二分だけ先を指す時計

雪降る時計塔広場の夕暮れ

駅前広場の時計塔は、市民会館の時計より二分だけ先を指していた。

それだけの話である。

市の職員でなければ、気に留めることもあるまい。

私は当時、市の管財課に籍を置いていた。

公共の時計を合わせて回るのが、月に一度の役目であった。

昭和五十四年の春から、七年ばかり続けた。

県庁所在地の隣に張り付いた、人口八万ほどの市である。

特徴のない町だと、住んでいる者ほど言う。

市の管理する時計は、全部で十九あった。

駅前広場の時計塔、市民会館の正面、公民館が四つ、小中学校が九つ、体育館、図書館、それに庁舎の玄関。

私はこれを、毎月の第一水曜に順に回った。

道具は簡素なものである。

鍵束と、折り畳みの脚立と、記録用の点検簿。

それから、父から譲られた銀の懐中時計。

この一つを基準として、十九の時計をすべて同じ刻に揃える。

前の晩に電話の時報を聞き、竜頭を回して合わせておく。

朝、庁舎を出るときの懐中時計が、その日の市の時刻であった。

妙な言い方に聞こえるだろうが、当時は本当にそうであった。

市民は駅前の時計を見て電車に乗り、学校の時計で鐘を鳴らした。

その大元を、私が胸の隠しに入れて歩いていた。

誇らしいというのではない。

ただ、月に一度、町の時間が自分の手を通る。

その感覚が、四十を過ぎた私には妙に落ち着くものであった。

巡回の順序は決まっていた。

八時半に庁舎を出て、まず駅前。

それから商店街を抜けて市民会館、川沿いの公民館を二つ、昼を挟んで学校を九つ。

学校では用務員さんが待っていて、必ず茶を出してくれた。

「先生、今月も狂ってましたか」

「一分ほどですな」

「うちの生徒より優秀だ」

そんなやりとりを、九つの学校で九度繰り返す。

日が落ちる頃に庁舎へ戻り、点検簿を課長の机に置いて終わりである。

面倒な仕事ではあったが、私はこの日が嫌いではなかった。

駅前広場の時計塔は、十九のうちで一番古い。

昭和三十一年の建立で、御影石の台座に鉄の柱が立ち、四方に文字盤が付いている。

台座の高さは、私の腰ほどであった。

その隅に、擦れかけた文字で「刻ヲ配ル」とあった。

建立の由来を刻んだ銘板の、末尾の四文字である。

私は七年、毎月それを見ていながら、一度も意味を考えたことがなかった。

異変に気づいたのは、三年目の秋であった。

十月の第一水曜、いつもどおり時計塔から回り始めた。

脚立を立て、扉を開け、機械の音を聞く。

古い時計は、耳で調子がわかる。

歯車の噛み合う音が乾いていれば油が切れているし、湿った音がすれば湿気を吸っている。

その日の音は、いつもと変わらなかった。

ただ、針が二分進んでいた。

ひと月で二分の狂いは、この年代の機械では珍しくもない。

私は針を戻し、点検簿に「+二分、修正」と書いた。

翌月も、二分であった。

その翌月も。

春になっても、夏になっても、必ず二分だけ先を指していた。

時計というものは、そういう狂い方をしない。

狂うなら、月ごとに一分半になり三分になり、季節によって幅が変わる。

気温で油の粘りが変わり、湿気で振り子の長さがわずかに動くからである。

寸分たがわず二分ということは、狂っているのではない。

合っているのだ。

私の時計と、二分だけずれた場所に。

私は業者を呼んで、機械を全部ばらしてもらった。

脱進機も、振り子も、どこにも異常はなかった。

「新品同様ですよ」と職人は笑った。

「では、なぜ二分進むのですかな」

「進んでませんよ、これは」

職人は、油の匂いのする手を拭きながら言った。

「この機械は、一日に半秒も狂わない。二分ずれるには、六か月かかります」

私は礼を言って、脚立を畳んだ。

点検簿を、古い年度まで遡ってみたのはその晩である。

昭和四十九年から五十三年までを担当したのは、Kさんという先輩であった。

私が異動してきたときには、すでに市を離れておられた。

そのKさんの筆で、五十一年度の分に一行だけ書き込みがあった。

点検簿の表紙の裏に、前任者の字で「二分は残しておくこと」とあった。

私は、機械に無理をさせるなという意味だと思った。

古い時計を毎月きっちり合わせ直すと、かえって傷むことがある。

そう解釈して、深くは考えなかった。

広場の管理は、市が委託した老人が一人でやっていた。

Tさんといい、当時七十を幾つか過ぎておられた。

朝夕に落ち葉を掃き、花壇に水をやり、鳩の糞を流す。

