凪の晩に浜へ来るナギサマ

月光の静かな海辺

これは、いまも私が、海の凪いだ晩にだけ思い出す、怖い話だ。

平成六年の、夏の終わりのことだった。

当時の私は三十五で、半島のつけ根にある小さな町の役場に勤めていた。

戸籍と、古い土地台帳をあずかる係だった。

地味な仕事だが、私は嫌いではなかった。

古い帳面の墨字を追っていると、もう誰も覚えていない家や、消えてしまった小道の名が、紙の上にだけ静かに残っているのがわかる。

人の暮らしの跡が、こうして黴くさい紙の中で、いつまでも息をしている。

そういう仕事に、私はどこか、安らぐところがあった。

その年、町はとなりの村との合併をひかえていた。

古い台帳を町の倉から出し、一冊ずつ照らし合わせて整理する仕事が、私のところに回ってきた。

倉は、もとは米蔵だったという、漆喰の古い建物だった。

昼でも裸電球ひとつきりで、紙の匂いと、かすかな潮の気が、こもっていた。

黴と潮の匂いのする、ぶ厚い帳面の山だった。

同じ係の老いた主事は、「その奥の帳面は、開けると戻すのが厄介だぞ」と、笑っていた。

「とくに、浦の方のはな」と、その人は言った。

私は、その言葉を、たいして気にも留めなかった。

窓のない倉の中で、私は何日も、その山と向き合った。

その中に、半島の先の漁村の台帳があった。

鵜泊(うどまり)という、いまは戸数も知れた、小さな浦だ。

私はその地名を見て、しばらく手が止まった。

鵜泊は、母の生まれた村だった。

母は、私が大学に入った年に、体を悪くして、先に逝った。

静かな人だった。

自分の生家の話を、母はほとんどしなかった。

盆にも正月にも、母は決して鵜泊へ帰らなかった。

「あそこにはもう、誰もいないから」

私が一度だけ尋ねたとき、母はそう言って、それきり話を変えた。

そのときの横顔を、なぜだか、いまでも覚えている。

思えば、母には妙なところがあった。

母は、水の音を嫌った。

風呂に湯を張るとき、波立たないように、そっと注ぐ人だった。

海へ連れて行っても、母は決して、私を遠くまで泳がせなかった。

とりわけ、海がべたりと凪いだ日には、母は早々に私の手を引いて、浜を離れた。

「凪いだ海は、よくない」

母は、口ぐせのように、そう言っていた。

子どもの私は、その意味を、考えもしなかった。

ひとつ、よく覚えていることがある。

幼いころ、私が寝つけずにいると、母はきまって、低い声で子守唄を歌ってくれた。

節は覚えているのに、歌詞は、いまもうまく思い出せない。

ただ、その終わりに、母はいつも、私の名を、二度くりかえした。

「振り向かなくていいからね」と、歌のあとに、母はよく言った。

なにに振り向くな、と言うのか、幼い私には、わからなかった。

母はただ、私の髪を撫でて、それきり黙った。

台帳をめくると、明治のころからの家並みが、筆の字で続いていた。

網元の家、漁師の家、小さな雑貨屋。

そのどれにも、家ごとの「役(やく)」が、欄外に小さく書き添えてあった。

祭の幟を出す家、宮の鍵をあずかる家。

古い村には、よくある決まりごとだ。

ただ、いくつかの家の欄に、私の見たことのない役名があった。

「凪番(なぎばん)」と、その三軒には書かれていた。

そのうちの一軒が、母の旧姓の家だった。

私は指で、その文字をなぞった。

凪番。

なんの番をする家なのか、台帳には、それ以上のことは、書かれていなかった。

ただ、その三軒だけ、欄の隅に、小さな丸が朱で打たれていた。

まるで、ほかの家とは別のものを数えているような、そんな印だった。

私は、その朱の丸を、しばらく見つめた。

朱は、ほかの墨書きより、ずっと、新しく見えた。

まるで、つい先ごろ、誰かが打ち直したように。

倉の電球が、そのとき一度、ちらりと、またたいた。

