
2月の最初の月曜日、自宅のポストに白い封書が入っていた。
今年の話だ。
今は10月で、あれから8か月になる。
その間、誰にも話していない。
封書の表には、赤い活字で「席替えアンケート」と大きく印刷されていた。
差出人の欄には、「全国職場環境研究会」とある。
住所の記載はなく、切手も貼られていなかった。
消印もない。
誰かが直接、うちのポストに入れたということになる。
先に、私の職場のことを書いておく。
私は29歳で、市内の信用金庫の本店で、融資の事務をしている。
同じフロアには、40人ほどが働いている。
毎年4月の前に、本店ではフロアの席替えと配置替えをまとめて行う。
内示が出るのは3月の初めで、それまで自分の席がどうなるのかは誰にも分からない。
問題は、席だった。
私の席は、2年前から溝口主任の隣にあった。
溝口さんは35歳で、背が高く、声が低い。
仕事はできる人だった。
ただ、私の書いた稟議書を、人前で一枚ずつ読み上げる癖があった。
誤字がなければ、助詞の使い方を指摘する。
それが、ほとんど毎週のように続いた。
読み上げは、決まって午後2時過ぎに始まる。
窓の外の街路樹の影が、少し伸びる時間だ。
私はその間、膝の上で両手を重ねて、自分の書いた文字を聞いていた。
溝口さんが嫌いかと聞かれると、答えに迷う。
嫌いというより、午後2時が近づくと手のひらが汗ばむ、という言い方の方が近い。
私は毎朝、出勤前に洗面所で一度だけ、深く息を吐く。
そうしないと、席に着く動作が遅れる。
この習慣は、その年の2月で、もう2年になっていた。
家は、本店から電車で15分のマンションの3階にある。
ポストは、1階のエントランスに並んでいる。
鍵は付いているが、私の部屋のポストは、去年から蓋が少し緩んでいた。
管理会社に言えば直ったのだろうが、言いそびれていた。
エントランスの蛍光灯は、一本だけ点滅している。
帰宅が遅い夜は、その点滅の下で郵便物を確かめるのが日課だった。
もうひとり、日野さんのことも書いておく。
日野さんは68歳の嘱託職員で、正面玄関の鍵の開け閉めと、夜間の見回りを受け持っている。
日野さんの口癖は「ちゃんと見てますからね」だ。
出勤する職員ひとりひとりに、鍵を回しながらそう言う。
最初は妙に思ったが、半年もすると、誰も気に留めなくなった。
私は、夜道は録音を回して歩く。
上京した姉に、そう教わった。
何かあったとき、音だけは残るからだ。
この話は、その習慣と、白い封書と、金槌の話になる。
席替えアンケートの設問
封書を開けたのは、夕飯のあとだった。
中には、三つのものが入っていた。
一枚目は、薄い和紙に刷られた設問用紙。
二枚目は、返信用のはがき。
三枚目は、白い紙に一行だけ印字された説明。
「来期、同じ席になりたくない方の名前を、ひとりだけ記入してください」
その下に、小さな字が続いていた。
「回答者の中から抽選で、文具セットを差し上げます」
読み終えて最初に思ったのは、社内の企画だろう、ということだった。
信用金庫は、年度替わりに無記名のアンケートをよく取る。
ただ、それは社内メールで届く。
紙の封書が、自宅に直接届く理由はない。
設問用紙の裏には、細かい文字が並んでいた。
「ご回答は、2月13日必着」
「回答内容は、他の誰にも知らされません」
「本アンケートは、第三者機関が公正に実施します」
返信はがきの宛先欄には、郵便番号と「研究会事務局」とだけ印字されていた。
住所は、どこにもなかった。
和紙の手触りは、ざらついていた。
指の腹でなぞると、紙の端が少し湿っているように感じた。
窓は閉めていたし、暖房も入っていた。
それでも、封筒を持った手のひらだけが、冷えていた。
台所の換気扇が回る音が、いつもより大きく聞こえた。
窓の外を、救急車が遠くへ走っていった。
サイレンの高さが、途中で一段下がった。
湯のみに残っていた麦茶の水面が、小さく揺れた。
その日の昼間にも、溝口さんは私の稟議書を読み上げていた。
「南さん、この融資の根拠、ここの『について』は要らない」
周りの誰も、顔を上げなかった。
声の低さだけが、フロアに残った。
私は、はがきの回答欄にボールペンを当てた。
