線路の柵の外に立つもの

黄昏の山間を走る線路

柵の外の草だけが、四十四年、同じ高さで止まっている。

線路側の草は、年に三度、我々が刈る。

柵の外は、鉄道の土地ではない。

だから刈らない。

刈らないのに、伸びない。

昭和五十七年、私は二十四だった。

国鉄の保線区に入って四年目。

配属は中国山地を越える単線の非電化区間で、藤ヶ迫という小さな駅を挟む十四キロを受け持っていた。

仕事は軌道の巡回だ。

枕木の腐り、犬釘の浮き、レールの継ぎ目の遊び。

それを歩いて見る。

夏は草いきれで喉が焼け、冬は谷から降りてくる風で耳の縁が痛くなる。

朝五時に詰所を出て、砂利を踏む音だけを聞きながら十四キロを歩く。

その音以外に、何も聞こえない区間があった。

藤ヶ迫の一つ手前に、短いトンネルがある。

延長は二百三十メートル。

明治の終わりに掘られた素掘りに、後からコンクリートを巻いたものだ。

中は夏でも冷える。

壁を伝う水が、いつも同じ場所で滴っている。

そのトンネルを抜けた先、十二キロ三百メートル付近の右手に、用地境界の柵がある。

鉄道の土地と、その外を分ける柵だ。

腰の高さもない、細い鉄柱と三本の横棒だけの、頼りないものだった。

柵の外は、ただの荒れ地に見える。

だが荒れ地にしては、草が低すぎた。

藤ヶ迫という駅は、無人だった。

ホームが一面と、待合の小屋がひとつ。

時刻表は上下合わせて十一本しか書かれていない。

駅から谷を下ると、二十戸ほどの家がある。

瓦の色が黒く、どの家も屋根の勾配がきつい。

雪の重みを逃がすための勾配だと、あとで聞いた。

集落の名も藤ヶ迫という。

駅の裏に小さな社があって、鳥居は木で、根元が腐って傾いていた。

社の裏から山へ入る道があったらしいが、私が来たころには藪で塞がっていた。

夏の朝、詰所を出るとまず川の音がする。

それから砂利の音。

そのあと、蝉。

順番はいつも同じだった。

順番が違った日のことは、あとで書く。

藤ヶ迫の詰所には、私を入れて四人いた。

一番上が、区長代理の日下部さん。

五十を過ぎた、口数の少ない人だった。

その下に、河内さんという三十半ばの主任がいて、あとは私と、同い年の若い工手がひとり。

入って最初の年、日下部さんが私に言った。

「巡回中に、柵の外を見るな」

「見るなって、なんでですか」

「見ても、いいことはない」

「だって見ないと支障物の確認が」

「柵の内側だけ見ろ。外は、うちの土地じゃない」

それきり、日下部さんはその話をしなかった。

夏の詰所は、扇風機と麦茶と、油の匂いがした。

私はその言いつけを、田舎の年寄りの験担ぎだと思っていた。

最初の異変は、音だった。

六月の打音検査のときだ。

トンネルの覆工を、点検ハンマーで叩いて回る。

浮きがあれば、乾いた高い音が返る。

私は左の壁を、河内さんは右の壁を叩いていた。

かん。

かん。

かん。

二人ぶんの音が、規則正しく重なっていた。

中ほどまで来たとき、三つ目の音が混じった。

かん。

私と河内さんの手は、そのとき二人とも止まっていた。

それでも、三つ目は続いた。

一打だけ、遅れて。

「河内さん」

「聞くな」

河内さんは短く言った。

「歩け。振り向かんで、歩け」

私たちは残りを検査せずにトンネルを抜けた。

外に出ると、蝉の声が急に戻ってきた。

二つ目は、土だった。

八月の初め、境界杭の点検があった。

用地境界の杭は、五年ごとに位置を確認して、傾いていれば打ち直す。

十二キロ三百メートルの杭は、少し傾いていた。

私は柵をまたいで外に出た。

そのとき、足もとの土に、跡があった。

素足の跡だ。

大人のものだが、小さい。

右足と左足が、並んで揃っている。

歩いた跡ではなかった。

そこに立っていた跡だった。

そして、爪先はこちら――線路の側を向いていた。

私はしゃがんで、その跡の周りを見た。

柵の外の地面には、その一組の跡しかなかった。

どこから来たのかを示す跡が、ない。

柵をまたいだ跡も、ない。

私が今つけた自分の靴跡だけが、そこに新しく並んでいた。

三つ目は、他人の紙だった。

八月の中ごろ、駅の助役から古い綴りを見せてもらった。

運転士が異常を見たときに出す、報告の控えだ。

