墨を重ねる堂の黒い板

月夜の港を望む木造寺院

拓本の紙は、湿らせると重くなる。

その日の紙は、乾いてからのほうが重かった。

平成六年の秋の話である。

私は県の教育委員会に嘱託で雇われ、石造物や扁額の拓本を採る仕事をしていた。

三十を二つ越えたころで、取り柄といえば車の運転と、紙と墨の扱いだけだった。

拓本というのは、要するに凹凸を紙へ移すだけの作業である。

画仙紙を対象に貼り、霧を吹き、水刷毛で押さえて密着させる。

紙の表面から水気が引きかけた頃合いに、油煙墨を含ませたタンポで軽く叩く。

出ているところが黒くなり、彫り込まれたところが白く残る。

文字は白く抜ける。

それだけの、退屈な手仕事だ。

手順を守れば、結果は変わらない。

変わったのなら、原因は必ずこちら側にある。

私はそう教わり、十年ほど、その通りだと思って生きてきた。

※

その秋、私は県の西のはずれにある唐鞆という町にいた。

日本海に面した、かつての北前船の寄港地である。

港の内側に古い蔵が四棟だけ残り、あとは魚の干し場と、黒い板塀と、坂ばかりだった。

町のどこを歩いても、風に乾いた魚の匂いがした。

唐鞆は、明治の初めまでは県内で二番目に船の出入りが多い港だった。

蔵の壁には、今も荷を引き上げた滑車の金具が残っている。

鉄道が内陸を通ってからは船が減り、人も減った。

町の人口は、私が行った年で千二百ほどだったと思う。

坂の途中に小学校があって、校庭に子どもが四人いた。

四人で野球をしていた。

それがこの町の、いちばん賑やかな場所だった。

仕事は文化財の緊急調査だった。

前の年の大雪で、県内の堂宇がいくつも傷んでいた。

崩れる前に記録だけでも残す、という名目の予算がついたのである。

同行は写真の記録係で、土居くんという二十代の男だった。

三脚とストロボの一式を担いで、私の車の後ろに乗ってきた。

話が途切れると、彼はいつも窓の外の海を見ていた。

「先輩、この町、コンビニないんですね」

「町に一軒あるらしいよ。港のほう」

「なくはないんだ」

彼は少し安心したような顔をした。

そういう男だった。

※

阿弥陀堂は、町の東のはずれ、坂を登りきったところにあった。

石段は十七段。数えたのは私の癖である。

堂は思ったより小さく、間口が二間ほどしかなかった。

屋根の北側の瓦が、確かに何枚か落ちていた。

堂守は佐平さんといった。

七十をいくつか過ぎた男の人で、上は作業着、下は地下足袋という格好だった。

「県から来た人らあかえ」

そう言って、彼は堂の戸を内側から開けた。

錠はなく、掛け金がひとつだけだった。

堂の中は乾いていた。

天井の低い、線香と埃の匂いのする空間だった。

正面の厨子に阿弥陀。

その左手の壁の、腰よりも低いところに、板が一枚架かっていた。

縦は二尺ほど、横は一尺五寸ほど。

真っ黒だった。

塗ってあるのではない。

墨である。

墨が、何度も何度も重ねられて、板の面から一分ほど盛り上がっていた。

近づくと、表面に無数の刷毛の跡が見えた。

ある跡は太く、ある跡は掠れていた。

長さも向きもばらばらで、そこに規則というものがなかった。

「これは、何ですか」

私が尋ねると、佐平さんは、板のほうを見ずに私たちに話した。

「すみおくりさん、いうんよ」

町の者は、人に言えんことがひとつできると、この堂へ来る。

堂守に、そのことを一言だけ告げる。

告げたら、そこの筆で墨を一撫で、板に置いて帰る。

それだけの、古い習いだという。

「昔は年に十や二十はあったが、今はもう、ほとんどないな」

「置いた墨は、消さないんですか」

「消さん」

「洗い流すとか、削るとか」

「せん」

佐平さんは、それきり黙った。

※

記録は取りたかった。

板そのものは指定の対象ではない。

だが、こういう習いが残っている堂宇は、この県にもう数えるほどしかなかった。

「写真を撮らせてもらえますか」

「ええよ。ただ、正面からは撮らんでくれ」

理由は言わなかった。

土居くんは首をかしげながら、三脚を堂の隅に立てて、斜めから何枚か撮った。

ストロボを焚くたび、板の黒が一瞬だけ灰色に見えた。

「拓本も採らせていただけると、ありがたいのですが」

