
嫁いだ家のことを、今になって思い出すことがある。
これは、私が生涯でただ一度だけ味わった、本当の怖い話だ。
昭和四十三年の初夏、私は十八で、信州の山あいの村へ嫁いだ。
桑の畑と蚕室ばかりが目につく、養蚕の村だった。
嫁いで初めての夏に、私は一度だけ、振り返ってはならないものを見た。
今でも、夕暮れどきになると、あの夏の蚕室の匂いが、ふと鼻先によみがえる。
あれが何であったのか、今もうまく言葉にできない。
ただ、起きたことを、起きたとおりに述べるしかない。
※
その年は桑の伸びが早く、朝も夕も葉を摘んでいた。
嫁ぎ先は古い茅葺きで、母屋の裏手に蚕室と、白壁の土蔵が一棟あった。
嫁いだばかりの私には、まだ知らぬ仕来りが多く、何もかもが手探りだった。
舅は無口で、義祖母は痩せて小柄な、よく働く人だった。
夫は町の工場へ勤めに出ていて、平日はめったに帰ってこなかった。
だから昼間の家には、たいてい私と義祖母の二人きりだった。
夕方、蚕に桑をくれてやったあと、私は蚕室の小窓から外を眺めていた。
西日が桑畑を橙に染めて、土塀のむこうに人の通る気配があった。
いつもの道なのに、その日は塀までの距離が、記憶よりわずかに遠く感じられた。
自分の影が、足もとから妙に長く伸びているのも、なんとなく気にかかった。
気のせいだと思った。
そのとき、「からり……からり……」と、乾いた音が聞こえてきた。
糸を繰る音にも、下駄の歯が鳴る音にも似ていた。
けれど、どちらでもないようでもあった。
音のするほうを見ると、土塀の上に菅笠が見えた。
白い菅笠が、塀の上をゆっくりと横に滑っていく。
おかしい、と思った。
その土塀は、私の背丈の倍はあった。
塀のむこうを歩く者が、その上から笠の天辺を覗かせるなど、あってよいはずがなかった。
笠の下には、白い帷子のような着物の肩が、わずかに見えていた。
肩の位置が、塀の高さよりも、なお高かった。
異様に背の高い、女のかたちをしたものだった。
歩みに合わせて、白い袖が、風もないのにゆらりと揺れた。
それが塀の切れ目まで来て、こちらへ顔を向けようとした。
私は咄嗟に身を低くして、小窓の桟の陰にしゃがみ込んだ。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
ただ、見てはいけない、と身体のほうが先に動いていた。
「からり……」という音が、ひとつ鳴って、止んだ。
しばらく動けずにいた。
膝が小刻みに震えていた。
立ち上がってもう一度外を見たとき、塀の上にはもう何もなかった。
西日だけが、さっきと同じように畑を染めていた。
※
その晩、囲炉裏端で、私は義祖母に昼間のことを話した。
おばばと呼んでいた、その人にである。
大きな女の人を見た、と私が言うと、おばばは「ほう」とだけ言った。
けれど、笠をかぶっていて、塀より背が高くて、からからと乾いた音をさせていた、と続けると、おばばの箸が止まった。
舅も、湯呑みを置いた。
二人は顔を見合わせて、しばらく何も言わなかった。
囲炉裏の薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
それから舅が、低い声で問うた。
いつ見た、どこで見た、塀よりどれほど高かった。
私が答えると、舅は立ち上がり、土間の電話のところへ行った。
受話器の向こうへ、ぼそぼそと何かを告げていた。
戻ってくると、舅は私の顔を見ずに言った。
「今夜は、お前を里へは帰せん」
何のことか、私には分からなかった。
舅はそのまま外套を羽織り、オート三輪で出かけていった。
夜道へ消えていくその背中が、いつもより小さく見えた。
残されたおばばに、いったい何が起きているのかと尋ねた。
おばばは、火箸で灰をならしながら、ぽつりぽつりと話してくれた。
この土地には、昔から「白丈さま」と呼ばれるものがいる。
丈の高い、白い女のなりをしている。
笑うと、女のなりに似合わぬ、男のような乾いた声を出すという。
見る人によって、若い女に見えたり、年老いた姥に見えたりする。
けれど、丈が高いことと、頭に何かを載せていることと、あの乾いた音だけは、いつも同じだ。
はるか昔、よそから流れてきた巡礼に、ついてきたものだ、という言い伝えがあった。
白丈さまは、村の四つ辻に据えられた石の仏によって、この土地に封じられている。
石仏のあいだから外へは、出ていけないのだという。
そして、ひとたび魅入られた者は、数日のうちに向こうへ渡ってしまう。
渡ってしまった者は、二度とこちらへは戻らない。