去年の歳暮でもらった、細いボールペンだった。
インクの出が悪く、一画ごとに紙がきしんだ。
少しだけ、迷った。
迷った時間は、5秒ほどだったと思う。
それから、「溝口」と書いた。
苗字だけで、十分だと思った。
書き終えた瞬間、胸の中の何かが、すっと軽くなった。
同時に、ほんの少しだけ、息もしにくくなった。
翌朝、駅前のポストに、はがきを投函した。
投函口は狭く、はがきは音も立てずに落ちていった。
指を離す前に、一度だけ、宛名の面を見た。
自分の字なのに、他人が書いたもののように見えた。
夜、母から電話があった。
「最近どう、ちゃんと食べてる?」
「うん、普通」
「顔、見たいね。連休は帰れる?」
「たぶん」
席替えアンケートのことは、母にも話さなかった。
存在しない会社
2月20日の金曜日に、二通目が届いた。
今度は、少し厚い封筒だった。
やはり切手はなく、消印もなかった。
玄関で開けると、乾いた線香のような匂いがした。
中身を、順に並べる。
一枚目は、当選通知。
「文具セットが当選しました」
「発送には条件がございます。同封の指示に従ってください」
二枚目は、指示書。
三枚目は、白い紙に、一行だけ。
「ご回答の方と溝口様は、来期、同じ島にはなりません」
私は、その一行を、何度も読んだ。
人事会議は、3月6日の予定だった。
内示は、その3日後に出る。
2月20日の時点で、誰も来期の席を知らないはずだった。
翌週の月曜、昼休みに、同期の柚木にそれとなく聞いた。
「席替えの件で、外部のアンケート会社に頼んだって話、聞いた?」
柚木は弁当の卵焼きを箸で割りながら、首を振った。
「ないと思う。人事は自前でやるんじゃなかった?」
「第三者機関って、聞いたことない?」
「ないよ。どうして」
「ううん、気のせい」
柚木は箸を止めて、私の顔をじっと見た。
「南さん、最近、眠れてる?」
「うん、まあ」
「溝口さんのこと? あの人、南さんにだけ厳しいよね」
「そうかな」
「そうだよ。見てるこっちが疲れる」
そう言ってくれる人がいることが、救いだった。
同時に、だからこそ言えない、とも思った。
封書のことは、言えなかった。
指示書の最後に、赤い字でこう書かれていたからだ。
「このことは、誰にも話してはいけません」
その夜、スマホで「全国職場環境研究会」を検索した。
該当する団体は、ひとつも出なかった。
封筒の隅に印刷された郵便番号も、調べた。
どの市町村にも、割り当てられていない番号だった。
翌日、総務の河合課長に、書類を渡すついでに聞いた。
「課長、席替えアンケートって、外部の調査が入ってますか」
河合課長は、書類から顔を上げなかった。
「入ってないよ。今年も内部」
「そうですか」
「どうしたの」
「知り合いが、そういう会社から封書をもらったって言ってて」
「ふうん。変なのもあるからね」
課長の指は、そのまま判子を押し続けていた。
私は礼を言って、席に戻った。
戻る途中、廊下の掲示板に貼られた去年の席次表が目に入った。
紙の端が、一枚だけ、めくれて震えていた。
その週のうちに、マンションの管理会社へ頼んで、エントランスの防犯映像を見せてもらった。
2月2日の未明から朝まで、ポストの前を通った人はいなかった。
猫が一匹、横切っただけだった。
映像の右下の時刻表示は、ひとつも飛んでいなかった。
管理会社の担当者は、首をかしげた。
「ポストの蓋は、誰も触ってませんね。でも、中には入ってる」
夜、封筒を机の引き出しに入れようとして、手が止まった。
和紙の包みが、ほんの少しだけ、温かかった。
3月1日の杉
指示書に書かれていた条件は、三つだけだった。
一つ目。同封の札を、居住地の神社の木に、3月1日の午後9時以降に打ち付けること。
二つ目。釘は、同封のものを使うこと。
三つ目。済んだら、封書と札の包みを、近くの川に流すこと。
札は、和紙で厳重に包まれていた。
包みの端を少しだけ開けると、赤い文字が見えた。
「秋田県 北浦支店 向井透 28歳」
知らない県、知らない支店、知らない名前だった。
私は包みを元に戻した。
どう考えても、おかしい。
それでも、やることにした。
