
柵の外の草だけが、四十四年、同じ高さで止まっている。
線路側の草は、年に三度、我々が刈る。
柵の外は、鉄道の土地ではない。
だから刈らない。
刈らないのに、伸びない。
※
昭和五十七年、私は二十四だった。
国鉄の保線区に入って四年目。
配属は中国山地を越える単線の非電化区間で、藤ヶ迫という小さな駅を挟む十四キロを受け持っていた。
仕事は軌道の巡回だ。
枕木の腐り、犬釘の浮き、レールの継ぎ目の遊び。
それを歩いて見る。
夏は草いきれで喉が焼け、冬は谷から降りてくる風で耳の縁が痛くなる。
朝五時に詰所を出て、砂利を踏む音だけを聞きながら十四キロを歩く。
その音以外に、何も聞こえない区間があった。
※
藤ヶ迫の一つ手前に、短いトンネルがある。
延長は二百三十メートル。
明治の終わりに掘られた素掘りに、後からコンクリートを巻いたものだ。
中は夏でも冷える。
壁を伝う水が、いつも同じ場所で滴っている。
そのトンネルを抜けた先、十二キロ三百メートル付近の右手に、用地境界の柵がある。
鉄道の土地と、その外を分ける柵だ。
腰の高さもない、細い鉄柱と三本の横棒だけの、頼りないものだった。
柵の外は、ただの荒れ地に見える。
だが荒れ地にしては、草が低すぎた。
※
藤ヶ迫という駅は、無人だった。
ホームが一面と、待合の小屋がひとつ。
時刻表は上下合わせて十一本しか書かれていない。
駅から谷を下ると、二十戸ほどの家がある。
瓦の色が黒く、どの家も屋根の勾配がきつい。
雪の重みを逃がすための勾配だと、あとで聞いた。
集落の名も藤ヶ迫という。
駅の裏に小さな社があって、鳥居は木で、根元が腐って傾いていた。
社の裏から山へ入る道があったらしいが、私が来たころには藪で塞がっていた。
夏の朝、詰所を出るとまず川の音がする。
それから砂利の音。
そのあと、蝉。
順番はいつも同じだった。
順番が違った日のことは、あとで書く。
※
藤ヶ迫の詰所には、私を入れて四人いた。
一番上が、区長代理の日下部さん。
五十を過ぎた、口数の少ない人だった。
その下に、河内さんという三十半ばの主任がいて、あとは私と、同い年の若い工手がひとり。
入って最初の年、日下部さんが私に言った。
「巡回中に、柵の外を見るな」
「見るなって、なんでですか」
「見ても、いいことはない」
「だって見ないと支障物の確認が」
「柵の内側だけ見ろ。外は、うちの土地じゃない」
それきり、日下部さんはその話をしなかった。
夏の詰所は、扇風機と麦茶と、油の匂いがした。
私はその言いつけを、田舎の年寄りの験担ぎだと思っていた。
※
最初の異変は、音だった。
六月の打音検査のときだ。
トンネルの覆工を、点検ハンマーで叩いて回る。
浮きがあれば、乾いた高い音が返る。
私は左の壁を、河内さんは右の壁を叩いていた。
かん。
かん。
かん。
二人ぶんの音が、規則正しく重なっていた。
中ほどまで来たとき、三つ目の音が混じった。
かん。
私と河内さんの手は、そのとき二人とも止まっていた。
それでも、三つ目は続いた。
一打だけ、遅れて。
「河内さん」
「聞くな」
河内さんは短く言った。
「歩け。振り向かんで、歩け」
私たちは残りを検査せずにトンネルを抜けた。
外に出ると、蝉の声が急に戻ってきた。
※
二つ目は、土だった。
八月の初め、境界杭の点検があった。
用地境界の杭は、五年ごとに位置を確認して、傾いていれば打ち直す。
十二キロ三百メートルの杭は、少し傾いていた。
私は柵をまたいで外に出た。
そのとき、足もとの土に、跡があった。
素足の跡だ。
大人のものだが、小さい。
右足と左足が、並んで揃っている。
歩いた跡ではなかった。
そこに立っていた跡だった。
そして、爪先はこちら――線路の側を向いていた。
私はしゃがんで、その跡の周りを見た。
柵の外の地面には、その一組の跡しかなかった。
どこから来たのかを示す跡が、ない。
柵をまたいだ跡も、ない。
私が今つけた自分の靴跡だけが、そこに新しく並んでいた。
※
三つ目は、他人の紙だった。
八月の中ごろ、駅の助役から古い綴りを見せてもらった。
運転士が異常を見たときに出す、報告の控えだ。
