
青い丸は、いつも私の足元にひとつだけあるものだった。
地図アプリを開けば、そこに現在地が出る。
それだけのことで、それ以上の意味はなかった。
あの日、谷の入口で、その青い丸がふたつになった。
もう一つの青い丸は、私より先に着いていた。
去年の十月、第二週の話だ。
私は三十四歳で、ドローンを使った測量を個人でやっている。
造林地や山林の上空を飛ばして、境界と面積を図にする仕事だ。
依頼は、たいてい山あいの組合や地主から来る。
その週は、紀伊半島の内陸にある宇津見谷の森林組合に呼ばれていた。
前の晩に大阪を出て、谷の手前の道の駅で車中泊をした。
朝は六時に起きた。
自販機の缶コーヒーを飲みながら、機材を一つずつ確かめる。
バッテリーが六本。予備のプロペラが四枚。
上着は、去年買った白い雨具にした。
雨の予報ではなかったが、谷の天気は当てにならない。
最後に、熊鈴をザックの左の肩紐に付ける。
これが、仕事の前のいつもの順番だ。
鈴は三年前に買ったものだ。
縁にひびが入っていて、三回に一回だけ、鈍い音がする。
替えたらどうかと、同業の友人は会うたびに言う。
替えたら、山の中で自分の居場所が分からなくなる気がして、そのままにしている。
澄んだ音が二つ続いて、三つ目が濁る。
その濁りが、私は嫌いではなかった。
車を出す前に、その友人からメッセージが届いていた。
「今日どこ」
「宇津見谷。山の奥は圏外らしい」
「鈴、替えとけよ」
「考えとく」
「それ三年言ってる」
私は笑って、返信をやめた。
谷には朝霧が薄く残って、杉の梢だけが明るかった。
組合の事務所は、谷の入口にある古い二階建てだった。
約束は八時。
私は七時五十分に着いた。
自分でも驚いた。
約束の時間に私が先に着いたことは、一度もない。
学生の頃から、ずっとそうだった。
友人には「遠野は遅れる側の人間」と笑われている。
笑われても、直らなかった。
だからその朝の七時五十分は、少しだけ誇らしかった。
駐車場には、軽トラが二台。
乗用車は一台も停まっていなかった。
引き戸を開けると、石油ストーブの匂いがした。
壁のカレンダーには、鹿の写真が使われていた。
奥の机から、作業着の男性が顔を上げた。
担当の山辺さんだ。五十代で、声が大きい。
「ああ、遠野さん。お疲れさん」
「おはようございます。早く着きすぎましたか」
山辺さんは、湯呑みを持ったまま首をかしげた。
「早いのは助かるけど、さっき一回来たやないですか」
「私が、ですか」
「白い雨具で。すぐ現場を見に行くて、出ていかれて」
「ほら、そこの湯呑みも、遠野さんのでしょう」
窓際の机に、湯呑みがひとつ置いてあった。
茶が半分残っていて、湯気はもう立っていなかった。
「人違いだと思います。私、今着いたところです」
山辺さんは少し黙ってから、「ほな、勘違いやな」と笑った。
笑い方が、一拍遅れていた。
共有先のいない習慣
その日の段取りは、山辺さんが地図を広げて説明してくれた。
谷の奥に、第二林道が通っている。
行き止まりまで車で入って、そこから歩いて一時間ほどのところに、旧第三飯場の跡がある。
飯場というのは、昔の山仕事の人たちが寝泊まりした小屋のことだ。
今は誰も使っていない。
その周りの造林地の境界を、空から撮って図にしてほしい。
それが依頼の中身だった。
「飯場の跡はな、屋根はまだ残っとる」
「中に入っても大丈夫ですか」
「入るのは構わんけど、長居はせんほうがええ」
「何かあるんですか」
「いや、床が抜けるだけや」
山辺さんは、また少し遅れて笑った。
「あとな、これは昔の話やけど」
「はい」
「飯場の頃は、先に着いた者が湯を沸かしとく決まりやったんや」
「先に着いた人が、ですか」
「後から来るやつが、冷たい思いせんようにな」
「ただの挨拶みたいなもんや」
私は手帳に「先着が湯」とだけ書いた。
仕事には関係のない一行だった。
それでも、書いておきたかった。
「電波は入りますか」
「第二林道の途中から、もう圏外や」
「飯場は完全にあかん。戻るまで連絡つかんと思てて」
「地図はオフラインで持っています」
「ほな安心やな」
事務所を出る前に、スマホで地図アプリを開いた。
谷の一帯は、前の晩にまとめて保存してある。
縮尺は、百メートルの目盛りに合わせておいた。