私が脚立を立てていると、必ず寄ってきて何か話す人であった。

その年の冬、私は何気なく尋ねた。

「この時計、毎月きっかり二分進むんですが、心当たりはありませんか」

Tさんは箒を止めた。

「二分でしたか」

妙な返しであった。

驚くでもなく、知らぬというでもない。

数を確かめるような口ぶりであった。

「昔から、そのくらいだと聞いています」

「昔というと」

「私の親の代です」

Tさんは箒の先で、台座の足元を指した。

「ここは、鐘のあったところですよ」

「鐘」

「私が子どもの時分には、もう無かった。石の輪だけ残っていました」

Tさんは、掃き集めた落ち葉を袋に入れながら続けた。

「親父は、鐘が鳴ってた頃を覚えている人でしてね」

「どんな鐘です」

「時を報せる鐘だと。町じゅうの時計は、あの鐘で合わせたそうです」

「今と逆ですな」

私が言うと、Tさんは初めてこちらを見た。

「そうです。逆です」

それきり、Tさんは花壇のほうへ行ってしまった。

市の図書館で郷土史を繰ったのは、その翌週である。

すぐに出てきた。

この広場には、明治の初めまで鐘楼が建っていた。

藩政の頃から、町に時を報せる鐘であったという。

朝と夕、昼と夜半。

撞き手は代々一つの家が務めていた。

その家は、鐘の刻限を守るためだけに、町でただ一つ正確な時を持っていたと書かれている。

面白いのは、その先であった。

この町の鐘は、日の出から数える不定時法で撞かれていた。

ところが明治六年に暦が改まり、定時法になる。

その切り替えの折、鐘の刻限と役所の時計とが、どうしても合わなかった。

郷土史には、こう書かれていた。

町の刻は、官の刻より二分ばかり早し。

私は、その行を三度読んだ。

閲覧室の窓から、駅前の方角が見えた。

鐘楼は明治十一年に取り払われている。

撞き手の家も、その頃に町を出た。

それきり、記録は途切れていた。

私が知りたかった二分の由来は、そこで途切れて、そして現在まで届いていた。

その頃から、広場での些細なことが気になり始めた。

脚立の上にいると、下で鳩が一斉に飛び立つ羽音がする。

ばたばたという、乾いた音である。

見下ろすと、鳩は一羽も動いていない。

石畳を、のろのろと歩いている。

そして少ししてから、本当に飛び立つ。

子どもの声もそうであった。

「お母さん」と呼ぶ声が背中で聞こえ、振り返ると誰もいない。

数えるほどの間を置いて、母親と手を繋いだ子が広場へ入ってくる。

そして同じ声で、同じことを言う。

私はある日、ラジオを持って広場へ行った。

正午の時報を聞くためである。

電池式の小さなもので、家から持ち出した。

台座に腰かけ、時報を待った。

私の懐中時計が十二時ちょうどを指した。

ラジオは、まだ天気を読んでいた。

二分後、ようやく低い音が三つ、続いて高い音が一つ鳴った。

私は立ち上がり、ラジオを抱えて広場を出た。

横断歩道を渡り、市民会館の前まで歩いた。

そこで一時の時報を待った。

今度は、懐中時計とぴたりに鳴った。

広場に戻って、二時の時報を待った。

また、二分遅れて鳴った。

誤解のないように書いておくが、ラジオが狂うわけがない。

狂っているのは、あの広場に立っている私のほうである。

あるいは、あの広場そのものである。

汗が背中を伝ったのを、今でも覚えている。

冬であった。

翌年の六月、雨の日であった。

私は広場で、同じ課のNという若い職員と待ち合わせをしていた。

庁舎の玄関の時計を新しくする件で、業者と現地を見る手筈になっていた。

約束は午後二時。

私は一時五十分に着き、時計塔の下で傘を差して待った。

広場には、人がいなかった。

雨が御影石を打つ音と、鉄柱の中で歯車が回る音だけがしていた。

湿った鉄の匂いがした。

傘の柄を握る手が、冷えて感覚を失いかけていた。

そのとき、砂利を踏む音がした。

傘の骨に雨が当たる、あの硬い音も近づいてきた。

Nの声で、「お待たせしました」と聞こえた。

私は顔を上げた。

広場には、誰もいなかった。

雨の中に、傘の一つも見えなかった。

二分後、Nが本当に来た。

砂利を踏み、傘の骨に雨を当てて、同じ声で「お待たせしました」と言った。

私は返事ができなかった。

「どうかしましたか」

「いや」

「顔色が良くないですよ」

「雨が冷えたんだろう」

そう答えるのが、精一杯であった。

業者との立ち会いを、私はほとんど覚えていない。