藤ヶ迫の区間には、毎年八月に同じ文言が並んでいた。
「一二k三〇〇m付近 線路脇 人影」。
そのあとに、必ず一言が添えられている。
「柵外」。
柵の外にあるものは、鉄道の支障ではない。
だから対応は要らない。
そういう扱いになる綴りだった。
昭和三十年代の分から、途切れずに、毎年八月。
「これ、毎年ですよね」
「毎年やな」
助役は湯呑みを置いた。
「せやから、誰も驚かん」
「気味が悪くないですか」
「柵の外やろ。うちの管轄と違う」
その言い方は、日下部さんの言い方とよく似ていた。
※
帰りに、駅前の雑貨屋に寄った。
アイスと、詰所へ持ち帰るラムネを買った。
店番は八十近い婆さんで、耳が遠かった。
私は世間話のつもりで聞いた。
「あのへんの柵の外、誰が草刈ってるんですかね」
婆さんは冷凍庫の蓋を閉めて、少し笑った。
「刈らんよ」
「刈らないんですか」
「あそこは、うちらの土地でもないけえ」
「じゃあ誰の土地なんです」
「道の土地」
「道、ないですけど」
「切れとるだけよ」
婆さんは釣り銭を私の掌に置いた。
一円玉が冷たかった。
「あんた、まだ若いけえ言うとくがな」
「はい」
「盆に、外を数えたらいけん」
「数える、ですか」
「一、二、って数えたらいけん」
それだけ言って、婆さんは奥へ引っ込んだ。
店の中では、ラジオが高校野球を流していた。
外はまだ明るかった。
その明るさが、かえって落ち着かなかった。
※
その夏、若い工手の一人が、柵の外を見た。
私と同い年の、川本という男だ。
陽気な男で、詰所ではいつも喋っていた。
「先輩、あれなんですかね」
「どれだ」
「十二キロ三百のとこ。人おるでしょ、いつも」
私は足を止めた。
「いつも、ってなんだ」
「いや、七月からずっと。柵の外に、婆さんが立ってますやん」
婆さん、と川本は言った。
私が見た足あとは、大人にしては小さかった。
「見るなって言われてるだろう」
「見ますって。目ぇついてるんやから」
川本は笑った。
「あれ絶対、山菜採りのお婆ちゃんですって。毎日おるもん」
「毎日か」
「毎日ですよ。ほら、あそこ」
川本が指をさした。
八月の昼だった。
私はそちらを見なかった。
見なかったのに、耳のうしろの毛が立った。
「川本」
「はい」
「その話、詰所でするな」
「なんでですか」
「日下部さんの前で、するなよ」
川本は、はいはい、と言って、また笑っていた。
その翌週、川本は詰所に来なくなった。
体調不良で実家に帰ったと河内さんが言い、実際、九月にはけろりとした顔で戻ってきた。
本人は、その二週間のことを何も覚えていなかった。
覚えていないことを、本人も気にしていなかった。
私は川本に、柵の話をしなかった。
※
四つ目は、時間だった。
巡回は歩数と時計で管理する。
藤ヶ迫の十四キロは、私の脚でいつも三時間四十分だった。
誤差は前後三分。
ところが八月に入ってから、四回とも三時間三十三分で終わっていた。
七分、短い。
歩いた区間は同じだ。
省いた場所はない。
私は五回目の巡回で、腕時計と詰所の柱時計の両方を確認しながら歩いた。
やはり七分だった。
七分ぶん、私はどこも歩いていない。
それなのに、区間は全部見終わっている。
※
五つ目は、字だった。
野帳という帳面がある。
その日の作業と、確認した者の名を書く帳面だ。
境界杭の点検には、確認者の欄がある。
私は昭和五十七年の欄に、自分の名を書いた。
その勢いで、前の年のページをめくった。
昭和五十二年。
確認者の欄が、黒く塗り潰されていた。
インクを何度も重ねたような、厚い黒だった。
その上に、別の名が書かれている。
日下部。
私は昭和四十七年、四十二年とさかのぼった。
どの年も、一度塗り潰されて、その上に名が書かれていた。
五年ごとに、一人ずつ。
※
八月十六日の夜、私は日下部さんを詰所の裏に呼んだ。
盆明けで、川のほうから虫の声が上がっていた。
「日下部さん、野帳の確認者、なんで塗ってあるんですか」
日下部さんは煙草に火をつけて、しばらく黙っていた。
「見たんか」
「何をですか」
「柵の外」
私は答えられなかった。