私がそう言うと、佐平さんは初めてこちらをまっすぐ見た。

「拓本はいかん」

短かった。

穏やかな声だったが、それ以上は続かない種類の短さだった。

私は引き下がった。

食い下がる理由が、その時の私にはなかった。

拓本は文字を残すための技術であって、黒い板から採れるものは何もない。

そう考えていたからである。

墨をいくら重ねても、それは平らな面が厚くなるだけだ。

平らな面からは、白い抜けは出ない。

出るはずがなかった。

その日はそれで終わり、私たちは坂を下りて宿へ帰った。

※

宿は港のそばの、民宿と呼ぶには少し大きい古い建物だった。

夕食に出た鰈の干物を、土居くんは二枚食べた。

「これ、うまいっすね」

「明日、干し場のおばさんに言えば分けてくれるよ」

「言います。絶対言います」

彼は本気の顔でそう言った。

翌朝、土居くんは本当に干し場へ行った。

そして鰈を四枚もらって帰ってきた。

「言ったらくれました」

「言うもんだね」

「おばさん、優しかったです」

彼はそれを新聞紙にくるんで、大事そうに車の後ろに積んだ。

その干し場のおばさんに、私は堂のことを尋ねてみた。

彼女は手を止めずに答えた。

「行くんは構わんよ。ただ、手ぶらで行きんさい」

「手ぶら、というのは」

「持って帰るもんを作らんことよ」

意味が分からなかったので、私は笑って礼を言った。

おばさんも笑った。

笑いながら、私の顔を見なかった。

私は自分の部屋に戻り、鞄を開けて、翌日ぶんの紙を確かめた。

画仙紙を三十枚ほど、油紙にくるんで持ってきていた。

その束が、しっとりしていた。

湿っている、というほどではない。

指で挟むと、乾いた紙の、あの乾いた音がしなかった。

車に積んでいたのだから、そんなはずはない。

海の近くだからだろう、と私は思った。

ついでに、宿の台所から秤を借りた。

拓本の仕事では、紙の重さで乾き具合を見ることがある。

三十枚の束は、出発前に量った数字より、二十匁ほど重かった。

私は油紙を開いて、一枚ずつ広げて部屋に並べた。

朝には、全部乾いていた。

重さは、朝のほうがさらに二匁ほど増えていた。

私は数字を書き留めて、それきり考えるのをやめた。

※

二日目は、堂の実測をした。

柱を測り、床を測り、傷んだ垂木を数えた。

作業の途中で、私は堂の入口の右の柱に、腰の高さのあたりに古い傷があるのを見つけた。

刃物で削いだような、浅い斜めの傷だった。

見つけた、というのは正しくない。

私は柱に近づくよりも先に、そこに傷があることを知っていた。

手が先に伸びて、指がその位置に触れた。

触れてから、目で確かめた。

そういう順番だった。

自分の記憶を疑ったのは、その時が初めてだった。

堂の隅には、小さな硯と筆が一組、盆に載せて置かれていた。

墨は硯の海にわずかに残っていた。

私は指の腹で触れてみた。

湿っていた。

佐平さんは、今年はまだ誰も来ていないと言っていた。

昼に、土居くんが前日のフィルムを町の写真屋で現像してきた。

彼は封筒を持ったまま、私のところへ来た。

「先輩、これ、どう思います」

斜めから撮った板の写真だった。

墨の表面に、縦の細い線が二本、白く出ていた。

墨のひび割れなら、線はもっと不規則になる。

この二本は、上が広く、下がすぼまって、緩やかに弧を描いていた。

二本は左右で対になっていた。

「乾燥で割れたんじゃないですかね」

「割れなら、こんなに揃わないよ」

「じゃあ、何ですか」

私は答えなかった。

眉に見えた、とは言わなかった。

その夜、私は写真を机に並べて、もう一度見た。

線は二本のままだった。

ただ、二本の下のあたりに、うっすらと灰色の面ができていた。

写真の粒子が荒れただけだ、と自分に言い聞かせた。

言い聞かせながら、私は写真を裏返して伏せた。

伏せてから、なぜ伏せたのかを考えた。

答えは出なかった。

※

その晩、宿の女将が茶を持ってきて、私の顔をひととき眺めた。

「あんた、どちらのご親戚で」

「親戚といいますか、私は県から来た者ですが」

「そうかね」

女将は湯呑みを置いて、少し首をひねった。

「よう似とる人がおってね。うちの人の、じいさんの代の写真に」

「よくある顔なんだと思います」

