夜行バスで三度数え直す運転手

月夜の無人バス停

運転手は、乗客を指で数える。

あの夜、三度数え直す運転手に出会ってから、私はその指から目を離せなくなった。

実家の法事に出るため、金曜の夜に新宿のバスターミナルへ向かった。

会社を出たのは二十二時過ぎだった。

私の仕事は、電話の声を聞きながら、一日の通話数を数えることだ。

数えることだけは、昔から得意だった。

同僚には、よく笑われた。

「電話が鳴る数まで覚えてるの、あなたくらいだよ」

私は笑って、自分のコップを洗いに立った。

数えて、合わせて、帳尻を確かめる。

それが落ち着く性分なのだと思う。

待合室は、金曜の夜らしい熱気で息が詰まった。

乗るのは、実家のある四国の町へ向かう夜行バスだった。

独立した座席がたった十四席の、小さな車両だった。

乗車口では、スタッフが予約画面を確認していた。

「十四番、窓側ですね」

「はい」

「お荷物は足元へ。休憩は一回です」

スタッフはそう言うと、私の顔を見ずに画面へ印をつけた。

乗り場の列は短く、誰も話さなかった。

年配の運転手が、手袋をはめた指で座席の背を一つずつ叩いていた。

座席は思ったより広く、革の匂いと、少し湿った毛布の匂いがした。

私の席は、最後列の左、窓側の十四番だった。

通路を挟んだ向かいの十二番には、作業着の男性が先に座っていた。

十三番には、毛布が畳んで置いてあった。

荷物を足元に押し込み、私は母に「バスに乗った」とだけ送った。

「気をつけてね。着いたら起こして」と返信が来た。

車内には、暖房の低い唸りだけがあった。

カーテンの隙間から、バスターミナルの照明が白く入った。

膝が、隣の十三番の毛布に触れた。

ぬるくも冷たくもない、不思議な感触だった。

私は慌てて、膝を引いた。

発車の少し前、運転手が通路を歩きはじめた。

手袋の指が、座席の背を順に叩いていく。

運転手は、毛布の置かれた十三番の背も、同じ強さで叩いた。

「十四名様、お揃いです」

運転手は、運転席の無線に向かってそう告げた。

私は、少しだけ首をかしげた。

空いている席は、毛布の十三番だけに見えたからだ。

人の数は、十三人のはずだった。

ただ、数え間違いなど誰にでもある、と思い直した。

通路の向こうから、男性が缶コーヒーを差し出した。

「いらないなら、それでいい」と彼は言った。

「ありがとうございます。でも、まだ温かいので」

私は軽く頭を下げて、断った。

「実家に帰るの」

「法事なんです。祖母の」

「そうか」

彼は窓の外を見たまま、うなずいた。

休憩は一回だけだ、と男性は言った。

普通は、とも付け加えた。

「普通は、というのは」と私は聞いた。

「いや。気にしなくていい」

彼は缶の口を、指で二度叩いた。

その音が、車内の静けさに妙に大きく響いた。

私は予約画面を開いた。

午前一時四十分に、二十分の休憩と書いてあった。

たしかに、それ一回きりだった。

数え直す運転手の指

バスは日付が変わる前に、高速道路へ入った。

オレンジ色の照明が、一定の間隔で窓を流れていった。

イヤホンを付け、私は目を閉じた。

一度目の休憩は、予定どおり午前一時四十分だった。

榛ヶ谷サービスエリアは、自動販売機の光だけがやけに明るかった。

温かいお茶を買って、ベンチで手を温めた。

隣に、同じ便の若い女性が座った。

「寒いですね」

「ええ」

「このバス、いつも静かで」

「乗ったことが、あるんですか」

「前にも一度。運転手さん、休憩のあとに三回数えてましたよ」

彼女はそう言って、紙コップを両手で包んだ。

「三回、ですか」

「全員の背中を、指で。ほら、あの手袋で」

「人数が合わなかったんでしょうか」

「さあ。合うまで、だったのかも」

彼女は笑わなかった。

冗談なのか、私には判断できなかった。

作業着の男性は、屋根の下で煙草も吸わず、ただバスを見ていた。

乗り込むと、運転手は先ほどと同じ順に座席の背を叩いた。

「十四名様、お揃いです」

声は、行きと少しも変わらなかった。

私はほっとして、座席を倒した。

背もたれの倒れる音が、車内に一つだけ響いた。

ほかの座席は、誰も動かなかった。

どれくらい眠ったのかは、わからない。

目が覚めたのは、エンジンが止まる音のせいだった。

スマートフォンは、午前三時十分を示していた。

車内の時計は、一時五十八分のまま動いていなかった。

バスは、広い駐車場の端に停まっていた。

窓の向こうに、屋根のついた建物と自動販売機が並んでいる。

入口の上に立つ看板は、白い板のままだった。

名前も、矢印も、書かれていない。

二回目の休憩は、時刻表にもアプリにも、なかった。

地図アプリを開くと、青い点は何もない場所に浮かんでいた。

窓の結露に、誰かの指の跡があった。

縦に四本、斜めに一本。

数え印のような形だった。

それは、車内の側から書かれていた。

私は袖で、そっとその跡を押さえた。

指先に残ったのは、水ではなく、ぬるい体温のような湿り気だった。

耳の奥で、金属の蓋をゆっくり回す音がしていた。

一定の間隔で、どこかで繰り返されている。

音のする方向が、前なのか後ろなのかは、わからなかった。

乗客は、みな眠っているようだった。

隣の若い女性も、紙コップを握ったまま動かなかった。

その中を、運転手がゆっくり歩いてくる。

手袋の指が、座席の背を叩いていく。

一つ、二つ、三つ。

