郵便受けに入っていたテープ

郵便受けに入っていたテープ

郵便受けに、宛名のないビデオテープが入っていました。

平成六年の、七月のはじめです。

ラベルは貼ってありましたが、何も書かれていませんでした。

糊の跡だけが、四角く残っていました。

私は当時、千葉の佐原で、電器店の修理を担当していました。

テレビとビデオデッキばかり、一日じゅう分解している仕事です。

だから、素性の分からないテープを再生することに、何のためらいもありませんでした。

木内電機の作業台

勤めていたのは、駅前の木内電機という店です。

店主と、私と、パートのおばさんの三人でした。

奥に作業台があって、修理待ちのテレビが常に五、六台積んでありました。

あの頃は、ビデオデッキがよく壊れました。

テープを噛む、巻き戻らない、映像が横に流れる。

原因はたいてい、ヘッドの汚れかベルトの伸びです。

私は毎日、そのどちらかを直していました。

※

店主には、口を酸っぱくして言われていました。

「客のテープは、頭の三十秒しか見るな」

映るかどうかの確認だけしろ、という意味です。

家庭用のテープには、他人が見るべきでないものが入っていることがあるからです。

私はその決まりを守っていました。

店では、守っていました。

※

小野川沿いの借家

私が借りていたのは、小野川という細い川の沿いの、古い二階建てでした。

一階が六畳と台所、二階が四畳半。

裏手に「だし」と呼ばれる石段があって、川面まで下りられるようになっていました。

昔は、そこで洗い物をしたり、舟から荷を上げたりしたのだそうです。

私が住んでいた頃には、もう苔だらけで、誰も使っていませんでした。

※

大家は、二軒隣の岩瀬さんという年配の女性でした。

鍵を渡されたとき、岩瀬さんはこう言いました。

「前の人の物が、押入れに一つだけ残っとります」

「捨てんでください」

押入れの上段に、桐の衣紋掛けが一本だけ掛かっていました。

ずいぶん古いもので、肩の部分が黒ずんでいました。

私は、片づけ忘れだろうと思いました。

佐原は、川沿いに古い商家が並ぶ町です。

夏には観光の小舟が出て、船頭さんの説明する声が窓から入ってきました。

七月の祭りの時期には、朝から囃子の練習の音がします。

笛と、大太鼓と、鉦。

あの音が始まると、町の空気が少し湿った感じになります。

私はその町が好きでした。

少なくとも、あの夏までは好きでした。

※

一つだけ残す決まり

あとで近所の人に聞いて、それが決まりごとだと知りました。

この川沿いの借家では、出ていく人が、自分の物を一つだけ残していくのだそうです。

茶碗でも、下駄でも、何でもかまいません。

「全部持って出た家には、取りに戻ってくる」

そう言われているのだと、向かいの畳屋のご主人が教えてくれました。

笑い話のような口ぶりでした。

けれど、その人は最後にこう付け足しました。

「だから、残っとる物は動かさんことです」

テープを回した夜

テープを見つけたのは、仕事から帰った夜八時頃です。

店から借りてきたデッキが部屋にあったので、そのまま入れました。

映ったのは、暗い部屋でした。

電気を点けずに撮ったのだと思います。

輪郭だけが、かろうじて分かります。

その部屋の真ん中に、女の人が座っていました。

※

女の人は、何かを喋っていました。

独り言のようでもあり、誰かと話しているようでもありました。

音は割れていて、言葉としては聞き取れません。

ただ、間の取り方が会話のそれでした。

喋って、少し待って、また喋る。

相手の返事を待つ間が、確かにありました。

※

私は、くだらないと思いました。

近所の子どもの悪ふざけだろうと決めつけて、テープを流したまま、雑誌を読みはじめました。

畳に寝転がって、扇風機を首振りにして。

川からの風で、蚊取り線香の煙がずっと横に流れていました。

音が消えた

しばらくして、テレビから音が消えました。

終わったのだと思って、顔を上げました。

まだ映っていました。

女の人が立ち上がって、押入れのほうへ歩いていくところでした。

そして、襖を開けて、中へ入りました。

襖は、内側から閉まりました。

※

数秒後、部屋の明かりが点きました。

誰が点けたのかは、映っていません。

明るくなった部屋を見て、私は雑誌を置きました。

見覚えのある部屋でした。

柱の傷も、鴨居の高さも、窓の桟の割れ方も同じです。

私が寝転がっている、その部屋でした。

昨日の私

そのあと、テープが終わるまで映っていたのは、昨日の私でした。

帰ってきて、鞄を置いて、シャツを脱ぐところから。

台所で麦茶を飲み、洗面所で顔を洗い、扇風機の向きを変える。

順番も、時間の間隔も、私の記憶とぴったり合っていました。

カメラの位置は、押入れのあたりです。

襖の隙間から撮ったような、少し低い角度でした。