藤ヶ迫の区間には、毎年八月に同じ文言が並んでいた。

「一二k三〇〇m付近 線路脇 人影」。

そのあとに、必ず一言が添えられている。

「柵外」。

柵の外にあるものは、鉄道の支障ではない。

だから対応は要らない。

そういう扱いになる綴りだった。

昭和三十年代の分から、途切れずに、毎年八月。

「これ、毎年ですよね」

「毎年やな」

助役は湯呑みを置いた。

「せやから、誰も驚かん」

「気味が悪くないですか」

「柵の外やろ。うちの管轄と違う」

その言い方は、日下部さんの言い方とよく似ていた。

帰りに、駅前の雑貨屋に寄った。

アイスと、詰所へ持ち帰るラムネを買った。

店番は八十近い婆さんで、耳が遠かった。

私は世間話のつもりで聞いた。

「あのへんの柵の外、誰が草刈ってるんですかね」

婆さんは冷凍庫の蓋を閉めて、少し笑った。

「刈らんよ」

「刈らないんですか」

「あそこは、うちらの土地でもないけえ」

「じゃあ誰の土地なんです」

「道の土地」

「道、ないですけど」

「切れとるだけよ」

婆さんは釣り銭を私の掌に置いた。

一円玉が冷たかった。

「あんた、まだ若いけえ言うとくがな」

「はい」

「盆に、外を数えたらいけん」

「数える、ですか」

「一、二、って数えたらいけん」

それだけ言って、婆さんは奥へ引っ込んだ。

店の中では、ラジオが高校野球を流していた。

外はまだ明るかった。

その明るさが、かえって落ち着かなかった。

その夏、若い工手の一人が、柵の外を見た。

私と同い年の、川本という男だ。

陽気な男で、詰所ではいつも喋っていた。

「先輩、あれなんですかね」

「どれだ」

「十二キロ三百のとこ。人おるでしょ、いつも」

私は足を止めた。

「いつも、ってなんだ」

「いや、七月からずっと。柵の外に、婆さんが立ってますやん」

婆さん、と川本は言った。

私が見た足あとは、大人にしては小さかった。

「見るなって言われてるだろう」

「見ますって。目ぇついてるんやから」

川本は笑った。

「あれ絶対、山菜採りのお婆ちゃんですって。毎日おるもん」

「毎日か」

「毎日ですよ。ほら、あそこ」

川本が指をさした。

八月の昼だった。

私はそちらを見なかった。

見なかったのに、耳のうしろの毛が立った。

「川本」

「はい」

「その話、詰所でするな」

「なんでですか」

「日下部さんの前で、するなよ」

川本は、はいはい、と言って、また笑っていた。

その翌週、川本は詰所に来なくなった。

体調不良で実家に帰ったと河内さんが言い、実際、九月にはけろりとした顔で戻ってきた。

本人は、その二週間のことを何も覚えていなかった。

覚えていないことを、本人も気にしていなかった。

私は川本に、柵の話をしなかった。

四つ目は、時間だった。

巡回は歩数と時計で管理する。

藤ヶ迫の十四キロは、私の脚でいつも三時間四十分だった。

誤差は前後三分。

ところが八月に入ってから、四回とも三時間三十三分で終わっていた。

七分、短い。

歩いた区間は同じだ。

省いた場所はない。

私は五回目の巡回で、腕時計と詰所の柱時計の両方を確認しながら歩いた。

やはり七分だった。

七分ぶん、私はどこも歩いていない。

それなのに、区間は全部見終わっている。

五つ目は、字だった。

野帳という帳面がある。

その日の作業と、確認した者の名を書く帳面だ。

境界杭の点検には、確認者の欄がある。

私は昭和五十七年の欄に、自分の名を書いた。

その勢いで、前の年のページをめくった。

昭和五十二年。

確認者の欄が、黒く塗り潰されていた。

インクを何度も重ねたような、厚い黒だった。

その上に、別の名が書かれている。

日下部。

私は昭和四十七年、四十二年とさかのぼった。

どの年も、一度塗り潰されて、その上に名が書かれていた。

五年ごとに、一人ずつ。

八月十六日の夜、私は日下部さんを詰所の裏に呼んだ。

盆明けで、川のほうから虫の声が上がっていた。

「日下部さん、野帳の確認者、なんで塗ってあるんですか」

日下部さんは煙草に火をつけて、しばらく黙っていた。

「見たんか」

「何をですか」

「柵の外」

私は答えられなかった。

足あとの話も、時計の話も、まだ誰にもしていなかった。

