怖い話 桑畑の白丈さま

夕日の山村と幻想的な人物

嫁いだ家のことを、今になって思い出すことがある。

これは、私が生涯でただ一度だけ味わった、本当の怖い話だ。

昭和四十三年の初夏、私は十八で、信州の山あいの村へ嫁いだ。

桑の畑と蚕室ばかりが目につく、養蚕の村だった。

嫁いで初めての夏に、私は一度だけ、振り返ってはならないものを見た。

今でも、夕暮れどきになると、あの夏の蚕室の匂いが、ふと鼻先によみがえる。

あれが何であったのか、今もうまく言葉にできない。

ただ、起きたことを、起きたとおりに述べるしかない。

その年は桑の伸びが早く、朝も夕も葉を摘んでいた。

嫁ぎ先は古い茅葺きで、母屋の裏手に蚕室と、白壁の土蔵が一棟あった。

嫁いだばかりの私には、まだ知らぬ仕来りが多く、何もかもが手探りだった。

舅は無口で、義祖母は痩せて小柄な、よく働く人だった。

夫は町の工場へ勤めに出ていて、平日はめったに帰ってこなかった。

だから昼間の家には、たいてい私と義祖母の二人きりだった。

夕方、蚕に桑をくれてやったあと、私は蚕室の小窓から外を眺めていた。

西日が桑畑を橙に染めて、土塀のむこうに人の通る気配があった。

いつもの道なのに、その日は塀までの距離が、記憶よりわずかに遠く感じられた。

自分の影が、足もとから妙に長く伸びているのも、なんとなく気にかかった。

気のせいだと思った。

そのとき、「からり……からり……」と、乾いた音が聞こえてきた。

糸を繰る音にも、下駄の歯が鳴る音にも似ていた。

けれど、どちらでもないようでもあった。

音のするほうを見ると、土塀の上に菅笠が見えた。

白い菅笠が、塀の上をゆっくりと横に滑っていく。

おかしい、と思った。

その土塀は、私の背丈の倍はあった。

塀のむこうを歩く者が、その上から笠の天辺を覗かせるなど、あってよいはずがなかった。

笠の下には、白い帷子のような着物の肩が、わずかに見えていた。

肩の位置が、塀の高さよりも、なお高かった。

異様に背の高い、女のかたちをしたものだった。

歩みに合わせて、白い袖が、風もないのにゆらりと揺れた。

それが塀の切れ目まで来て、こちらへ顔を向けようとした。

私は咄嗟に身を低くして、小窓の桟の陰にしゃがみ込んだ。

なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。

ただ、見てはいけない、と身体のほうが先に動いていた。

「からり……」という音が、ひとつ鳴って、止んだ。

しばらく動けずにいた。

膝が小刻みに震えていた。

立ち上がってもう一度外を見たとき、塀の上にはもう何もなかった。

西日だけが、さっきと同じように畑を染めていた。

その晩、囲炉裏端で、私は義祖母に昼間のことを話した。

おばばと呼んでいた、その人にである。

大きな女の人を見た、と私が言うと、おばばは「ほう」とだけ言った。

けれど、笠をかぶっていて、塀より背が高くて、からからと乾いた音をさせていた、と続けると、おばばの箸が止まった。

舅も、湯呑みを置いた。

二人は顔を見合わせて、しばらく何も言わなかった。

囲炉裏の薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。

それから舅が、低い声で問うた。

いつ見た、どこで見た、塀よりどれほど高かった。

私が答えると、舅は立ち上がり、土間の電話のところへ行った。

受話器の向こうへ、ぼそぼそと何かを告げていた。

戻ってくると、舅は私の顔を見ずに言った。

「今夜は、お前を里へは帰せん」

何のことか、私には分からなかった。

舅はそのまま外套を羽織り、オート三輪で出かけていった。

夜道へ消えていくその背中が、いつもより小さく見えた。

残されたおばばに、いったい何が起きているのかと尋ねた。

おばばは、火箸で灰をならしながら、ぽつりぽつりと話してくれた。

この土地には、昔から「白丈さま」と呼ばれるものがいる。

丈の高い、白い女のなりをしている。

笑うと、女のなりに似合わぬ、男のような乾いた声を出すという。

見る人によって、若い女に見えたり、年老いた姥に見えたりする。

けれど、丈が高いことと、頭に何かを載せていることと、あの乾いた音だけは、いつも同じだ。

はるか昔、よそから流れてきた巡礼に、ついてきたものだ、という言い伝えがあった。

白丈さまは、村の四つ辻に据えられた石の仏によって、この土地に封じられている。

石仏のあいだから外へは、出ていけないのだという。

そして、ひとたび魅入られた者は、数日のうちに向こうへ渡ってしまう。

渡ってしまった者は、二度とこちらへは戻らない。

前にそうなった者が出たのは、もう十五年も前のことだと、おばばは言った。

