私はいまも、伊佐里へ入る日は、朝から何も口にしない。
水も飲まない。
四十年、一度も破っていない。
破ったのは、あの日の一度だけだ。
※
昭和六十年の八月だった。
私は二十七で、妻の久実と、四つになる娘を連れて、妻の実家へ帰省するところだった。
伊佐里というのは、紀伊の山の奥にある小さな集落だ。
戸数は、当時で二十三軒だったと思う。
川に沿って家が並び、その裏はすぐ杉山になる。
夏でも、日が山の端に隠れるのが四時前だ。
四時を過ぎると、谷全体が青くなる。
電灯の光が、家の中から外へ滲み出しているように見える。
私はあの青さが、嫌いではなかった。
妻とは、勤め先の社員旅行で知り合った。
結婚してから、盆と正月に必ず伊佐里へ帰るようになった。
義父は無口な人で、私が着くと、まず麦茶を出し、それから川の水量の話をした。
雨が降れば増える。降らなければ減る。
それだけの話を、毎回、律儀にした。
私はその時間が、嫌いではなかった。
麓の駅前からバスが出ている。
一日に三便。
朝の便、昼の便、夕方の便。
峠をひとつ越えて、一時間二十分かかる。
道は片側が崖で、対向車が来ると片方が停まって待つ。
私はそのバスが、正直に言えば苦手だった。
座席は硬く、床は木で、走るたびに足の裏が震えた。
降りたあとも、しばらく耳の奥で音が続く。
妻はその音を「山に入る音」と呼んでいた。
※
妻の祖母は、タカさんといった。
その年で八十を過ぎていたが、耳も目も達者だった。
タカさんには、口ぐせがあった。
「伊佐里へ入る日は、途中でものを食うたらいかん」
婆さまは、伊佐里へ帰る日の朝だけ、水も飲まん人やった。
妻はそう言っていた。
理由は誰も知らない。
村の年寄りはみな同じことを言う、それだけだった。
妻の子どもの頃には、もう少し細かい決まりがあったらしい。
盆に入る者は、前の晩から水を控える。
橋の手前で一度立ち止まる。
荷は右手で持つ。
そのうちのいくつかは、妻の代でもう誰も守っていなかった。
守られていたのは、食べないことだけだった。
一度、なぜ食べてはいけないのかと、義父に訊いたことがある。
義父は麦茶を注ぎながら、少し考えて、こう答えた。
「入るときに、腹に何ぞ入っとったら、こっちのもんとみなされんのやと」
こっちのもん、というのが何を指すのか、私は訊かなかった。
訊けば野暮だと思ったからだ。
いま思えば、あのとき訊いておくべきだった。
私は東京の生まれで、そういう言い伝えを、行儀の一種だと思っていた。
食事の前に手を合わせるのと同じ、決まりごとの類いだと。
※
その日、私たちは昼の便に乗った。
駅前を十二時十分に出る便だ。
乗客は、私たち三人を入れて、十四人だった。
いちばん前に、行商の荷を膝に抱えた婆さんが座っていた。
その後ろに、部活の帰りらしい高校生が二人。
真ん中あたりに、営林署の作業服を着た男の人が三人。
いちばん後ろの席に、若い夫婦がいた。
顔は、いまでもぼんやり覚えている。
覚えている、というのが、この四十年で一番こたえている。
婆さんは、荷の中から飴を出して、娘にくれた。
娘は受け取って、握ったまま食べなかった。
妻が「あとでね」と言ったからだ。
その飴を、娘は藤ノ木で降りるときも握っていた。
定食屋を出るころには、なくなっていた。
どこで落としたのか、誰も見ていない。
数えたわけではない。
あとで、そう報じられたからだ。
車内は暑かった。
窓は開いていたが、風は生ぬるく、床から機械の熱が上がってきた。
娘は膝の上で、しばらく麦わら帽子の縁をいじっていた。
峠にかかったあたりで、娘がぐずり始めた。
バスは、峠の手前で一度停まった。
対向のトラックを待つためだ。
その三分ほどの停車のあいだ、車内はしんとした。
誰も喋らなかった。
蝉の声だけが、開いた窓から入ってきた。
「おなかへった」
朝から何も食べていないのだから、当たり前だった。
私は妻を見た。
妻は、少し困った顔をした。
「婆ちゃんに怒られるよ」
「四つの子に守らせる決まりでもないだろう」
私はそう言った。
いま思い返しても、あの一言が、すべてだったのだと思う。
※
私たちは次の停留所で降りた。
「藤ノ木」という、屋根も壁もない、標柱が一本立っているだけの停留所だ。
道の向かいに、古い定食屋があった。
バスは、私たちが降りると、すぐに走り出した。
運転手はこちらを見なかった。
見送りもなかった。
定食屋には、客は一人もいなかった。
年寄りの主人が一人、土間の奥に座っていた。
土間は暗く、天井から蠅取り紙が二本下がっていた。
冷蔵庫の音がやけに大きかった。
主人は、氷を入れた水を三つ、黙って出した。
その手の甲に、古い火傷の痕があった。
