
去年の11月の話です。
私は駅前の常盤写真館で、着付けとヘアメイクをしています。
七五三の前撮りが、一年でいちばん忙しい季節です。
10月の半ばから11月の末まで、土日は朝から晩まで埋まります。
着付けは、子どもの後ろに立つ仕事です。
帯を結ぶのも、衿を抜くのも、髪を留めるのも、全部後ろから。
けれど去年の秋から、私は子どもの後ろに立つのをやめました。
壁を背にして、鏡越しに手を伸ばします。
後ろには、もう別の誰かが立っているからです。
先に、祝い着の肩上げのことを話しておきます。
七つの祝い着は、大人と同じ寸法で仕立てます。
それを子どもの身体に合わせて、肩と腰で布をつまみ、糸で縫い留める。
それが肩上げと腰上げです。
子どもが育つたび、糸をほどいて、寸法を戻していきます。
祝い着の肩上げは、いつかほどかれるために縫われている。
着付けの学校で、最初に教わることです。
道具を並べる順番も、そこで教わりました。
帯、帯揚げ、帯締め、筥迫。
私はいつも、この順に右から並べます。
学校の教え方とは逆です。
なぜ逆にしたのか、自分でもわかりません。
手が、そう並べるのです。
直そうとしたことは、何度もあります。
そのたびに、帯締めを持つ手が、一度止まります。
ついでに言うと、私自身の七五三の写真は、一枚もありません。
母は、撮ったはずだと言います。
実家のアルバムは、その頁だけ、台紙が空いています。
常盤写真館は、アーケードの端にある三階建ての古いビルです。
創業は1952年。
その前は、同じ場所で人形問屋をしていたそうです。
店の看板には、今も「常盤」の二文字だけが残っています。
一階がスタジオ、二階が事務所と待合、三階が衣装部屋。
階段は木で、三階まで上がると、絹と樟脳の匂いがします。
アーケードの放送が、三階まではかすかにしか届きません。
私が入ったのは3年前の春でした。
面接をしたのは、会長の常盤ふささんです。
84歳。
元は着付けの先生で、今も月に何度か店に出ます。
ふささんは、私の履歴書をほとんど見ませんでした。
顔を見て、髪を見て、それから「明日から来られる」と言いました。
初日、ふささんは私を「ちよさん」と呼びました。
すぐに口を押さえて、「ごめんなさいね、昔の人の名前」と笑いました。
私はそのとき、何も思いませんでした。
ただ、名前を間違えられたのに、腹が立たなかったのを覚えています。
呼ばれ慣れた名前のように、聞こえたからです。
三階の衣装部屋
三階は、貸し出す衣装を並べた部屋です。
壁の三面が衣装棚で、真ん中に畳が六畳ぶん敷いてあります。
そこで子どもを着せて、階段で一階のスタジオへ降ろします。
窓は西に一つだけで、午後になると障子が黄色くなります。
隅に古い姿見が一枚と、たたんだ衣紋掛けが立てかけてあります。
部屋の奥に、桐の箱がひとつ置いてあります。
棚には載せず、床の間のような板の上に、直に。
箱には「番外」と書いた札が貼ってあります。
貸し出しの台帳にも載っていません。
中身は、七つの祝い着が一枚だけ。
松と鶴を散らした、深い臙脂の総柄です。
私が見た中で、いちばん古く、いちばん丁寧な仕立てでした。
肩上げも腰上げも、絹の白糸で縫ってあります。
針目が細かくて、一針が米粒の半分ほどしかありません。
ふささんは、「それは着せません」とだけ言いました。
理由は聞きませんでした。
古い着物に事情があるのは、この仕事では珍しくありません。
ふささんは三階に上がるたび、桐の箱に小さく頭を下げます。
私も、いつからか、同じようにしていました。
11月に入ると、三階は毎日使います。
朝いちばんに私が鍵を開け、最後に私が閉めます。
去年の11月の最初の週、閉めるときに、上から音がしました。
