降り積もっていったのだ。

そこで、村の古老が、ひとつの作法を定めた。

戻らぬ人ひとりにつき、ひとつ、その函に紐を結ぶ。

渡っていった者の面影を、その結び目に託すのだという。

結び目を結いこんだ函を、集落は「数え函」と呼んだ。

函は、悲しみの数を、人の代わりに覚えておくための器だった。

結ぶのは、いつも、いちばん年嵩の者の役目だったという。

渡っていった者の名を口の中で唱えながら、麻紐を、ひと結び、結う。

唱え終えると、その名は、もう声に出してはならぬ決まりだった。

名を呼べば、呼ばれた者が、こちらを振り返ってしまうからだ。

そうして集落は、悲しみを、声から、結び目へと移し替えていった。

数え函には、固く守るべき決まりが、三つあった。

ひとつ、結び目を数えてはならない。

数えれば、向こうにいる者たちが、こちらの数を、数えはじめるという。

ひとつ、人の住む家に、長く留め置いてはならない。

家に置けば、その家の者が、ひとり、またひとりと、いつのまにか姿を見せなくなる。

ひとつ、決して開けてはならない。

中に何が納められているのかは、結いこんだ者たちのほかは、誰も知らぬという。

「数を数えるということは、向こうに、こちらの数を教えるということだ」

老人は、湯呑みを置きながら、そう言った。

だから集落は、これを旅の職人に託したのだと、老人は続けた。

表具師や、経師や、仏具を直してまわる者たちに、ひとつずつ預け、遠くへ遠くへと運ばせた。

ひとつの土地に長く置けば、そこに悲しみが根を張ってしまう。

だから、絶えず動かし、流し続けねばならなかった。

悲しみを土地に留めぬための、それが樫生のやり方だったのだ。

「師匠も、若い時分に、これを預かったのだろう」

「だが、あの人は、よほど律儀だったとみえる」

「動かさず、ただ、静かに蔵で守り続けていたのだな」

老人はそう言って、函には指一本触れぬまま、帰っていった。

私は、半ば笑い話のように聞いていた。

雪国には、こうした言い伝えが、いくらでもある。

結び目を数えるなというのも、要は、古いものをむやみに弄るなという戒めだろう、と思った。

師匠の「紙には紙の都合がある」という口癖と、どこか似ている気もした。

私は函を蔵の棚に戻し、しばらくの間、そのことを忘れていた。

異変に気づいたのは、梅雨の頃だったと思う。

蔵で裏打ちの仕事をしていると、棚の上の函が、どうにも気になりはじめた。

結び目のこぶが、暗がりの中で、人の背中のように見える瞬間があった。

ある雨の日、私は何の気なしに、函の表の結び目を、指で追って数えた。

十二、あった。

別に、どうということもなかった。

数え終えて、私は手を洗い、いつものように仕事に戻った。

禁を破ったという感覚すら、そのときはなかった。

その晩、妙な夢を見た。

雪の積もった峠道を、人の列が、こちらに背を向けて登っていく夢だった。

蓑を着た者、子を負ぶった者、杖をついた老婆。

誰も振り返らない。

ただ黙々と、白い坂の上へ、上へと消えていく。

風が鳴っているはずなのに、夢の中では、足音ひとつ聞こえなかった。

雪を踏む音も、衣擦れの音も、まるで誰かが消してしまったように、なかった。

ただ、白い坂と、黒い背中の列だけが、音もなく動いていた。

列のいちばん後ろの一人が、ふと足を止め、半分だけ、こちらを向きかけた。

顔が見えるより先に、私は目を覚ました。

夜具が、汗で冷たくなっていた。

翌朝、私は蔵へ行き、もう一度、結び目を数えた。

理由は、自分でもわからない。

ただ、確かめずにはいられなかった。

十三、あった。

数え違いだろうと思い、もう一度、はじめから、声に出さずに指で追った。

やはり、十三だった。

函の紐の結び目は、最初に見たときより、ひとつ増えていた。

私は、自分の指を、しばらく見つめていた。

前の晩、確かに十二だったと、声に出して言ってみた。

言ってから、声に出したことを、ひどく後悔した。

蔵の奥が、ふと、息を詰めたように静かになった気がしたからだ。

それからというもの、私は仕事の手を止めては、棚の函を盗み見るようになった。

数えてはならぬと思うほど、指が、勝手に結び目を追いたがった。

禁じられた数を、確かめずにいることが、これほど苦しいとは思わなかった。

その頃、私の元には、ひとり、住み込みの弟子がいた。

手先の器用な、口数の少ない若者だった。

夜遅くまで、ひとり、糊を練る音をさせている、まじめな子だった。

