代わりの湯呑みは月末に割れる

黄昏の病院回廊と茶番窓

店長は湯呑みを置く前に、底を指の関節で一度だけ叩いた。

コ、と乾いた音がした。

空のはずの器が、短く返事をしたように聞こえた。

私が働く市立病院の売店では、毎月最終営業日の17時40分に、これをやる。

売店の棚には、白い無地の湯呑みが並んでいる。

税込528円。入院した家族にお茶を飲ませたい人が、よく買っていく。

けれど、月末の夜にレジ横の台へ出される代わりの湯呑みだけは、一度も売り物の棚に並んだことがなかった。

同じ形で、同じ白で、値札だけがない。

売店は、正面玄関を入って右手、自動販売機の隣にある。

置いているのは、飲み物と、下着と、スリッパと、封筒と、見舞いの小さな花束。

客の多くは、疲れた顔をした家族か、夜勤明けの職員だ。

レジでお釣りを待つあいだ、みんな、ふっと遠くを見る。

その顔を眺めているのが、私は嫌いではなかった。

私は宮田。34歳。

病院1階の売店「ひだまり」で、パートとして3年働いてきた。

その前は、百貨店の食器売り場に7年いた。

器の良し悪しなら、目をつぶっても分かるつもりでいる。

あの台の湯呑みは、何の変哲もない量産品だった。

おかしいのは器ではない。毎月、必ず割れるのだ。

熱湯を縁まで注いで、閉店まで誰も触らない。

それなのに、翌朝には、きまって割れている。

これは、3年前の4月の初日に、私がしてしまった返事の話だ。

採用の連絡が来たのは、桜が散った翌週だった。

初日の昼前、私は搬入口で、給食の納品を受け取っていた。

搬入口は売店の裏にある。病院の厨房と共用の、薄暗い通路だ。

納品員の岸本さんは、台車の伝票を探して、こちらに背を向けていた。

そのとき、通路の奥から、女の声がした。

「宮田さん」

知らない声だった。

けれど私は、名前を呼ばれたら返事をするものだと、体で覚えていた。

前の職場で、7年そう叩き込まれたからだ。

「はい」

声は、確かに私の口から出た。

振り向いても、通路の奥には誰もいなかった。

非常灯の緑が、床にぼんやり落ちているだけだった。

岸本さんが、伝票から顔を上げた。

「誰かいた?」

「いえ、呼ばれた気がして」

「そう? 俺には何も聞こえなかったけどな」

そう言って彼は笑い、台車を押して出ていった。

昼休みに売店へ戻ると、店長の笹岡さんが、レジの前で立ち止まっていた。

62歳。この売店を21年預かっている人だ。

「宮田さん、搬入口で何か言った?」

「呼ばれたので、はいと」

店長は、しばらく何も言わなかった。

それから、いつもの穏やかな声で言った。

「今度から、あそこで呼ばれても、返事はしないでね」

「誰もいなくても、ですか」

「誰もいなくても」

理由は聞けなかった。聞かせない顔をしていた。

そして4月の最終営業日、最初の代わりの湯呑みが台に出た。

月末の十七時四十分

その日の17時、店長は棚から、代わりの湯呑みになる器を二つ取った。

自分の財布から、528円を2回、数えて出した。

私がレジに打った。1056円。

レジを打ち間違えたことは、この3年で一度もない。

店長は、レシートを丸めてポケットに入れた。

「売り物なのに、店長が買うんですか」

「決まりごとだから」

「誰が決めたんですか」

「前の人から、そう引き継いだの」

それ以上は聞かないでほしい、という声だった。

17時40分、店長は台にふきんを敷き、湯呑みを二つ並べた。

ポットの熱湯を、縁ぎりぎりまで注ぐ。

湯気が立って、台の上で白く揺れた。

店内のBGMが、一瞬だけ途切れた気がした。

置く前に、底を指の関節で一度だけ叩く。

コ、と音がした。二つとも、同じ音だった。

「叩くのは、何のためですか」

「鳴らすため。それだけ」

閉店の20時まで、誰も触ってはいけない。

客に聞かれたら「展示です」と答えるよう、言われた。

ところが、聞く客は一人もいなかった。

月末の夜は、不思議なほど人が引く。

私は閉店まで、ずっと台のほうを気にしていた。

18時を過ぎても、湯気は立っていた。

19時を回る頃には、湯気は消えていた。

19時半、通りがかりに、台の湯呑みへ手をかざしてみた。

熱いはずの縁が、冷たかった。

冷蔵庫から出したばかりの水のような、指の骨にしみる冷たさだった。

注いでから2時間もたっていない。湯が熱湯だったことは、この目で見ている。