注文を取るとき、主人は一度も私たちの顔を見なかった。
私たちは、親子丼を二つと、うどんを一つ頼んだ。
娘が半分ほど食べたころ、店のテレビが臨時のニュースに変わった。
峠の下りで、路線バスに落石。
乗っていた人は、誰一人戻らなかった。
画面には、私たちが十分前まで乗っていた車体が映っていた。
妻は、箸を持ったまま動かなくなった。
娘だけが、うどんをすすっていた。
私は立ち上がって、店の隅の黒電話に向かった。
伊佐里の家に、遅れると伝えるつもりだった。
受話器を上げると、通話中の音がした。
何度かけ直しても同じだった。
山の電話はよく止まる。
そのときは、そう思った。
あとで義父に確かめると、その日の昼、家の電話はずっと鳴っていたという。
私がかけていた時刻と、重なっていた。
だが義父は、受話器を上げても誰も出なかったと言う。
かけていたのは、私のはずだった。
※
しばらくして、妻がぽつりと言った。
「降りなければよかった」
私は、その言葉に、かっとなった。
「何を言ってるんだ」
降りたから助かったんだろう。
そう言いかけて、口をつぐんだ。
妻の顔を見て、意味が分かったからだ。
私たちが降りなければ、あのバスは、藤ノ木で停まらなかった。
停まらなければ、あの時刻に、あの場所を通っていない。
落石は、たまたま通りかかった車に当たったのではない。
私たちが停めた三十秒のぶんだけ、バスは遅れて、そこにいた。
私は箸を置いた。
店のテレビは、同じ映像を何度も流していた。
崖の下に、車体の白い部分だけが見えていた。
屋根に書かれた番号が読めた。
私たちが乗った便の番号だった。
うどんの丼から湯気が上がって、途中で見えなくなった。
※
主人が、土間から出てきた。
そして、壁の柱時計の扉を開けて、振り子を手で押さえた。
時計が止まった。
「今日は、夕方の便まで、ここにおったほうがええ」
私は、なぜですか、と訊いた。
主人は答えなかった。
代わりに、こう言った。
「あんたら、伊佐里かね」
はい、と妻が答えた。
主人は、それきり何も言わずに、奥へ戻った。
私たちは、店の隅で夕方まで座っていた。
四時間あった。
主人は、途中で二度、水を替えに来た。
それ以外は、何もしなかった。
店の外を、車が一台も通らなかった。
あとで思えば、峠が通行止めだったのだから、当たり前だ。
だが、麓へ下りる車も通らなかったのは、いまでも説明がつかない。
※
夕方の便で、私たちは伊佐里に入った。
集落の入口には、一の橋という短い木の橋がある。
渡ると、真ん中の板が一度だけ、こと、と鳴る。
子どもの頃、その音で誰か来たと分かったのだと、妻は言っていた。
その日、私たちが三人で渡っても、板は鳴らなかった。
妻は立ち止まって、二度、三度と踏み直した。
鳴らなかった。
「湿気てるんだろう」
妻は、その板を三十年以上、毎年踏んできた人だ。
鳴らなかったのを聞いたのは、初めてだと言った。
台風の年も、雪の年も、鳴った。
私はそう言った。
八月の山だ。板は湿る。
そういうことにした。
娘が、私の手を引いた。
そして、川のほうを指さして言った。
「バスのおばちゃん、手ぇふってた」
妻が娘の前にしゃがんだ。
どこで、と訊いた。
娘は「さっき」と答えた。
私たちは夕方の便に乗ってきた。
その便には、婆さんは乗っていなかった。
※
家に着くと、義父が土間で電話機の前に立っていた。
「昼から鳴りっぱなしやった」
そう言った。
「出ても、誰もおらん。切ってもまた鳴る」
夕方、私たちが橋を渡ったころに、ぴたりと止まったのだという。
タカさんは、奥の間に座っていた。
私たちの顔を見て、それから、娘の顔を見た。
「食うたな」
そう言った。
私は、謝った。
タカさんは怒らなかった。
ただ、長いこと黙っていた。
そして、こう言った。
「途中で何ぞ食うた者はな、その日は、入ったことにならんのや」
意味が分からなかった。
タカさんは、それ以上は言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
その晩、義母が握り飯を出してくれた。
私は食べられなかった。
妻も、箸を持ったまま置いた。
娘だけが、二つ食べて、すぐに寝た。
網戸の向こうで、虫が鳴いていた。
山の夜は、音が近い。
すぐそこの草むらで鳴いているのか、対岸で鳴いているのか、分からなくなる。
※
翌日、警察の人が伊佐里まで来た。
乗客名簿の確認だという。
営業所で切符を売った控えに、私たちの名前があった。
大人二人、小児一人。
行き先の欄には、伊佐里と書いてあった。
だが、降車地の欄が、空白だった。
「途中でお降りになったんですよね」
はい、と私は答えた。
「藤ノ木で」