圏外でも、現在地の青い丸だけは動く。
山の仕事では、それが命綱のようなものだった。
位置情報の共有は、仕事の日には必ずオンにしている。
共有する相手は、一人も登録していない。
登録する相手がいないというだけの話だ。
それでも、オンにしておくと落ち着く。
誰にも届かない信号を出し続けているような、妙な安心がある。
実家の母にも、友人にも、頼んだことはなかった。
頼めば、心配をかけるからだ。
この習慣のことを、私は誰にも話したことがない。
林道の入口には、鉄のゲートがあった。
鍵は掛かっていなかった。
山辺さんが朝のうちに開けておいてくれたのだろう、と思った。
フロントガラスに、落ち葉が一枚、張り付いて剥がれなかった。
ワイパーを動かして、やっと落ちた。
砂利道の左右で、沢が見え隠れした。
水は透き通っていて、底の石の色まで見える。
窓を少し開けると、湿った土と木の匂いが入ってきた。
ラジオは、すぐに入らなくなった。
九時過ぎに、行き止まりの広場に着いた。
軽トラが一台入れるだけの広さで、ほかに車はない。
初めての現場は、まず地上から目で見ておく。
それが、私の決まりだった。
ドローンの機体は、車に残すことにした。
ザックを背負うと、鈴が鳴った。
澄んだ音が二つ。三つ目が濁った。
地図アプリには、青い丸がひとつ。
広場の真ん中に、私と同じ向きで立っていた。
共有の欄には、何も出ていない。
いつも通りだった。
歩き出して三分で、杉の間から沢の音が聞こえてきた。
もう一つの青い丸
歩き始めて十分ほどで、道は細くなった。
作業道の名残で、幅は人がすれ違えるほどしかない。
左は杉の斜面。右は沢へ落ちる崖。
私は五分おきに地図アプリを見る癖がある。
その時も、立ち止まって画面を開いた。
青い丸が、ふたつあった。
ひとつは、私の足元。
もう一つの青い丸は、道の先の、少し離れたところにあった。
最初は、画面の汚れかと思った。
指で拭っても、丸は消えなかった。
色も大きさも、私の丸と同じだった。
画面の下に、小さな文字が出ていた。
「共有中のユーザー 1人」
その下に、灰色の文字で一行。
「更新:12分前」
私は声に出して読んだ。
「十二分、前」
誰かが、自分の位置を私に送っている。
そういうことになる。
名前を確かめようとして、指を止めた。
圏外のせいか、名前の欄は読み込み中のまま回っていた。
山辺さんだ、と思うことにした。
気を利かせて、先に入った自分の位置を送ってくれたのだろう。
そう考えると、悪い気はしなかった。
私は歩き出した。
もう一つの青い丸も、動いた。
道の先を、私と同じ速さで、同じ方向へ。
縮尺の目盛りに、指を当てて測った。
丸と丸のあいだは、きっかり七十メートルだった。
私が止まると、丸も止まった。
五秒数えて歩き出すと、丸も歩き出した。
試しに、走ってみた。
ザックが背中で跳ねて、鈴が続けざまに鳴った。
丸は、同じだけ遠ざかった。
七十メートルのまま、縮まらない。
息が上がって、膝に手をついた。
位置の誤差は、普通は五メートルほどある。
その誤差が、いつまで経っても一ミリも動かない。
私は百歩ぶんの距離を、数えながら歩いた。
百歩目に画面を見ると、丸は百歩ぶんだけ先にいた。
七十メートルのままだった。
画面の下の文字は、変わっていなかった。
更新:12分前。
動いている丸なのに、示しているのはずっと十二分前の位置だということになる。
そんな表示は、見たことがなかった。
バグだろう、と私は思った。
圏外のアプリは、ときどき妙な動きをする。
同業者のあいだでは、よくある笑い話だった。
山で幽霊を見たら、まず電池を疑え。
先輩は、いつもそう言っていた。
電池を確かめた。八十一パーセント。
丸太を並べただけの橋が、沢に架かっていた。
苔で滑りやすく、手すりもない。
靴の裏で一本ずつ確かめながら、私は渡った。
橋の真ん中の丸太だけ、苔が剥がれて黒く濡れていた。
誰かが、ついさっき踏んだように。
ポケットから電話を出した。
画面の端には「圏外」の二文字。
それでも、二つ目の丸は動いている。
圏外の中で、誰かの位置だけが、私に届き続けている。
どうやって、と考えて、やめた。
手帳に時刻を書いた。九時四十分。
画面を閉じても、丸は閉じた画面の中で動き続けているような気がした。