店長は、レジの向こうで帳簿をつけていた。

こちらを見ずに、言った。

「触らないでね」

私は手を引っこめた。

翌朝、台を見にいくと、湯呑みは二つとも割れていた。

縁から底まで、まっすぐな1本のひび。

水は、一滴も台にこぼれていない。ふきんも、からりと乾いていた。

乾いたふきんから、湿った石のようなにおいが、うっすら立った。

雨の日の井戸の底のような、においだった。

店長は、欠片を新聞紙に包んで、院内の古紙回収箱に持っていった。

「毎月、こうなんですか」

「毎月、こう」

器を売ってきた7年のあいだに、割れ方なら、嫌というほど見てきた。

けれど、あんなに行儀のいい割れ方は、見たことがなかった。

5月も、6月も、同じことが続いた。

湯は冷たくなり、器は割れ、水は消える。

私は、験担ぎのようなものだと思うことにした。

病院には、そういう習わしが多い。

4階の病棟には、鏡を置かない廊下がある。

夜勤の看護師は、決まった時刻に、決まった窓を開ける。

理由を聞いても、誰も答えない。ただ、昔からだと言う。

売店の湯呑みも、その仲間なのだろう。

そう考えると、気が楽になった。

月末の夜、小さな女の子が、母親に手を引かれて売店へ来たことがある。

台の湯呑みを見つけて、背伸びをした。

「これ、なんで飲まないの? お湯、入ってるのに」

母親が慌てて引き戻す。

私は、しゃがんで、女の子に言った。

「展示なの。見るだけのお茶」

「ふうん。おばけのお茶?」

母親が苦笑して、頭を下げた。

私も笑って、手を振った。

笑えたのは、そのときまでだった。

搬入口で呼ぶ声

2年目の夏から、私は17時40分を、少し身構えて迎えるようになった。

その時刻になると、搬入口の通路で、必ず何かが起きるからだ。

最初に気づいたのは、店長が湯呑みを叩く、その直後だった。

コ、と湯呑みが鳴る。

一拍おいて、通路の奥から、あの声がする。

「宮田さん」

3年前と、同じ声だ。

聞こえるのは、月末の、その時刻だけだった。

その声に、私は返事をしない。

店長との約束だからだ。

唇を噛んで、息を止めて、レジの伝票を数えるふりをする。

すると、台の湯呑みが、もう一度鳴る。

コ。

さっきより、少しだけ小さな音で。

誰も触っていないのに。

はじめ私は、これを呼び声への返事なのだと思った。

けれど、順序がおかしい。

呼ばれてから鳴るのなら、返事だ。

でも、あの湯呑みは、呼ばれる前に、一度鳴っている。

店長が叩いたからだ。

叩く音そのものが、返事の用意なのかもしれない。

私は、そこで考えるのをやめた。

そういう習慣が、あの職場には根づいている。

清掃の山根さんは、70を越えた人で、売店の裏の事情に詳しかった。

「あの湯呑み、ご利益があるの? 宝くじ当たりそうな?」

モップをバケツに入れながら、毎月のように冗談を言った。

「当たったら、売店の屋根を直してくださいね」

「あたしが当てたら、まず旅行ね」

笑い話にできるうちは、私も平気でいられた。

夜勤明けの看護師さんが、レジで、ぼそりと言ったこともある。

「月末の夕方って、搬入口の通路、そこだけ寒くないですか」

「寒い、ですか」

「うちの病棟、昔から、あの通路は夜の見回りから外してあるんです」

彼女は、小銭を受け取って、笑った。

「理由は、知らないんですけど」

私は、笑い返せなかった。

2年目の冬の月末、私は一度だけ、試してみた。

17時40分に、台ではなく、搬入口の入口に立ってみたのだ。

通路は、いつもより長く見えた。

空気が、湿った石のにおいを帯びていた。

靴底から、床の冷たさが、ふくらはぎまで上がってくる。

奥の暗がりで、何かが、こちらへ向きを変えた気がした。

「宮田さん」

今までで、いちばん近い声だった。

私は、返事をしなかった。

歯を食いしばったまま、後ずさって、売店へ戻った。

店長は、何も聞かなかった。

ただ、温かいお茶を、紙コップに入れて、渡してくれた。

ある日の昼、納品に来た岸本さんが、台車を止めて、小声で言った。

「宮田さん、前に、初日の話したじゃない」

「搬入口で呼ばれた日ですか」

「うん。あのとき、俺、何も聞こえなかったって言ったけど」

彼は、通路の奥を一度見て、声を落とした。

「本当は、はい、って二回聞こえたんだよ」

「二回?」

「1回目は、宮田さんの声じゃなかった。もっと低かった」

私は、笑って流そうとした。

