
この話を、家内にも子どもにもしないまま五十年が過ぎた。
もう当時の工事に関わった者は、ほとんど残っていない。
私も八十に手が届く。
だから、いま書いておくことにした。
昭和四十二年、私は曳き家の職人だった。
家を壊さずに、建ったまま別の場所へ動かす仕事である。
床下に枕木を組んで家を持ち上げ、丸太のコロを噛ませ、綱と巻き上げ機で少しずつ滑らせていく。
一日に動く距離は、うまくいって二十間ほどだ。
十間しか進まない日もある。
急ぐと家が軋む。
軋ませた家は、あとで必ず建具が閉まらなくなる。
だから曳き家は、遅いほど上手いとされていた。
持ち上げるのにも順番がある。
四隅から均等に上げると、家はどこかで必ず捻れる。
重い側から先に、少しずつ。
家というものは、建ったときの姿勢を覚えている。
その姿勢を崩さずに運ぶのが、曳き家の腕だった。
家を曳くというのは、家を動かすことではない、と親方は言った。
土地から剥がすことだ、と。
当時の私は、その言い方を職人らしい気取りだと思って聞いていた。
その年の夏、私たちは越中の常願寺川の右岸に入った。
堤を後ろへ下げる工事だった。
新しい堤の線が引かれると、川と堤のあいだに取り残される家が出る。
蓑輪という在の、十一戸がそれだった。
建て替える金のある家は一軒もなかったから、県が曳き家の費用を持った。
私たち柏木組が請けたのは、その十一戸を、堤の内側の畑地へ順に曳く仕事である。
常願寺川は、砂が白い。
夏の午後になると河原が焼けて、遠くの立山が水の上に浮いて見えた。
蓑輪の家はどれも屋根が低く、雪囲いの金具を年中つけたままだった。
在の道は狭い。
一戸曳くたびに、隣の家の生垣を切らせてもらった。
着工の前に、私は親方と在を一戸ずつ回った。
戸を叩き、間取りを描かせてもらい、床下に潜って土台の腐りを見る。
腐りのひどい家は、曳く途中で潰れる。
十一戸のうち二戸は、曳けるかどうか際どかった。
それでも在の者は、一戸も壊さないでくれと言った。
建て直す金がないからだと、私は思っていた。
そうではなかったことを、あとになって知った。
仕事の初日、私は東の爺さまという隠居に呼ばれた。
在で一番の古株だという話だった。
爺さまは縁側に座ったまま、私の顔を見ずに言った。
「地棚は、あんたらが外すんか」
私には意味が分からなかった。
親方に聞くと、この辺りには床下に棚を一枚渡す習わしがあるのだという。
大引に渡した、幅五寸ほどの板だ。
そこには何も載せない。
米も、札も、位牌も置かない。
空のまま、家が建っているあいだじゅう渡しておく。
「先に居ったもんの座や」
親方はそう言った。
家というのは人だけの器ではない。
半分は、先に土地に居たものに貸してある。
だから空の棚を一枚、確保しておく。
そういう理屈らしかった。
家を動かすときは、その板を外して土地に埋める。
そして「半分わけ」をする。
土地の側に一人、家の側に一人、留守番を立てる。
留守番は、曳く前にそれぞれの場所で一服する。
土地の側は更地の隅で、家の側は新しい据え場で。
それだけの、簡単な作法だと聞いた。
「揃わんかったら、どうなるんですか」
私が聞くと、親方は少し黙ってから言った。
「揃えりゃええがや」
答えになっていなかった。
その年、私の下に戸出という若い衆がついていた。
二十歳で、砺波の在から出てきた男だった。
背は低いが手が早く、綱の結びが誰よりも綺麗だった。
口数は少ないのに、家を見る目だけは妙に細かい。
一軒目の家の床下に潜ったとき、戸出が言った。
「この家、柱が一本だけ寸法が合っとらんですね」
見ると、南東の隅の一本だけが、他より太くて、材の色も違っていた。
古い柱を差してある。
建て替えのときに前の家の柱を一本だけ残す家は、この辺りでは珍しくない。
私はそう説明したが、戸出は納得していない顔をしていた。
一軒目の地棚を外したのは、曳く前日の夕方だった。
親方が床下に潜り、鑿を二度入れただけで板は落ちた。
釘は一本も打っていなかった。
外した板には、何も載せた跡がなかった。