足あとの話も、時計の話も、まだ誰にもしていなかった。
「言うな」
日下部さんは煙を長く吐いた。
「見たとは、誰にも言うな。ええか、誰にもや」
「どうしてですか」
「野帳に名のある者は、こっち側の人間や」
「はい」
「名のない者に、見たと言うたら」
そこで日下部さんは口を閉じた。
虫の声が、一段大きくなった気がした。
「代わりに、数えられる」
※
八月十八日の未明、私は夜間の徒歩巡回に出た。
夏場は日中の温度でレールが伸びるため、月に一度だけ夜に見る。
午前二時、懐中電灯ひとつで線路を歩いた。
川の音がした。
砂利の音がした。
だが、蝉が鳴かなかった。
順番が、ひとつ抜けていた。
トンネルの手前で、私は足を止めた。
坑口の闇は、外の闇より濃い。
入る前に、私は柵のほうを見てしまった。
見るなと言われていた側だ。
何もいなかった。
草の高さも、いつもと同じだった。
私は安心して、トンネルに入った。
※
中ほどで、水の滴る音がした。
いつもと同じ場所だ。
私はそこを通り過ぎた。
通り過ぎてから、もう一度、同じ音が鳴った。
前ではなく、後ろで。
私は振り返らなかった。
振り返らずに歩いた。
足音が二重になっていた。
私の靴は編上げで、砂利を噛む音がする。
もう一方は、素足の音だった。
湿った土を、素足で踏む音。
トンネルの中に土はない。
バラストと、コンクリートだけだ。
それなのに、土の音だった。
歩幅は、私より少し狭かった。
私はそれに合わせないよう、意識して歩幅を保った。
合わせてしまえば、一組になる気がした。
坑口の光が見えたとき、後ろの音が止まった。
外へ出て、私は膝から力が抜けて、砂利の上に座り込んだ。
うなじの産毛が立ったまま、しばらく戻らなかった。
振り返ると、坑口は黒いままだった。
何も出てこなかった。
出てこられないのだと、そのときようやく解った。
用地の内側には、入れない。
入れないから、音だけが並んで歩いていた。
※
藤ヶ迫の谷には、線路より古い道がある。
いや、あった。
明治四十一年、この線が敷かれたとき、山を巻いていた古い道が真ん中で切られた。
その道は、盆に迎えたものを送り返すための道だったという。
迎えの道は、川の側から入る。
送りの道は、山の側へ抜ける。
入って、抜ける。
それで一組になる。
線路は、その抜ける側を断っていた。
だから送り返されないものは、抜けきれずに用地の外側に溜まる。
用地の内側には、入れない。
境界の杭が、それを止めている。
杭を五年ごとに打ち直し、確認者の名を野帳に記す。
名のある者は、こちら側として数えられる。
数の足りない年には、名のない者から順に足される。
――このことを、私は当時、そこまで筋道立てて聞かされたわけではない。
四十四年かけて、少しずつ埋めた。
埋めた材料は、三つある。
ひとつは、明治四十四年に鉄道院が出した工事誌の写しだ。
そこには藤ヶ迫の工区について、こう書かれていた。
「土地買収 難航 之ハ旧道ノ処置ニ因ル」。
旧道の処置。
買収でも移設でもなく、処置と書いてあった。
ふたつめは、駅裏の社の棟札だ。
廃線のあと、社は取り壊されて、棟札は資料館に移された。
裏に墨で書かれていた文字が、写真に残っている。
「送リ口 塞グ 代リニ 杭ヲ立ツ」。
明治四十二年、線路が開通した翌年の日付だった。
みっつめは、あの雑貨屋の婆さんの一言だ。
盆に、外を数えたらいけん。
数えるという言い方が、ずっと引っかかっていた。
足りない数を合わせるとき、人は必ず数える。
杭も、名も、そのための道具だったのだろうと思う。
だが日下部さんは、たぶん全部知っていた。
知っていて、私には最後まで言わなかった。
言えば、私が聞いた者になるからだ。
※
その年の九月、日下部さんが来なくなった。
無断欠勤ではない。
出勤簿には、判が押してある。
ただ、誰も姿を見ていなかった。
朝の点呼で河内さんが「日下部さんは」と言い、若い工手が「さっき詰所にいましたよ」と答え、私が「今日は見てません」と言った。
三人の記憶が、それぞれ違っていた。
一週間後、区の名簿から日下部さんの欄が消えた。
異動でも退職でもない。
