標本室の番号のない瓶

不気味な標本室の静けさ

五十を過ぎて、私は大学に入り直した。

定年を待たずに会社を辞め、若い頃にあきらめた理学を、もう一度学ぶためだった。

周囲には、酔狂だと笑われた。

妻には、子どもじみていると呆れられた。

それでも私は、構わなかった。

同級生は皆、私の子ほどの年齢である。

講義室では明らかに浮いていたが、不思議と居心地は悪くなかった。

若い頃の私は、世界の仕組みを知りたくてたまらなかった。

その渇きが、五十を過ぎて、再び戻ってきただけのことだ。

学問とは、世界に名を与えていく営みだと、私は考えている。

名のないものは、いまだ存在しないものに等しい。

名づけ、分類し、棚に収める。

そうして人は、混沌を少しずつ飼いならしてきたのだ。

私はその静かな作法に、ようやく辿りついたのだと思っていた。

ある日、退官間際の老教授に呼び止められた。

標本室の整理を手伝ってほしい、という。

旧理学部の標本棟は、来月、取り壊されることが決まっていた。

古い建物の、さらに古い一室だった。

廊下の突き当たりに、煤けた鉄の扉がある。

鍵は、教授ひとりしか持っていなかった。

扉を開けると、ホルマリンの匂いが押し寄せてきた。

鼻の奥を刺す、甘くて冷たい匂いだ。

その匂いを、私はなぜか懐かしいと感じた。

部屋の壁は、天井まで硝子戸の棚で埋まっていた。

棚の中には、無数の硝子瓶が並んでいる。

瓶の中で、何かが液に浸かって、わずかに揺れていた。

魚の稚魚、蛙、蛇、名も知らぬ獣の臓物。

二つ頭の蛙もあれば、人の手のような鰭を持つ魚もいた。

どれも、明治や大正の頃に集められたものだという。

札の文字は色褪せ、もう読めないものも多かった。

棚の一番奥には、剥製と、蝋でできた模型があった。

人体の断面を写した、古い学術模型だ。

血の管や臓器が、いやに精巧に作り込まれている。

蝋の顔が、こちらを見ていた。

見られている、という感覚を、私は努めて理性で打ち消した。

古いものは、ただそこにあるだけで人を不安にさせる。

理由はそれで十分のはずだった。

教授は私に、一冊の台帳を渡した。

糸で綴じた、ぶ厚い古い帳面だった。

瓶の番号と、中身の名を照らし合わせる仕事だという。

単純な作業だが、量は膨大だった。

夜になると、私たちは二人で黙々と数えた。

私が番号を読み上げ、教授が帳面に印をつける。

その繰り返しが、何日も続いた。

教授は、この部屋で四十年を過ごしたのだと言った。

棚の一本一本を、わが子のように覚えていた。

だが、その口ぶりには、どこか怯えに似たものがあった。

作業は、妙に私の心を落ち着けた。

名を確かめ、数を確かめる。

世界には、まだきちんと整理できるものが残っている。

そう思えることが、私には救いだった。

三日目の夜、ある棚の前で、教授の手がふと止まった。

一番下の段に、番号のない瓶が、ひとつあった。

札の貼られていない、古い瓶だ。

硝子は厚く、液はうっすらと濁っている。

その底に、白いものが沈んでいた。

「それは台帳にない」と、教授は言った。

前任者の代から、ずっとそこにあるのだという。

誰が入れたのかも、何が入っているのかも、分からない。

歴代の誰も、その瓶に手をつけなかった。

「気にしなくていい。数えなくていい」

教授はそう言って、さっさと次の棚へ移った。

その背中が、早くこの話を終えたがっているように見えた。

私は、その瓶をしばらく見つめていた。

白いものは、丸まった小さな形をしていた。

膝を抱えるように、背を曲げている。

古い解剖図で見た、胎児の姿に似ていた。

だが、それにしては、手足が長すぎた。

名のないものは、存在しないのと同じだ。

私はそう信じてきた。

だからこそ、その瓶が、いつまでも気にかかった。

番号もなく、名もなく、それでも確かに、そこにある。

分類できないものが、整然とした棚の隅に、ひとつだけ混じっている。

それは、私の信条への、静かな反証のようだった。

翌日の夜、私は一人で、その棚へ行った。