とん、と一つ。
少し間があって、また、とん。
低くて丸い音でした。
畳の上で、何かが弾む音です。
三階は最上階ですから、上には屋根しかありません。
私は階段を途中まで上がって、やめました。
音は、私が足を止めると、止まりました。
ふささんに言うと、「雨樋ね」と言われました。
その日は、雨が降っていませんでした。
その週は、毎晩、音がしました。
数は、日によって違いました。
前撮りの子は、一日に三人か四人です。
六歳の子は、七つの祝いを前にして、まだ身体が小さい。
どの子にも、肩上げと腰上げをした着物を着せます。
私はいつも、子どもの後ろで屈んで、肩の糸を確かめます。
その週の木曜、みおちゃんという子が来ました。
六歳。
髪を肩でまっすぐに切り揃えた、静かな子でした。
選んだのは、貸し出し用の、いちばん新しい柄でした。
着せている間、みおちゃんは一度も鏡を見ませんでした。
鏡の少し上、私の肩のあたりを、ずっと見ていました。
帯を結び終えたとき、みおちゃんが言いました。
「これじゃないって」
誰が、と私は訊きました。
「おはりのおばさん」
みおちゃんは、鏡の中の、私の後ろを指さしました。
鏡には、衣装棚と、閉めた襖しか写っていません。
私は笑って、帯揚げを整えました。
子どもは、よくそういうことを言います。
撮影のあと、その着物を棚に戻しました。
戻すとき、棚の奥で、絹の擦れる音がしました。
奥には、たたんだ着物しか入っていません。
帰りに階段を降りるとき、襖が少しだけ開いていました。
閉めた覚えのある襖です。
桐の箱の前の畳が、一か所だけ、丸くへこんでいました。
手毬を置いたほどの大きさでした。
祝い着の肩上げの糸
翌週の月曜、桐の箱の蓋がずれていました。
一センチほど。
私は箱を開けました。
祝い着はたとう紙に包まれたまま、きちんと畳まれていました。
ただ、右の肩上げの糸が、一針ぶんだけほどけていました。
白い絹糸の端が、二ミリほど、布から浮いていました。
古い糸は、ほどけることがあります。
私はそう思うことにして、蓋を戻しました。
念のため、箱の紐を固く結びました。
自分の知っている、いちばん固い結び方です。
翌朝、紐は結び直されていました。
私の知らない結び方でした。
花のように、四つの輪が重なっていました。
ほどこうとして、指が迷わなかったことに、後で気づきました。
その週の金曜、糸は三針ほどけていました。
ほどけた糸は、切れていませんでした。
針で丁寧に抜いたときの形で、畳の上に、小さな輪を作っていました。
私は、その輪をしばらく見ていました。
糸を抜いた人は、抜いた糸を捨てずに、揃えて置いていったのです。
几帳面な人です。
私はその糸を、自分の針箱の隅に入れました。
なぜそうしたのか、今も説明できません。
糸の輪は、乾いた絹の匂いがしました。
針箱を開けるたび、その匂いが、少しずつ強くなっていきました。
ふささんの息子の修さんが、店主でカメラマンです。
56歳。
口数の少ない人で、撮影のときだけよく笑います。
私は修さんに、糸のことを話しました。
修さんは、しばらく黙っていました。
それから「母には言わないでくれ」と言いました。
「昔から、11月になると、ほどけるんだ」
「誰が、ですか」
「わからない。祖母の代からだと聞いてる」
「直さないんですか」
「直した年は、翌朝、直した分だけ余計にほどけてた」
修さんは、若いころに一度だけ、糸を全部縫い直したことがあるそうです。
祖母に叱られてから、二十年以上、触っていないと言いました。
翌朝、祝い着は衣紋掛けに掛かっていて、糸は一本残らず畳に並んでいた。
それだけを、修さんは、足元を見ながら話しました。
「あれは、直すもんじゃない」