私は、帳面を閉じて、その日は倉を出た。

その晩は、なかなか寝つけなかった。

母の、水を嫌う仕草が、何度も、まぶたの裏をよぎった。

凪番、という二文字が、頭から、離れなかった。

合併の資料あつめを口実に、私は鵜泊へ行ってみることにした。

母の生まれた土地を、一度この目で見ておきたい。

そんな気持ちも、たしかにあった。

役場の車で、半島の細い道を一時間ほど走った。

道は海沿いをうねり、行くほどに、人家がまばらになった。

やがて舗装が切れ、両側から夏草が車体をこすった。

途中、対向車は、一台もなかった。

道ばたの古い道しるべは、文字が潮で消えて、ただの石になっていた。

鵜泊、という地名を、口の中で、私は何度かつぶやいた。

母が、生まれて十八年を過ごした土地の名を。

半島の先は、どこか、世の中から取り残されたようだった。

電柱の数が減り、やがて、それも見えなくなった。

鵜泊は、岬の影にかくれるようにして、入り江のいちばん奥にあった。

潮の引いた浜が、灰色にひろがっていた。

家は、二十軒ほどだったろうか。

その半分は、もう雨戸を閉ざしていた。

船は数えるほどしか残っておらず、舫い綱が、力なく水に揺れていた。

私は車を降りて、潮の匂いを吸った。

母が、この匂いの中で育ったのだ。

そう思うと、不思議な心持ちがした。

浜のはずれに、小さな雑貨屋が一軒だけ、戸を開けていた。

店先で、年老いた女が、網の繕いをしていた。

私が役場の者だと名乗ると、女は手を止めて、私の顔をじっと見た。

そして、はっと息を呑むようにした。

「あんた……敏江(としえ)さんとこの子だね」

母の名を、出し抜けに言い当てられて、私は言葉に詰まった。

「目もとが、そっくりだ」と、女は言った。

女は美佐(みさ)さんといって、母の幼なじみだという。

私は台帳のことを話し、凪番という役のことを尋ねた。

美佐さんの、網を繕う手が、また止まった。

「……敏江さんは、あんたに、何も言わずに逝ったのかね」

「ええ。村のことは、ほとんど聞かないままで」

美佐さんは、しばらく、海の方を見ていた。

遠くで、海鳥が一羽、鳴いた。

「この浦はね、昔から、凪を恐れる村なんだよ」と、美佐さんは言った。

「凪を、恐れる」

私には、その言葉の意味が、よくわからなかった。

漁師というのは、海が荒れるのを恐れるものだとばかり、思っていた。

「ここの凪は、ちがう」

美佐さんは、低い声で言った。

「風が落ちて、波がぴたりと止んで、海が鏡みたいになる晩がある」

「年に、幾晩かさ。月のない、生あたたかい晩にね」

「そういう晩は、浜に出ちゃならない。海を見てもならない」

「凪番の家はね、その晩に宮で火を焚いて、夜どおし海に背を向けて、起きている役だった」

私は、母の旧姓の家のことを思った。

母は、その役の家の娘だったのだ。

「向こうから、ナギサマが、上がってくるんだよ」と、美佐さんは言った。

ナギサマ。

凪の晩に、海の向こうから浜へやって来るものの名だという。

「昔はね、ナギサマに呼ばれて、浦の者が、幾人も沖へ渡ったとさ」

「呼ばれて振り向いた者は、二度と、戻らぬ人になる」

「だから凪番が、その晩のあいだ、ナギサマの相手をして、夜が明けるまで、人を浜に近づけないんだ」

「いちばん最後に呼ばれたのは、いつのことですか」と、私は尋ねた。

美佐さんは、指を折って数えるようにした。

「私が、まだ娘のころさ。隣の家の、六つになる男の子だった」

「凪の晩に、ひとりで、浜へ下りていってね」

「朝になったら、波打ちぎわに、その子の片方の下駄だけが、そろえて置いてあった」

「それきり、あの子は、戻らぬ人になった」

美佐さんは、淡々と、そう言った。

淡々としているぶん、私の背に、冷たいものが伝った。

「昔はね、この浦も、四十軒からあったんだよ」と、美佐さんは続けた。