「そうかもしれん」

女将はそれで納得したふうに笑って出ていった。

私は鏡を見た。

三十二の、日に焼けた女の顔があった。

似ている、と言われて悪い気がしなかったのを、今でも覚えている。

そのことのほうが、後になって恐ろしかった。

※

三日目、私は町の公民館で古い記録を当たった。

町史は昭和三十年代の刊行で、堂については二行しかなかった。

明治の郡誌にも、堂の名と本尊の名だけ。

墨送りという語は、どこにも出てこなかった。

ただ、郡誌の巻末に付いた寄進物の一覧に、それらしい一行があった。

「代の板 一枚 文化十一年 船頭喜三次の面を写す」

代の板、と読むのだろう。

面を写す、という言い方が引っかかった。

板に描かれているのではなく、写した、と書いてある。

館の職員に尋ねると、喜三次という名は町の古い過去帳にも出てくるという。

文化年間の船頭で、時化の日に船を出す判断をした人らしい。

船は戻らなかった。

乗っていた者も、誰一人戻らなかった。

喜三次だけが、浜に打ち上げられて息をしていた。

そのあと彼がどうなったかは、記録がない。

「町のもんは、そのへんは話しとうないんですわ」

職員はそう言って笑った。

笑い方が、佐平さんに少し似ていた。

※

決めたのは、私だ。

土居くんに責任はない。

三日目の夜、私は彼に、堂へ行くと告げた。

「え、こんな時間にですか」

「一枚だけ採る。誰にも見せない。県にも出さない」

「怒られませんか、あのおじいさんに」

「怒られる。だから黙っておく」

土居くんはしばらく黙って、それから懐中電灯を持ってきた。

彼は最後まで、私を止めなかった。

止められなかったのだと思う。

夜の坂は、昼とはまるで違った。

昼は魚の匂いだった風が、夜は水の匂いになっていた。

石段は、やはり十七段だった。

堂の掛け金は、指で外れた。

※

堂の中は、昼よりも乾いていた。

土居くんが懐中電灯を壁に向け、私は板の前にしゃがんだ。

画仙紙を当てて、霧を吹く。

紙が板に吸いつく。

水刷毛で押さえながら、私は妙なことに気がついた。

紙が、押さえる前から密着していた。

普通は、空気が入って浮く。

浮かなかった。

墨の層に、凹凸はほとんどない。

刷毛の跡は指では触れるが、拓本に出るほどの高さはないはずだった。

つまり、この紙には、ほとんど何も写らないはずだった。

私はタンポに墨を含ませ、紙の上を軽く叩いた。

一定の力で、端から端へ。

叩いているあいだ、堂の外で波の音がしていた。

港はここから遠い。

聞こえるはずのない距離だった。

紙が黒く染まっていく。

半分ほど叩いたところで、土居くんが「先輩」と言った。

「なんか、出てます」

私は手を止めなかった。

止めれば途中で終わる。

途中で終わった拓本は、記録にならない。

そう思ったのだと、今は思う。

最後の一叩きを終えて、私は紙の四隅をつまみ、ゆっくりと剥がした。

紙には、こちらを見ていない男の顔が、白く抜けて残っていた。

目を伏せ、口をわずかに開いた、四十くらいの男の横顔だった。

眉が二本、はっきりと出ていた。

昼に写真で見た、あの弧である。

墨の下には、彫りがあった。

板の面を、彫って作った顔だった。

そして墨は、それを埋めるように、二百年ぶん重ねられていた。

※

戸口に灯りが立った。

佐平さんだった。

懐中電灯ではなく、古い提灯だった。

彼は怒らなかった。

大きな声も出さなかった。

堂に入り、私の手元の紙を見て、それから短く尋ねた。

「見たか」

「……はい」

「顔をか」

「顔を、見ました」

佐平さんは、ふう、と息を吐いた。

そして、初めて板のほうを向いた。

いや、向こうとして、途中でやめた。

視線が板の手前で止まって、床へ落ちた。

佐平さんが板を見なかった理由が、そのときやっと分かった。

「すみおくり、いうんは、表の名じゃ」

彼は床に座り、提灯を膝の横に置いた。

「本当の名は、かおかし、いう」

顔貸し、と書くのだそうだ。

文化十一年、船を戻せなかった船頭が、自分の顔を板に彫らせた。

町中の恨みつらみを、自分の顔ひとつで引き受けるという意味だった。

以来、町の者は、人に言えんことをその顔の上に置いてきた。