私はその夜、三階を閉めるとき、音を数えました。
とん、とん、とん。
三つ。
糸がほどけた数と同じでした。
次の日は四つ。
その次の日は、六つでした。
糸を数えに行くのが、怖くなりました。
ただ、行かないでいるほうが、もっと落ち着きませんでした。
桐の箱を開けると、右の肩上げは半分ほどまで解かれていました。
左は、まだ手つかずでした。
順番があるのだと思いました。
右の肩、左の肩、それから腰。
着付けの学校で教わる、肩上げをほどく順番と同じです。
針箱の隅の糸の輪は、数えると、いつも畳の上の数と合っていました。
私は、その糸を捨てられずにいました。
おはりのおばさん
11月の半ばに、くるみちゃんが来ました。
六歳。
よく喋る子で、着せている間ずっと、幼稚園の話をしていました。
帯を締めたところで、急に声が小さくなりました。
「お姉さん、おちよさんっていうの」
違うよ、と私は言いました。
「でも、おはりのおばさんが、おちよって呼んでる」
くるみちゃんは、私を見ていませんでした。
私の肩の、少し上を見ていました。
みおちゃんと同じ高さです。
「おばさん、なんて言ってる」
私は、なるべく普通の声で訊きました。
くるみちゃんは、少し考えてから言いました。
「あとふたつ、だって」
「なにが」
「わかんない。ゆびで、こうやった」
くるみちゃんは、右手の指を二本立てました。
私はその日、一階のスタジオで、くるみちゃんの後ろに立てませんでした。
修さんがシャッターを切る間、私は壁際で、髪飾りの箱を持っていました。
くるみちゃんは、レンズではなく、私の少し上を見て笑っていました。
くるみちゃんのお母さんが、帰り際に言いました。
「この子、家では人見知りなんです」
「今日は珍しく、知らない人と喋ってましたね」
お母さんは、待合にいました。
三階には、私とくるみちゃんしかいませんでした。
二日後、お母さんから店に電話がありました。
写真の受け取りの確認だと思って出ると、違いました。
「娘が、おちよさんの七五三に行くって言うんです」
「そういうお友達が、いらっしゃるんですか」
「いません。写真館で会ったって」
電話の向こうで、くるみちゃんの声がしました。
「おちよさんは、みぎがさきだよ」
お母さんは、意味がわからないと笑いました。
私は、その日の予約表を確かめると答えて、電話を切りました。
その日の予約表に、そういう名前はありませんでした。
その晩、桐の箱を開けました。
左の肩上げが、残り二針でした。
その週、私は自分の記憶を疑いはじめました。
私は小さい頃、手毬唄を歌う癖がありました。
母は、誰にも教わっていないのにと不思議がっていました。
数え唄です。
ひとつ、ふたつ、と数えて、七つで終わります。
八つから先を、私は知りません。
今でも、帯を結ぶとき、口の中で歌います。
ふささんが、一度だけそれを聞いて、手を止めたことがあります。
入って半年ほどの頃です。
「その歌、どこで覚えたの」
「わかりません。昔からです」
ふささんは、七つ、のところで、息を止めたように見えました。
それ以上は、何も言いませんでした。
ただ、その日から、私を「ちよさん」と呼び間違えることは、なくなりました。
代わりに、名前を呼ばずに、私の肩に手を置いて用を言うようになりました。
右の肩でした。
カーディガンの白い糸
11月の第三週の水曜でした。
閉店のあと、私は三階に上がりました。
糸を数えるためです。
桐の箱を開けて、祝い着を広げました。
右の肩上げは、すべてほどけていました。
左も、その晩のうちにほどけたのか、糸が一本も残っていませんでした。
腰上げは、まだそのままでした。
時計を見ました。
19時12分。
私は畳に座って、祝い着の衿を見ていました。
