お化け煙突

私が勤めていたのは、信州の盆地にある精密部品の工場だった。

時計の歯車を切る会社で、社員は二百人ほど。

独身寮は、工場から歩いて十分の坂の上にあった。

三階建てで、部屋は全部で四十。

窓からは、正面に山、その手前に果樹畑が見えた。

高い建物は、一つもない。

盆地というのは、そういう場所だ。

視界の端まで、山でふさがっている。

煙突などというものは、この土地には縁がなかった。

寮の生活は、判で押したようだった。

六時半に起きて、七時に食堂に降りる。

味噌汁と、焼き魚と、生卵が一つ。

八時に工場へ入り、五時に上がる。

夜は、談話室でテレビを見るか、部屋で寝るかだ。

若い者は月に一度、麓の町へ飲みに出た。

私は、あまり行かなかった。

盆地の冬は、朝の冷えかたが尋常でない。

布団から出ると、息が白い。

窓の内側に、氷の花が咲く。

それを爪で削るのが、冬の朝の癖になっていた。

そういう、変わりばえのしない場所だった。

坂下さんが転勤してきたのは、平成三年の四月だ。

四十を少し過ぎた、痩せた人だった。

出身は日本海側の町だと聞いた。

硝子の工場があった町で、いまはもう操業していないという。

歓迎会の席で、私は隣になった。

坂下さんは、酒をほとんど飲まなかった。

その代わり、よく笑う人だった。

「盆地って、いいですね」

「なにがですか」

「囲まれてると、落ち着きます」

そのときは、ただの社交辞令だと思った。

坂下さんは、仕事のできる人だった。

歯車の刃こぼれを、音だけで当てた。

若い者に教えるのも上手で、怒ったところを見たことがない。

昼の休憩には、必ず外へ出て、山のほうを見ていた。

「山、好きなんですか」

一度そう聞いたら、坂下さんは首を振った。

「高いものを見るのが、慣れないんです」

妙な答えだと思ったが、そのときは笑って済ませた。

海のそばで育った人だから、山が珍しいのだろうと解釈した。

いま思えば、あれも一つの答えだった。

五月に入って、坂下さんが部屋を替えてもらった。

理由は、朝日が眩しいから、ということだった。

寮長は、空き部屋があったので、すぐに了承した。

六月に、また替えた。

今度は、隣の物音が気になるから、と言った。

七月に、三度目を申し出た。

さすがに寮長も渋ったが、坂下さんが頭を下げるので、通した。

私は、その頃、坂下さんと同じ班になっていた。

昼の休憩に、一度だけ聞いた。

「そんなに寝つき悪いんですか」

坂下さんは、湯呑みを持ったまま、少し黙った。

それから、こう言った。

「あの煙突、なんですかね」

部屋の向きのことも、あとで調べた。

最初の部屋は、二階の東の角だった。

二度目は、三階の南寄り。

三度目は、一階の北の端だ。

向きも階も、まるで違う。

同じものが同じ位置に見えることは、理屈のうえでありえない。

寮長も、そのことは覚えていた。

「坂下さん、部屋を見せてくれって言ったんだ」

「見せてって、空き部屋を全部ですか」

「全部だ。窓から外を見て、それで決めとった」

寮長は、それを几帳面な人だからだと思っていたらしい。

私は、意味が分からなかった。

「煙突って、どこのですか」

「窓から見えるやつです」

「うちの寮、煙突なんて見えませんよ」

坂下さんは、私の顔をじっと見た。

そして、笑った。

「そうですか」

「じゃあ、見間違えたんだ」

その笑い方が、いつもの笑い方と少し違った。

私は、そのとき、深く聞かなかった。

聞いておけばよかったと、いまは思う。

八月の第一週、坂下さんは寮に戻らなかった。

朝、寮から三百メートルほど下った住宅街で見つかった。

新聞配達の人が見つけたと聞いた。

私は現場を見ていない。

見た人の話では、高い所から落ちたとしか思えない格好だったという。

けれど、そのあたりは平屋と二階家ばかりで、落ちるような高さの建物はない。

警察も相当に調べたようだが、事件性はないという結論になった。

坂下さんは、そのまま帰らぬ人になった。

四十三だった。

私は、寮長に頼んで、坂下さんの最後の部屋に入れてもらった。

一階の北の端の部屋だ。

荷物はもう運び出されたあとで、畳と、日焼けの跡だけが残っていた。

私は窓を開けた。

外は、隣の棟の壁だった。

壁までの距離は、三メートルもない。

その部屋の窓からは、空すら見えなかった。

私は、しばらくその壁を見ていた。

坂下さんは、この壁の向こうに、煙突を見ていたことになる。

本葬は、坂下さんの郷里で行われた。

私は会社の代表で、課長と二人で行った。

日本海側の、砂の多い町だった。

駅から車で三十分ほど、海沿いの道を走る。

遺族の方が運転してくださった。

海が右手にずっと見えていた。

曇っていて、水平線がぼやけていた。