「凪のたびに、ひとり減り、ふたり減りしてね」

「気がつけば、この通りさ」

女は、半分雨戸を閉ざした家並みを、顎で示した。

私は、漁協の古い帳面のことを尋ねた。

美佐さんは、店の奥から、埃をかぶった一冊を出してくれた。

出漁の日付と、漁の高(だか)が、几帳面に並んでいた。

ところどころ、日付が、ぽっかりと抜けている。

「凪の晩のあった年は、こうして、何日か、空けてあるのさ」

「海に出なかった日は、書かないのが、浦の決まりでね」

抜けた日付の並びは、年を追うごとに、少しずつ、増えていた。

帳面を閉じるとき、間から、古い一枚の写真が、すべり落ちた。

浜を背に、数人の子どもが並んだ、色のあせた写真だった。

そのいちばん端に、私の母が、いた。

十ほどの、痩せた女の子だった。

ほかの子はみな、笑って、海の方を向いている。

母だけが、ただひとり、海に背を向けて、こちらを見ていた。

その目が、私の知っている、母の目だった。

「敏江さんは、小さいころから、ああだった」と、美佐さんは言った。

「凪番の子は、海に背を向けることを、いちばん先に、仕込まれるからね」

「ナギサマは、なにを、しに来るんですか」と、私は、思いきって尋ねた。

美佐さんは、すぐには、答えなかった。

「さみしいんだろうさ」と、やがて、女は言った。

「沖の向こうは、誰もいない、静かなところだからね」

「だから、こちらの者を、ひとり、また、ひとりと、連れていく」

「呼ぶ声はね、その人の、いちばん会いたい人の声を、しているそうだよ」

私は、その言葉に、なぜか、ぞっとしなかった。

ただ、母のことを、思った。

美佐さんは、私を村のはずれの古い宮へ案内してくれた。

宮といっても、苔むした小さな祠で、それは海に背を向けて建っていた。

鳥居は潮で白く焼け、注連縄は朽ちかけていた。

妙なのは、その祠の扉だった。

扉には、内側から閂をかけられるように、太い金具がついていた。

外を拝むためではなく、中にこもるための社だった。

「凪番は、ここで戸を閉めて、夜明けを待ったのさ」と、美佐さんは言った。

祠の柱には、無数の細い傷が、刻まれていた。

爪で、何度も掻いたような跡だった。

内側から、だ。

私は、それ以上、その傷を見ていられなかった。

祠の中には、古い鈴が、ひとつ、吊るしてあった。

「凪番は、夜じゅう、この鈴を鳴らしつづけるのさ」と、美佐さんは言った。

「鈴の音が絶えると、ナギサマが、戸の中まで、入ってくる」

棚の隅に、子どもの小さな下駄が、片方だけ、そっと供えてあった。

私は、さっきの話を思い出して、それ以上、何も訊けなかった。

帰りぎわ、私は祠を、もう一度、ふり返った。

海へ背を向けた小さな社が、夕日の中で、じっと、うずくまっていた。

守るためではなく、何かを、こらえるために建てられた社のように、思えた。

その晩、私は浦に一軒だけ残った、小さな民宿に泊めてもらった。

宿の主人は、耳のひどく遠い、老人だった。

主人とは、紙に字を書いて、話をした。

私が「凪番」と書くと、老人の顔が、こわばった。

老人は、しばらく考えてから、震える字で、こう書いた。

「今夜は、海を見るな」

そして、自分の寝間の障子を、内側から、ぴたりと閉めてしまった。

私は、その障子の白さを、しばらく見つめていた。

その晩の夕飯は、煮魚と、味噌汁だけだった。

出汁の匂いの奥に、かすかに、磯の腐ったような匂いが、混じっていた。

私が箸を止めると、その匂いは、すっと消えた。

気のせいか、と思おうとした。

けれど、宿のどこかで、戸の鳴る音が、ひとつ、した。

風は、もう、ないはずだった。

夕飯のあと、私は持ってきた台帳の写しを、宿の電灯の下にひろげた。

凪番の三軒の欄を、もう一度、たどった。