気のせいだ、と声に出してみた。
沢の音が、少しだけ大きくなった。
先に鳴る熊鈴
昼にはまだ早かったが、倒木に腰を下ろした。
おにぎりを出して、ひとつ食べた。
具は梅だった。酸っぱさで、頭が少し戻った。
斜面の上の枝に、猿が一匹座っていた。
こちらをじっと見ている。
「あげないよ」
声に出すと、猿は枝を一本移って、そっぽを向いた。
その仕草が、少しだけ可笑しかった。
食べ終えて、ザックを背負い直す。
澄んだ音が二つ、濁った音がひとつ。
その音の少し先で、同じ音がした。
聞き間違いかと思って、動きを止めた。
沢の音しかしない。
もう一度、肩をゆすってみた。
澄んだ音、澄んだ音、濁った音。
道の先から、同じ並びで鳴った。
ただし、返ってきたのではなかった。
先に、鳴っていた。
私の鈴が鳴り終わる前に、向こうの鈴は三つ目の濁りまで終えている。
音が、私より半拍早い。
手のひらで鈴を握り込んで、音を消した。
耳を澄ます。
向こうの鈴は、続いていた。
チリ、チリ、ゴ。
ゆっくり歩く人の、間隔だった。
山辺さんではない、と思った。
山辺さんは、事務所に残ると言っていた。
それに、ひびの入った鈴を持つ人が、そう何人もいるとは思えなかった。
私は声を出した。
「すみません。組合の方ですか」
鈴の音が、止まった。
沢の音だけが残った。
十秒待った。二十秒待った。
「遠野といいます。測量で入っています」
返事はなかった。
一歩動くと、先でも、一歩ぶんの足音がした。
砂利を踏む音ではなかった。
落ち葉を踏む、湿った音だった。
その足音は、私の一歩目より先に、終わっていた。
鈴を一度、ザックから外して、枝に掛けてみた。
歩き出すと、枝の鈴は黙っていた。
それなのに、先では、三つ目の濁りが続いていた。
五十歩で戻って、鈴を付け直した。
指先が冷えていた。
私は、引き返すことを考えた。
仕事の日当より、気味の悪さのほうが重くなっていた。
立ち止まったまま、ゆっくり振り返る。
来た道が、細く伸びている。
杉の幹の間を、白い霧が一筋、低く流れていた。
三十歩ぶん、戻ってみた。
地図アプリを開く。
もう一つの青い丸も、三十歩ぶん、戻っていた。
私が向きを変えれば、丸も向きを変える。
一定の距離を保ったまま。
さっきの倒木に、あの猿がまだ座っていた。
目が合った。
猿は、私を見ていなかった。
私の、少し後ろを見ていた。
瞳が、私の背中の向こうの何かを追うように、ゆっくり動いた。
私は振り向かなかった。
振り向いて何もなければ、何もないと確かめたことになる。
何かあれば、それを見たことになる。
どちらも、嫌だった。
猿は枝を移って、杉の陰に消えた。
「引き返すと、日当が消えるな」
わざと声に出して、笑ってみた。
笑い声は、沢の音に吸われて、すぐに聞こえなくなった。
私は向きを変えて、また奥へ向かった。
考え込むのが、山では一番危ない。
歩く速さを一定にして、前だけを見て歩いた。
足跡の上に葉がない
道が二つに分かれる手前で、足を止めた。
風が止んでいた。
沢の音が、後ろへ遠ざかっていく。
ぬかるみに、足跡が続いていた。
登山靴の跡だ。
つま先は、先へ向いている。
膝をついて、顔を近づけた。
輪郭はくっきりしていて、縁がまだ崩れていなかった。
底の溝に、水がゆっくり染みてくる途中だった。
足跡の周りには、杉の枯れ葉がうっすら積もっている。
昨夜の風で落ちたものだろう。
けれど、足跡の中には、一枚も葉がなかった。
ついさっき、踏んだばかりの跡だ。
もう一つ、気づいたことがあった。
かかとの外側に、小さな欠けがある。
半月の形に、刻みがひとつ抜けている。
私は自分の靴の裏を見た。
同じ場所に、同じ欠けがあった。
去年の春、河原の岩で削ったものだ。
「まあ、いいか」と思って、そのまま履き続けている。
自分の靴を、足跡の隣にそっと置いてみた。
大きさは、ぴたりと同じだった。
同じ型の靴は、山では珍しくない。
かかとの欠けまで同じ靴が、そうあるとは思えなかった。
足跡は、一方向にしか続いていなかった。
先へ向かう跡があるだけで、戻る跡はひとつもない。
入ったまま、まだ出てきていない人の跡だ。
そう思ってから、昼過ぎには戻ると山辺さんに伝えたことを思い出した。
立ち上がると、鈴が鳴った。
道の先の曲がり角で、白いものが動いた。