砂が、道の端に吹き溜まっていた。

風の強い町なのだと分かった。

家々の板塀が、どれも同じ向きに白く褪せている。

硝子の町だったと聞いたが、看板の一つも残っていない。

潰れた店の跡だけが、ぽつぽつとあった。

その道の途中で、私は思わず声を上げた。

煙突が立っていた。

古い煉瓦の煙突だった。

高さは五十メートルくらいだろうか。

根元に、屋根の落ちた工場の建屋があった。

「あれ、なんですか」

遺族の方は、前を見たまま答えた。

「硝子屋の煙突です」

「三十年前に工場は畳みましたけど、あれだけ残してあります」

「この町の目印みたいなものでして」

私は、その煙突から目が離せなかった。

坂下さんが、寮の窓から見えると言った煙突。

形も、色も、私が想像していたとおりだった。

想像していたはずがないのに、そう思った。

葬儀のあと、坂下さんの伯父にあたる方と話す機会があった。

八十を過ぎた、腰の低い人だった。

その人が、私の名刺を見ながら、こう言った。

「この町では、あの煙突のことを、憶える煙突と言うとりました」

「憶える、ですか」

「亡くなった者の名を、煉瓦に刻んで送るんです」

「昔は、そういう習わしがあった」

「彫った名は、その人が最後におった場所を、見に行くと」

私は、うまく相槌が打てなかった。

「見に行くというのは」

「窓に立つんです」

伯父さんは、そう言った。

「窓に、煙突が立つ」

私は、話の筋を追うのが精一杯だった。

伯父さんは、湯呑みを両手で包んで、ゆっくり続けた。

「わしの父の代までは、みな守っとりました」

「窓に立ったら、その日のうちに家を出る」

「行き先はどこでもええ。とにかく、その窓から離れる」

「そうやって、助かった者もおります」

「助からんかった者もおります」

それきり、伯父さんは黙った。

私は、聞いてはいけないことを聞いた気がした。

「それで、どうなるんですか」

「名を呼ばれる」

「呼ばれた者は、高いところから見た景色を、そのまま受け取るんですわ」

「だから、この町の者は、窓に煙突が見えたら、名を呼ばれる前に町を出た」

私は、坂下さんが三度部屋を替えたことを思い出していた。

朝日が眩しいと言った。

隣の物音が気になると言った。

どちらも嘘だったのだと、そのとき分かった。

坂下さんは部屋を三度替えた。

三度とも、煙突は窓の正面にあった。

私は、伯父さんに一つだけ聞いた。

「坂下さんの名前は、あの煙突に刻まれているんですか」

伯父さんは、首を振った。

「刻むのは、亡くなってからです」

「まだですよ」

「これからです」

私は、それ以上聞けなかった。

帰り際、伯父さんが玄関まで出てきて、こう付け足した。

「あんた、寮は何階です」

「二階です」

「窓は、どっち向きで」

私は、答えられなかった。

自分の部屋の窓が、どちらを向いているのか、そのとき本当に分からなかった。

毎日開けている窓なのに、方角を考えたことがなかった。

伯父さんは、それを聞いて、少しだけ表情を緩めた。

「知らんのなら、まだ大丈夫です」

そう言った。

帰りの列車のなかで、課長がずっと寝ていた。

私は、窓の外をずっと見ていた。

山に入って、盆地に着くまで、二時間ほどかかった。

煙突は、どこにも見えなかった。

盆地に戻ってから、私は自分の部屋の窓の方角を調べた。

方位磁石を買って、窓枠に置いた。

針は、西を指した。

西の窓からは、果樹畑と、その向こうの低い山が見える。

何度確かめても、細長いものは無かった。

私は、少し安心した。

安心したことを、いま思い返すと、間の抜けた話だと思う。

あのとき私が気にしていたのは、いま見えるかどうかだけだった。

いつ立つのか、という問いを、私は持たなかった。

その年の秋から、私は寮の窓のことを気にするようになった。

毎朝、カーテンを開けるときに、少し身構える。

半年ほど、何もなかった。

翌年の春に、私は結婚して寮を出た。

社宅に移って、子供が生まれて、そのまま二十年以上が過ぎた。

坂下さんのことは、思い出さない年もあった。

思い出しても、あの伯父さんの話を、地方の言い伝えとして片づけていた。

片づけていられたのは、去年までだ。

一度だけ、坂下さんの郷里に手紙を出したことがある。

七回忌の年だった。

伯父さんはもう亡くなっていて、返事は姪の方から来た。

短い文面だった。

煙突は、五年前に解体されました、と書いてあった。

危険なので、市が取り壊したのだそうだ。

私は、それを読んで、心底ほっとした。

無くなったのなら、もう何も起こらない。

そう思って、その手紙を仕舞った。

無くなった、という言葉の意味を、私は取り違えていた。

去年の秋、私は家を建て替えた。

子供が独立して、夫婦二人には広すぎたので、小さくした。

