ほそりさまは袖から入る

洞窟神域の灯りと巫女

袖に手を入れて眠るようになってから、半年になる。

ほそりさまは袖から入る、と教わったからだ。

教えてくれたのは、崖線の穴を今も芋穴として使っている、八十二歳の人だった。

去年の暮れに買ったシャツは、袖のボタンがきつかった。

取材先で、何度も外しては留め直したのを覚えている。

そのボタンの話を、最後にもう一度だけする。

私は地方紙の支局で記者をしている。

三十三歳、担当は市政と、紙面の隅の連載だ。

鳥江という町は、川に削られた段丘の上にある。

段丘の縁は高さ二十メートルほどの崖で、町の人はそれを崖線と呼ぶ。

崖は柔らかい凝灰岩でできている。

江戸の頃から、この崖には横穴が掘られてきた。

芋穴という。

冬のあいだ甘藷を貯えるための穴だ。

崖線には、四十近い穴が口を開けている。

昭和の初めまで、町のほとんどの家が一つずつ持っていたと聞く。

戦時中は防空壕にもなった。

今は半分が塞がれ、残りは物置か、改装されて店になっている。

ワインの貯蔵庫、画廊、蕎麦屋、そして焙煎所。

私の部屋は段丘の上にあって、台所の窓から崖線を見下ろせる。

夜、洗い物をしながら見ると、穴の口が並んで灯っている。

灯りは崖の高さに沿って二列に並び、二十三番は下の列の真ん中あたりだ。

冬の夜は空気が動かず、灯りが崖面にそのまま貼り付いて見えた。

この町に来て、最初に気に入った眺めだった。

去年の十二月、デスクの堀から連載の枠をもらった。

題は「崖線の穴を歩く」。

一穴につき一回、年明けから週一で十二回。

穴の使われ方の変わりようを、軽く追う企画だった。

民俗の話を書くつもりは、最初はなかった。

堀は、支局に来て五年になる人で、無口だが、割り振りが妙に細かい。

「二十三番から始めろ」と堀は言った。

「番号、あるんですか」

「市の札がある。崖の下を歩けば分かる」

穴には市が付けた番号の札がある。

二十三番は、三年前に焙煎所になった穴だった。

「なぜ二十三番からですか」

「一番、写真になる」

それだけだった。

連載は予定どおり十二回で終わり、紙面には何の問題も出なかった。

ただ、二十三番の回だけは、書けなかった。

代わりに三十一番の画廊を入れた。

堀は何も言わなかった。

これは、その書けなかった一回分の話だ。

起きたことを、順に置くしかない。

二十三番の焙煎所

一月九日、午後二時。

崖線の下の道に、豆を煎る匂いが漂っていた。

二十三番の口は、木の格子戸に替えられていた。

戸の脇に、市の札が残っている。

アルミの小さな板に、二十三、とだけ打刻してある。

格子戸の内側には、藁の簾が一枚、巻き上げてあった。

店主の真柴さんは三十一歳で、大阪から移ってきた人だった。

「凝灰岩は温度が動かないんです」

「豆の保管には、冷蔵庫より向いてる」

大阪では、チェーンの店で七年働いたのだという。

「自分の店は、静かなところがよくて」

「ここ、静かすぎるくらいですけど」

賃貸のサイトで見つけたのだそうだ。

「家賃が、駐車場より安くて」

「大家さんに最初に言われたのが、家賃の話じゃなくて、縄の話でした」

「その簾も、冬至の日だけ下ろせって」

穴は奥行き八メートルほどで、天井が低い。

壁には、掘ったときの鑿の跡がそのまま残っていた。

壁の窪みに、豆の袋が並んでいる。

窪みは、昔、芋を置いた棚の跡だという。

入ってすぐが客席で、奥に焙煎機が据えてある。

窓は、崖の外に張り出した小さな一枚だけだった。

そこだけ、昼の光が入る。

私は窓際の席に座った。

以後の取材でも、毎回、その席だった。

常連らしい男性が一人、隣の席で新聞を読んでいた。

「この人、大阪弁が抜けへんのが自慢なんですわ」

男性がそう言って、真柴さんが笑った。

焙煎機の裏に、板戸が一枚あった。

「奥、まだあるんですよ」