「聞き間違いですよ」

「そうかもしれない。ただ、変な空気になりそうだったから、言わなかっただけ」

彼は頭をかいて、台車を押していった。

私が聞いたのは、自分の「はい」だけだった。

そのはずだった。

でも、あの日の記憶をたどると、私の返事のあとに、通路の空気が一度だけ揺れた気がした。

代わりの湯呑みの値段

3年目の春、私は、割れた欠片を、初めて自分の手に取った。

店長が休みで、朝の片づけを任されたのだ。

欠片は、湯呑みの形のまま、台の上で崩れていた。

ひびから先は、きれいに外れる。切り口に、欠けも、ささくれもない。

拾い上げると、内側に、細い筋が走っているのが見えた。

釉薬が、指先でなぞったように、薄く削れている。

筋は、縁から底へ向かって、何本も並んでいた。

内側から、何かが器の肌をなでていったような跡だった。

数えると、1個の欠片に、7本あった。

別の欠片にも、7本あった。

私は慌てて新聞紙にくるんで、回収箱へ持っていった。

その夜、私は、家の食器棚から、同じ形の白い湯呑みを一つ取り出した。

通販で買った、500円もしない量産品だ。

底を、指の関節で、一度だけ叩いてみる。

ごつ、と、ただの陶器の音がした。

コ、とは鳴らなかった。

何度叩いても、同じだった。

あの代わりの湯呑みだけが、鳴るのだ。

売り物と同じ形の器なのに。

その差を、私は、まだ言葉にできなかった。

翌日の夕方、店長に思いきって聞いた。

「あの湯呑みは、誰のぶんなんですか」

店長は、棚のふきんをたたむ手を止めた。

しばらくして、ゆっくり言った。

「宮田さんのぶんと、私のぶん」

「私の、ですか」

「返事をした人のぶんだけ、代わりが要るの」

言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。

店長は、台を指さした。

「湯呑みが先に答えているうちは、何も来ない」

「来ない、というのは」

「来ないは、来ない」

それが、店長に言える、精いっぱいらしかった。

「店長も、返事をしたんですか」

「21年前にね」

「そのあいだの代わりは、どなたが」

「最初の数年は、先輩が買ってくれていた。その先輩が辞めてからは、自分で」

店長は、少しだけ笑った。

「528円。高いと思う?」

「安いと思います」

「そうよね。ありがたいくらい」

私は、その値段のことを、もう一度考えた。

割れた器を、新しく買い直す。それだけのことだ。

けれど店長は、そんなふうに、21年のあいだ、月末ごとに財布を開いてきた。

次の月末、私は、搬入口の壁時計を、初めて見上げた。

アナログの、白い文字盤の時計だ。

17時40分で、針が止まっていた。

施設課に頼んで、電池を替えてもらった。

止まる癖は、直らなかった。

湯呑みを下げて、台を片づけると、針は何事もなかったように動きだす。

止まっているあいだ、通路の空気は、ずっと冷たかった。

あの冷たさは、湯呑みから出ていたのかもしれない。

そう思って、私は、台のそばに近づくのをやめた。

ただ、遠くから、数えた。

店長の代わりの湯呑みと、私の代わりの湯呑み。

閉店まで、二つは、台の上に並んでいる。

その並び方が、2年目より、少しだけ、こちらへ寄っている気がした。

最終営業日の釣り銭

今年の8月、店長が、売店の隅で、私にだけ言った。

「9月いっぱいで辞めるの。定年だから」

「知りませんでした」

「だって、言ってなかったもの」

店長は、いつもの顔で笑った。

最後の出勤は、9月29日。最終営業日の前日だった。

その日、売店には、店長を見送る人が、何人も来た。

入院中のおばあさんが、手作りの小さな巾着を渡していった。

片づけが終わった夕方、店長は、私をレジの前に呼んだ。

「来月からは、二つ、お願いね」

「二つ、というのは」

「あなたの分と、私の分」

私は、すぐに返事ができなかった。

「店長は、もう、ここにいないのに」

「私は外に出るけど、返事をしたままだから」

「21年前、何があったんですか」

「新人だったの。ちょうど、今のあなたと同じ年頃で」

店長は、遠くを見る目をした。

「呼ばれて、はい、と言った。それだけ」

「先輩は、すぐに?」

「次の月末から、湯呑みを出してくれた。説明は、3か月後だった」

それ以上、店長は話さなかった。

レジの下の引き出しから、一冊のノートが出てきた。

