
台所から家内が私を呼ぶ。
その声のあとに、いつも半拍の間がある。
私が返事をするための間ではない。
その半拍が過ぎてから、私は「ああ」と答える。
五十年、この癖がどこから来たのか、家内には話していない。
話しても仕方がないと思ってきたし、今も、うまく話せる気がしない。
ただ、順を追って書くことならできる。
昭和四十六年の秋のことだ。
※
私はその頃、二十九だった。
電電公社の請負で、山の中に電話線を引く仕事をしていた。
外線工手という。
柱を建て、腕金を打ち、碍子を並べ、線を張る。
その年、内陸の局がいくつも自動化されて、それまで局の交換手を呼び出していた在にも、黒いダイヤル式の電話が入ることになった。
私が入ったのは、最上川の支流をさらに二つ遡った先の谷だった。
県道から林道に折れ、九つ折りの坂を上がり切ると、急に空が狭くなる。
三方を岩壁に囲まれた、袋のような地形だった。
奥の壁だけがひときわ高く、在の者はそれを屏風と呼んでいた。
谷の名は杓子沢といった。
柄の細い杓子を上から見たような形をしているからだと、あとで聞いた。
在は十四戸。
杉皮の屋根に石を並べた家が、沢の両岸に、思い出したような間隔で建っていた。
それまで谷にあった電話は、川端の店に一台だけだった。
在の者はそこまで歩いて行って、局を呼び出し、麓の親戚や農協と話した。
それを十四戸ぜんぶに引く。
柱を二十六本建てる算段だった。
私と、班の年長の岸田さんと、麓から通う二人。
四人で、十月いっぱいの仕事だった。
谷の歴史は、局の資料に少しだけ残っていた。
杓子沢に人が入ったのは江戸の末で、麓の炭の需要に押されて上がってきた炭焼きが始まりだという。
屏風の裏は北向きの急斜面で、木の育ちが遅いかわりに堅く締まる。
その堅い炭が値を取ったので、十四戸ぶんの暮らしが谷の中で立った。
明治の終わりに炭が売れなくなってからは、萱と楮と、わずかな畑で食いつないだ。
出て行った家もあるが、屋号だけは残して、空いた家を隣が使っていた。
だから在の戸数は、私が入ったときも、百年前と同じ十四だった。
※
初日のことを、私は今でも順番どおりに思い出せる。
谷の入口の橋の袂で、在の代表と落ち合う約束になっていた。
朝の八時に着いたが、誰もいない。
沢の音がやたらに大きく、川霧が林道の下のほうにだけ残っていた。
橋の上から沢の上手を見ると、萱を刈った斜面に人影がひとつ立っていた。
背をこちらに向けて、萱の束を担いでいる。
その日の書類には、在の代表の名が書いてあった。
上の家の重蔵さん、六十一歳。
私は口の横に手を当てて、その名を呼んだ。
返事がない。
もう一度、今度は腹から呼んだ。
屏風のほうから、私の声が薄くなって返ってきた。
そのあとに、「おおい」と返事があった。
斜面の人影は動かなかったが、返事はたしかにそちらから聞こえた。
私は手を挙げて、橋を渡ろうとした。
背中で、砂利を踏む音がした。
振り返ると、重蔵さんが立っていた。
林道のほう、つまり私が今来た側から歩いてきていた。
日に焼けた、顎の四角い人だった。
「今、呼んだが」
そう言った。
怒っているのでも驚いているのでもない、確かめる声だった。
私は、はいと答えた。
重蔵さんは私の顔をしばらく見て、それから沢の上手を見た。
斜面の人影はもういなかった。
萱の束が、刈った場所に置いたまま残っていた。
「今日は柱の場所だけ見て、線は張らねでくれ」
重蔵さんはそう言って、先に立って歩き出した。
私は、山の年寄りには段取りに口を出したがる人が多いものだと思った。
それだけのことだと思った。
※
杓子沢の暮らしは、私が回ってきた在の中でも古いほうだった。
冬は屏風の裏から雪が回り込んで、林道が三月まで開かない。
だから秋のうちに、味噌も炭も油も、一冬ぶんを担ぎ上げる。
家々の軒に山栗が吊るしてあって、朝早くから叩く音がしていた。
子どもが四人いた。
分校はもうなく、麓の学校まで週のはじめに下りて、金曜に帰ってくる。
私たちが柱を建てはじめると、その四人が毎日ついて回った。
足場ボルトを打つ音が面白いらしく、二本目からは打つ回数を数えていた。