母の家の欄の、いちばん新しい書き込みに、私は目を留めた。

そこには、ごく最近の墨で、一行が書き足されているように、見えた。

役場の倉に、何十年も眠っていたはずの台帳の、写しに、だ。

墨は、まだどこか、湿って見えた。

私は、自分の見間違いだろうと思った。

古い帳面の、染みか何かだと。

そう思おうとしたが、その一行は、たしかに、字の形をしていた。

「凪、近し」

そう、読めた。

私は写しを閉じて、息をついた。

宿の柱時計が、夜の十時を打った。

その音だけが、やけに大きく、家じゅうに響いた。

私は寝床に入ったが、なかなか寝つけなかった。

波の音が、いつのまにか、聞こえなくなっていた。

あれほど寄せていた波が、ぴたりと、やんでいた。

耳が痛くなるほどの、静けさだった。

私は、枕もとの腕時計を見た。

針は、十時を少し過ぎたところで、止まっていた。

廊下の柱時計も、同じ時刻のまま、振り子が、動いていなかった。

窓の外で、風が、完全に、落ちていた。

私は寝床を出て、廊下に立った。

宿は、しんと静まりかえっていた。

主人を起こそうかと思ったが、なぜだか、声が出なかった。

廊下のつきあたりに、海に面した小さな窓があった。

そこから、薄い、ほの白い光が差していた。

私は、その窓に近づこうとして、足を止めた。

美佐さんの言葉が、耳の奥で、よみがえった。

――凪の晩は、海を見てもならない。

宿の老人が震える字で書いた、あの一行も。

私は、ゆっくりと、窓に背を向けた。

そのときだった。

窓の外、浜の方から、低い音が、聞こえはじめた。

水を、櫂で、ゆっくりと掻くような音だった。

ぴしゃ、ぴしゃ、と、それは確かに、浜へ近づいてきていた。

凪いで、波ひとつ立たないはずの海から、だ。

私は、息をひそめた。

足が、床に貼りついたように、動かなかった。

音は、やがて、浜に上がった。

濡れたものが、砂を踏む音に、変わった。

ひた、ひた、と、それは宿の方へ、歩いてきた。

一歩、また一歩と、それは、近づいた。

歩みは、ひどく、ゆっくりだった。

まるで、長い旅から、ようやく帰り着いた者の、足どりのように。

濡れた裾が、地を引きずる音が、混じっていた。

たっぷりと、水を吸ったものの、重い音だった。

私の心の臓が、喉のあたりで、鳴っていた。

そして、私のいる窓の、すぐ下で、止まった。

私は、振り向いてはいけないと、自分に言い聞かせた。

背中に、冷たい空気の塊が、そっと、触れた。

真夏だというのに、うなじの産毛が、すべて逆立った。

私は、宿の老人が閉めた、あの障子のことを思った。

廊下の奥で、あの鈴の音が、聞こえた気がした。

けれど、それを鳴らす凪番は、もう、この浦には、いない。

窓の、すぐ外。

そこで、声が、した。

女の声だった。

低く、やわらかく、それは海の方から、私の名を呼んだ。

子どものころ、母が私を寝かしつけるときに口ずさんだ、あの子守唄の節で。

一字一字を、いとおしむように、私の名を、呼んだ。

私は、両の手で、耳をふさいだ。

振り向けば、母に会えるような気が、した。

会いたい、と、思った。

その思いの強さが、何より、恐ろしかった。

不思議と、恐ろしさよりも、なつかしさが、勝った。

それが、いちばん、いけなかった。

体は、母の声の方へ、行きたがった。

頭の芯だけが、行くな、と、叫んでいた。

声は、ひとつでは、なかった。

いつのまにか、幾人もの声が、低く、重なっていた。

男も、女も、子どもも。

みな、それぞれの、いちばん会いたい人の名を、呼んでいるようだった。

その中にまじって、私の名も、確かに、あった。

私は、その場に、膝をついた。

膝をついたまま、両手で耳をふさいで、丸くなった。

ちょうど、子どものころ、母の腕の中で、丸くなったように。

