
去年の八月、尾戸ダムの水位が平年の三割まで下がった。
地元紙の見出しは「湖底の窓、三十年ぶりに姿を現す」だった。
俺は二十九歳で、ドローンの空撮を配信している。
登録者は八千人ほどで、夜の生配信に来る常連は二十人前後だ。
俺は配信の前に、自分の名前を三回言う。
マイクの音量を確かめるための、ただの癖だ。
見出しを見た瞬間、これは撮るべきだと思った。
水の底から家が出てくる。それだけで数字になる。
そういう計算が働くのを、自分でも知っていた。
ダムの管理事務所に電話をすると、年配の職員が出た。
「笹野集落のことですね。あそこは、台帳の上では十一戸です。上では、です」
妙な言い方だと思ったが、聞き返さなかった。
立入りは日中だけだと言われた。
俺は、機材の充電が日没までに終わらないと嘘をついた。
職員はしばらく黙ってから、条件を三つ出した。
一つ目、入るのは一人ずつ。
二つ目、帰りは、出た人数を声に出して数えること。
三つ目、湖底の窓の数は、数えないこと。
「数が合わないと、うちは門を閉められないので」
冗談とは思えない声だった。
俺は笑って、わかりましたと答えた。
電話の三日後、俺は車で尾戸ダムへ向かった。
山道に入ると、スマートフォンの電波は二本になり、やがて一本になった。
途中の売店で、水とパンを買った。
店番の女性が、釣り銭を出しながら言った。
「笹野の方へ行くの? 夜まで残っちゃだめよ」
日帰りですよ、と俺は答えた。
女性はそれ以上、何も言わなかった。
釣り銭の硬貨は、どれも湿っていた。
水位の線より下
当日の午後三時、俺は管理事務所の記帳簿に名前を書いた。
入った人数の欄には「1」と書いた。
職員は俺の顔を見ず、鉛筆の先で欄をなぞっただけだった。
前のページが、ちらりと見えた。
入の欄には、「1」が並んでいる。
出の欄は、どの行も空白で、鉛筆の斜線が引かれていた。
日付はどれも古く、インクが茶色く変わっていた。
俺は、気にしないことにした。
水位標の脇から、湖底へ続く仕事用の階段を降りる。
壁面には、白い線が何本も走っていた。
かつての水位の跡だ。線より下は、三十年間ずっと水の中だった。
最後の一段を降りると、足の裏が泥に沈んだ。
乾いて固まった表面の下に、まだ湿った層がある。
歩くたびに、薄い氷を踏むような音がした。
空気は冷たく、藻と土の混ざった匂いがした。
風はないのに、遠くで何かが擦れる音が続いている。
最初に見えたのは、石垣だった。
苔が乾いて灰色に変わり、積み方だけが妙に整っている。
その上に、屋根の落ちた家が斜面に沿って並んでいた。
柱は黒く、梁は水を吸って重たく垂れている。
数えるなと言われたが、目は勝手に数えた。
屋根の形を残した家が、十一。
ドローンを上げて、俯瞰でも確かめた。
斜面に十一の家が、階段状に並んでいる。
台帳の通りだった。俺は少し安心した。
どの家にも、窓の枠だけが残っていた。
ガラスは一枚もない。枠の向こうに、夕方の空が抜けている。
空が窓の形に切り取られて、並んでいる。
十一の家のどれにも、木の表札が残っていた。
墨は薄れているが、苗字は読める。
戸口の脇には傘立てがあり、開いたままの傘が泥に倒れていた。
骨は錆び、布は藻に変わっている。
三十年も沈んでいたのに、傘の形だけが崩れていないのが不思議だった。
撮れ高としては十分だった。
井戸が二つあった。
どちらも蓋は朽ち、口には干からびた藻が輪になって残っている。
覗くと、底には泥が溜まっているだけだった。
洗い場の石の台には、桶の輪の跡が丸く残っている。
郵便受けの口から、湖底の泥が舌のように垂れていた。
鳥の声も、虫の声もしない。
聞こえるのは、俺の靴と、ドローンの羽音だけだ。
一時間ほど飛ばして、バッテリーを三本使った。
四本目を装着したとき、日が山の端にかかった。
帰るべきだとわかっていた。
けれど、夜の湖底を配信すれば、数字は倍になる。
俺は管理事務所には戻らず、石垣の陰に半分埋まった低い家の軒先に腰を下ろした。
俯瞰で見たときには、石垣の影に入って見えなかった家だ。
その家にだけ、表札の釘穴すらなかった。
そこで充電をしながら、七時に配信を始めることにした。
湖底の窓の数
七時ちょうど、俺はマイクに向かって名前を三回言った。
配信の画面に、いつもの常連が入ってくる。
「夜更かし」という名前の古株が、真っ先にコメントを打った。
「すごい場所ですね。窓がきれいに並んでる」
俺はドローンを低く飛ばして、斜面の窓を順に映した。
コメント欄が、少しずつ流れ始める。
同時視聴は、いつもの三倍の六十人を超えていた。
俺は少し浮かれていた。
浮かれた声のまま、窓の向かいに寄って、解説までした。
十五分ほどたったころ、画面の端に妙な書き込みが出た。
「いま、ガラスを拭く音しませんでした?」
俺はマイクのゲインを下げて、耳を澄ました。
確かに、きゅ、きゅ、と何かをこする音がしている。
布で硬いものを拭くような、一定の間隔の音だった。
俺は、風で枠が鳴っているのだろうと言った。
枠は木だ。木はガラスのような音を出さない。
それも、わかっていた。