真柴さんは、板戸を少しだけ引いた。

その先は、人ひとりが屈んで通れるほどの、下り気味の穴だった。

三メートルほど先に、石の柱が二本、向かい合って立っている。

柱の間に、注連縄が張られていた。

紙垂は新しかった。

「改装のとき、ここに藁の仕切りがあって」

「外したら、これが出てきました」

「大家さんが、縄は触るなって」

「毎年、暮れに替えに来るんです、大家さんが」

私は写真を撮った。

穴の奥は、ライトを向けても、黒いままだった。

板戸を閉めて、客席に戻る。

真柴さんはコーヒーを淹れてくれた。

彼はカップを置くとき、両肘を脇に付けたまま、胸の前で手だけを動かした。

行儀のいい人だと、そのときは思った。

焙煎機が止まると、店の中は急に静かになった。

その静けさの底に、音があった。

長い袋を、石の上で引きずるような音だった。

ずっ、と一度。

間を置いて、もう一度。

板戸の向こうから、だと思った。

「川の音です」と真柴さんは言った。

「崖の中を、水が通ってるらしくて」

私は頷いた。

川は崖線の反対側、三百メートル下を流れている。

そのことは、口にしなかった。

常連の男性は、新聞から顔を上げなかった。

取材は一時間で終わった。

帰りぎわ、真柴さんは戸口まで送ってくれた。

手は振らなかった。

両手を、腰のあたりで、体に付けたままだった。

床を横切る粉の筋

二度目に訪ねたのは、一月の末だった。

初回の記事を見せに行った。

開店前の店で、真柴さんは箒を使っていた。

床に、筋があった。

茶色の細かい粉が、幅三十センチほどの帯になっている。

奥の板戸から戸口へ、まっすぐに延びていた。

「毎朝なんです」

「天井から落ちるんでしょうね、乾いた日は」

「マットの手前で、きれいに止まるんです」

粉は、玄関マットの手前で、定規を当てたように途切れていた。

私はしゃがんで、袖のボタンを外した。

新しいシャツで、ボタンがきつく、少し手間取った。

指先で、粉を少しつまんだ。

小麦粉より細かかった。

そして、乾いていた。

窯の中に手を入れたときのような、熱のない乾き方だった。

壁に触れると、凝灰岩はしっとりと冷たい。

この壁から、この粉は落ちない。

そう思ったが、地質は専門ではない。

「うちの粉、ですって。豆の粉じゃないですよ、念のため」

真柴さんは、粉を袋に入れて、大学の知り合いに送ったのだと言った。

「凝灰岩の成分でした。ただ、水分がゼロだって」

「ゼロ?」

「焼いた後みたいだ、って言われました」

格子戸が開いて、常連の男性が入ってきた。

床の筋を見て、また、と言った。

「毎朝やで。掃いても掃いても」

「店の名前、粉屋に変えたらええ」

真柴さんは笑った。

笑うとき、肩が動かなかった。

コーヒーを淹れる手つきも、前より小さくなっていた。

肘が脇から離れない。

「痩せました?」

「焙煎は肉体労働なんで」

シャツの袖が、手首で余っていた。

その日、真柴さんは冬至の夜の話をした。

十二月二十一日、店は夜まで開けていたという。

商店会のイベントで、崖線の店が一斉に灯りを点ける日だった。

穴の口が四十近く、崖の下から上まで、順に灯る。

私も取材で、崖の対岸からその写真を撮った。

二十三番の灯りが、いちばん遅くまで点いていた。

客が帰ったあと、片付けをしていたら、例の音がしたのだそうだ。

「その日は、大きかったんです」

「引きずるっていうより、こう、擦れるみたいに」

「で、スマホ持って、奥へ行きました」

「縄の手前から、三枚だけ撮って」

「何か写りました?」

「暗くて。あとで送ります」

音の話をしているあいだ、真柴さんは板戸のほうを一度も見なかった。

私も、見なかった。

常連の男性だけが、新聞越しに、板戸を見ていた。

店を出るとき、粉の筋はもう掃かれていた。

マットの手前の床だけが、ほかより白く乾いて見えた。