表紙には、何も書かれていない。

開くと、月末の日付と、金額と、小さな丸印が並んでいた。

最初のページの日付は、21年前のものだった。

丸印は、一度も途切れていなかった。

「17時40分に、台へ出す。叩く。閉店まで触らない。割れたら、捨てる」

店長は、それだけを、淡々と言った。

「叩く強さは?」

「爪が白くならないくらい。強すぎても、弱すぎても、鳴らないから」

「鳴らないと、どうなりますか」

「さあ。私は、鳴らなかった月がないの」

「辞めたあとは、どちらへ」

「海のそばの、実家の隣。静かなところ」

「月末は、どうされるんですか」

店長は、ほんの少し黙った。

「たぶん、静かに過ごすわ」

それが、答えではないことは、分かった。

「それから、搬入口で呼ばれても、返事はしないこと。もう言ったわね」

「言われました」

「あなたは、きっと大丈夫」

その言葉の根拠は、聞けなかった。

店長は、売店の入口で、深く頭を下げた。

「3年間、ありがとう。助かった」

「こちらこそ」

店長の背中が、自動ドアの向こうへ消えていった。

それが、私が売店で店長を見た、最後の日になった。

翌朝、売店には、見慣れない空気が流れていた。

いつもの鍵の置き場に、店長の鍵がない。

それだけのことが、ひどく広く感じられた。

山根さんが、モップを止めて言った。

「寂しくなるねえ。あの人、21年、一回も月末に休まなかったのよ」

「私は、3年ですけど」

「宮田さんも、一回も休んでないでしょ」

言われて、気づいた。

私も、3年間、月末の最終営業日を、一度も休んでいなかった。

熱が出た日も、遅番に回してもらって、出た。

いつから、そうしていたのだろう。

誰かに言われた覚えは、ない。

画面に並んだ三つ

9月30日、水曜日。最終営業日。

朝、搬入口の鍵を開けるとき、通路の冷たさが、いつもより近かった。

昼過ぎ、店長にLINEを送った。

「今日が最終営業日です。ちゃんとやります」

既読は、つかなかった。

夕方になっても、つかなかった。

珍しいことではない。店長は、携帯をほとんど見ない人だ。

そう自分に言い聞かせて、スマートフォンをポケットにしまった。

17時前、山根さんが、モップを片手に顔を出した。

「今日は、店長いないのか。さみしいねえ」

「寂しいです。でも、ちゃんとやります」

「あんまり、台のほう、見つめなさんな」

山根さんは、冗談とも本気ともつかない顔で言って、通路へ消えた。

17時10分、私は棚の前に立った。

白い湯呑みは、朝の時点で12個。数えたのは、自分だ。

2つ取って、レジに戻った。

財布から、528円玉を、2回数えて出した。

店長が毎月したとおりに。

バーコードを読み取る。1個目。2個目。

画面を見て、手が止まった。

528円の湯呑みが、3行、並んでいた。

私が読み取ったのは、2回だけだ。

取り消しを押して、3行目を消した。

読み取り直すと、画面は、また3行になった。

合計は、1584円。

財布には、1056円しか、用意していなかった。

私は、レジの引き出しから、残りの528円を出して、払った。

レシートには、3行の湯呑みが、きちんと印字されていた。

棚へ戻って、数え直した。

湯呑みは、9個しかなかった。

12から2つ取って、残りは10のはずだ。

誰も、触っていないのに。

17時40分。

台にふきんを敷き、ポットの熱湯を、縁まで注いだ。

私は湯呑みを置く前に、底を指の関節で一度だけ叩いた。

コ、と鳴った。2つ目も、同じ音だった。

搬入口の通路で、空気が動いた。

「宮田さん」

あの声だった。

店長が毎月、私の隣で聞いていた声。

私は息を止めた。返事は、しない。

唇に爪が食いこむほど、強く噛んだ。

湯呑みが、もう一度鳴った。コ。

そのあとだった。

搬入口から、低い声で「はい」と聞こえた。

3年前、岸本さんが聞いた、1回目の声だ。

私より先に、私の名前に返事をした誰かが、あの通路に、3年前からずっといた。

壁時計は、17時40分で止まっていた。

台に目を戻すと、湯呑みは、3つ並んでいた。

私が置いたのは、2つだ。

3つ目は、縁まで湯が満ちて、白い湯気を上げていた。

3つ目の湯呑みが、誰にも叩かれないまま、コ、と鳴った。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。