白い雨具の背中だった。
ザックの左の肩紐に、小さな鈴が揺れている。
その揺れ方が、私の鈴と同じ間隔に見えた。
その人は、振り返らなかった。
息をのんでいる間に、曲がり角の向こうへ消えた。
時間にして、三秒ほどだった。
私は、自分の肩紐をちらりと見た。
同じ位置に、同じ鈴が下がっている。
同じ型の雨具は、去年、同業の友人も買っていた。
山では、白い雨具は珍しくない。
私は、そう言い聞かせた。
言い聞かせている自分の声が、少し高かった。
水筒の水を飲んだ。ぬるかった。
手が、少し震えていた。
山の仕事は、八年やっている。
迷ったことも、霧に巻かれたこともある。
けれど、そのどれとも違っていた。
迷っているのではなかった。
道は、一本しかなかった。
誰かに、案内されているだけだった。
腕時計を見た。十時四十分。
スマホの時計も、同じだった。
もう一つの青い丸の下には、変わらず「更新:12分前」と出ていた。
分かれ道には、朽ちかけた木の標識が立っていた。
「旧第三飯場 0.4」
赤い文字は、ほとんど消えていた。
右の道には、足跡がなかった。
踏まれているのは、左だけだった。
道の脇に、錆びたトロッコのレールが半分埋まっていた。
昔、荷車が通った道なのだろう。
そこから先は、不自然なほど平らだった。
飯場の出面表
道の先は、急に開けた。
草の生えた平らな地面に、トタン屋根の小屋が一棟建っていた。
壁の板は黒ずんで、窓のガラスは割れている。
それでも屋根は、山辺さんの言う通り、まだ残っていた。
入口の引き戸が、三十センチほど開いていた。
中から、湯気の匂いがした。
鉄の薬缶が沸く、あの匂いだ。
戸口に立って、声をかけた。
「失礼します。測量の者です」
返事はなかった。
土間に足を踏み入れると、床板が鳴った。
奥の窓の下に、白い雨具の背中があった。
座布団の上に座って、壁の方を向いている。
肩に、杉の葉が一枚載っていた。
隣に、ザックが置いてあった。
私は声が出なかった。
その背中は、動かなかった。
音を立てないように、囲炉裏の跡へ寄った。
棚に、欠けた茶碗が三つ伏せてある。
壁の釘には、色の抜けた手拭いが掛かっていた。
どれも、長いあいだ誰も触れていない埃をかぶっていた。
薬缶と座布団のまわりだけ、埃がなかった。
自在鉤に、黒い薬缶が掛かっている。
口から、細く湯気が上がっていた。
火は、どこにもなかった。
そっと手をかざすと、薬缶は熱かった。
先に着いた者が湯を沸かす。
山辺さんの声が、頭の中で繰り返された。
壁の黒板に、チョークの字が並んでいた。
縦に日付。横に、何かの印。
出面表だ。
昭和の日付が、上から順に続いている。
どの日付にも、丸がひとつだけ付いていた。
一番下の行は、今日の日付だった。
新しい白で、丸がひとつ描かれていた。
右上が閉じていない丸だった。
私が書く丸は、いつもそうだ。
「遅かったね」
窓の下の背中が、そう言った。
振り向きはしなかった。
低くて、少し掠れた声だった。
自分の録音を聞いたときの、あの居心地の悪い響きだった。
私の手が、ポケットのスマホを取り出していた。
画面の青い丸は、小屋の中でひとつに重なっていた。
下の文字が変わっていた。
「更新:たった今」
共有中のユーザーの欄を押した。
名前が、読み込まれた。
先に着いて待っていたのは、遅れる側のはずの私だった。
共有してくれている一人の名前は、私の名前だった。
窓の下の背中が、ゆっくり首を回しかけた。
私は、その顔を見なかった。
戸口を飛び出した。
鈴が鳴った。澄んだ音、澄んだ音、濁った音。
後ろから、同じ鈴の音が、半拍早く追ってきた。
「待って」
私の声が、小屋の中から呼んだ。
低い声ではなかった。
置いていかれる人の声だった。
振り返らずに走った。
行き止まりの広場に着いたとき、腕時計は十一時五分だった。
登りに一時間半かかった道を、十五分で下りたことになる。
事務所では、山辺さんに「飯場は傷みがひどくて撮れませんでした」と伝えた。
山辺さんは、何も訊かなかった。
窓際の机から、湯呑みは片付けられていた。
その日以来、約束の時間には、必ず十分遅れて着くようにしている。
先に着いた者が、湯を沸かすことになるからだ。
青い丸は、いまも私の足元にひとつだけある。
ひとつだけ、のはずだ。