ただ、Nが広場を出るまで、私は彼の背中から目を離さなかった。

離せば、また二分先へ行ってしまいそうな気がしたからである。

それからの半年を、どう過ごしたか、あまり覚えていない。

ただ、二分という数が、私の中で少しずつ膨らんでいった。

広場に立つたび、私は懐中時計を見た。

それから頭上の文字盤を見た。

二分。

私の時計が、この場所より二分遅れている。

そう考えると、すべての辻褄が合ってしまうのだ。

Nの足音は、幻ではなかった。

二分先で起きたことが、この広場では先に聞こえる。

いや、逆かもしれない。

この広場だけが正しくて、町のほうが二分遅れているのかもしれない。

どちらであるにせよ、この場所には、町とは違う刻が流れている。

そして私は毎月、その刻を町のほうへ引き戻していた。

七年、休まずに。

翌年の一月、私は一つの過ちを犯した。

その月の点検で、私は時計塔の針を戻さなかった。

代わりに、自分の懐中時計の竜頭を二分だけ進めた。

確かめたかったのだ。

合わせる方向が逆であったなら、どうなるのかを。

脚立を畳み、鍵束を鳴らして、庁舎へ戻った。

玄関を入り、階段を上がり、管財課の扉を開けた。

誰も、私を見なかった。

課長も、隣の席の女性も、書類から目を上げない。

私は自分の席の前に立った。

机の上には、朝に置いたままの点検簿があった。

その日の欄は、白紙であった。

十九件、一つも書き込まれていない。

私はたしかに、最後の一件まで書き終えて広場を出てきた。

懐中時計を見た。

十時二十四分。

壁の時計は、十時二十二分であった。

私はまだ、そこへ着いていなかった。

廊下で、足音がした。

階段を上がり、扉の前で止まり、把手が回った。

「ご苦労さま」と、課長が顔を上げた。

私に向かってではない。

扉のほうへである。

その先を、私は見ていない。

見なかったのではなく、見られなかった。

気がついたとき、私は広場の時計塔の下に立っていた。

脚立を抱え、鍵束を握って、雪の降り始めた広場に一人でいた。

コートの肩が濡れて、冷たかった。

懐中時計は、十時二十二分を指していた。

合っていた。

頭上の文字盤も、同じ刻を指していた。

二分は、消えていた。

台座の隅の四文字が、目に入った。

刻ヲ配ル。

配るということは、渡す先があるということである。

私は、配られた側であった。

その年度の終わりに、私は管財課を離れた。

希望を出したのではない。

異動の内示を受けたとき、課長が妙なことを言った。

「君は、七年やったな」

「はい」

「Kさんも七年だった」

それだけであった。

引き継ぎの日、私は新しい担当者に十九本の鍵を渡した。

まだ二十代の、真面目そうな青年であった。

「時計塔だけ、少し癖があります」

「癖といいますと」

「毎月、二分ばかり進みます」

「直しておけばよろしいですか」

私は、少し黙った。

「点検簿の表紙の裏を、読んでください」

青年は素直に頷いた。

私は懐中時計の竜頭を戻さぬまま、点検簿の表紙の裏に同じ一行を書き足した。

Kさんの字の、すぐ下である。

役所を退いて、二十年になる。

駅前は二度ばかり整備され、時計塔は平成の終わりに撤去された。

今は待合の屋根がかかり、電光の表示板が電車の刻を出している。

御影石の台座も、四文字ごと持って行かれた。

Tさんが亡くなられたことも、後になって人づてに聞いた。

それでも私は、あの広場を横切らない。

遠回りをして、市民会館の側から駅に入る。

理由は、自分でもうまく言えない。

ただ、あの二分がどこへ行ったのかを考えると、足が向かないのである。

鐘は取り払われ、鐘楼の跡も広場になり、時計塔まで無くなった。

それでも、配る役だけが残ったのだとしたら。

今は、誰の懐に入っているのか。

妻には、この話をしていない。

ただ一度だけ、こう聞かれたことがある。

「あなたの時計、いつも少し早くない?」

「そうかね」

「駅の表示と合わないもの」

「古いからな」

そう答えて、私は隠しに戻した。

二分進む時計というものは、直そうと思えばいつでも直せる。

竜頭を、指の先ほど回すだけでよい。

私の懐中時計は、今も市民会館の時計より二分だけ先を指している。

戻していない。

二分を返す先を、私は知らない。

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