理由は、二つあった。
ひとつは、溝口さんの隣の席を離れられる、という一行。
もうひとつは、神社が自転車で5分の距離にあったことだ。
うちの近くの神社には、短い石段と、杉の並木がある。
石段の脇の立て札には、こう書かれている。
「この杉は古くから、頼み事を預かる木といわれています」
社の裏手には小さな川が流れていて、夜でも水の音がする。
金槌は、実家から持ってきた道具箱に入っている。
金槌の柄には、父が油性ペンで「南」と書いている。
釘は、封筒に入っていた細くて黒いものを使うことにした。
3月1日は日曜日だった。
夕飯を済ませ、21時を過ぎてから、コートを着て家を出た。
夜道は録音を回して歩く。
その晩も、画面の赤い丸を押してから、スマホをポケットに入れた。
風は止んでいて、空気が冷たかった。
石段の下で、自転車を止めた。
石段にも境内にも、街灯がひとつずつある。
足元は、見えた。
杉の匂いがした。
冷えた樹皮と、湿った土の匂い。
石段を登りきると、拝殿の脇に社務所の影が見えた。
参道の石灯籠は、火袋が空で、苔が一面に回っていた。
遠くで踏切が鳴り、途中で止んだ。
拝殿の鈴の緒が、風もないのに、ゆっくり揺れていた。
私は賽銭箱の前を、頭を下げずに通り過ぎた。
窓は暗く、人の気配はなかった。
私は参道から外れ、おみくじの結ばれた杉を一本、選んだ。
頭の少し上の高さに、名前の書かれた面を外に向けて、札を当てた。
金槌を振り上げ、釘の頭を、三度、強く打った。
一度目で、札が手のひらの下でわずかに動いた。
二度目で、動かなくなった。
三度目の音は、境内の奥まで響いた。
その瞬間、背後の砂利が、一度だけ鳴った。
振り返った。
街灯の光が届かない場所に、黒い影が立っているように見えた。
影は、動かなかった。
何も、言わなかった。
声は出なかった。
喉の奥が、乾いた紙のようになっていた。
私は金槌を握ったまま、後ずさりした。
足がもつれて、手から金槌が落ちた。
拾う気には、ならなかった。
石段を駆け降りながら、背中に視線を感じた。
振り向くと、杉の幹に打たれた札だけが、街灯の光で白く浮いていた。
自転車に乗り、一度も振り返らずに家へ戻った。
録音の三十秒目
家に着いたのは、21時40分だった。
玄関の鍵をかけ、チェーンを掛けた。
それから、しばらく玄関の床に座り込んでいた。
指先が、まだ冷たかった。
札に触れた手のひらには、細かい繊維の跡が残っていた。
指示どおり、二通の封書と和紙の包みは、その夜のうちに小さくちぎった。
橋の上から、川に流した。
黒い水の上で、白い紙片は、すぐに見えなくなった。
部屋に戻ってから、ポケットのスマホを出した。
録音は、まだ回っていた。
停止ボタンを押すと、「0:41:12」と画面に出た。
ふと、再生してみようと思った。
親指が、再生ボタンの上で一度止まった。
理由は、はっきりしない。
証拠を残したかったのかもしれない。
録音は、玄関を出る音から始まっていた。
自転車の鎖の音。
石段を登る私の息。
杉の枝が、風もないのに一度だけ鳴る音。
それから、金槌の三回。
三回目の音の、ちょうど30秒後だった。
ざらついたノイズの中から、男の人の声が入ってきた。
近かった。
マイクのすぐ後ろで、囁くように、でもはっきりと。
「ちゃんと、見てましたからね。」
ノイズの底では、衣擦れのような音が続いていた。
暖房の風が止まり、部屋が急に静かになった。
耳に当てたスピーカーだけが、少し温かかった。
私は、その一行を四回聞き直した。
抑揚は、あの声だった。
鍵を回す前に、日野さんが言う、あの高さだ。
声のあとには、砂利を踏む音が二歩だけ聞こえた。
それから録音は、私の足音と息だけになった。
私は、スマホを伏せた。
そんなはずはない、と思おうとした。
日野さんは68歳で、日曜の夜に、あの神社にいる理由はない。
似た声の人は、いくらでもいる。
そう考えてみたが、「見てましたからね」という言い回しを使う人を、私は日野さんしか知らなかった。
3月2日の月曜、いつもより30分早く家を出た。
本店の正面玄関には、日野さんが立っていた。
グレーの制服に、白い手袋。