※

怖いというより、腹が立ちました。

誰かが部屋に入って、仕掛けていったのだと思ったのです。

私はテープを止めて、押入れを開けました。

中には何もありませんでした。

カメラも、三脚も、電源のコードもありません。

あるのは、あの桐の衣紋掛けだけでした。

店で調べた

翌日、私はそのテープを店の作業台に持って行きました。

業務用のデッキなら、録画された日時の情報が読めることがあります。

民生機では表示されない、テープの端に記録された信号です。

私はそれを読み出しました。

録画開始の日付は、三月十四日でした。

前の住人が、その家を出た月です。

※

おかしいのは、そのあとでした。

明かりが点いてからの部分だけ、日付が変わっていたのです。

そこには、七月の日付が入っていました。

つまり、前半と後半で、四か月ずれていました。

継ぎ足して録ったのなら、そういうこともあります。

けれど、後半を録った七月には、あの家に住んでいたのは私です。

※

テープの製造年も見ました。

ケースの底に、小さく刻印があります。

そのテープは、当時から十五年ほど前の型でした。

もう店では扱っていない、古い規格の記録面です。

店主に見せると、しばらく手のなかで回してから、こう言いました。

「これ、どこで拾った」

拾ったのではない、と私が言うと、店主は返事をしませんでした。

※

衣紋掛けが二本

その晩、私はもう一度テープを回しました。

明かりが点いた場面で、一時停止しました。

押入れの襖は開いたままです。

その中に、衣紋掛けが写っていました。

二本、掛かっていました。

※

私は立ち上がって、押入れを開けました。

一本しかありません。

何度数えても、一本です。

テープの画面と、目の前の押入れを、私は交互に見比べました。

同じ部屋で、同じ位置で、本数だけが違いました。

その晩は、電気を点けたまま眠りました。

※

翌朝、押入れを開けました。

衣紋掛けは、二本ありました。

その週から、私は押入れに背を向けて眠るのをやめました。

足のほうを押入れに向けて、頭を玄関側にしました。

そうすると、川からの風が顔に当たって、余計に眠れませんでした。

夜中に目が覚めると、必ず襖のほうを見ました。

閉まっているのを確かめて、また目を閉じます。

それを、朝まで何度も繰り返しました。

※

祭りの晩

七月十五日の晩、町は祭りでした。

山車が出て、囃子が朝まで鳴っています。

私は人混みを避けて、家にいました。

窓を開けると、笛の音が川面を伝って、部屋の中まで入ってきます。

その音の切れ目に、押入れのほうで、木がきしむような音がしました。

桐が乾いて鳴るのだと、自分に言い聞かせました。

※

翌朝、押入れを開けました。

衣紋掛けは、二本のままでした。

片方の肩に、細い糸くずが引っかかっていました。

白っぽい、木綿の糸です。

私の服には、その色の糸を使ったものはありませんでした。

縫製工場の名前を思い出したのは、そのあとです。

※

大家の話

私は岩瀬さんのところへ行きました。

前の住人のことを訊きました。

岩瀬さんは、湯呑みを出しながら、少し困った顔をしました。

「三月に出ていかれました」

「女の方で、二年ほどおられて」

私は、決まりのことを訊きました。

一つだけ残す決まりを、その人は守ったのか、と。

岩瀬さんは、湯呑みを置いて、こう言いました。

「全部持って行きました、と言われました」

「きれいに、何も残さずに」

前の人のこと

前の住人のことは、近所で少しずつ聞きました。

三十代の、髪の長い女の人だったそうです。

川向こうの縫製工場に勤めていて、朝は自転車で出ていきました。

あいさつはきちんとする人で、悪く言う人は一人もいませんでした。

ただ、みんなが同じことを言いました。

「よう、独り言を言うとった」

※

畳屋のご主人は、もう少し具体的に覚えていました。

夏の晩、窓を開けていると、隣から話し声がしたそうです。

会話に聞こえたので、誰か来ているのだと思っていた。

けれど、その家に人が入っていくのを見たことは一度もなかった。

「返事の間が、あるんですよ」

ご主人はそう言いました。

私は、テープの中の間の取り方を思い出しました。

※

誰が置いたのか

あの一本を残したのは、前の住人ではありませんでした。

岩瀬さんが、自分の家から持ってきて、掛けたのだそうです。

「空っぽのまま人に貸すわけにはいきませんから」

岩瀬さんは、そう言いました。

決まりを破った家を、そのままにはできなかったのです。

だから、身代わりを一本、置いた。

※

私はテープのことを話しました。

岩瀬さんは、途中から湯呑みに手をつけなくなりました。

聞き終えて、しばらく黙って、それからこう言いました。

