墨を重ねる堂の黒い板

月夜の港を望む木造寺院

拓本の紙は、湿らせると重くなる。

その日の紙は、乾いてからのほうが重かった。

平成六年の秋の話である。

私は県の教育委員会に嘱託で雇われ、石造物や扁額の拓本を採る仕事をしていた。

三十を二つ越えたころで、取り柄といえば車の運転と、紙と墨の扱いだけだった。

拓本というのは、要するに凹凸を紙へ移すだけの作業である。

画仙紙を対象に貼り、霧を吹き、水刷毛で押さえて密着させる。

紙の表面から水気が引きかけた頃合いに、油煙墨を含ませたタンポで軽く叩く。

出ているところが黒くなり、彫り込まれたところが白く残る。

文字は白く抜ける。

それだけの、退屈な手仕事だ。

手順を守れば、結果は変わらない。

変わったのなら、原因は必ずこちら側にある。

私はそう教わり、十年ほど、その通りだと思って生きてきた。

その秋、私は県の西のはずれにある唐鞆という町にいた。

日本海に面した、かつての北前船の寄港地である。

港の内側に古い蔵が四棟だけ残り、あとは魚の干し場と、黒い板塀と、坂ばかりだった。

町のどこを歩いても、風に乾いた魚の匂いがした。

唐鞆は、明治の初めまでは県内で二番目に船の出入りが多い港だった。

蔵の壁には、今も荷を引き上げた滑車の金具が残っている。

鉄道が内陸を通ってからは船が減り、人も減った。

町の人口は、私が行った年で千二百ほどだったと思う。

坂の途中に小学校があって、校庭に子どもが四人いた。

四人で野球をしていた。

それがこの町の、いちばん賑やかな場所だった。

仕事は文化財の緊急調査だった。

前の年の大雪で、県内の堂宇がいくつも傷んでいた。

崩れる前に記録だけでも残す、という名目の予算がついたのである。

同行は写真の記録係で、土居くんという二十代の男だった。

三脚とストロボの一式を担いで、私の車の後ろに乗ってきた。

話が途切れると、彼はいつも窓の外の海を見ていた。

「先輩、この町、コンビニないんですね」

「町に一軒あるらしいよ。港のほう」

「なくはないんだ」

彼は少し安心したような顔をした。

そういう男だった。

阿弥陀堂は、町の東のはずれ、坂を登りきったところにあった。

石段は十七段。数えたのは私の癖である。

堂は思ったより小さく、間口が二間ほどしかなかった。

屋根の北側の瓦が、確かに何枚か落ちていた。

堂守は佐平さんといった。

七十をいくつか過ぎた男の人で、上は作業着、下は地下足袋という格好だった。

「県から来た人らあかえ」

そう言って、彼は堂の戸を内側から開けた。

錠はなく、掛け金がひとつだけだった。

堂の中は乾いていた。

天井の低い、線香と埃の匂いのする空間だった。

正面の厨子に阿弥陀。

その左手の壁の、腰よりも低いところに、板が一枚架かっていた。

縦は二尺ほど、横は一尺五寸ほど。

真っ黒だった。

塗ってあるのではない。

墨である。

墨が、何度も何度も重ねられて、板の面から一分ほど盛り上がっていた。

近づくと、表面に無数の刷毛の跡が見えた。

ある跡は太く、ある跡は掠れていた。

長さも向きもばらばらで、そこに規則というものがなかった。

「これは、何ですか」

私が尋ねると、佐平さんは、板のほうを見ずに私たちに話した。

「すみおくりさん、いうんよ」

町の者は、人に言えんことがひとつできると、この堂へ来る。

堂守に、そのことを一言だけ告げる。

告げたら、そこの筆で墨を一撫で、板に置いて帰る。

それだけの、古い習いだという。

「昔は年に十や二十はあったが、今はもう、ほとんどないな」

「置いた墨は、消さないんですか」

「消さん」

「洗い流すとか、削るとか」

「せん」

佐平さんは、それきり黙った。

記録は取りたかった。

板そのものは指定の対象ではない。

だが、こういう習いが残っている堂宇は、この県にもう数えるほどしかなかった。

「写真を撮らせてもらえますか」

「ええよ。ただ、正面からは撮らんでくれ」

理由は言わなかった。

土居くんは首をかしげながら、三脚を堂の隅に立てて、斜めから何枚か撮った。

ストロボを焚くたび、板の黒が一瞬だけ灰色に見えた。

「拓本も採らせていただけると、ありがたいのですが」

