
点検の朝、調整池の水はいつも通り澄んでいた。
去年の六月の話です。
私は埼玉県西部の丘陵地にある、みどり台団地の緑地を管理する会社に勤めています。
四十四歳、男です。
仕事は草刈りと、遊具や池の点検です。
団地の北の端に、調整池があります。
大雨のとき、雨水を一時的にためておくための池です。
フェンスで囲まれ、鍵は私たちの班が持っています。
地元の人は、その池を口濯ぎさんと呼んでいました。
最初は、ただの池の愛称だと思っていました。
正式な名称は「第三調整池」で、地図には口濯ぎさんとは書かれていません。
ただ、団地の古い住人は、誰もがそう呼びました。
水は不思議な緑色をしています。
翡翠色を薄めたような、青に近い緑です。
そして、底の杭の目盛りが読めるほど澄んでいます。
私はその色が好きでした。
好きだったからこそ、今も話せるのだと思います。
池ができたのは十五年前、団地の北側を造成したときです。
工事のとき、地元の人から、池の位置だけは動かすなと言われたそうです。
設計図では、もう少し南に作る予定でした。
結局、設計のほうが変わりました。
理由を、会社の誰も知りません。
私が入社したのは五年前で、その事情を知っている人は、もう残っていませんでした。
団地の主婦たちは、散歩の途中でフェンスの前に立ち、池を眺めて帰っていきます。
誰も、中には入りません。
理由を聞くと、みんな笑ってごまかしました。
私は昔から、人の愚痴を黙って聞く役回りでした。
学生のころも、会社でも、そうです。
飲み会では、隣の席の人が勝手に話し始めます。
私は相づちを打つだけです。
妻にはよく言われました。
「あなたは聞いてるだけで、何も返さないから、みんな楽なのよ」
褒め言葉なのか、そうでないのか、今も分かりません。
班は三人です。
班長の久保田さんは五十八歳で、口は悪いが面倒見のいい人です。
後輩の椎名は二十六歳で、入社二年目。
よく喋る子で、現場に着くと、一日分の愚痴をまとめて話してくれます。
その日は、月に一度の調整池の定期点検でした。
内容はフェンスの施錠、取水口のごみ除去、水位計の読み取り。
それと、点検日誌への記入です。
私が前任者から引き継いだのは、この日誌でした。
紙の日誌は、一冊で二十年分あります。
鉛筆書きの表紙は、角が丸く擦り切れていました。
めくると、日誌の一ページ目は、水に濡れたように滲んで読めなかった。
前任の中野さんは、「最初のページは気にするな。ずっとそうだ」と言いました。
それで、気にしないことにしました。
澄みすぎた水
七月に入ってから、水はさらに澄んでいきました。
最初に気づいたのは椎名です。
「沢井さん、この杭、いつからこんなにはっきり見えてました?」
水位計の横に、浄化用の杭が一本立っています。
水深は一・八メートルで、五十センチごとに目盛りが刻まれています。
いつもは緑の濁りで、一メートルあたりまでしか見えません。
その日は、一番下の目盛りまで読めました。
底の砂利の粒まで、数えられそうでした。
「雨が少なかったからだろう」
私はそう答えました。
「でも、澄んでるのに、緑なんですよね」
椎名の言うとおりでした。
澄んだ水は、普通なら透明に見えます。
ここは、底まで見えるのに、色だけが濃くなっていく。
緑のガラスを何枚も重ねたような水でした。
久保田さんが、汲んだ水をバケツの縁から覗いて、鼻を鳴らしました。
「藻じゃねえな。臭いもない」
「薬品とかですか」
「うちは入れてない。区も入れてない」
久保田さんは、バケツの水を池に戻しました。
水は、波紋も立てずに、元の面へ溶けました。
波紋が立たなかったことに気づいたのは、車に乗ってからでした。
会話は、そこで終わりました。
私は水位計を読み、日誌に書きました。
水位、基準内。水質、異常なし。
鉛筆を置いて顔を上げると、フェンスの向こうに団地が見えます。
五階建ての棟が六つ。
ベランダで洗濯物が揺れていました。
音は、風だけでした。
その日、ごみ置き場では、いつもの顔ぶれが立ち話をしていました。
四号棟の奥さんが、隣の部屋の足音について、声を落として話していました。
私は、うなずきました。
「そうなんですね」と、それだけ言いました。