前にそうなった者が出たのは、もう十五年も前のことだと、おばばは言った。
近隣の村々とは、古い取り決めがあるらしかった。
沢の水を分ける順番を譲るかわりに、石仏を守ってもらう、というような。
被害は何年かに一度のことだから、村は黙ってそれを呑んできたのだ、と。
聞いても、私には実感が湧かなかった。
よその土地から来た私には、すべてが古い作り話のようにも思えた。
それでも、おばばの声の低さだけは、嘘ではなかった。
そこへ、舅が一人の老人を伴って帰ってきた。
村の拝み手をつとめる、庄屋筋の老人だった。
老人は私の顔を一目見るなり、「えらいことになった」と言った。
その一言で、これがただの言い伝えではないことを、私はようやく悟った。
老人は、墨で何か書きつけた古い護符を、私の手に握らせた。
※
その夜、私は土蔵の二階へ通された。
小さな窓という窓は、すべて新聞紙で目張りがされていた。
その上から、護符が貼られていた。
部屋の四隅には、塩が小さく盛られていた。
古い木箱の上に、手のひらほどの野仏が一体、据えられていた。
「朝の七つになるまで、ここから出てはならん」と舅が言った。
「わしらは、声をかけも、戸を叩きもせん」
「七つになったら、自分の手で戸を開けて、降りてこい」
老人も、念を押すように言った。
「何があっても、こちらから呼んだと思うな。決して開けるな」
私は、ただ頷いた。
二人が階下へ降りると、急に部屋が広く、暗くなった気がした。
灯りを落として、敷いてもらった布団にもぐり込んだ。
自分の息の音ばかりが、やけに大きく聞こえた。
土蔵の壁は厚く、外の物音はほとんど届かなかった。
その静けさが、かえって耳に重かった。
いつ眠ったのか、気づくと、あたりは深い夜になっていた。
窓のほうで、コツ、コツ、と音がした。
石を投げているのではなかった。
指の腹で、硝子をそっと探るような叩き方だった。
風だ、と思おうとした。
思おうとして、できなかった。
その障子戸のむこうから、舅の声がした。
「おーい、寒くはないか。怖けりゃ、無理せんでもええぞ」
優しい、いつもの声だった。
けれど、それが舅の声でないことが、なぜか私には分かった。
声の調子は同じなのに、言葉と言葉のあいだの間が、生きた人のものではなかった。
一語ごとに、ほんのわずか、間延びしているのだ。
私は息を殺して、布団の中で身を固くした。
四隅の塩を、暗がりの中で見やった。
白かったはずの盛り塩が、墨を流したように黒ずんでいた。
私は野仏の前ににじり寄り、両手を合わせて、ただ助けを乞うた。
そのとき、
「からり……からり……ことり……」
と、あの乾いた音が、すぐ窓の外で鳴った。
コツ、コツ、コツ、と硝子を叩く音が、だんだんと数を増していった。
目張りの紙のむこうに、長い指が硝子を撫でている姿が、ありありと浮かんだ。
私にできたのは、野仏に祈ることだけだった。
祈りながら、声も出さず、ただ朝を待った。
叩く音は、ときに弱まり、ときにまた強くなった。
焦らすように、間を置いては、また硝子を探りはじめる。
私は瞼を固く閉じて、頭の中で念仏のような言葉を繰り返した。
夫の顔を思い、里の母の顔を思った。
どうか、朝までもたせてください、とだけ願った。
※
ひどく長い一夜だった。
それでも、朝はやってきた。
目張りの隙間から、灰色の薄明かりが射してきた。
いつのまにか、叩く音も、あの声も、止んでいた。
私は柱時計の鳴る数を、息を詰めて数えた。
七つの鐘が鳴り終えてから、震える手で戸を開けた。
廊下には、青ざめた顔の舅と、拝み手の老人が立っていた。
私の姿を見て、老人は、長い息を吐いた。
階下へ降りると、里から私の父も呼ばれて来ていた。
普段は穏やかな父が、見たことのない硬い顔をしていた。
庭には、見慣れぬ幌つきのオート三輪と、男たちが何人も集まっていた。
いずれも、舅と縁続きの者たちだった。
「これから、お前を隣村の寺まで送る」と、舅が言った。
「道々、決して目を開けるな。下を向いて、わしらの真ん中に座っておれ」
私は幌の中、男たちにぐるりと囲まれて座らされた。
男たちの体は、垣根のように私を取り囲んでいた。
年かさの男が、隣で低く唱えごとを始めた。
舅の運ぶ荷車が先導し、その後ろを私の乗る三輪が、最後に父の車が続いた。
列は、歩くほどの速さで進んだ。
幌の隙間から、桑畑の匂いと、初夏の土の匂いが流れ込んできた。
こんなにのどかな道で、これから何が起きるというのか、私には信じられなかった。
村を抜け、四つ辻にさしかかったとき、唱えごとの声が一段と強くなった。
そこには、苔むした石の仏が、四方を向いて据えられていた。