埃さえ均一についていて、五十年ぶんの空白がそのまま板になっていた。
親方は板を抱えて更地の北東の隅へ行き、鍬で膝までの穴を掘った。
板は立てずに、寝かせて入れた。
土をかけ、足で踏み、上に平たい石を一つ置いた。
「これで半分わけや」
私はその石を覚えている。
川原から拾ってきた、子どもの座布団ほどの石だった。
一軒目を曳く朝、私は現場に一番乗りした。
まだ人足が来ていなかった。
更地になる予定の地面には、家の四隅を示す杭が打ってあった。
私は更地の隅にしゃがんで、煙草を一本吸った。
特に意味はなかった。
朝が涼しくて、気持ちがよかっただけだ。
※
一軒目は、うまくいった。
コロが噛み、巻き上げ機が鳴り、家がゆっくりと畑の方へ滑り出した。
在の子どもらが「家が歩く」と言って、道の脇に並んで見ていた。
婆さまたちが握り飯を配って回った。
人足が笑いながら綱を引いた。
家は一日で十四間動いた。
夕方、新しい据え場に土台を落として、その日は終わった。
翌朝、私は更地を見に行った。
理由はない。
職人は、剥がしたあとの地面を見たくなるものだ。
更地には、家の内側の形がそのまま残っていた。
畳の目まで残っていた。
柱の据わっていたところが四角く窪み、囲炉裏のあった場所だけが黒い。
そこまでは、珍しいことではない。
妙だったのは、その形の内側だけが乾いていたことだ。
前の晩、雨が降っていた。
在の道はぬかるみ、私の長靴は泥だらけだった。
それなのに、家の跡の内側だけは、砂が白く乾いていた。
しゃがんで手を置くと、温かった。
私は親方に言った。
親方は見にも来なかった。
「三日もすりゃ消えるわい」
消えなかった。
そのあと雨が二度降ったが、畳の目は消えなかった。
二軒目、三軒目と曳いた。
一軒目に住んでいたのは、宮村という老夫婦だった。
爺さんは耳が遠く、婆さんがよく喋った。
据え場に移ってからも、婆さんは毎朝、元の土地の方角へ向かって手を合わせていた。
在の者はたいていそうしていたから、私はただの習わしだと思っていた。
次の異変に気づいたのは、その宮村の婆さんが言い出したからだ。
朝、北側の壁が明るいのだという。
新しい据え場では、その壁の向こうは杉林で、朝日など当たりようがない。
私は一晩泊まって確かめた。
夜明け前に目が覚めた。
北の障子が、ゆっくりと明るくなっていった。
桟の影が、斜めに畳の上へ伸びた。
その角度は、元の土地でこの家が向いていたときの、朝の日の角度だった。
私はそれを、しばらく座って見ていた。
怖いというより、間違い探しの答えを先に見てしまったような気分だった。
夏の終わりに、郵便配達の若い衆が新しい据え場へ来た。
配達区の変更届の話をしに来たのだ。
彼は玄関の前で立ち止まり、当たり前のような顔で言った。
「ここ、前は堤の外でしたよね」
前は、と彼は言った。
その家は三日前に曳いたばかりで、彼は一度も配達に来ていない。
私が黙っていると、彼は自分の言ったことに気づかない様子で、帳面を開いた。
東の爺さまにも、言われたことがある。
「あの家は、もういっぺん曳く約束になっとる」
誰との約束ですか、と私は聞いた。
爺さまは答えなかった。
代わりに、留守番は交代するまで続く、とだけ言った。
在の盆に、私たちも呼ばれた。
更地の脇に筵を敷いて、人足も職人も一緒に酒を飲んだ。
親方が下手な民謡を歌い、婆さまたちに笑われた。
在の若い衆が、曳き家の綱で綱引きを始めた。
その晩だけは、何もかもがただの田舎の夏だった。
戸出は飲まずに、更地の方をずっと見ていた。
私は、あいつが在の娘でも眺めているのだと思っていた。
九月に入って、夜番をする晩が増えた。
曳いた家は、土台の据わりが落ち着くまで誰かが泊まる決まりだった。
その晩、私は四軒目の家に泊まっていた。
夜中に目が覚めた。
外で、釣瓶の音がしていた。
桶が井筒に当たり、縄が滑る音だ。
私は起きて表に出た。
据え場に井戸はない。
在の井戸は元の土地に一つあったきりで、それは前の週に埋めていた。
音は、家の北側から聞こえていた。
私が回り込むと、止んだ。