書斎の窓を、北向きにした。

朝日が入らないほうが、本には良いと聞いたからだ。

建ってひと月ほどして、私はその窓の外に、細長いものがあるのに気づいた。

最初は、電波塔だと思った。

この盆地には、山の上に中継所がある。

けれど、それは山の上ではなかった。

果樹畑の向こう、水平に近い高さのところに立っていた。

煉瓦の色をしていた。

高さは、五十メートルくらいだろうか。

私は、まず地図で確かめた。

その方角に、そんなものは載っていない。

次に、市役所に電話した。

新しい建造物の予定はないと言われた。

車で、その方角へ走ってもみた。

果樹畑を抜けて、川を渡って、二十分ほど行った。

何も無かった。

振り返ると、家のほうに、それは立っていた。

私が走った分だけ、こちらへ寄っていた。

私は、妻を呼んだ。

「あれ、前からあったかな」

妻は窓の外を見て、しばらく考えてから答えた。

「なにが」

「あの、細いやつ」

「木しかないけど」

妻は本気で言っていた。

私は、それ以上何も言わなかった。

翌朝、双眼鏡を買いに行った。

店員に、野鳥観察用のものを勧められた。

倍率が高いと、手ぶれで見えないのだという。

私は、いちばん倍率の高いものを買った。

帰ってから、三脚も買い足した。

窓辺に三脚を据えて、レンズの向きを合わせた。

妻が、後ろを通りながら言った。

「何を見てるの」

「星」

「まだ昼だけど」

私は、うまく笑えなかった。

一つ、書いておかなければならないことがある。

坂下さんの部屋替えの記録を、私は寮の台帳で確かめた。

退職するときに、寮長だった人に頼んで見せてもらったのだ。

台帳には、部屋の移動が日付入りで残っていた。

五月十一日、六月八日、七月六日。

ちょうど四週間ずつだった。

一日の誤差もない。

坂下さんは、四週間ごとに移っていた。

理由を並べたのは、そのつど後づけだったのだろう。

本人は、期限のようなものを知っていたのだと思う。

最後の移動から四週間目が、八月の第一週にあたる。

双眼鏡で見ると、煉瓦の目地まで見えた。

根元のあたりに、文字が彫ってある。

縦に、名前が並んでいた。

一番上は、掠れてほとんど読めない。

下にいくほど、彫りが新しい。

いちばん下から二番目に、坂下さんの名前があった。

私は、そこで双眼鏡を下ろした。

下ろして、もう一度上げた。

坂下さんの名前の下に、もう一つ、彫られていた。

まだ新しかった。

私の名前だった。

彫りの深さが、坂下さんのものより浅かった。

彫りかけ、という言い方が近い。

最後の一画が、まだ入っていなかった。

それから、私は書斎に入らなくなった。

カーテンは閉めたままにしてある。

妻には、日焼けが気になるからと言った。

一度だけ、深夜に開けた。

煙突は、そこにあった。

月が出ていたので、輪郭がはっきり見えた。

気のせいかもしれないが、以前より近いように思う。

測る方法がないので、確かめようがない。

私は、まだ名を呼ばれていない。

呼ばれていない、と思っている。

名を呼ばれるというのが、具体的にどういうことなのかも、分からないままだ。

声が聞こえるのか。

誰かが、電話で呼ぶのか。

それとも、最後の一画が彫り終わるだけなのか。

伯父さんに、そこまで聞いておけばよかった。

聞かなかったのは、聞けば現実になる気がしたからだ。

いまも、その気持ちは変わらない。

坂下さんは、あのとき、私に一度だけ聞いた。

あの煙突、なんですかね。

あれは、確認ではなく、たぶん、助けを求める言葉だった。

私は、うちの寮に煙突なんて見えませんよ、と答えた。

その返事のせいで坂下さんが、と言うつもりはない。

ただ、あのとき私が窓の外を見に行っていたら、何か違ったかもしれない。

それだけは、ときどき考える。

坂下さんは、盆地はいいですね、と言った。

囲まれていると落ち着く、と。

あれは、山で視界が塞がっている場所なら、見えないだろうと思ったのだ。

遠くまで見える町から、見えない町へ逃げてきた。

それでも、寮の窓には立った。

壁までの距離が三メートルもない部屋の窓にも、立った。

距離は、たぶん関係がない。

関係があるのは、窓かどうかだけだ。

これを読んでいる方に、一つだけお願いがあります。

いま、窓の外を見てみてください。

昨日まで無かった細いものが立っていないか、それだけ確かめてください。

何も無ければ、それでいいのです。

もし立っていたら、家族に聞いてみてください。

あれは前からあったか、と。

家族に見えていないようなら、私に教えてほしいのです。

私は、まだ、それが何なのかを知らないままでいます。

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