幌のあいだから、その一つが、こちらをじっと見ているように思えた。
「からり……からり……」
幌の外で、また、あの音がした。
私は護符を握りしめ、言われたとおり目を閉じて、うつむいていた。
けれど、どうしても気になって、ほんの少しだけ、薄目を開けてしまった。
幌の裾の隙間から、白い帷子の裾が見えた。
それが大股に、三輪のすぐ脇を、ぴたりとついて歩いていた。
地を踏む足の運びと、あの乾いた音とが、ぴたりと重なっていた。
頭は幌の高さより上にあって、見えなかった。
その白い影が、中を覗き込もうとするように、上半身をゆっくりと傾け始めた。
私は思わず、喉の奥で「ひっ」と声をもらした。
「見るな」と、隣の男が鋭くささやいた。
私は固く目を閉じ、護符を握る手に力をこめた。
コツ、コツ、コツ、と幌の骨を叩く音がした。
囲んでいた男たちも、息を詰め、低くうめいた。
姿は見えず、声も聞こえなくとも、あの叩く音だけは、皆に聞こえるようだった。
唱えごとが、いよいよ激しくなった。
気の遠くなるような時間が過ぎた。
やがて、音がふつりと途切れた。
「抜けた」と、唱えていた男が、こわばった声で言った。
囲んでいた者たちが、口々に「よかった、よかった」とつぶやいた。
張りつめていた幌の中の空気が、ようやくほどけた。
三輪は、道幅の広いところで止まった。
私は父の車に移された。
父と舅が、男たちに深く頭を下げていた。
そのあいだに、拝み手の老人が近づいてきて、「護符を見せてみい」と言った。
握りしめたままだった護符は、墨を浴びたように、真っ黒になっていた。
老人は、新しい護符を一枚、私に手渡した。
「もう案じることはなかろうが、しばらくは肌身離さず持っておれ」
※
家へ戻る道々、父が、ぽつぽつと話してくれた。
父も、白丈さまのことは知っていた。
子供のころ、近所の幼馴染が一人、魅入られたのだという。
その子は、数日のうちにあちらへ渡って、とうとう戻らぬ人になった。
村の者は皆、口を閉ざして、その名さえ言わなくなったそうだ。
その家では、ながいあいだ、夕方に表の戸を開けなくなったとも聞いた。
魅入られたのを恐れて、よその土地へ移っていった家も、いくつかあったそうだ。
白丈さまの話は、村では子に語り継がれてきた、いわば生きた怖い話なのだと、父は言った。
だからこそ、見たと口にした者は、すぐに囲って隠さねばならないのだ、と。
幌の三輪に乗っていた男たちは、みな舅の一族につらなる者だった。
先を行く舅も、後ろを行く父も、私と血のつながった者ばかりだった。
同じ血の者で幾重にも囲むことで、白丈さまの目を、少しでもくらまそうとしたのだという。
舅の兄弟は、一晩のうちには集まりきれなかった。
だから、血は薄くとも、すぐに駆けつけられる者に来てもらったのだ、と。
夜よりも昼のほうが安全とされるので、私は一晩、土蔵に籠められたのだった。
道中、もしものときは、舅か父が身代わりに立つ覚悟であったらしい。
その言葉を聞いて、私は車の中で、声を殺して泣いた。
そう聞かされて、もう二度とあの村の桑畑へは近づくな、と念を押された。
それからしばらく、おばばと拝み手の老人が、入れ替わりに家へ顔を出してくれた。
新しい護符は、ついに一度も黒くならなかった。
私はそれを、嫁入り道具の桐の小箱に、今も大切にしまっている。
※
あれから、いくつもの年が過ぎた。
私もすっかり年を取り、嫁いだ家の記憶も、薄らいでいた。
おばばは、とうに先に逝った。
舅も、その数年あとに、静かに眠りについた。
私は遠くにいて、その別れにも立ち会わせてもらえなかった。
舅は床に就いてからも、わしの弔いに、あの子を呼ぶな、と言い遺していたという。
血の濃い者が、あの土地に集まることを、舅は最期まで恐れていたのだ。
理由は、聞かずとも分かるような気がした。
私を守るために、舅はそうやって、別れの席にすら私を呼ばなかった。
そうして、つい先ごろのことだ。
嫁ぎ先の村から、遠縁の者が電話をよこした。
村の四つ辻のうち、一つの石仏が、道の工事で動かされてしまった、というのだ。
よりにもよって、私のかつての嫁ぎ先へ続く道の、あの石仏だという。
今となっては、迷信だと、自分に言い聞かせている。
あれはきっと、よその土地から嫁いだ娘の、気の迷いだったのだと。
言い聞かせながら、それでも、心のどこかが冷えている。
夕暮れに、どこからか乾いた音が聞こえてくるたび、私はもう、振り返らないことにしている。
あの「からり……からり……」という音が、また耳元で鳴り出しはしないかと、それだけが、ただ恐ろしい。