墨は、隠すためのものではない。

「覆うとるんじゃ」

覆いが薄うなって、顔が出ると、見た者はその顔に見覚えを持つ。

見覚えを持たれた顔は、持った者のほうへ、少しずつ移る。

「移る、というのは」

「顔がな、似てくる」

自分では分からん、と佐平さんは言った。

鏡でも分からん。

写真でだけ、他人が気づく。

そして気づかれるころには、もう半分は移っている。

佐平さんは、前にも一度あったのだと言った。

昭和三十年代、町に写真館があったころの話である。

主人が堂の記録を撮ると言って、板を正面から一枚撮った。

引き伸ばした写真を、店の奥に飾っていたそうだ。

その人は、六十を過ぎたあたりから、町の年寄りに同じことを言われるようになった。

はじめは、店に来る客が一人か二人だった。

そのうち、道で会う者がみな言うようになった。

喜三次さんによう似とる、と。

言われるたびに、その人は笑っていたという。

写真館は、その人の代でしまいになった。

「わしの親父が、そのころの堂守じゃ」

親父は、その人の店へ何度も通った。

写真を出せ、と頼みに行った。

出してもらえんまま、店は畳まれた。

「あの写真がどこへ行ったか、わしも知らん」

「拓本はいかん、いうたじゃろ」

「言われました」

「あれは、写す道具じゃ」

写せば、移る。

紙は、いちばんよう写す。

※

私はその夜、佐平さんの言うとおりにした。

板の前に座り、筆を取り、墨を一撫で置いた。

置いたのは、今日ここへ来たことについてである。

「これで、板は元通りですか」

「板は元通りじゃ」

「では、私は」

佐平さんは答えなかった。

代わりに、剥がした紙を指した。

「それは、焼いたらいかん」

「捨てるのも、いけませんか」

「いかん」

写した者が持っとらんといかん、と彼は言った。

置いていけば、堂に残る。

堂に残れば、次に来た者が見る。

見た者にまた移る。

「あんたが持って帰りなさい」

「持って帰って、どうすれば」

「箱に入れて、開けんこと」

それだけだった。

私は紙を巻き、油紙にくるんで鞄に入れた。

坂を下りるあいだ、土居くんは一言も話さなかった。

彼は板を見ていない。

紙も、剥がしたあとの一瞬しか見ていない。

それでも、翌朝から彼は私の顔を正面から見なくなった。

※

唐鞆の調査は、それで終わった。

報告書には、堂の実測図と、屋根の損傷の写真だけを載せた。

板のことは一行も書かなかった。

土居くんは翌年に県を辞めて、大阪の印刷会社に移った。

年賀状は十年ほど続いて、それきりになった。

阿弥陀堂は、平成の終わりごろに解体されたと人づてに聞いた。

板がどうなったのかは分からない。

佐平さんは、その前に向こうへ渡られたはずである。

私は一度も、唐鞆へ行っていない。

行かないと決めたわけではない。

出張で県の西へ向かうたび、手前の町で用を済ませて引き返す。

そういうことを、三十年続けてきただけである。

※

三十年たった。

私は今も紙と墨を扱う仕事をしている。

変わったことは、二つある。

ひとつは、鏡を正面から見なくなったことだ。

洗面所の鏡には、いつのころからか布を掛けている。

顔を洗うときは、目を閉じている。

もうひとつは、写真を撮られたときの、他人の反応である。

数年に一度、初対面の人に、誰かに似ていると言われる。

似ている相手の名は、毎回違う。

けれど、どの人も、言ったあとで少し困った顔をする。

誰に似ているのか、自分でも分からないという顔だ。

女将が誰と間違えたのか、私は今なら言える。

あの紙の顔だ。

文化十一年の船頭は、あの町の古い写真の中で、まだ誰かとして写っている。

私はそれに、少しずつ、追いついている。

※

紙は、押入れの桐箱に入れてある。

開けたことは一度もない。

ただ、年に一度、正月に、箱ごと秤に載せることにしている。

箱の重さは変わらない。

紙は、乾いているのに、毎年わずかに重い。

去年で二百八十匁になった。

最初に量ったときは、二百二十匁だった。

あと何匁で返しきりになるのか、私は数えないことにしている。

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