書類上、最初からいなかったことになっていた。
私は本区に問い合わせた。
「日下部という職員はおりません」
そう言われた。
それだけだった。
※
詰所には、日下部さんの湯呑みが残っていた。
底に茶渋の輪がついた、白い湯呑みだ。
誰も片づけなかった。
片づけるという話にすらならなかった。
河内さんも川本も、その湯呑みを見ても何も言わない。
私が「これ、誰のですか」と聞くと、河内さんは一度だけこちらを見て、また台帳に目を落とした。
「洗っとけ」
それだけだった。
私は洗って、棚に戻した。
戻した棚には、湯呑みが四つ並んでいた。
詰所の人数は、そのとき三人だった。
その日から、私は詰所で湯呑みを数えないようにした。
数えれば、どちらかが正しいことになってしまう。
※
私はその秋、転属を願い出た。
理由は書かなかった。
書けば、書いた紙が残る。
残った紙を、誰かが読む。
読んだ相手は、たぶん名のない者だ。
そう考えるようになっていた。
以来、四十四年、私はこの話を誰にもしていない。
妻にも、子にも。
言えば、その者が数えられるかもしれないと思ったからだ。
転属先は瀬戸内側の平坦な区間で、トンネルは一つもなかった。
昼の巡回は退屈だった。
退屈がありがたかった。
定年まで、私は同じ区にいた。
一度だけ、若い部下が「先輩、山の区おったんですよね」と聞いてきたことがある。
「おった」
「あっち、なんか出るって聞きましたけど」
「知らん」
そう答えた自分の声が、日下部さんの声に似ていた。
似ていることに気づいて、その夜は眠れなかった。
※
去年の秋、藤ヶ迫の線が廃止になった。
最後の日、私は列車には乗らず、車で沿線を回った。
十二キロ三百メートルの柵は、まだあった。
塗装が剥げて、鉄柱の根元が赤く膨れていた。
柵の内側は、藪だった。
人の背より高い。
刈る者がいなくなって、二年でそうなる。
柵の外は、膝の下までしかなかった。
四十四年前と、同じ高さだった。
私はしゃがんで、外側の土を見た。
跡はなかった。
それだけは、少し安心した。
※
今年の春、鉄道の資料館から連絡があった。
廃線に伴って古い書類を整理しているという。
藤ヶ迫の野帳が出てきたので、当時の職員に見てもらいたい、と。
私は行った。
六十八になって、初めてあの帳面をもう一度開いた。
昭和五十七年の欄に、私の字がある。
若い、角ばった字だ。
その一枚前をめくった。
昭和五十二年。
黒く塗り潰された上に、日下部と書かれている。
私はその字を、しばらく見ていた。
そして気づいた。
「日下部」の三文字は、日下部さんの字ではなかった。
角ばっていた。
「部」の右の払いが、いつも下へ落ちる癖がある。
私の字だった。
※
昭和五十二年、私はまだこの区にいない。
入区は五十四年だ。
帳面のその頁を、私が書けるはずがない。
それでも、その字は私のものだった。
資料館の職員が、隣で言った。
「これ、五年ごとに一人ずつ名前が変わってるんですね」
「そうですね」
「面白いなあ。前の人の名前を消して、上から書いてる」
私は帳面を閉じた。
「もう一つ、変なのがあって」
職員は別の綴りを出してきた。
運転士の報告の控えだった。
「一二k三〇〇m付近、線路脇、人影。柵外」。
廃線になった去年の八月にも、同じ文言があった。
列車は、もう走っていない。
※
帰りの車の中で、私は一度だけ声に出して確かめた。
「私は、見た」
誰もいない車内で言った。
言ってしまってから、しばらく手が動かなかった。
名のない者に言うな、と日下部さんは言った。
私は誰にも言っていない。
ただ、聞いた者がいなかったとは、言い切れない。
※
それから半年、何も起きていない。
起きていないと思っている。
ただ、家の庭に低い柵がある。
妻が花壇の縁に立てた、腰にも届かない飾りの柵だ。
その外側の草が、去年の秋から伸びていない。
私は刈っていない。
妻も刈っていない。
高さは、いつも同じだ。
夜、縁側からその高さを見るたびに、私は自分の足もとを見ないようにしている。
爪先が、どちらを向いているか。
確かめてしまえば、たぶんそれで一組になる。