岸田さんは民謡が好きで、腕金を締めながらよく唸っていた。
音程がひどく、子どもたちに笑われていた。
窯ノ上のトヨさんという八十過ぎの女の人が、毎日、昼に漬物を持ってきた。
茄子のからし漬けが、汗をかいた口に沁みるほどうまかった。
悪い在ではなかった。
むしろ、行った先の中では気持ちのいいほうだった。
ただ、二つだけ、私は初めのうちから引っかかっていた。
ひとつは、在の者が電話を怖がるでも珍しがるでもない、妙な扱い方をしたことだ。
川端の店の電話で、局を呼び出して話をするとき。
杓子沢の者は、受話器を取ってから、必ず三つ数えて答えた。
「はい」でも「もしもし」でもいい。
とにかく、受話器を耳に当ててから、口を開くまでに三つぶんの間があった。
店の婆さまも、重蔵さんも、若い嫁さんも、全員が同じだった。
私は、山の者は反応が鈍いのだと思っていた。
もうひとつは、呼び方だ。
在の者は、人を呼ぶのに名を使わなかった。
「上の家」「川端」「窯ノ上」「向かい」。
屋号で呼び、屋号で答える。
子どもだけは名で呼ばれていたが、それも家の中でだけだった。
外に出ると、子どもも「上のとこの下の子」になった。
私はこれも、古い在ならよくあることだと思った。
実際、そういう在は他にもあった。
一度だけ、重蔵さんが自分から谷の話をしたことがある。
三日目の夕方、十二番柱の場所を決めるのに、二人で屏風の下まで歩いた。
壁の真下に、畳三枚ぶんほどの平たい岩が地面から出ていた。
苔がなく、そこだけ人の足で磨かれて黒光りしていた。
「呼び場だ」
重蔵さんはそう言った。
昔、山へ入った者を呼び戻すときは、家からではなく、必ずここから呼んだのだという。
「ここが、いちばんよぐ返る」
私は、拡声器のない時代の知恵だと思って感心した。
重蔵さんは、その岩には上がらなかった。
私が上がろうとしたら、腕を掴んで止められた。
掴む力が、六十一の人のものではなかった。
「上がるなら、一人で上がれ」
そう言って、それきり呼び場の話はしなかった。
帰りに、栗の落ちているところを教えてくれた。
歩きながら、麓の孫の話をした。
写真を見せてもらった。
悪い人ではなかった。
だから聞かなかった。
聞いておけばよかった。
※
異変らしいものが最初に起きたのは、四日目の午後だった。
私は六番柱の上で、腕金の水平を見ていた。
足元は十メートル下、沢に向かって落ちる斜面だ。
下から、私の名を呼ばれた。
姓ではなく、名のほうだった。
声はよく通っていて、若い男の声のようでもあり、そうでないようでもあった。
私は柱を締めていた安全帯の上で、体をひねって下を見た。
誰もいない。
岸田さんは三本先の柱で、背を向けて作業していた。
麓から通う二人は、その日は資材で下りていた。
私は降りて、岸田さんに聞いた。
「呼んどらん」
岸田さんはそう言って、それから顔を上げた。
「屏風だべ。ここ、よぐ返るがら」
それで納得した。
実際、この谷はよく返った。
釘を落としても、屏風から音が返ってきた。
ただ、そのあと一つ、気になることがあった。
私は試しに、自分の名を屏風に向かって呼んでみた。
返ってくるまでに、思っていたより長くかかった。
一つ、二つ、三つ、と数えて、それから返ってきた。
音の速さと壁までの距離を考えれば、そんなに待つはずがない。
私はその日、野帳の隅に「反響 三」と書いた。
その字を、翌朝もう一度見た。
「反響 三」の下に、書いた覚えのない二文字が足してあった。
「きいた」
鉛筆の濃さは同じだった。
「た」の最後をはねる癖も、私のものだった。
岸田さんの字ではない。
子どもがいたずらをしたのだとしても、あの筆致にはならない。
私はその頁を破らずに、そのままにした。
今もその野帳は手元にある。
※
六日目の朝、九番柱の下で、私は足跡を見た。
柱は前日に建てたばかりで、足場ボルトを地上二メートルから上に打ってある。
その足場ボルトの、上から三本目と四本目に、乾いた泥が付いていた。
柱の根元にも、同じ泥が薄く残っていた。
私は自分の地下足袋の底を見た。
形が違う。
私のより、はっきり小さかった。
子どもだろうと思って、四人に聞いた。