衿の裏に、墨で小さく字が書いてありました。
「ちよ」
それだけです。
私は、その字を、指で何度もなぞりました。
知らない字でした。
知らない字なのに、なぞる指が、迷いませんでした。
障子の色が、黄色から灰色に変わっていくのを、見ていた気がします。
気がつくと、部屋が暗くなっていました。
時計は、19時51分でした。
私には、五分ほどしか経っていないように思えました。
膝が、畳の目のかたちに痺れていました。
立ち上がると、肩が、少しだけ引きつれました。
カーディガンの右肩に、白い糸が通っていました。
布をひとつまみして、内側に折り、細かく縫い留めてあります。
一針が、米粒の半分ほど。
祝い着の肩上げと、同じ針目でした。
私はカーディガンを脱いで、階段の途中で、糸を抜きました。
糸は、切れずに抜けました。
私はそれを、捨てられませんでした。
針箱の隅の、あの糸の輪の隣に、置きました。
帰りの電車で、右肩を、何度も触りました。
触るたびに、指先がほんの少しだけ冷たくなる気がしました。
向かいの席の女の子が、私の肩を見て、母親の袖を引きました。
「あのひと、いとついてる」
カーディガンは、鞄の中でした。
私は、ブラウスの右肩を、見ませんでした。
布の折り目のあとは、翌日まで残っていました。
洗っても、折り目のかたちだけは、消えませんでした。
その夜、家で鏡の前に立ちました。
右の肩だけ、折り目のぶんだけ、なだらかに見えました。
布の折り目は、人の肩幅と同じ幅で取ってありました。
私の肩幅と、同じ幅でした。
翌朝、髪を結うとき、鏡の中の右肩に、白い糸が一本、載っていました。
払うと、もう一度、載りました。
三度目は、払いませんでした。
店に着くと、ふささんが出ていました。
私は、カーディガンを持って行きました。
ふささんは、肩の折り目を見て、それから私の顔を見ました。
指で、折り目の幅を測りました。
「肩幅、きっちりね」
「寸法を取られたのね」
声は、落ち着いていました。
「イトさんは、いつも先に寸法を取る人だった」
「イトさん、というのは」
ふささんは答えずに、店の入口のほうへ、私を連れて行きました。
創業の日の一枚
店の入口に、額に入った写真が一枚、掛かっています。
「創業の日」と、修さんが書いた札が添えてあります。
私は3年間、それをちゃんと見たことがありませんでした。
写真は、七つの祝い着を着た女の子の、後ろ姿です。
髪を肩で切り揃えて、こちらに背を向けて、桐の箱の前に立っています。
臙脂の総柄に、松と鶴。
右の肩に、細かい肩上げの針目が写っています。
箱の横に、手毬がひとつ、置いてあります。
ふささんは額を外して、裏を見せてくれました。
鉛筆で、昭和九年十一月十五日、と書いてありました。
「撮ったのは、その日じゃないの」
「その日に撮るつもりで、先に日付を書いたの」
書いたのは、ふささんの父だそうです。
ふささんは、写真の前で、一度だけ話してくれました。
資料のようなものは、何もありません。
ふささんの口から聞いた、それだけです。
写真の子は、ふささんの姉です。
名前は千代。
人形問屋の一人娘で、1934年の秋、七つの祝いを前にして、向こうへ渡りました。
写真は、そのひと月前に撮ったものです。
祝い着を縫ったのは、店に住み込んでいたお針子で、イトという人でした。
イトさんは千代さんに、約束をしていました。
大きくなるたび、肩上げをほどいてあげる。
七つになったら右の肩、十三になったら左の肩、嫁ぐ日に腰。
千代さんは、七つになりませんでした。
それでもイトさんは、毎年11月に、一針ずつほどきました。
千代さんが、育っているものとして。
イトさんが向こうへ渡ったのは、戦後すぐです。
糸は、その後もほどけ続けました。