腰には、鍵束が下がっている。
「おはようございます」
日野さんは、いつもどおりに頭を下げた。
私は思わず、顔を見た。
皺の多い、おだやかな顔だった。
「南さん、今朝は冷えますね」
「はい」
「風邪、ひかないようにね」
それだけだった。
鍵を回しながら、日野さんは続けるはずだった。
ちゃんと見てますからね、と。
言わなかった。
その日だけではなかった。
翌日も、その次の日も、日野さんは口癖を言わなくなっていた。
他の職員は、誰も気づいていない。
1週間ほど経って、柚木に聞いた。
「日野さんて、最近、挨拶変わった?」
「え、どんな挨拶だっけ」
「前は、見てますからね、って言ってたでしょ」
「そんなこと言ってたっけ。ふつうにおはようございますじゃない?」
柚木は本当に、覚えていない顔をしていた。
私だけが、あの口癖を覚えている。
その週末、日野さんの見回りの時間帯を、こっそり確かめた。
日曜の夜は、巡回表に名前がなかった。
辞令より早い日付
3月9日の月曜、内示が出た。
私の席は、変わらなかった。
窓際の、いつもの席だ。
ただ、隣の席の名札だけが、空欄になっていた。
溝口さんは、郊外の事務センターへの異動になっていた。
辞令は、4月1日付。
溝口さんは、希望を出していなかったらしい。
昼休みに、柚木が小声で言った。
「溝口さん、聞いてなかったんだって。人事から電話もなかったって」
「そう」
「南さん、顔色悪いよ」
「寝不足なだけ」
その日の午後、共有フォルダに、内示のPDFが置かれた。
私はなんとなく、そのファイルのプロパティを開いた。
理由は、自分でも分からない。
「作成日時」の欄には、2月2日、午前8時40分、とあった。
封書が自宅のポストに入っていた日の、朝だった。
人事会議より、1か月以上前だ。
会議の前に、この名簿は出来上がっていたことになる。
私は、画面を閉じた。
3月20日の金曜が、溝口さんを見た最後になった。
帰り際、私の席の前で、足が止まった。
「南さん」
「はい」
「俺、どこか、悪かったか」
声は低いままだったが、語尾が揺れていた。
「いえ」
「そうか」
溝口さんはそれ以上何も言わず、エレベーターに乗った。
連絡がつかない、と河合課長が朝礼で言ったのは、翌週の月曜だった。
溝口さんの机は、総務が段ボールに詰めて、空になった。
4月1日の朝、フロアに新しい人が来た。
河合課長が、皆の前で紹介した。
「秋田県の北浦支店から異動してきた、向井透さん。28歳です」
私は、手に持っていたペンを、床に落とした。
向井さんは、笑顔で頭を下げた。
「よろしくお願いします。こっちの冬は、暖かいですね」
席は、溝口さんが使っていた机だった。
つまり、私の隣になる。
昼休みに、向井さんが私の机に来た。
「南さん、ですよね。隣、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「昨日着いたので、駅の裏手を散歩したんです。神社の杉が、立派でした」
私は、聞こえなかったふりをした。
「ただ、一番下の引き出しに、これが入ってました」
向井さんは、後ろ手に持っていたものを、机の上に置いた。
金槌だった。
柄が黒ずみ、先には乾いた土が付いている。
鼻先に、冷えた杉の匂いがした。
「前任の方の忘れ物ですかね。南さんのものかと思って」
「いえ」
「でも、名前があるんです」
柄には、父の字で「南」と書いてあった。
丸く、少し右に傾いた字だった。
間違えようがなかった。
「見たことのない金槌です」と、私は言った。
向井さんは、金槌をじっと見てから、静かに頷いた。
「そうですか」
彼は金槌を、自分の引き出しにしまった。
その夜、残業のあとで正面玄関を出ると、日野さんが鍵束を鳴らしていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「向井さん、いい人が来てくれましたね」
日野さんは、そう言って、ふっと笑った。
見てますからね、は付かなかった。
今も、夜道では録音を回している。
再生すると、私の足音の半歩後ろに、もう一つ歩幅が入っている。
2月の最初の月曜日は、まだ先だ。