四人とも、あの柱には登っていないと言った。
子どもというのは、こういうとき自慢したがるものだ。
四人の顔には、自慢の色がなかった。
そのかわり、いちばん年上の女の子が、変なことを言った。
「返事、した?」
私は意味がわからなかった。
女の子は、それきり何も言わずに走って行った。
※
八日目に、トヨさんが漬物を持ってきて、私の隣に腰を下ろした。
その日は雨で、午前中はずっと納屋を借りて碍子を選り分けていた。
トヨさんは、私が選り分けている白い碍子を一つ取って、掌の中で転がした。
そして、雨音の中で、こう言った。
「昨日の夕方、沢の上であんた、呼んだろう」
私は呼んでいない。
昨日の夕方は、麓に下りて資材の伝票を切っていた。
六時までは局にいた。
そう言うと、トヨさんは碍子を私の手のひらに戻した。
「んだが」
それだけ言って、しばらく黙っていた。
それから、雨のほうを見たまま、こう続けた。
「返事しなさったのは、あんたでねがった」
私は笑おうとして、笑えなかった。
納屋の中は暗く、雨の音が屋根を叩いていて、トヨさんの横顔は輪郭しか見えなかった。
「どういうことですか」
そう聞いた。
トヨさんは答えなかった。
かわりに、こう言った。
「ここでは、呼んだ者が、自分で受けるもんだ」
「受ける、というのは」
「返ってくるのを、しまいまで聞く」
「聞いて、聞いだ、と口さ出す」
「そうすると、閉じる」
何が閉じるのか、私にはわからなかった。
私が黙っていると、トヨさんは立ち上がって、笠を被った。
出て行きぎわに、一つだけ付け足した。
「初日に、あんた、上の家の名を呼んだべ」
「あれ、二回だな」
※
その晩、私は麓の宿で野帳を開いた。
毎日、作業の開始時刻と終了時刻を書き込むことになっている。
局に出す日報と突き合わせるためだ。
私は宿の帳場を借りて、局の当直に電話を入れ、四日ぶんの記録を読み上げてもらった。
私の野帳の時刻は、局の記録より三分遅かった。
四日とも、きっちり三分だった。
ただ一日、八日目だけが六分ずれていた。
その日、私は何をしたか。
昼に、屏風に向かって自分の名を呼んでみた。
それから夕方、宿へ戻る前にもう一度、試すつもりで呼んだ。
二回だ。
私はそのとき、この二つを結びつけなかった。
腕時計が山の冷えで狂ったのだと思った。
思っておいたほうが、その晩は眠れた。
※
翌週、私は局の資料室で古い野帳を借りた。
杓子沢には戦前にも一度、電話を引く計画があったらしいと、局の主任が言ったからだ。
昭和十四年の工事記録が、綴じられて残っていた。
経過地の承諾書に、十四戸ぶんの拇印が並んでいた。
その最後に、工事中止の理由が一行だけ書いてあった。
「在ノ申出ニヨリ中止」
理由は書いていない。
かわりに、その下に鉛筆で、記録係が書いたと思われる走り書きが残っていた。
「柱ハ立テテヨシ、線ハ谷ノ外ヘ出スナ、トノコト」
線は谷の外へ出すな。
私はその一行を写して、局を出た。
外は秋の日で、川原の芒が白かった。
私はそれを、山の在にありがちな迷信だと思った。
思ったが、写した紙は捨てなかった。
※
十月の二十九日が、全戸開通の日だった。
朝から雲がなく、屏風の壁が乾いて白っぽく見えた。
私たちは各戸を回って引込線を止め、保安器を付け、電話機を据えた。
据えるたびに、その家の者が受話器を取って、耳に当てた。
そして三つ数えて、「はい」と言った。
どの家も同じだった。
午後三時、局とつないで、一斉に試験通話をかけることになっていた。
局の交換台から順に呼び出し、各戸で受けて、私が線の状態を記録する。
私は川端の店に机を借りて、そこに陣取った。
一番、川端。
呼び出し音が三回鳴って、受話器を取る音。
一、二、三。
「はい」
二番、向かい。
同じだった。
三番、窯ノ上。
トヨさんの声が、少し嬉しそうだった。
四番、五番、六番。
七番まで、全部同じ間だった。
私は正直、この谷の三つ数えを、そのころにはもう可笑しく思っていた。
局の交換手も途中で笑って、「杓子沢はみんな三つですね」と言った。
私も笑った。
※
八番は、上の家だった。
重蔵さんの家だ。
私はその番号を読み上げてから、手が止まった。