奥さんは、少しほっとした顔で帰っていきました。
私が何かを返したわけではありません。
ただ聞いただけで、人は軽くなるようです。
帰りの車の中で、椎名が言いました。
「あの池、気持ち悪いくらいきれいっすよね」
「きれいなのは、いいことだろう」
「だって、きれいすぎる水って、何か入ってるじゃないですか。魚もいないし」
言われて、初めて気づきました。
あの池には、魚も、虫も、アメンボさえいません。
十五年前に池ができたとき、一度も魚を放したことはないと、久保田さんが言っていました。
私はそれを、水質のせいだと思っていました。
けれど、魚が一匹もいない池というのは、考えてみれば、おかしな話です。
水が澄むほど、生き物の気配は遠のいていく。
そんな当たり前のことを、私は見ないようにしていました。
夕食のとき、妻に池の話をしました。
「水が澄みすぎて、気味が悪いと後輩が言うんだ」
「あなた、そういう話、すぐ真に受けるのね」
妻は箸を止めて、私の顔をじっと見ました。
「目、赤いわよ。疲れてるんじゃない」
その晩、洗面所の鏡で、左目の白目の端が曇って見えた。
疲れだろうと思い、目薬をさして寝ました。
口濯ぎさんの札
翌週、フェンスの内側の柱に、古い木札が掛かっているのに気づきました。
今まで気づかなかったのが不思議なくらい、目立つ位置です。
墨で書かれた文字は、薄れていました。
「愚痴は池へ。人へは言うな」
その下に、小さな文字がもう一行あります。
擦れていて、読めません。
「これ、前からありました?」
椎名が聞きます。
「あったんだろう」
「毎月見てるのに、記憶にないんですけど」
そこへ、自治会の浅見さんが、買い物袋を提げて通りかかりました。
八十一歳。団地ができる前から、この土地に住んでいる人です。
「あんたら、札は読んだかね」
「読みました。愚痴は池へ、って」
「そう。口濯ぎさんは、悪口を聞いてくださる」
浅見さんは、フェンス越しに池を見ました。
「昔、ここは田んぼのいちばん下でね。山の水がたまる沼だったんだよ」
「沼」
「村の者は、嫁の悪口でも、隣の悪口でも、沼に向かって言った。言い終わると、水が少し澄んだ。それで、口濯ぎさん」
「悪口を言うと、水がきれいになるんですか」
椎名が笑いかけて、やめました。
浅見さんが、笑っていなかったからです。
「人に言うと、戻ってくるだろう。池に言えば、池が引き受けてくださる。そういうことだよ」
「引き受けた悪口は、どこへ行くんです」
私は聞きました。
浅見さんは、少し考えるような顔をしました。
「さあね。あたしは、言うほうだったから」
それ以上は、話してくれませんでした。
浅見さんの背中は、団地の坂道をゆっくり上っていきました。
途中で一度だけ振り返り、池ではなく、私のほうを見ました。
距離があって、表情までは分かりませんでした。
帰りぎわ、浅見さんは私を振り返りました。
「あんた、聞く人だね」
「はい?」
「前の中野さんも、聞く人だった。いい人だったよ」
中野さんは、私に日誌を渡して、三年前に会社を辞めた人です。
退職の理由は、目の病気と聞いていました。
浅見さんは、最後にもう一つだけ付け足しました。
「言うなら池に。でも、言いすぎると、あふれるからね」
何があふれるのか、聞けませんでした。
その日の昼、椎名がふざけて、フェンスの前に立ちました。
「じゃあ、ためしに。自販機のおつり、いつも詰まらせるやつ、許さん」
くだらない愚痴です。
水面が、ほんのわずかに、色を深めたように見えました。
「あ、なんか、すっきりしますね」
椎名は、本気で驚いた顔をしていました。
私は、何も言いませんでした。
ただ、うなずきました。
椎名が帰ったあと、私は札の前に残りました。
擦れた二行目に、指を近づけました。
墨の跡は、読めないままでした。
ただ、指先に触れた木の面が、水に濡れたように冷たかったのを覚えています。
水面から届く愚痴
夕方の点検は、私が一人で行くことが増えました。
久保田さんは本社との打ち合わせで、椎名は別の現場の応援です。
八月の初め、午後五時過ぎ。
西日が団地の棟に当たり、池の水は、緑の底に橙色を溶かしていました。
水位計を読んでいると、声がしました。