袖のボタンを留め直しながら、崖の下の道を歩いた。

支局に戻って、二回目の記事を書いた。

粉のことは、書かなかった。

その夜、台所の窓から崖線を見下ろした。

二十三番の灯りは、閉店の時刻を過ぎても点いていた。

零時を回っても、消えなかった。

私は窓から離れ、袖のボタンを外して眠った。

澤井さんの藁戸

二十四番の穴は、二十三番の隣にある。

口には、藁で編んだ戸が立てかけてあった。

崖線で藁戸が残っているのは、ここだけだ。

持ち主の澤井さんは八十二歳で、今も芋と漬物をこの穴に入れている。

二月の初めに訪ねた。

藁戸を開けると、穴の中は甘い土の匂いがした。

壁際に、今年の紅芋が行儀よく並んでいた。

「隣は、行ったんね」

「はい、記事にも」

「あの人、寸を取られとるよ」

澤井さんは、芋を選りながら言った。

「寸、ですか」

「肘が体から離れんじゃろう。あれは取られた人の腕よ」

「誰にですか」

「ほそりさま」

初めて聞く名だった。

澤井さんは、それ以上は説明しなかった。

代わりに、冬至の話をした。

「冬至の晩はね、穴に全部、藁戸を立てるん」

「うちらは、袖に手を入れて寝る」

「ほそりさまは袖から入るけん」

「袖に手を入れとったら、寸が取れんのよ」

澤井さんの上着は袖が長く、手首のところで紐で絞ってあった。

「寝るときは、こう」

両手を袖の中に入れて、見せてくれた。

「子どもには、母親が袖口を縫うたんよ。朝、ほどく」

紐をほどいて、手首を見せてくれた。

細い手首に、紐の跡が白く残っていた。

「八十年、毎晩よ」

私は手帳に書いた。

民俗の取材なら、何度も聞いたことのある型の話だった。

手を出すな、外に出るな、日を守れ。

ただ、澤井さんの言い方には、教訓の匂いがなかった。

天気の話をするのと同じ声だった。

「子どもの頃はね、冬至の晩は、崖の下が藁の匂いでいっぱいやった」

「一軒だけ、藁戸を立てん家があってね」

「どうなったんですか」

「翌年の冬至には、その家の穴に、藁戸が二枚立っとった」

「二枚?」

「一枚は、その家の分。もう一枚は、誰が立てたか、知らん」

澤井さんは、芋を一つ籠に戻した。

「二十三番の奥に、穴がありますよね」

「ほそり口」

「昔から?」

「うちが子どもの頃から。下に続いとる」

「下って、川ですか」

澤井さんは、首を横に振った。

「下は下よ」

「借りに来るん。下から」

「何をですか」

「人」

「あんた、冬至の晩、どこにおった」

「対岸で、写真を撮っていました」

澤井さんは、私の袖口を見て、それから何も言わなかった。

芋を一つ、私の手に載せてくれた。

「漬物も持っていき」

「取材で物をもらうのは」

「芋は取材か。漬物は違うんか」

笑ってしまい、澤井さんも笑った。

「隣には、もう行きなさんな」

私は礼を言って、行きます、とは言わなかった。

藁戸を閉めるとき、澤井さんは両手を袖の中に入れていた。

二月の午後で、風はなかった。

帰りに二十三番の前を通ると、格子戸の内側で真柴さんが手を上げた。

上げた、というより、手首から先だけを、胸の高さで小さく振った。

ほそりさまの列

三度目は、二月の半ばだった。

真柴さんは、袖の長いカーディガンを着ていた。

指先が、袖口から半分しか出ていない。

「夢の話、していいですか」

客はいなかった。

焙煎機は止まっていた。

「冬至の次の日から、毎晩なんです」

「奥の穴の中に、立ってるんですよ」

「並んでる。列になって」

「前にも人がいて、後ろにもいる」

「みんな、腕を体に付けて、まっすぐ立ってる」

「細いんです、みんな」

真柴さんは、そこで少し笑った。

「で、後ろから、冷たいのが来るんです」

「肩から、指の先まで、一度だけ通る」

「寸を取るみたいに」

私は、澤井さんの言葉を口にしなかった。