近隣の村々とは、古い取り決めがあるらしかった。

沢の水を分ける順番を譲るかわりに、石仏を守ってもらう、というような。

被害は何年かに一度のことだから、村は黙ってそれを呑んできたのだ、と。

聞いても、私には実感が湧かなかった。

よその土地から来た私には、すべてが古い作り話のようにも思えた。

それでも、おばばの声の低さだけは、嘘ではなかった。

そこへ、舅が一人の老人を伴って帰ってきた。

村の拝み手をつとめる、庄屋筋の老人だった。

老人は私の顔を一目見るなり、「えらいことになった」と言った。

その一言で、これがただの言い伝えではないことを、私はようやく悟った。

老人は、墨で何か書きつけた古い護符を、私の手に握らせた。

その夜、私は土蔵の二階へ通された。

小さな窓という窓は、すべて新聞紙で目張りがされていた。

その上から、護符が貼られていた。

部屋の四隅には、塩が小さく盛られていた。

古い木箱の上に、手のひらほどの野仏が一体、据えられていた。

「朝の七つになるまで、ここから出てはならん」と舅が言った。

「わしらは、声をかけも、戸を叩きもせん」

「七つになったら、自分の手で戸を開けて、降りてこい」

老人も、念を押すように言った。

「何があっても、こちらから呼んだと思うな。決して開けるな」

私は、ただ頷いた。

二人が階下へ降りると、急に部屋が広く、暗くなった気がした。

灯りを落として、敷いてもらった布団にもぐり込んだ。

自分の息の音ばかりが、やけに大きく聞こえた。

土蔵の壁は厚く、外の物音はほとんど届かなかった。

その静けさが、かえって耳に重かった。

いつ眠ったのか、気づくと、あたりは深い夜になっていた。

窓のほうで、コツ、コツ、と音がした。

石を投げているのではなかった。

指の腹で、硝子をそっと探るような叩き方だった。

風だ、と思おうとした。

思おうとして、できなかった。

その障子戸のむこうから、舅の声がした。

「おーい、寒くはないか。怖けりゃ、無理せんでもええぞ」

優しい、いつもの声だった。

けれど、それが舅の声でないことが、なぜか私には分かった。

声の調子は同じなのに、言葉と言葉のあいだの間が、生きた人のものではなかった。

一語ごとに、ほんのわずか、間延びしているのだ。

私は息を殺して、布団の中で身を固くした。

四隅の塩を、暗がりの中で見やった。

白かったはずの盛り塩が、墨を流したように黒ずんでいた。

私は野仏の前ににじり寄り、両手を合わせて、ただ助けを乞うた。

そのとき、

「からり……からり……ことり……」

と、あの乾いた音が、すぐ窓の外で鳴った。

コツ、コツ、コツ、と硝子を叩く音が、だんだんと数を増していった。

目張りの紙のむこうに、長い指が硝子を撫でている姿が、ありありと浮かんだ。

私にできたのは、野仏に祈ることだけだった。

祈りながら、声も出さず、ただ朝を待った。

叩く音は、ときに弱まり、ときにまた強くなった。

焦らすように、間を置いては、また硝子を探りはじめる。

私は瞼を固く閉じて、頭の中で念仏のような言葉を繰り返した。

夫の顔を思い、里の母の顔を思った。

どうか、朝までもたせてください、とだけ願った。

ひどく長い一夜だった。

それでも、朝はやってきた。

目張りの隙間から、灰色の薄明かりが射してきた。

いつのまにか、叩く音も、あの声も、止んでいた。

私は柱時計の鳴る数を、息を詰めて数えた。

七つの鐘が鳴り終えてから、震える手で戸を開けた。

廊下には、青ざめた顔の舅と、拝み手の老人が立っていた。

私の姿を見て、老人は、長い息を吐いた。

階下へ降りると、里から私の父も呼ばれて来ていた。

普段は穏やかな父が、見たことのない硬い顔をしていた。

庭には、見慣れぬ幌つきのオート三輪と、男たちが何人も集まっていた。

いずれも、舅と縁続きの者たちだった。

「これから、お前を隣村の寺まで送る」と、舅が言った。

「道々、決して目を開けるな。下を向いて、わしらの真ん中に座っておれ」

私は幌の中、男たちにぐるりと囲まれて座らされた。

男たちの体は、垣根のように私を取り囲んでいた。

年かさの男が、隣で低く唱えごとを始めた。

舅の運ぶ荷車が先導し、その後ろを私の乗る三輪が、最後に父の車が続いた。

列は、歩くほどの速さで進んだ。

幌の隙間から、桑畑の匂いと、初夏の土の匂いが流れ込んできた。

こんなにのどかな道で、これから何が起きるというのか、私には信じられなかった。

村を抜け、四つ辻にさしかかったとき、唱えごとの声が一段と強くなった。

そこには、苔むした石の仏が、四方を向いて据えられていた。