上の家には、線をつないでいない。
つなげなかった、と言うほうが正しい。
重蔵さんは、九月の終わりから在にいなかった。
私が谷に入って十日ほどで、沢の上手へ萱を見に行ったきり、戻らなかった。
在の者は捜索を頼まず、麓の駐在にも届けなかった。
私が岸田さんと騒いだとき、トヨさんが「そういうもんだ」と言って、それきりだった。
上の家は空き家になり、引込線は柱の上で束ねたまま、保安器も付けていなかった。
だから八番は、番号だけがあって、線のない番号だった。
私は交換手に、八番は飛ばしてくれと言うつもりで、口を開いた。
その前に、呼び出し音が鳴りはじめていた。
一回。
二回。
受話器を取る音がした。
「はい」
三つ、数えていなかった。
私は机に肘をついたまま、動けなかった。
交換手が「もしもし」と言った。
向こうは何も言わなかった。
それから、私の名を呼んだ。
姓ではなく、名のほうだった。
四日目に柱の上で聞いた、あの声だった。
私は答えようとした。
口を開いた。
私が息を吸うのと同時に、受話器の向こうで「はい」と返事があった。
私の声だった。
その番号には、まだ線をつないでいなかった。
※
交換手は、混線でしょうと言った。
局の記録には、八番の試験通話は「不通」と残っている。
私は自分の耳を疑うことにして、その日のうちに谷を出た。
翌日、機材の引き上げに戻ったとき、トヨさんが橋のところで待っていた。
トヨさんは、私に何も聞かなかった。
かわりに、背負い梯子の緩んだ縄を掛け直しながら、ぽつぽつと話した。
ここは、返る谷だ。
昔から、谷に向かって人の名を呼んだら、返ってくるのを最後まで聞かねばならない。
聞いて、聞いた、と口に出す。
そうやって、呼びと返りが一組になって閉じる。
閉じなかった返りは、谷に残る。
残った返りは、名を持っているから、その名の主のところへ行こうとする。
だが返りは声であって、人ではない。
だから、その名の主の代わりに返事をするという形でしか、居ることができない。
代わりに返事をされた者は、そのぶん、呼ばれたことを失う。
呼ばれても届かない。
届いても、自分の名だと思わなくなる。
そうやって、名を抜かれる。
「だがら、名では呼ばね」
「だがら、電話でも、三つ待つ」
私は、三つの意味を聞いた。
返りが返ってくるだけの間を、こちらが空けてやる。
先に口を開けば、返りは受け取られないまま残る。
三つは、その谷の距離だった。
そして電話には、屏風がない。
受話器に向かって名を呼んでも、返るものがない。
返らない声は、どこへ行くのか。
トヨさんは、そこまでは言わなかった。
言わずに、縄を締め終えて、梯子を背負った。
「あんたのせいでねぇ」
そう言った。
言い方が、あまりに慣れていた。
※
杓子沢は、その八年後に無人になった。
最後の二戸が麓へ下りたと、局の同僚から聞いた。
電話は、廃止の手続きが遅れて、しばらく生きていたそうだ。
誰もいない谷に、十四本の線が張られたままだった。
私はそれきり、あの谷へ行っていない。
仕事も、五十を過ぎて外線を降りた。
高いところが怖くなったわけではない。
柱の上にいると、下から呼ばれる気がして、体をひねってしまうからだ。
一度、それで安全帯を掴み損ねた。
それが潮時だと思った。
※
初日に橋の上で私が呼んだのは、重蔵さんの名だった。
二回呼んで、返事をもらった。
返事をしたのは、重蔵さんではなかった。
私はそれを、受け取らなかった。
受け取り方を知らなかったのだから、仕方がないと今でも思う。
思うが、重蔵さんはそのあと十日で、呼ばれても振り向かない人になった。
在の者が呼んでいたのを、私は見ている。
何度も呼んでいた。
重蔵さんは、そのたびに、少しだけ遅れて振り返った。
返事は、いつも先に済んでいた。
※
私は今、八十を前にしている。
孫が二人いて、上の子はもう高校に行っている。
家内は台所から私を呼び、孫は玄関から私を呼ぶ。
私は必ず、半拍おいてから答える。
そうしないと、間に合わない。
あの半拍のあいだに、返事はもう済んでいる。
誰が答えているのかは、五十年、確かめていない。
確かめるには、名を呼ばなければならない。