「うちの嫁はね、ゴミの分別も満足にできなくて」
女の人の、囁くような声です。
私は顔を上げました。
フェンスの外には、誰もいません。
団地の窓も、遠すぎます。
声は、水面から聞こえていました。
「あの班長、また朝の七時にゴミ出ししてるのよ。いい年して」
今度は、別の声。
さらに、低い男の声。
「管理費、値上げするって言うけど、誰の得になるんだか」
全部、愚痴でした。
どれも団地の住人の、どこにでもある、小さな不満です。
私は水位計を握ったまま、動けませんでした。
その日の朝、ごみ置き場で聞いた話と、同じ言葉が混じっていたからです。
私は、聞き役です。
朝のごみ置き場で、住人の誰かが言った愚痴を、うなずいて聞く。
それが、私の習慣でした。
声は、ほんの数分で止みました。
水は何事もなかったように、緑のまま揺れていました。
翌朝、椎名に話しました。
「池から声が聞こえた」
椎名は、変な顔をしませんでした。
「え、どんな声ですか」
「団地の人の愚痴みたいな」
「へえ。僕、何も聞こえなかったですけど」
「そうか」
「でも沢井さんなら、聞こえそうですよね。人の話、ずっと聞いてるから」
私は、笑って流しました。
その夜から、毎日、水の音に混じって声がするようになりました。
一つだけ、不思議なことがありました。
声はいつも、その日のうちの愚痴でした。
前の日の愚痴は、もう聞こえません。
池は、一日ぶんを濯いで、きれいにしているようでした。
九月の最初の月曜、久保田さんが、フェンスの前で荒っぽく言いました。
「区役所の課長がよ、予算を半分に削りやがった」
久保田さんは、年に一度の見積もりをめぐって、区の公園課と揉めていました。
「あいつは目が節穴なんだ。現場を一度も見ないで、数字だけ見て」
私は、うなずきました。
椎名は少し離れたところで、虫よけを塗っていました。
久保田さんは、フェンスに額を預けるようにして、続けました。
「あんなやつ、ここへ来て、池の底まで見えるかどうか、自分の目で確かめてみろってんだ」
言い終わると、久保田さんは小さく息を吐きました。
「すっきりした。ここで言うと、不思議と楽になるな」
浅見さんの札が、柱で風に鳴りました。
翌週の月曜、久保田さんが、青い顔で出社しました。
「課長が入院した」
「え」
「左目だってよ。急に白く濁って、見えなくなった。原因は不明だそうだ」
久保田さんは、事務所の椅子に腰を落としました。
「俺、この前、あいつの目のことを言ったんだ。池の前で」
誰も、何も言いませんでした。
「偶然だろ」
久保田さんは、自分に言い聞かせるように言いました。
「たまたまだ。なあ、沢井」
私は、うなずきました。
うなずくことしかできなかったのです。
その日の昼休み、私は中野さんが入所している施設に電話をしました。
職員の女性が出ました。
「中野さんですね。お元気ですよ。ただ、お目は、もう」
「見えないんですか」
「ええ、数年前から。でも、不思議なんですけど」
職員は、少し声を落としました。
「窓の外を見て、いつも『水の色だ』っておっしゃるんです。緑の水が澄んでいるって、うれしそうに」
私は礼を言って、電話を切りました。
窓の外の、水の色。
中野さんは、私に日誌を渡すとき、こうも言っていました。
「聞くだけなら、害はない。そう思ってた」
その言葉の続きを、私は聞いていません。
聞く前に、中野さんが車に乗ってしまったからです。
来週の日付の異常なし
十月、台風が近づいた夜のことです。
調整池は、大雨のとき、水位が一気に上がります。
ゲートの開閉に立ち会うため、私は夜の九時に一人で現場へ向かいました。
雨は、まだ降り始めたばかりでした。
傘は、役に立たない降り方でした。
合羽の肩に、水の粒が重くたまっていきます。
土の匂いが強く、ゲートの鉄の錆が、湿った空気に混じっていました。
フェンスの鍵を開け、懐中電灯で足元を照らします。
濡れた砂利が、靴の下で小さく鳴りました。
フェンスの向こうの団地は、ほとんどの窓が暗くなっていました。
風が、棟と棟の間を抜けて、低い音を立てていました。
ゲートの管理小屋に入ると、古いストーブの匂いがしました。
池の水は、いつもより澄んでいました。