背中の冷たさは、いつまでも、消えなかった。

窓の硝子が、こつ、こつ、と、内側へ向かって、鳴った。

何かが、爪の先で、そっと、叩いているようだった。

それでも、私は、顔を上げなかった。

私は、ふさいだ手の中で、ただ母の名を、胸の内で、唱えつづけた。

母さん、母さん、と。

どれほど、そうしていたか、わからない。

声は、何度も、何度も、私の名を呼んだ。

そのたびに、足が、半歩ずつ、窓の方へ、動こうとした。

私は、爪が手のひらに食い込むほど、こぶしを握りしめた。

あの祠の柱の、内側の傷を、私は思い出していた。

凪番たちもまた、こうして、夜明けを待ったのだ。

戸を閉め、鈴を鳴らし、爪で柱を掻きながら。

それでも、振り向かずに。

私の体に流れている血の半分は、その人たちのものだった。

だから、私は、知っていたのだ。

振り向いてはいけないことを、頭ではなく、体が、覚えていた。

母の腕の中で、毎晩くりかえした、あの稽古のとおりに。

気がつくと、波の音が、戻っていた。

ざざ、ざざ、と、いつもの海が、そこにあった。

柱時計の振り子が、また、ことり、と動きはじめた。

窓の外は、白々と、明けかけていた。

朝になって、私は浜へ出た。

砂の上に、点々と、濡れた跡が、残っていた。

それは、波打ちぎわから、まっすぐ宿の窓の下まで続き、そこで、ぷつりと消えていた。

足の跡には、見えなかった。

ただ、何か重いものを、引きずったような跡だった。

その跡は、ゆうべ私が立っていた、窓の真下で、終わっていた。

私は、しばらく、その跡から、目を離せなかった。

宿の老人は、朝になっても、寝間から出てこなかった。

障子の隙間に、ゆうべの紙が、一枚、差してあった。

そこには、「よく、こらえた」と、書かれていた。

それだけだった。

美佐さんの店に寄ると、女は私の顔を見て、小さく、うなずいた。

「呼ばれたね」と、女は言った。

「でも、あんたは、振り向かなかった」

私は、何も言えなかった。

「敏江さんが、この村を出たのもね、同じだったんだよ」と、美佐さんは続けた。

母もまた、若いころ、凪の晩に、呼ばれたのだという。

そして、ふり返らずに、この浦を出て、二度と帰らなかった。

「あの人は、あんたを産むために、海に背を向けたんだ」

「水の音を嫌ったのも、凪を恐れたのも、みんな、そのせいさ」

私は、母が生家の話をしなかったわけが、ようやく、わかった気がした。

母は、ずっと、背を向けつづけていたのだ。

私という子を、こちら側に、つなぎとめるために。

子守唄のあとに母が言った、「振り向かなくていいからね」の意味が、いまになって、胸に落ちた。

母は、毎晩、私に、稽古をさせていたのだ。

呼ばれても、振り向かずに、いられるように。

そう気づいたとき、私は、声を上げて泣きそうになった。

母は、こわい人では、なかった。

ただ、ひとりで、ずっと、海に背を向けていた人だった。

役場に戻って、私はあの台帳を、もう一度ひらいた。

母の家の欄の、「凪、近し」の一行は、どこにも、なかった。

ただ、白い紙が、そこにあるだけだった。

私はその台帳を、合併の書類には含めず、自分の机の奥に、しまった。

私はこの話を、これまで、誰にも語らずにきた。

怖い話というより、母との、ひそかな約束のようなものだったからだ。

鵜泊は、その翌年、無人の浦になった。

いまでは、地図から、その名が消えている。

それでも、年に幾晩か、風がぴたりと落ちて、波の音が消える夜が、ある。

そういう晩、私は決して、海の方の窓を、見ない。

見れば、母が、迎えに来ている気がするからだ。

そして私もまた、振り向かずにいられる自信が、ない。

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