若い警官は、控えをもう一度見て、首をかしげた。
藤ノ木で降車の記録がない、というのだ。
営業所には、車掌のいない路線でも、停留所ごとの乗降を運転手が記録する帳面がある。
その日の帳面は、峠の下りに入るまで、すべて埋まっていた。
藤ノ木の欄だけが、線も引かれずに空いていた。
降りた人がいれば、丸を書く。
いなければ、斜めの線を引く。
どちらも、なかった。
運賃の精算も、伊佐里までの分になっている。
私は、そんなはずはないと言った。
言いながら、財布の中を探した。
切符も、釣りも、レシートも、何もなかった。
妻の財布にも、なかった。
二人分の切符を、私が持っていたはずだった。
ズボンのポケットも、鞄の中も探した。
出てきたのは、麦わら帽子に付いていた、小さな輪ゴムだけだった。
※
三日後、運転手が意識を戻したと聞いた。
十四人のうち、その人だけが戻ってきたのだ。
私は、どうしても会いたくなって、麓の病院まで行った。
会わせてもらえたのは、ほんの数分だった。
病室は四人部屋で、その人は窓際にいた。
右腕を吊って、頭に包帯を巻いていた。
枕元に、営業所の人が置いていったらしい花があった。
水は替えられていなかった。
その人は、私が名乗る前に、目だけをこちらへ向けた。
看護婦さんが「まだ長くは話せません」と言って、外に出ていった。
閉まった扉の向こうで、誰かが台車を押していく音がした。
運転手は、包帯の下から私を見て、すぐに分かったようだった。
「藤ノ木で降りた、お客さんやな」
はい、と私は答えた。
そして、その人は、こう言った。
「峠を下りたところで、あんたらのことを思い出したんや」
「藤ノ木は、次の便まで四時間ある」
「子連れやったやろ。あんな標柱一本のとこに、四時間はきつい」
「せやから、引き返そう思て、停めたんや」
私は、何も言えなかった。
その人は、天井を見たまま続けた。
「停めた途端やった」
あのバスは、私たちを乗せ直すために、引き返そうとして停まっていた。
※
あとで現場を見に行った。
崖から落ちた石は、道の上に三つ、大きなものが残っていた。
その位置は、バスが停まっていた場所より、二十メートル手前だった。
停まらずに走っていれば、通り過ぎていた場所だ。
私は、その二十メートルを、何度も歩いた。
歩いても、何も変わらなかった。
崖の上には、真新しい剥離の跡が残っていた。
地元の人が言うには、その崖は昭和三十年代に一度、大きく崩れたことがあるという。
そのときも、通りかかった車が一台あった。
その車も、途中で一度停まっていたのだと、老人は言った。
なぜ停まったのかは、誰も知らない。
老人はそのあと、思い出したように付け足した。
「その車な、麓の食堂で飯食うてから上がってきたんやと」
私は、何も返せなかった。
※
伊佐里の家では、盆のあいだ、仏間に膳を出す。
その年の盆、義父は膳を出さなかった。
タカさんが、出すなと言ったからだ。
理由は、やはり言わなかった。
タカさんはその翌々年に、静かに息を引き取った。
最後の年に、一度だけ、妻に言い残したことがある。
妻が私に伝えたのは、さらに何年もあとだった。
「入らんかった者のぶんは、よそから入るんやと」
それだけだった。
※
翌年の八月、私は一人で伊佐里へ行った。
朝から何も口にしなかった。
一の橋を渡ると、板が、こと、と鳴った。
一度だけ鳴った。
私は安心した。
安心して、家のほうへ歩き出した。
そのとき、うしろで、もう一度鳴った。
こと。
そして、また。
こと。
三度、鳴った。
橋の上には、誰もいなかった。
※
それから四十年、毎年八月に、あの橋は三度鳴る。
村の人は誰も気にしない。
古い橋だから、と言う。
妻もそう言う。
娘も、覚えていないと言う。
妻の実家は、義父の代で仕舞いになった。
いま、伊佐里の戸数は九軒だ。
橋も、二度架け替えられている。
それでも、真ん中の板は、渡ると、こと、と鳴る。
娘は四十を過ぎた。
去年、初めて一緒に伊佐里へ行った。
橋の手前で、娘は何も言わずに立ち止まった。
「なんで止まった」と訊くと、娘は不思議そうな顔をした。
「え、いま止まった?」
娘は、あの日のことをほとんど覚えていない。
四つだったのだから、当たり前だ。
それでも、橋の手前では足が止まる。
私たち三人には、共通していることがひとつだけある。
あの日、藤ノ木の定食屋で何を食べたのか、誰も思い出せないのだ。
親子丼を頼んだことは覚えている。
うどんを頼んだことも覚えている。
味を、覚えていない。
三人とも、箸を持った、その手の感じだけが残っている。
だから私は、伊佐里へ入る日は、朝から何も口にしない。
いまも、入れているのかどうかは、分からないままだ。