澄んでいるのに、闇を吸い込んだように濃い緑です。
水位計を読み、日誌を開きました。
いつものように日付を書こうとして、手が止まりました。
最新のページの、さらに先に、見覚えのない書き込みがあったのです。
十月二十日。水位、基準内。異常なし。
私の筆跡でした。
その日は、十月十一日です。
来週の日付の欄に、私の字で、「異常なし」。
ページをめくりました。
十月二十七日も、十一月三日も、同じ筆跡で、同じ言葉が埋まっています。
「異常なし」
どの欄も、私が書いた覚えのない字なのに、私の癖のとおり、少し右へ流れていました。
そのとき、足元で水が鳴りました。
懐中電灯を、水面に向けます。
光は水に入らず、緑の面の上で、薄い膜のように広がりました。
声がしました。
女の人の囁き声ではありません。
低い、疲れた、聞き慣れた声でした。
「もう、誰の話も聞きたくない」
それは、私の声でした。
私は、そんなことを口にした覚えはありません。
いえ、口には出していません。
妻に「聞いてるだけ」と言われた夜、口の中だけで繰り返した言葉と、同じだったのです。
その言葉は、誰にも聞かれていないはずでした。
「もう、誰の話も聞きたくない」
声は、水の底からもう一度言いました。
その下に、団地の住人の愚痴が、淡く重なりました。
嫁の話、班長の話、管理費の話、課長の話。
全部が、私の声の下で、濁りのない水のように揺れていました。
水の面は鏡のようで、雨粒が落ちても、波紋を作りませんでした。
池は、愚痴を消していない。
濯がれた言葉は、澄んだ水の中に、そのまま残っている。
私はそのとき、そう思ってしまいました。
雨が強くなりました。
私は日誌を閉じ、ゲートを開けるために走りました。
水位計の針が、ぐんぐん動きます。
電話が鳴り、久保田さんの声が聞こえました。
「どうだ、そっちは」
「異常なしです」
自分の口から出た言葉に、ぞっとしました。
その夜、水は一度も溢れませんでした。
引き継ぎの日
十二月、私は会社を辞めることにしました。
理由は、体調と説明しました。
左目の曇りは、あの夜から広がっていました。
眼科では、原因不明と言われました。
視力は、まだありました。
ただ、左目だけ、朝の光がすべて白く見えるのです。
妻には、まだ言っていません。
妻は最近、私の話を聞く側にまわるようになりました。
私が黙っていると、「聞いてるだけでいいわよ」と言って、隣に座ります。
引き継ぎは、椎名にしました。
引き継ぎ書は、一枚だけです。
水位計の読み方、鍵の置き場所、非常時の連絡先。
書き終えて、最後の行に書くことが何もないのに気づきました。
あの池について書けることは、何もなかったのです。
最後の点検の日は、風のない、冷たい朝でした。
「沢井さん、本当に辞めちゃうんですね」
「ああ」
「寂しいっすよ。僕、沢井さんにしか愚痴を言えなかったんで」
椎名は笑いながら、少しだけ真顔になりました。
フェンスの鍵を開け、日誌を渡します。
「最初のページは、気にしなくていい。ずっと滲んでるから」
私が中野さんに言われたのと、同じ言葉でした。
椎名は日誌を受け取り、私の顔を見ました。
「先輩の白目、今日は池の水みたいに緑がかってます。」
私は笑って、目薬の話をしました。
フェンスの外で、風が止まっていました。
池の水は、鏡のように動きませんでした。
団地の棟の影が、一つずつ、緑の面に沈んでいました。
遠くで、ごみ収集車の音がしました。
その音だけが、この場所にまだ時間があることを教えていました。
椎名は、柱の札を見上げました。
「僕、愚痴、ここで言ってもいいですか」
私は、うなずきました。
習慣でした。
椎名は、フェンスに向かって話し始めました。
会社のこと、彼女のこと、団地のこと。
声が、緑の面に落ちていきます。
水は、少しずつ澄んでいきました。
私は、ただ聞いていました。
椎名の手の中で、日誌の表紙が、風もないのにめくれました。
朝の光が、一ページ目を横から舐めました。
滲んでいた一ページ目は、角度を変えると私の名前だった。
日付は二十年前で、私はまだ、この町を知りませんでした。
点検の朝、調整池の水はいつも通り澄んでいた。