「言うな」

日下部さんは煙を長く吐いた。

「見たとは、誰にも言うな。ええか、誰にもや」

「どうしてですか」

「野帳に名のある者は、こっち側の人間や」

「はい」

「名のない者に、見たと言うたら」

そこで日下部さんは口を閉じた。

虫の声が、一段大きくなった気がした。

「代わりに、数えられる」

八月十八日の未明、私は夜間の徒歩巡回に出た。

夏場は日中の温度でレールが伸びるため、月に一度だけ夜に見る。

午前二時、懐中電灯ひとつで線路を歩いた。

川の音がした。

砂利の音がした。

だが、蝉が鳴かなかった。

順番が、ひとつ抜けていた。

トンネルの手前で、私は足を止めた。

坑口の闇は、外の闇より濃い。

入る前に、私は柵のほうを見てしまった。

見るなと言われていた側だ。

何もいなかった。

草の高さも、いつもと同じだった。

私は安心して、トンネルに入った。

中ほどで、水の滴る音がした。

いつもと同じ場所だ。

私はそこを通り過ぎた。

通り過ぎてから、もう一度、同じ音が鳴った。

前ではなく、後ろで。

私は振り返らなかった。

振り返らずに歩いた。

足音が二重になっていた。

私の靴は編上げで、砂利を噛む音がする。

もう一方は、素足の音だった。

湿った土を、素足で踏む音。

トンネルの中に土はない。

バラストと、コンクリートだけだ。

それなのに、土の音だった。

歩幅は、私より少し狭かった。

私はそれに合わせないよう、意識して歩幅を保った。

合わせてしまえば、一組になる気がした。

坑口の光が見えたとき、後ろの音が止まった。

外へ出て、私は膝から力が抜けて、砂利の上に座り込んだ。

うなじの産毛が立ったまま、しばらく戻らなかった。

振り返ると、坑口は黒いままだった。

何も出てこなかった。

出てこられないのだと、そのときようやく解った。

用地の内側には、入れない。

入れないから、音だけが並んで歩いていた。

藤ヶ迫の谷には、線路より古い道がある。

いや、あった。

明治四十一年、この線が敷かれたとき、山を巻いていた古い道が真ん中で切られた。

その道は、盆に迎えたものを送り返すための道だったという。

迎えの道は、川の側から入る。

送りの道は、山の側へ抜ける。

入って、抜ける。

それで一組になる。

線路は、その抜ける側を断っていた。

だから送り返されないものは、抜けきれずに用地の外側に溜まる。

用地の内側には、入れない。

境界の杭が、それを止めている。

杭を五年ごとに打ち直し、確認者の名を野帳に記す。

名のある者は、こちら側として数えられる。

数の足りない年には、名のない者から順に足される。

――このことを、私は当時、そこまで筋道立てて聞かされたわけではない。

四十四年かけて、少しずつ埋めた。

埋めた材料は、三つある。

ひとつは、明治四十四年に鉄道院が出した工事誌の写しだ。

そこには藤ヶ迫の工区について、こう書かれていた。

「土地買収 難航 之ハ旧道ノ処置ニ因ル」。

旧道の処置。

買収でも移設でもなく、処置と書いてあった。

ふたつめは、駅裏の社の棟札だ。

廃線のあと、社は取り壊されて、棟札は資料館に移された。

裏に墨で書かれていた文字が、写真に残っている。

「送リ口 塞グ 代リニ 杭ヲ立ツ」。

明治四十二年、線路が開通した翌年の日付だった。

みっつめは、あの雑貨屋の婆さんの一言だ。

盆に、外を数えたらいけん。

数えるという言い方が、ずっと引っかかっていた。

足りない数を合わせるとき、人は必ず数える。

杭も、名も、そのための道具だったのだろうと思う。

だが日下部さんは、たぶん全部知っていた。

知っていて、私には最後まで言わなかった。

言えば、私が聞いた者になるからだ。

その年の九月、日下部さんが来なくなった。

無断欠勤ではない。

出勤簿には、判が押してある。

ただ、誰も姿を見ていなかった。

朝の点呼で河内さんが「日下部さんは」と言い、若い工手が「さっき詰所にいましたよ」と答え、私が「今日は見てません」と言った。

三人の記憶が、それぞれ違っていた。

一週間後、区の名簿から日下部さんの欄が消えた。

異動でも退職でもない。

書類上、最初からいなかったことになっていた。