「それだけです。目が覚める」

「毎晩、少しずつ長くなって」

「昨日は、前に三人でした」

「最初は?」

「数えられないくらい」

「夢の中で、自分の寸法が分かるんです」

「肩から指の先まで、六十三センチ」

「起きて測ったら、同じでした」

「先週、いっぺん大阪に帰ろうと思って、新幹線に乗ったんです」

「名古屋で降りて、戻ってきました。理由は、自分でも分からない」

「冬至の晩、縄の向こうで、何を見たんですか」

真柴さんは、しばらく黙った。

「縦に長いのが、動いたんです」

「顔だと分かるまで、時間がかかりました」

「乾いた、茶色の顔で、唇がなくて」

「腕は、なかった。いや、体に沿って、あった」

「それで、笑ったんですよ。こっちを見て」

言い終えると、真柴さんは自分の両腕を見た。

「昨日、列の前の人が、振り向いたんです」

「知ってる顔でした」

「誰ですか」

「去年まで縄を替えに来てた、大家さんのお父さんでした」

真柴さんは、笑わなかった。

焙煎機が止まっているので、店は静かだった。

音がした。

前の二回より近かった。

板戸の、すぐ裏だった。

擦れる音は長く続き、途中で一度、止まった。

誰かが息を整えるほどの間だった。

それから、また続いた。

「川ですよね」

真柴さんが言った。

私に聞いたのか、自分に言ったのか、分からなかった。

板戸の下の隙間に、茶色の粉が溜まっていた。

店の側に、だった。

その夜、写真が三枚届いた。

撮影日時は、十二月二十一日の二十三時五十八分が二枚。

三枚目は、二十二日の零時ちょうどだった。

一枚目と二枚目は、注連縄の手前から穴の奥を写したものだった。

石の柱、紙垂、その先の黒。

二枚目の床には、縄の下から手前へ、細い粉の帯が延びていた。

撮った人の足元へ向かって、だ。

三枚目は、ほとんど黒だった。

画面の右上に、白っぽい滲みがひとつある。

スマートフォンの画面では、それ以上のものは見えなかった。

私はその晩、袖に手を入れて眠った。

自分でも、理由は付けなかった。

調査票の四十一メートル

市役所に、崖線の安全調査の記録がある。

連載のために、全部の穴の調査票を借り出していた。

二十三番の票は二枚あった。

一九六八年の票には、奥行き八・二メートル、とある。

備考に、奥に小穴あり、長さ十二メートル、行き止まり。

調査員の欄には、福島、とあった。

二〇二一年の再調査の票を、その下に重ねた。

奥行き八・二メートル。

備考、小穴あり、四十一メートル以上、未踏、なお続く。

同じ穴だった。

市の担当に聞いた。

「測り直したら、そうだったとしか」

「未踏、なお続く、というのは」

「四十一メートルの地点で、調査員が引き返した、ということです」

「理由は」

「票には、書きません」

「二〇二一年の調査員の方に、お話を」

「その年の冬に、退職しています」

担当は、票を私の手から引き取って、閉じた。

郷土資料館の元館長、二宮さんに会ったのは、その翌週だ。

ほそりさま、という名を出すと、二宮さんは箱を一つ持ってきた。

天明三年の日付がある綴りだった。

表紙に、細り送り之事、とある。

「飢饉の年です」

「下へ人を送って、止めてもらった、と書いてある」

「何を止めてもらったんですか」

「書いていません」

中は、名の一覧だった。

名の下に、細クシテ下ヘ送ル、と繰り返し添えてある。

名の横には、それぞれ寸法が書いてあった。

「肩から指の先までの寸です」と二宮さんは言った。

「穴に入る幅に、細くしたんでしょう」

寸法は、どれも二尺そこそこに収まっていた。

六十センチと少し、ということになる。

一覧は紙の途中で終わっていた。

下に、まだ何行も、空きがあった。

「送った人は、戻ったんですか」

「戻った、とは書いていません」

「翌年の綴りには、穴の口を藁で閉じよ、袖に手を入れて寝よ、とだけあります」