私がそう言うと、佐平さんは初めてこちらをまっすぐ見た。

「拓本はいかん」

短かった。

穏やかな声だったが、それ以上は続かない種類の短さだった。

私は引き下がった。

食い下がる理由が、その時の私にはなかった。

拓本は文字を残すための技術であって、黒い板から採れるものは何もない。

そう考えていたからである。

墨をいくら重ねても、それは平らな面が厚くなるだけだ。

平らな面からは、白い抜けは出ない。

出るはずがなかった。

その日はそれで終わり、私たちは坂を下りて宿へ帰った。

宿は港のそばの、民宿と呼ぶには少し大きい古い建物だった。

夕食に出た鰈の干物を、土居くんは二枚食べた。

「これ、うまいっすね」

「明日、干し場のおばさんに言えば分けてくれるよ」

「言います。絶対言います」

彼は本気の顔でそう言った。

翌朝、土居くんは本当に干し場へ行った。

そして鰈を四枚もらって帰ってきた。

「言ったらくれました」

「言うもんだね」

「おばさん、優しかったです」

彼はそれを新聞紙にくるんで、大事そうに車の後ろに積んだ。

その干し場のおばさんに、私は堂のことを尋ねてみた。

彼女は手を止めずに答えた。

「行くんは構わんよ。ただ、手ぶらで行きんさい」

「手ぶら、というのは」

「持って帰るもんを作らんことよ」

意味が分からなかったので、私は笑って礼を言った。

おばさんも笑った。

笑いながら、私の顔を見なかった。

私は自分の部屋に戻り、鞄を開けて、翌日ぶんの紙を確かめた。

画仙紙を三十枚ほど、油紙にくるんで持ってきていた。

その束が、しっとりしていた。

湿っている、というほどではない。

指で挟むと、乾いた紙の、あの乾いた音がしなかった。

車に積んでいたのだから、そんなはずはない。

海の近くだからだろう、と私は思った。

ついでに、宿の台所から秤を借りた。

拓本の仕事では、紙の重さで乾き具合を見ることがある。

三十枚の束は、出発前に量った数字より、二十匁ほど重かった。

私は油紙を開いて、一枚ずつ広げて部屋に並べた。

朝には、全部乾いていた。

重さは、朝のほうがさらに二匁ほど増えていた。

私は数字を書き留めて、それきり考えるのをやめた。

二日目は、堂の実測をした。

柱を測り、床を測り、傷んだ垂木を数えた。

作業の途中で、私は堂の入口の右の柱に、腰の高さのあたりに古い傷があるのを見つけた。

刃物で削いだような、浅い斜めの傷だった。

見つけた、というのは正しくない。

私は柱に近づくよりも先に、そこに傷があることを知っていた。

手が先に伸びて、指がその位置に触れた。

触れてから、目で確かめた。

そういう順番だった。

自分の記憶を疑ったのは、その時が初めてだった。

堂の隅には、小さな硯と筆が一組、盆に載せて置かれていた。

墨は硯の海にわずかに残っていた。

私は指の腹で触れてみた。

湿っていた。

佐平さんは、今年はまだ誰も来ていないと言っていた。

昼に、土居くんが前日のフィルムを町の写真屋で現像してきた。

彼は封筒を持ったまま、私のところへ来た。

「先輩、これ、どう思います」

斜めから撮った板の写真だった。

墨の表面に、縦の細い線が二本、白く出ていた。

墨のひび割れなら、線はもっと不規則になる。

この二本は、上が広く、下がすぼまって、緩やかに弧を描いていた。

二本は左右で対になっていた。

「乾燥で割れたんじゃないですかね」

「割れなら、こんなに揃わないよ」

「じゃあ、何ですか」

私は答えなかった。

眉に見えた、とは言わなかった。

その夜、私は写真を机に並べて、もう一度見た。

線は二本のままだった。

ただ、二本の下のあたりに、うっすらと灰色の面ができていた。

写真の粒子が荒れただけだ、と自分に言い聞かせた。

言い聞かせながら、私は写真を裏返して伏せた。

伏せてから、なぜ伏せたのかを考えた。

答えは出なかった。

その晩、宿の女将が茶を持ってきて、私の顔をひととき眺めた。

「あんた、どちらのご親戚で」

「親戚といいますか、私は県から来た者ですが」

「そうかね」

女将は湯呑みを置いて、少し首をひねった。

「よう似とる人がおってね。うちの人の、じいさんの代の写真に」

「よくある顔なんだと思います」