教授は、まだ来ていなかった。

瓶の前にしゃがみ、硝子越しに目を凝らす。

白い形は、昨日と、少し違って見えた。

抱えていた膝が、わずかに開いている。

気のせいだ、と私は思った。

ホルマリンの中では、ものの見え方は容易に変わる。

光の加減ひとつで、輪郭は歪む。

そう自分に言い聞かせた。

私は手帳を開き、その姿を写生した。

観察し、記録し、図に残す。

それが、学問を志した者の作法だった。

描いてみると、奇妙なほど、その形は均整がとれていた。

偶然に沈み、固まったものとは、とても思えなかった。

私は古い解剖の書物を借り出し、夜ごと見比べた。

どの図譜にも、その形に当てはまるものはなかった。

名のつかないものを前にして、私はむしろ昂揚していた。

標本とは、時を止められた死の姿である。

固定され、分類され、二度と動かぬはずのものだ。

動かぬからこそ、人はそれを安心して眺めていられる。

だが、その瓶の中身だけは、その約束を守っていなかった。

私は毎晩、同じ時刻に標本室へ通った。

硝子に額が触れるほど近づき、目を凝らした。

そのたびに、白い形は、ほんのわずかに姿勢を変えていた。

まるで、長い眠りから、ゆっくりと覚めていくように。

次の夜も、私はその瓶を見た。

形は、また少し変わっていた。

曲げていた背が、わずかに伸びている。

顔のあたりが、硝子の方を向いていた。

そこに、目のようなくぼみが、二つあった。

私はそれを、図に描き足した。

教授には、何も言わなかった。

言えば、見るな、と止められる気がした。

私はもっと、それを見ていたかった。

知りたい、という欲だけが、夜ごと膨らんでいった。

いま思えば、私は観察していたのではない。

観察されることに、少しずつ慣らされていたのだ。

取り壊しの、前日になった。

標本は業者の手で運び出され、棚はほとんど空になっていた。

がらんとした部屋に、ホルマリンの匂いだけが残った。

番号のない瓶だけが、最後まで運ばれずにいた。

「これは私が処分する」と、教授は言った。

その横顔は、いつになく硬かった。

「あなたは、もう来ない方がいい」

そんなことも、ぽつりと言った。

私はうなずいて、その夜は早くに別れた。

だが、どうしても、もう一度だけ見たかった。

あれに名を与えられるのは、自分だけだという気がしていた。

深夜、私は一人で、標本棟へ戻った。

鉄の扉は、なぜか薄く開いていた。

中は暗く、匂いだけが濃く澱んでいた。

一番下の段に、瓶は、まだあった。

私は懐中電灯を向けた。

瓶の中の液は、澄んでいた。

あれほどの濁りが、すっかり消えている。

そして、白い形は——

硝子の、すぐ内側まで、来ていた。

長い手が、内側から硝子に押し当てられている。

五本の指が、はっきりと開いていた。

その手は、私の手のひらと、寸分たがわぬ大きさだった。

私が幾晩もかけて写生していたのは、丸まった標本の姿ではなく、硝子の内側からこちらへ顔を寄せてくる、その途中の動きだったのだ。

私は懐中電灯を取り落とした。

拾い上げて、もう一度、瓶を照らす。

中は、空だった。

澄んだ液体のほかには、もう何もいなかった。

私は逃げるように、その部屋を出た。

翌日、建物は予定通り取り壊された。

瓦礫の山を、私は遠くから眺めていた。

後日、教授に、あの瓶のことを尋ねた。

教授は、何も覚えていないと言った。

そんな瓶など、最初から無かった、とまで言った。

台帳にも、番号のない瓶の記録は、どこにも残っていなかった。

私はいまも、あの夜までの写生を持っている。

幾枚もの、丸まった白い形のスケッチだ。

だが、最後の一枚にだけ、開いた五本の指が描かれている。

その一枚を、私が描いた覚えは、ない。

名のないものは存在しない、と私は信じていた。

いま思うのは、名を与えようとしていたのは、本当に私の方だったのか、ということだ。

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