幌のあいだから、その一つが、こちらをじっと見ているように思えた。

「からり……からり……」

幌の外で、また、あの音がした。

私は護符を握りしめ、言われたとおり目を閉じて、うつむいていた。

けれど、どうしても気になって、ほんの少しだけ、薄目を開けてしまった。

幌の裾の隙間から、白い帷子の裾が見えた。

それが大股に、三輪のすぐ脇を、ぴたりとついて歩いていた。

地を踏む足の運びと、あの乾いた音とが、ぴたりと重なっていた。

頭は幌の高さより上にあって、見えなかった。

その白い影が、中を覗き込もうとするように、上半身をゆっくりと傾け始めた。

私は思わず、喉の奥で「ひっ」と声をもらした。

「見るな」と、隣の男が鋭くささやいた。

私は固く目を閉じ、護符を握る手に力をこめた。

コツ、コツ、コツ、と幌の骨を叩く音がした。

囲んでいた男たちも、息を詰め、低くうめいた。

姿は見えず、声も聞こえなくとも、あの叩く音だけは、皆に聞こえるようだった。

唱えごとが、いよいよ激しくなった。

気の遠くなるような時間が過ぎた。

やがて、音がふつりと途切れた。

「抜けた」と、唱えていた男が、こわばった声で言った。

囲んでいた者たちが、口々に「よかった、よかった」とつぶやいた。

張りつめていた幌の中の空気が、ようやくほどけた。

三輪は、道幅の広いところで止まった。

私は父の車に移された。

父と舅が、男たちに深く頭を下げていた。

そのあいだに、拝み手の老人が近づいてきて、「護符を見せてみい」と言った。

握りしめたままだった護符は、墨を浴びたように、真っ黒になっていた。

老人は、新しい護符を一枚、私に手渡した。

「もう案じることはなかろうが、しばらくは肌身離さず持っておれ」

家へ戻る道々、父が、ぽつぽつと話してくれた。

父も、白丈さまのことは知っていた。

子供のころ、近所の幼馴染が一人、魅入られたのだという。

その子は、数日のうちにあちらへ渡って、とうとう戻らぬ人になった。

村の者は皆、口を閉ざして、その名さえ言わなくなったそうだ。

その家では、ながいあいだ、夕方に表の戸を開けなくなったとも聞いた。

魅入られたのを恐れて、よその土地へ移っていった家も、いくつかあったそうだ。

白丈さまの話は、村では子に語り継がれてきた、いわば生きた怖い話なのだと、父は言った。

だからこそ、見たと口にした者は、すぐに囲って隠さねばならないのだ、と。

幌の三輪に乗っていた男たちは、みな舅の一族につらなる者だった。

先を行く舅も、後ろを行く父も、私と血のつながった者ばかりだった。

同じ血の者で幾重にも囲むことで、白丈さまの目を、少しでもくらまそうとしたのだという。

舅の兄弟は、一晩のうちには集まりきれなかった。

だから、血は薄くとも、すぐに駆けつけられる者に来てもらったのだ、と。

夜よりも昼のほうが安全とされるので、私は一晩、土蔵に籠められたのだった。

道中、もしものときは、舅か父が身代わりに立つ覚悟であったらしい。

その言葉を聞いて、私は車の中で、声を殺して泣いた。

そう聞かされて、もう二度とあの村の桑畑へは近づくな、と念を押された。

それからしばらく、おばばと拝み手の老人が、入れ替わりに家へ顔を出してくれた。

新しい護符は、ついに一度も黒くならなかった。

私はそれを、嫁入り道具の桐の小箱に、今も大切にしまっている。

あれから、いくつもの年が過ぎた。

私もすっかり年を取り、嫁いだ家の記憶も、薄らいでいた。

おばばは、とうに先に逝った。

舅も、その数年あとに、静かに眠りについた。

私は遠くにいて、その別れにも立ち会わせてもらえなかった。

舅は床に就いてからも、わしの弔いに、あの子を呼ぶな、と言い遺していたという。

血の濃い者が、あの土地に集まることを、舅は最期まで恐れていたのだ。

理由は、聞かずとも分かるような気がした。

私を守るために、舅はそうやって、別れの席にすら私を呼ばなかった。

そうして、つい先ごろのことだ。

嫁ぎ先の村から、遠縁の者が電話をよこした。

村の四つ辻のうち、一つの石仏が、道の工事で動かされてしまった、というのだ。

よりにもよって、私のかつての嫁ぎ先へ続く道の、あの石仏だという。

今となっては、迷信だと、自分に言い聞かせている。

あれはきっと、よその土地から嫁いだ娘の、気の迷いだったのだと。

言い聞かせながら、それでも、心のどこかが冷えている。

夕暮れに、どこからか乾いた音が聞こえてくるたび、私はもう、振り返らないことにしている。

あの「からり……からり……」という音が、また耳元で鳴り出しはしないかと、それだけが、ただ恐ろしい。

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