「送る前の晩は、村中が袖口を縫って寝たそうです」

「送られる者の家だけ、縫わなかった」

「送られた人は、向こうで、どう呼ばれるんですか」

二宮さんは、綴りの最後の行を指した。

ほそりさま、とだけ、ほかより小さな字で書かれていた。

二宮さんはそれ以上を語らず、私も聞かなかった。

資料館を出て、二十三番へ回った。

格子戸に、臨時休業の紙が貼ってあった。

二月二十六日の日付だった。

その夜、真柴さんから短い文が届いた。

「前に一人です」

私は返事を打ち、消し、もう一度打った。

「病院に行きませんか」

既読は付かなかった。

三月一日の二十三時五十八分に、もう一通だけ来た。

「今日、列の前に、誰もいません」

それきりだった。

大家の福島さんによると、鍵は郵便受けに入っていたという。

荷物はそのまま、焙煎機もそのままだった。

「帰省でもしたんでしょう」

福島さんは、暮れに替えたばかりの注連縄の話を、聞かれもしないのにした。

「父が去年までやっとった役で」

「今年は、早めに替えに行かんと」

まだ三月だった。

零時ちょうどの三枚目

三枚目の写真を、支局の大きな画面で開いたのは、三月の半ばだった。

連載の最終回を組み終えて、他に人はいなかった。

暖房は切れていて、モニターの灯りだけが明るかった。

堀は帰り際に、二十三番はどうする、とだけ聞いた。

「飛ばします」

「そうか」

堀は、それ以上は聞かなかった。

画像の明るさを、少しずつ上げた。

黒の中に、まず、縄が浮いた。

紙垂が、こちらに背を向けている。

注連縄を、裏から見ている写真だった。

石の柱が二本、手前に大きく写っている。

その向こうに、板戸の隙間から、店の暖かい灯りが漏れていた。

この写真は、穴の中から、外へ向けて撮られている。

真柴さんは、縄の手前から三枚撮った、と言った。

私は、明るさをもう一段上げた。

右上の白い滲みは、人の輪郭だった。

縄の手前に、誰かが立っている。

板戸の灯りを背にして、屈み気味に、穴の中を覗き込んでいる。

灰色のコート。

肩まである髪。

胸の前に、手帳。

手帳の角が擦れて、表紙が少し反っている。

私が去年の暮れに買い替えた手帳と、同じ反り方だった。

コートの左袖に、糸のほつれが見えた。

私は、自分の左袖を見た。

注連縄の手前に立って穴を覗いている女は、私だった。

写真の日付は、十二月二十二日の零時ちょうどだった。

私が二十三番に初めて入ったのは、その十八日後だ。

その晩、私は対岸にいて、崖線の灯りを撮っていた。

腕を上げようとして、上がらなかった。

両肘が脇に付いたまま、しばらく動かなかった。

ようやくマウスに手が届いたとき、私は画像を閉じ、消さなかった。

写真の中の女は、穴の中を見ていた。

穴の中には、写真を撮っている誰かがいた。

行儀よく、肘を脇に付けて、女は覗き込んでいた。

三月の末、福島さんに頼んで、二十三番を開けてもらった。

福島さんは鍵を開け、自分は中に入らなかった。

店の中には、豆の匂いが薄く残っていた。

床に、筋があった。

粉の筋は、マットを越えて、私がいつも座っていた窓際の椅子の脚で止まっていた。

椅子の脚の周りだけ、粉が少し盛り上がっていた。

誰かが、そこに長く立っていたように。

私は板戸に近づかなかった。

音はしなかった。

戸口で、福島さんが言った。

「縄は、もう替えました」

「早いですね」

「今年は、二本要るんです」

連載は、二十三番を飛ばして終わった。

澤井さんの藁戸は、今年も冬至の前に新しくなるのだろう。

私は夢を見ていない。

列の前に何人いるのかも、知らない。

今朝、そのシャツの袖のボタンは、手首をひと回りして、まだ余った。

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