「そうかもしれん」

女将はそれで納得したふうに笑って出ていった。

私は鏡を見た。

三十二の、日に焼けた女の顔があった。

似ている、と言われて悪い気がしなかったのを、今でも覚えている。

そのことのほうが、後になって恐ろしかった。

三日目、私は町の公民館で古い記録を当たった。

町史は昭和三十年代の刊行で、堂については二行しかなかった。

明治の郡誌にも、堂の名と本尊の名だけ。

墨送りという語は、どこにも出てこなかった。

ただ、郡誌の巻末に付いた寄進物の一覧に、それらしい一行があった。

「代の板 一枚 文化十一年 船頭喜三次の面を写す」

代の板、と読むのだろう。

面を写す、という言い方が引っかかった。

板に描かれているのではなく、写した、と書いてある。

館の職員に尋ねると、喜三次という名は町の古い過去帳にも出てくるという。

文化年間の船頭で、時化の日に船を出す判断をした人らしい。

船は戻らなかった。

乗っていた者も、誰一人戻らなかった。

喜三次だけが、浜に打ち上げられて息をしていた。

そのあと彼がどうなったかは、記録がない。

「町のもんは、そのへんは話しとうないんですわ」

職員はそう言って笑った。

笑い方が、佐平さんに少し似ていた。

決めたのは、私だ。

土居くんに責任はない。

三日目の夜、私は彼に、堂へ行くと告げた。

「え、こんな時間にですか」

「一枚だけ採る。誰にも見せない。県にも出さない」

「怒られませんか、あのおじいさんに」

「怒られる。だから黙っておく」

土居くんはしばらく黙って、それから懐中電灯を持ってきた。

彼は最後まで、私を止めなかった。

止められなかったのだと思う。

夜の坂は、昼とはまるで違った。

昼は魚の匂いだった風が、夜は水の匂いになっていた。

石段は、やはり十七段だった。

堂の掛け金は、指で外れた。

堂の中は、昼よりも乾いていた。

土居くんが懐中電灯を壁に向け、私は板の前にしゃがんだ。

画仙紙を当てて、霧を吹く。

紙が板に吸いつく。

水刷毛で押さえながら、私は妙なことに気がついた。

紙が、押さえる前から密着していた。

普通は、空気が入って浮く。

浮かなかった。

墨の層に、凹凸はほとんどない。

刷毛の跡は指では触れるが、拓本に出るほどの高さはないはずだった。

つまり、この紙には、ほとんど何も写らないはずだった。

私はタンポに墨を含ませ、紙の上を軽く叩いた。

一定の力で、端から端へ。

叩いているあいだ、堂の外で波の音がしていた。

港はここから遠い。

聞こえるはずのない距離だった。

紙が黒く染まっていく。

半分ほど叩いたところで、土居くんが「先輩」と言った。

「なんか、出てます」

私は手を止めなかった。

止めれば途中で終わる。

途中で終わった拓本は、記録にならない。

そう思ったのだと、今は思う。

最後の一叩きを終えて、私は紙の四隅をつまみ、ゆっくりと剥がした。

紙には、こちらを見ていない男の顔が、白く抜けて残っていた。

目を伏せ、口をわずかに開いた、四十くらいの男の横顔だった。

眉が二本、はっきりと出ていた。

昼に写真で見た、あの弧である。

墨の下には、彫りがあった。

板の面を、彫って作った顔だった。

そして墨は、それを埋めるように、二百年ぶん重ねられていた。

戸口に灯りが立った。

佐平さんだった。

懐中電灯ではなく、古い提灯だった。

彼は怒らなかった。

大きな声も出さなかった。

堂に入り、私の手元の紙を見て、それから短く尋ねた。

「見たか」

「……はい」

「顔をか」

「顔を、見ました」

佐平さんは、ふう、と息を吐いた。

そして、初めて板のほうを向いた。

いや、向こうとして、途中でやめた。

視線が板の手前で止まって、床へ落ちた。

佐平さんが板を見なかった理由が、そのときやっと分かった。

「すみおくり、いうんは、表の名じゃ」

彼は床に座り、提灯を膝の横に置いた。

「本当の名は、かおかし、いう」

顔貸し、と書くのだそうだ。

文化十一年、船を戻せなかった船頭が、自分の顔を板に彫らせた。

町中の恨みつらみを、自分の顔ひとつで引き受けるという意味だった。

以来、町の者は、人に言えんことをその顔の上に置いてきた。