翌朝、その場所の土に、桶を置いたような丸い跡がついていた。
戸出が「家が下がる」と言い出したのは、そのころだ。
四軒目の敷居が、毎朝、指一本ぶんだけ下がっている。
ジャッキで戻すと、翌朝また同じだけ下がっていた。
下がるのは、いつも同じ隅だった。
南東の隅である。
戸出が寸法が合わないと言った、あの柱の下だった。
私は下げ振りを吊って、柱の垂直を見た。
柱は狂っていない。
水盛りをすると、敷居だけが下がっていた。
土台も、束石も動いていない。
敷居だけが、南東の隅で沈んでいた。
道理としては、あり得ないことだった。
親方は水糸を張り直させ、それきり何も言わなかった。
九月の半ばに、東の爺さまが現場へ来た。
爺さまが在の外へ出るのは珍しいことだった。
杖をついて、据え場の家を一戸ずつ見て回った。
それから親方に聞いた。
「一軒目の留守番は、誰と誰が立ったんや」
親方は答えなかった。
私も答えられなかった。
留守番の名を、誰も決めていない。
板を埋めて、それで済んだものだと思っていた。
爺さまはしばらく黙ってから、こう言った。
「立てんかったんやない。もう立っとるんや」
意味が分からなかった。
爺さまはそれ以上言わず、杖をついて帰って行った。
二軒目の更地も、三軒目の更地も、同じだった。
剥がした翌朝には、必ず畳の目が残った。
雨は九月に何度も降ったが、跡は消えなかった。
十月には、在の道の片側に更地が七つ並んだ。
畑地の方には、曳いてきた家が七戸並んだ。
在が二つに分かれたようなものだった。
夕方に道を歩くと、家のある側からは煮炊きの匂いがした。
更地の側からは、何もしなかった。
ただ、七つの四角がどれも同じ向きを向いて、乾いていた。
※
十一戸目は、東の爺さまの家だった。
最後に残したのは、爺さまが動きたがらなかったからだ。
十月の末に、ようやく承知してくれた。
その朝も、私は一番に現場に着いた。
更地の隅には、もう吸い殻が積もっていた。
私は煙草を一本吸った。
爺さまの家の地棚は、爺さまが自分で外していた。
前の晩に床下へ潜って外し、自分で埋めたのだという。
どこに埋めたのかは、教えてくれなかった。
「あんたらは、板を埋めればええと思うとる」
爺さまはそう言って、笑いもしなかった。
「埋めるんは板や。立つんは人や」
その意味を、私は三十年考えることになる。
曳き始めは順調だった。
土がよく締まっていて、コロの滑りがいい。
人足は十二人、綱は二本。
爺さまは縁側に座ったまま、家が動き出しても立たなかった。
家ごと運ばれていく人を見たのは、あれが最初で最後だ。
昼過ぎには、家が七間ほど進んだ。
そこで、戸出が綱を離した。
初めは、コロを直しに行ったのだと思った。
違った。
戸出は綱を置いて、更地の方へ歩いて行った。
呼んでも振り返らなかった。
走っているわけではない。
仕事に行く人の歩き方だった。
私が追いかけようとすると、親方に腕を掴まれた。
「行くな」
親方の手は震えていた。
私はそのとき初めて、親方が怖がっているのを見た。
戸出は更地の真ん中で立ち止まり、しゃがんだ。
それから、地面に手をついた。
畳の目の跡の、ちょうど中ほどだった。
そのまま、動かなくなった。
私たちは家を据え場まで曳ききってから、日が暮れる前に更地へ戻った。
戸出はいなかった。
在の者と一緒に、夜通し探した。
河原も、堤も、杉林も見た。
提灯の火が川面に長く映って、それが人の形に見えるたび、誰かが走った。
在の犬が三匹、堤の上まで来て、そこから先へ行かなかった。
縄を引いても足を踏ん張り、腹を地面につけて動かない。
犬が行こうとしない先には、更地があった。
私たちは更地を三度見に行った。
畳の目の跡に、戸出が手をついた跡が残っていた。
指の形まで、はっきり残っていた。
だが、そこから出て行った足跡がなかった。
入ってきた足跡だけが、更地の縁で終わっていた。
夜が明けた。
川霧が上がって、堤の草が白くなった。
見つからなかった。
翌朝、四軒目の家の縁の下から声がした。
最初は猫だと思った。
私は腹這いになって潜った。
潜っていくと、地面の湿り気が急になくなった。