私は本区に問い合わせた。

「日下部という職員はおりません」

そう言われた。

それだけだった。

詰所には、日下部さんの湯呑みが残っていた。

底に茶渋の輪がついた、白い湯呑みだ。

誰も片づけなかった。

片づけるという話にすらならなかった。

河内さんも川本も、その湯呑みを見ても何も言わない。

私が「これ、誰のですか」と聞くと、河内さんは一度だけこちらを見て、また台帳に目を落とした。

「洗っとけ」

それだけだった。

私は洗って、棚に戻した。

戻した棚には、湯呑みが四つ並んでいた。

詰所の人数は、そのとき三人だった。

その日から、私は詰所で湯呑みを数えないようにした。

数えれば、どちらかが正しいことになってしまう。

私はその秋、転属を願い出た。

理由は書かなかった。

書けば、書いた紙が残る。

残った紙を、誰かが読む。

読んだ相手は、たぶん名のない者だ。

そう考えるようになっていた。

以来、四十四年、私はこの話を誰にもしていない。

妻にも、子にも。

言えば、その者が数えられるかもしれないと思ったからだ。

転属先は瀬戸内側の平坦な区間で、トンネルは一つもなかった。

昼の巡回は退屈だった。

退屈がありがたかった。

定年まで、私は同じ区にいた。

一度だけ、若い部下が「先輩、山の区おったんですよね」と聞いてきたことがある。

「おった」

「あっち、なんか出るって聞きましたけど」

「知らん」

そう答えた自分の声が、日下部さんの声に似ていた。

似ていることに気づいて、その夜は眠れなかった。

去年の秋、藤ヶ迫の線が廃止になった。

最後の日、私は列車には乗らず、車で沿線を回った。

十二キロ三百メートルの柵は、まだあった。

塗装が剥げて、鉄柱の根元が赤く膨れていた。

柵の内側は、藪だった。

人の背より高い。

刈る者がいなくなって、二年でそうなる。

柵の外は、膝の下までしかなかった。

四十四年前と、同じ高さだった。

私はしゃがんで、外側の土を見た。

跡はなかった。

それだけは、少し安心した。

今年の春、鉄道の資料館から連絡があった。

廃線に伴って古い書類を整理しているという。

藤ヶ迫の野帳が出てきたので、当時の職員に見てもらいたい、と。

私は行った。

六十八になって、初めてあの帳面をもう一度開いた。

昭和五十七年の欄に、私の字がある。

若い、角ばった字だ。

その一枚前をめくった。

昭和五十二年。

黒く塗り潰された上に、日下部と書かれている。

私はその字を、しばらく見ていた。

そして気づいた。

「日下部」の三文字は、日下部さんの字ではなかった。

角ばっていた。

「部」の右の払いが、いつも下へ落ちる癖がある。

私の字だった。

昭和五十二年、私はまだこの区にいない。

入区は五十四年だ。

帳面のその頁を、私が書けるはずがない。

それでも、その字は私のものだった。

資料館の職員が、隣で言った。

「これ、五年ごとに一人ずつ名前が変わってるんですね」

「そうですね」

「面白いなあ。前の人の名前を消して、上から書いてる」

私は帳面を閉じた。

「もう一つ、変なのがあって」

職員は別の綴りを出してきた。

運転士の報告の控えだった。

「一二k三〇〇m付近、線路脇、人影。柵外」。

廃線になった去年の八月にも、同じ文言があった。

列車は、もう走っていない。

帰りの車の中で、私は一度だけ声に出して確かめた。

「私は、見た」

誰もいない車内で言った。

言ってしまってから、しばらく手が動かなかった。

名のない者に言うな、と日下部さんは言った。

私は誰にも言っていない。

ただ、聞いた者がいなかったとは、言い切れない。

それから半年、何も起きていない。

起きていないと思っている。

ただ、家の庭に低い柵がある。

妻が花壇の縁に立てた、腰にも届かない飾りの柵だ。

その外側の草が、去年の秋から伸びていない。

私は刈っていない。

妻も刈っていない。

高さは、いつも同じだ。

夜、縁側からその高さを見るたびに、私は自分の足もとを見ないようにしている。

爪先が、どちらを向いているか。

確かめてしまえば、たぶんそれで一組になる。

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