墨は、隠すためのものではない。

「覆うとるんじゃ」

覆いが薄うなって、顔が出ると、見た者はその顔に見覚えを持つ。

見覚えを持たれた顔は、持った者のほうへ、少しずつ移る。

「移る、というのは」

「顔がな、似てくる」

自分では分からん、と佐平さんは言った。

鏡でも分からん。

写真でだけ、他人が気づく。

そして気づかれるころには、もう半分は移っている。

佐平さんは、前にも一度あったのだと言った。

昭和三十年代、町に写真館があったころの話である。

主人が堂の記録を撮ると言って、板を正面から一枚撮った。

引き伸ばした写真を、店の奥に飾っていたそうだ。

その人は、六十を過ぎたあたりから、町の年寄りに同じことを言われるようになった。

はじめは、店に来る客が一人か二人だった。

そのうち、道で会う者がみな言うようになった。

喜三次さんによう似とる、と。

言われるたびに、その人は笑っていたという。

写真館は、その人の代でしまいになった。

「わしの親父が、そのころの堂守じゃ」

親父は、その人の店へ何度も通った。

写真を出せ、と頼みに行った。

出してもらえんまま、店は畳まれた。

「あの写真がどこへ行ったか、わしも知らん」

「拓本はいかん、いうたじゃろ」

「言われました」

「あれは、写す道具じゃ」

写せば、移る。

紙は、いちばんよう写す。

私はその夜、佐平さんの言うとおりにした。

板の前に座り、筆を取り、墨を一撫で置いた。

置いたのは、今日ここへ来たことについてである。

「これで、板は元通りですか」

「板は元通りじゃ」

「では、私は」

佐平さんは答えなかった。

代わりに、剥がした紙を指した。

「それは、焼いたらいかん」

「捨てるのも、いけませんか」

「いかん」

写した者が持っとらんといかん、と彼は言った。

置いていけば、堂に残る。

堂に残れば、次に来た者が見る。

見た者にまた移る。

「あんたが持って帰りなさい」

「持って帰って、どうすれば」

「箱に入れて、開けんこと」

それだけだった。

私は紙を巻き、油紙にくるんで鞄に入れた。

坂を下りるあいだ、土居くんは一言も話さなかった。

彼は板を見ていない。

紙も、剥がしたあとの一瞬しか見ていない。

それでも、翌朝から彼は私の顔を正面から見なくなった。

唐鞆の調査は、それで終わった。

報告書には、堂の実測図と、屋根の損傷の写真だけを載せた。

板のことは一行も書かなかった。

土居くんは翌年に県を辞めて、大阪の印刷会社に移った。

年賀状は十年ほど続いて、それきりになった。

阿弥陀堂は、平成の終わりごろに解体されたと人づてに聞いた。

板がどうなったのかは分からない。

佐平さんは、その前に向こうへ渡られたはずである。

私は一度も、唐鞆へ行っていない。

行かないと決めたわけではない。

出張で県の西へ向かうたび、手前の町で用を済ませて引き返す。

そういうことを、三十年続けてきただけである。

三十年たった。

私は今も紙と墨を扱う仕事をしている。

変わったことは、二つある。

ひとつは、鏡を正面から見なくなったことだ。

洗面所の鏡には、いつのころからか布を掛けている。

顔を洗うときは、目を閉じている。

もうひとつは、写真を撮られたときの、他人の反応である。

数年に一度、初対面の人に、誰かに似ていると言われる。

似ている相手の名は、毎回違う。

けれど、どの人も、言ったあとで少し困った顔をする。

誰に似ているのか、自分でも分からないという顔だ。

女将が誰と間違えたのか、私は今なら言える。

あの紙の顔だ。

文化十一年の船頭は、あの町の古い写真の中で、まだ誰かとして写っている。

私はそれに、少しずつ、追いついている。

紙は、押入れの桐箱に入れてある。

開けたことは一度もない。

ただ、年に一度、正月に、箱ごと秤に載せることにしている。

箱の重さは変わらない。

紙は、乾いているのに、毎年わずかに重い。

去年で二百八十匁になった。

最初に量ったときは、二百二十匁だった。

あと何匁で返しきりになるのか、私は数えないことにしている。

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