「寸法を取った子の着物は、着せるまでが仕事だと言う人だった」
ふささんは、私の右肩に手を置きました。
いつもより、少し長く。
写真館を始めたのは、ふささんの父です。
祝い着の子を、もう一度撮るために、と言っていたそうです。
「祝い着の肩上げがぜんぶほどけたら、七つの祝いをするのよ」
ふささんは、写真から目を離さずに言いました。
「イトさんは、そういう人だった」
「手毬は、箱の底に入ってる」
私は、箱の底を見たことがありませんでした。
私は、訊きました。
「なぜ、私を雇ったんですか」
ふささんは、私の髪を見ました。
「あんたが来た日、姉さんと同じ結い方をしてた」
「教わったことのない結い方でしょう」
私は、答えられませんでした。
その結い方は、着付けの学校では習いません。
私は、子どもの頃から、自分でそう結っていました。
写真の中の千代さんの髪は、私と同じ高さで、同じ向きに結ばれていました。
十一月十四日の夜
七五三の前の日でした。
最後の前撮りが終わって、修さんは一階で機材を片付けていました。
私は三階を閉めに上がりました。
襖を開ける前から、音がしていました。
とん、とん、とん、とん。
数えるのを、途中でやめました。
襖を開けると、音は止まりました。
部屋の真ん中に、衣紋掛けが立っていました。
私が出した覚えのない衣紋掛けです。
祝い着が、そこに掛かっていました。
袖が、畳に届くほど長く垂れていました。
肩上げは、もうひと針も残っていなかった。
腰上げも、ほどけていました。
臙脂の総柄が、大人の丈のまま、しんと下がっていました。
衣紋掛けの足元に、帯と帯揚げと帯締めと、筥迫が並んでいました。
右から、帯、帯揚げ、帯締め、筥迫。
私が着付けのとき、いつも並べる順番です。
誰にも教えていない順番です。
その横に、手毬がひとつ、置いてありました。
写真に写っていたものと、同じ色でした。
私が一歩近づくと、手毬は、一度だけ、とん、と弾みました。
それきり、動きませんでした。
桐の箱は、蓋が開いたまま、空でした。
私の針箱も、開いていました。
隅に集めていた糸の輪が、一つもありませんでした。
畳の上に、白い糸が、一列に並べてありました。
数えませんでした。
数えなくても、何本あるかは知っていました。
衣紋掛けの前の畳に、足袋のあとが二つ、並んでいました。
子どもの足の大きさでした。
その後ろに、もう二つ。
私の足の大きさでした。
私はまだ、そこに立っていませんでした。
私は、祝い着の前に立ちました。
足は、そのあとの上に、ぴたりと収まりました。
背中を合わせるつもりはありませんでした。
それでも、身体が、勝手に衿に肩を寄せました。
身丈は、私の背にちょうどでした。
裄も、ちょうどでした。
七つの祝い着は、大人と同じ寸法で仕立ててある。
学校で習った、その意味が、そのとき初めて身体でわかりました。
私は、祝い着に背を向けて、部屋を出ました。
襖を閉めるまで、後ろで絹の擦れる音がしていました。
衣紋掛けから、誰かが、着物を外す音です。
一階に降りると、修さんが、予約台帳を開いたまま立っていました。
うちは今も、紙の台帳を使っています。
翌日、11月15日の欄。
朝いちばんの十時に、予約が一件、入っていました。
客の欄に、私の名前がありました。
撮影内容の欄には、「七つの祝い」。
修さんが言いました。
「これ、いつ書いた」
私は、書いていません。
筆跡は、私のものでした。
その日の撮影は、修さんが断りました。
台帳の欄は、二本線で消しました。
私は今も、常盤写真館で着付けをしています。
子どもの後ろには、立ちません。
三階の桐の箱は、蓋を開けていません。
ただ、今年の台帳の11月15日の欄に、もう、私の字があります。