低い声が、数をなぞった。

「十五」

運転手は指を止めた。

小さく息を吐き、最初の座席に戻った。

そして、もう一度叩きはじめた。

「十五」

三度目も、同じ数だった。

数え直す運転手の背中は、少しも慌てていなかった。

ただ、毛布の置かれた十三番の前でだけ、指が長く止まった。

その間、私は呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥だけを動かしていた。

席の番号で答える

通路の向かいから、小さな声がした。

十二番の男性が、目を開けていた。

「起きてるね」と彼は言った。

私は、うなずくだけで精一杯だった。

「ここで運転手に何か聞かれたら、人数じゃなくて、席の番号で答えて」

「どうしてですか」と私は小声で返した。

「数えられると、自分の番号が言えなくなる」

「あなたは、よく乗るんですか」

「毎週のようにね」

「降りたことは」

「一度だけ。それで、毎度、数え直してもらってる」

彼は笑ったが、目は笑っていなかった。

「その一度のとき、何があったんですか」

「数に入れてもらえなかった」

「それは、いいことじゃないんですか」

「そう思ってた。最初はね」

彼はそれ以上、言わなかった。

膝の上で、私の指先が小刻みに揺れていた。

数え直す運転手が、私の席の前で止まった。

手袋の指が、十四番の背を叩く。

「お客様」と彼は言った。「お席は、何番ですか」

「十四番です」

自分の声が、思ったより小さく車内に落ちた。

「窓側の、十四番です」

運転手はうなずき、通路の向かいへ目を移した。

「十二番のお客様は」

「はい」と男性が答えた。

「十二番の席は、ご予約がございません」

運転手は責める調子ではなく、帳簿を読むように言った。

男性は缶コーヒーを窓際に置き、立ち上がった。

「毎度どうも」

彼は通路を前へ歩いていった。

ステップを降りる足音が、二つ聞こえた。

一人ぶんにしては、間が合わなかった。

窓の外を、作業着の背中が屋根の下の明かりへ入っていく。

その少し後ろを、何かが同じ速さでついていくように見えた。

十三番の毛布は、いつの間にか平らになっていた。

毛布の畳み目は、ひとつも崩れていなかった。

誰かが起き上がったなら、崩れるはずだった。

手を伸ばすと、座面だけが、まだ温かかった。

運転手は座席の背を叩きながら、最後にもう一度だけ数えた。

「十三名様、お揃いです」

声が、少しだけ軽くなっていた。

バスは、何事もなかったように走りだした。

白い板の看板は、すぐに後ろの闇に溶けた。

結露の数え印は、いつの間にか消えていた。

十二番の窓際には、缶コーヒーが一本だけ立っていた。

私はそれを、膝の上の鞄に滑り込ませた。

理由は、自分でもわからなかった。

窓の外は、見慣れた景色に戻りつつあった。

田んぼの畦に、朝の白い霧が薄く這っていた。

農協の看板も、郵便局の赤い丸も、記憶のとおりだった。

それなのに、安心はどこからも湧いてこなかった。

道路標識に、実家の町の名前が小さく出ていた。

私は何度も、座席の背の番号を指でなぞった。

十四。

それが私の番号だと、何度も確かめた。

終点のバスターミナル

バスは定刻の少し前に、終点の駅前へ着いた。

空は薄い灰色で、冷たい雨が降っていた。

降りる乗客の背を、運転手は一人ずつ指で叩いた。

「十三名様、ありがとうございました」

私は最後に降りた。

運転手が荷物室から、私の鞄を出してくれた。

「あの」と私は言った。「途中で降りた男性は、どこへ」

運転手は、手袋を外す手を止めた。

「途中で、ですか」

「十二番の、作業着の人です」

「十二番の席は、ずっと空席でしたよ」

彼は穏やかな顔で、鞄を地面に置いた。

「ご予約は十三名様。今夜は全員、終点までご乗車です」

そのとき、運転手は初めて、私の目を見た。

目の奥に、驚きの色は少しもなかった。

むしろ、私が尋ねるのを待っていたように見えた。

私は礼を言って、バスを離れた。

雨の匂いが、ひどく現実的だった。

バス停の時計は、午前六時十二分を指していた。

私のスマートフォンと、一分も違わなかった。

待合室のベンチで、母に電話をかけた。

母は、一回目の呼び出しで出た。

受話口の向こうで、炊飯器の音がしていた。

「あれ、もう着いたの」

「今、駅に着いたところだけど」

「さっき、電話くれたでしょう。バスの中から」

「かけてないよ」

「そう。窓側の十四番にいるって、言ってたのに」

私は返事ができなかった。

通話を切り、予約アプリを開いた。

履歴の一番上に、見覚えのない予約が増えていた。

来週の同じ便の予約が、私の名前で、十二番の席に入っていた。

乗車人数は、一名になっていた。

キャンセルの文字は、灰色のまま押せなかった。

雨の中、私は一度だけ振り返った。

バスの最後列の窓に、白い指の跡が一本だけ残っていた。

鞄の中の缶コーヒーを取り出すと、まだ温かかった。

底には、来週の日付が印字されていた。

窓の外では、数え直す運転手の指が、空になった座席の背を一つずつ叩いていた。

あの声は、今も耳に残っている。

あれ以来、運転手が乗客を指で数えるたびに、私はその指が、私の座席の背に触れる数秒間だけ、息を止めてしまう。

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