外は前の晩の雨でぬかるんでいたのに、縁の下の土は粉のように乾いていた。
手をつくと、温かかった。
更地と同じだった。
枕木の並びの向こうに、白いものが見えた。
戸出は、南東の隅にいた。
無傷だった。
泥はついていたが、怪我はしていない。
背中を丸め、両手を上へ伸ばして、桁を受ける格好をしていた。
力士が土俵で構える前の、あの形に似ていた。
「戸出」
呼ぶと、彼はこちらを見た。
目は普通だった。
「下がらんように、押さえとらんといかんです」
それだけ言って、また上を向いた。
彼が両手で押さえていたのは、寸法の合わないあの柱だった。
そして私は、そこで見てしまった。
柱の根元、大引と大引のあいだに、幅五寸ほどの板が一枚、水平に渡してある。
埋めたはずの棚板が、曳いてきた家の下に渡してあった。
私は、その板に触らなかった。
触ってはいけないと、体のほうが先に分かっていた。
後ろ向きに這って出て、親方を呼びに行った。
※
戸出は三日目の朝に、自分から縁の下を出てきた。
出てきたときには、もう普通に喋った。
何も覚えていないと言った。
飯を食い、次の現場の道具の手入れをした。
私たちは、なるべくその話をしないようにした。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
戸出は、蓑輪から出られなくなった。
在の境の橋を渡ろうとすると、途中で立ち止まる。
気分が悪くなるわけでもない。
ただ、渡れないのだという。
柏木組は次の現場へ移ったが、戸出だけは残った。
在の人が、四軒目の家の離れに置いてくれた。
田の手伝いをして、機嫌よく暮らしていたと聞いている。
一度だけ、私は様子を見に行った。
戸出は日に焼けて、前より肉がついていた。
縁側で茶を出してくれて、綱の結び方の話を少しした。
帰り際、彼は玄関の柱を手のひらで叩いて言った。
「これは、まだ下がっとりません」
私は笑って、それはよかった、と答えた。
いま思えば、あれは世間話ではなく報告だった。
三年ほど経った冬に、在の区長から手紙が来た。
戸出が、夜中に家を出たという。
出るときに、「帰らんといかん」と言ったそうだ。
在の者が総出で探したが、見つからなかった。
橋の手前で足跡が消えていた、と手紙にはあった。
末尾に、離れの縁の下も見たが何もなかった、とだけ書き添えてあった。
何もなかった、とわざわざ書く意味を、区長は説明していなかった。
行方は、いまも分からないままだ。
私が蓑輪へ行ったのは、それから十年ほど経ってからだ。
東の爺さまはまだ生きていて、同じ縁側にいた。
私の顔を覚えていた。
私は、戸出のことを聞いた。
爺さまは、川の方を見たまま言った。
「留守番が、片方しか立っとらんかったんや」
土地の側の留守番は、お前がやったろう、と東の爺さまは言った。
私は覚えがない、と答えた。
爺さまは、曳く朝に更地で一服したろう、と言った。
私は、何も言えなかった。
「埋めるんは板や。立つんは人や」
あの朝と、同じ言い方だった。
家の側の留守番は、誰も立てていなかった。
空いた席に、戸出が入った。
そういうことなのだと、いまは思う。
親方に確かめようとしたが、親方はその前の年に先に逝っていた。
家を曳くというのは、家を動かすことではなかった。
土地と家のあいだにある貸し借りを、二つに割ることだった。
割り方を間違えると、片方が余る。
余った側は、埋める者を自分で探しに来る。
蓑輪の在は、いまはもうない。
昭和の終わりに堤がもう一度下げられて、家はすべて移った。
更地だったところは、河川敷になった。
去年、私は久しぶりにそこへ行った。
草がまばらに生えた河原の、一角だけ草がなかった。
四角い。
畳の目のかたちに、砂が乾いていた。
北東の隅に、平たい石が一つあった。
子どもの座布団ほどの、川原の石だった。
五十年のあいだに、堤は二度動いている。
石だけが、動いていなかった。
私は隅にしゃがんで、煙草を一本吸った。
留守番は交代するまで続く、と爺さまは言った。
交代の話を、私は誰からも聞いていない。