ある朝、いつもの刻限になっても、その弟子が仕事場に出てこなかった。

部屋を覗くと、夜具はきちんと畳まれ、荷物だけが、そっくりそのまま残されていた。

履物も、財布も、書きかけの手紙さえ、机の上に置かれたままだった。

近在の者に尋ねても、誰ひとり、その姿を見た者はいなかった。

駅の者も、峠の茶屋の者も、首をかしげるばかりだった。

便りのひとつも残さず、若者は、それきり、戻らぬ人となった。

故郷に帰ったのだろうと、まわりは言った。

けれど、彼の郷里からも、ついに、何の知らせもこなかった。

私は、古道具の老人の言葉を思い出した。

家に置けば、その家の者が、ひとり、またひとりと、姿を見せなくなる。

馬鹿げている、と思おうとした。

あれはただの言い伝えだ、結び目が、ひとりでに増えるはずもない、と。

そう思おうとして、私は、もう一度、蔵の棚に目をやった。

棚の上の函は、雨の日と同じ場所に、同じように、ただ置かれていた。

それでも、確かめずにはいられなかった私は、また、数えた。

十四、あった。

弟子がいなくなって、三日目の朝のことだった。

数えてはならない。

そう書かれた紙片の意味が、ようやく、骨身にこたえてわかった。

数えるたびに、私は、向こうにいる者たちに、こちらの数を教えていたのだ。

この家には、師匠がいて、弟子がいて、私がいた。

その数が、ひとつずつ、向こうへと写し取られていく。

私は、自分が、いったい何を数えていたのかを、ようやく悟った。

私は、その日のうちに、函を蔵から出した。

二度と数えぬよう、目を伏せたまま、桐の箱に納め、煤けた木箱に戻した。

そして、古道具の老人を訪ね、ことの次第を残らず話した。

老人は驚きもせず、ただ静かに頷いた。

「やはり、数えたか」

責める色は、その声になかった。

「あれは、留めておくものではない。流していくものだ」

「では、次へ運ばねばならんな」

そう言って、北へ向かう行商の知り合いに、函を託す手筈を整えてくれた。

私は、ひとつだけ尋ねた。

結び目は、これからも、増え続けるのですか、と。

老人は、しばらく考えてから、静かに答えた。

「数える者がいるかぎりは、な」

「函は、ただ覚えているだけだ。増やしているのは、いつも、こちら側の人間だよ」

その言葉が、今も、胸の底に錘のように沈んでいる。

悲しみを増やしていたのは、函ではなく、確かめずにいられなかった私自身だったのだ。

函を手放す前の晩、私は、最後にもう一度だけ、あの峠の夢を見た。

白い坂を、人の列が登っていく。

今度は、列の数が、前より少しだけ、長くなっているように見えた。

最後尾の一人の背格好が、出ていった弟子に、どこか似ている気がした。

けれど、確かめようと近づくと、その姿は、また一歩、坂の上へと遠ざかった。

いちばん後ろの一人が、また、足を止めた。

振り向きかけたその背に、私は、心の中で詫びた。

数えてしまって、すまなかった、と。

函は、翌朝、雪のない季節の北の道へと、運ばれていった。

それきり、私は、その行方を追っていない。

追えば、また、数えてしまう気がしたからだ。

弟子は、とうとう戻らなかった。

あの若者が、ただ黙って郷里へ帰っただけなのだと、今でも、私はそう思おうとしている。

思おうとして、いつも、十四という数のところで、思考が止まる。

あれから、長い年月が過ぎた。

私は、もう二度と、結ばれた紐を数えたことはない。

数というものが、これほど恐ろしいと知ったのは、後にも先にも、あのときだけだ。

今でも、寺の境内などで結ばれたおみくじの数を、つい目で追ってしまいそうになる。

そのたびに、私は視線を逸らし、息を整える。

数えてはならぬものが、この世にはあるのだと、骨身に染みて知っているからだ。

弟子の荷物は、しばらく蔵に置いていたが、やがて、これも北へ送り出した。

あの子の面影までが、結び目に変わってしまう前に、と思ったのだ。

ただ、ひとつだけ、どうしても思い出せぬことがある。

あの集落の名を、確かに老人の口から聞いたはずなのに、書こうとすると、するりと指の間から抜けていく。

樫、までは出てくる。

その先の一字が、どうしても、出てこないのだ。

まるで、その名までもが、いつのまにか、向こうへ渡ってしまったかのように。

だから私は、この話を書き留めながらも、肝心の名だけは、どうしても記すことができない。

それで、よいのだと思っている。

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