「あの人が押入れに入ったのは、隠れるためではありません」

私は、意味が分かりませんでした。

岩瀬さんは続けました。

「何も残せんかった人は、自分を置いていくんです」

岩瀬さんの家の押入れには、物がぎっしり詰まっていました。

お茶を出してもらったとき、襖が半分開いていて、それが見えました。

古い座布団、行李、缶に入った何か。

その一番手前に、桐の衣紋掛けが束ねてありました。

十本以上あったと思います。

私が見ているのに気づいて、岩瀬さんは襖を閉めました。

「うちは貸家を三軒持っとりますから」

そうとだけ言いました。

※

岩瀬さんは、最後にこう言いました。

「あの人、何も残しませんでした」

「けど、何も持って行けんかったんかもしれません」

私は、その違いについて、しばらく考えました。

残さなかったのと、持って行けなかったのとでは、まるで違います。

岩瀬さんは、湯呑みを片づけながら、独り言のように付け足しました。

「持って行けん人は、置いていくしかないんです」

※

だしを洗う水

この町には、もうひとつ決まりがあります。

盆の前に、だしの石段を洗うのです。

洗った水は、必ず川下へ流します。

川上へ流すと、流したものが戻ってくると言われています。

※

向かいの畳屋のご主人が、あとで教えてくれました。

前の住人は、だしを洗うとき、いつも川上へ水を流していたそうです。

何度か注意されて、そのたびに「すみません」と謝ったのだそうです。

けれど、直りませんでした。

「あの人、知らんかったんじゃない」

「知っとって、そうしとった」

ご主人はそう言いました。

三度目にテープを回したのは、八月に入ってからです。

怖いもの見たさではありません。

確かめたいことがあったのです。

明かりが点いたあとの場面が、記憶と合っているかどうか。

回してみると、映っていたのは、昨日ではありませんでした。

その日の朝の、私でした。

起きて、麦茶を飲んで、シャツを着る。

数時間前の自分が、押入れの高さから撮られていました。

※

私はデッキの停止ボタンを押しました。

押してから、しばらく手が離せませんでした。

テープは、更新されていました。

誰かが録り足しているのではありません。

録り足すには、あの部屋に入らなければならないからです。

※

ラベルの糊跡

私は店の作業台で、テープのラベルを剥がしました。

糊の跡に、鉛筆の字がうっすら残っていました。

紙を貼り替える前に、直接書いてあったのだと思います。

読めた字は、二文字だけでした。

「だし」

※

私はそのテープを、盆の前の日に、だしの石段から川下へ流しました。

ケースごと沈めて、しばらく見ていました。

黒い箱が、水の色に紛れて見えなくなりました。

それで終わりだと思いました。

※

翌朝、郵便受けに入っていました。

濡れてもいませんでした。

私が残したもの

私はその年の秋に、佐原を出ました。

仕事の都合ということにしましたが、本当の理由は別です。

出ていくとき、押入れに衣紋掛けを一本だけ残しました。

岩瀬さんの家から来た、あの桐の一本です。

もう一本のほうは、どうしても触れませんでした。

※

テープは、鍵と一緒に岩瀬さんに渡しました。

受け取るとき、岩瀬さんは中身を確かめませんでした。

「次の方が来られたら、どうしましょう」

私がそう訊くと、岩瀬さんは玄関の三和土を見たまま答えました。

「そのときは、そのときです」

あの家を出るとき、私は畳を上げて掃除をしました。

押入れの床板の下に、新聞紙が敷いてありました。

日付は、私が引っ越してくる前の年のものでした。

その新聞紙の隅に、鉛筆で線が引いてありました。

正の字が、いくつも並んでいました。

数えると、二十を少し超えていました。

何を数えたものかは、分かりません。

私は、それを元に戻して、板を伏せました。

※

いまも

三十年経ちました。

私はいま、埼玉に住んでいます。

押入れのない、マンションの部屋です。

それでも、クローゼットの中には、必ず何かを一つだけ残してあります。

引っ越すたびに、何かを置いていきます。

意味がないことは分かっています。

※

去年、佐原へ行きました。

あの家はもうありません。

更地になって、車が三台停まっていました。

だしの石段だけが、川べりに残っていました。

私は、そこに立って川を見ました。

水は、上流から下流へ流れていました。

当たり前のことなのに、そのことに、ひどく安心しました。

※

家に残された物をめぐる話としては、空き家の内側から閉まる鍵や、抜いても戻る古書の紙片も、後味の悪さが残ります。

川と町の決まりごとという点では、沈んだ村の渡し場もあわせてどうぞ。

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