風が止み、湖底の匂いが濃くなった。
藻と泥の匂いの奥に、味噌と炭の匂いが混じっていた。
誰かが夕飯の支度をしている家の、あの匂いだった。
懐中電灯を握る手の甲に、湿った指のような冷たさが触れた。
振り向いたが、そこには風もなかった。
ドローンを着陸させて、懐中電灯で足元を照らした。
泥の上に、足跡があった。
裸足の足跡だった。俺のものではない。
小さいものも、大きいものもあった。
どれも、家の方へ向かっている。
家から出てくる足跡は、一つもなかった。
俺はそれを、カメラに映さなかった。
映せば、誰かに数えられてしまう気がした。
理由は、うまく言えない。
ただ、足跡の列は、どれも間隔が揃っていた。
歩幅が同じ。体重のかけ方も同じ。
同じ誰かが、何度も家へ入ったように見えた。
「夜更かし」が、またコメントを打った。
「窓、十二枚目がありません?」
俺は鼻で笑った。枠は十一の家に一つずつだ。
数えるなって言われてるんだよ、と俺は軽く口にした。
「誰に?」と、常連がすぐ返した。
「管理事務所の人。数が合わないと門を閉められないんだと」
コメントが、一瞬だけ止まった。
「それ、何の数ですか」
俺は答えられなかった。湖底の窓を撮りに来たのに、数えるなという方がおかしい、と話を逸らした。
そう言い返すと、別の常連が書いた。
「いや、本当に十二ある。数が合わない」
俺は画面から目を離し、斜面を懐中電灯で順に照らした。
一、二、三。
そこでやめるべきだったのかもしれない。
四、五、六、七、八、九、十、十一。
枠の数は、十一だった。
安心して画面に向き直ると、コメント欄が止まっていた。
全員が、同じことを書いていた。
「後ろ」
俺はゆっくりと振り向いた。
背後には、俺が腰を下ろしていた家の壁があった。
壁の高い位置に、窓の枠がひとつだけあった。
そこだけ、夕方に見たときより、空が暗く抜けていた。
配信の外の十分間
俺は、その家から離れた。
懐中電灯の光が、手の中で細く揺れていた。
走らなかった。走ったら、何かが追ってくる気がした。
斜面の途中で足を止め、配信を切った。
それから、門を目指して階段のある壁まで歩いた。
帰りの道は、行きの倍の長さに感じられた。
泥の足跡は、来た時より増えていた。
けれど、どれも家の方を向いている。
こちらへ来る足跡はなかった。
階段を上りきると、東の空が白んでいた。
腕時計を見ると、午前五時を過ぎていた。
七時に配信を始めて、せいぜい一時間のつもりだった。
どこで、十時間が消えたのか。
俺は何も覚えていなかった。
管理事務所の門の前に、あの職員が立っていた。
腕を組んで、湖の方を見ていた。
「お帰りですか。出た人数を、数えてください」
俺は、指で自分を差して言った。
「一です」
職員は何も答えず、帳簿に鉛筆を走らせた。
そして、鉛筆の先で出た人数の欄を二度叩いた。
「こちらの記帳は、二でした」
俺はその欄を見なかった。
見ないまま車に乗り、窓を閉めて、自宅へ向かった。
家に着いたのは昼前だった。
疲れ切っていたが、配信のアーカイブだけは確認したかった。
再生を始めると、常連のコメントが流れた。
その中に、一つだけ俺が覚えのない書き込みがあった。
「名前を呼ぶ声が、四回入っていますね」
俺は配信の冒頭を巻き戻した。
自分の名前を三回言う。その後ろで、もう一度、同じ声が重なっていた。
俺の声だった。けれど、俺は言っていなかった。
アーカイブの俯瞰
アーカイブの再生時刻は、実際の時間より十分進んでいた。
配信の画面に表示された時刻と、俺の腕時計がずれている。
スクロールすると、見覚えのない映像が混ざっていた。
俺が着陸させたはずのドローンが、上空に浮かんでいる映像だった。
電源は落とした。バッテリーも抜いた。確かに抜いた。
それなのに、画面は斜面の真上から湖底を見下ろしていた。
石垣の上に、屋根の落ちた家が並んでいる。
その窓枠のひとつずつに、白いものが張りついていた。
顔だった。
暗い枠の中に、顔だけが浮かんでいる。
どれも、斜面の下の一点を見つめていた。
俺は、枠の数を数えた。もう数えるなという条件は、頭になかった。
十一戸の窓に、十一の顔があった。
そして、斜面の最も下にある、俺が腰を下ろした家の窓にも、顔があった。
十二番目の顔だった。
画面を止め、拡大した。
その顔は、目を開けて俺の方を見ていた。
俺の顔だった。
そのとき俺は、確かに目を閉じていた。
管理事務所の職員に電話をしたのは、その日の夕方だった。
「あの家は、台帳にありましたか」
職員は少し間を置いてから答えた。
「ありませんよ。だから、十一戸だと言ったでしょう」
そして続けた。
「あなたが寝た家は、台帳にない十二戸目でした」
俺は、何も言えなかった。
「帰りの記帳は、二人分のままです。もう一人、帰ってこられるといいですね」
通話は、そこで切れた。
それから一年がたつ。
配信は続けているが、湖の映像は二度と出さなかった。
部屋の窓は、数えれば一枚だ。
それでも俺は、窓を数えてしまう。
数えないこと、という三つ目の条件だけは、いまも守れていない。