曇りガラスの人影が先に帰る

障子越しの影と月夜の部屋

夕方7時12分になると、曇りガラスの人影が引き戸に浮かぶ。

今なら、そう言い切れる。

けれど最初の一週間は、私も自分の見間違いだと思っていた。

仕事は、映像の字幕を作ることだ。

在宅で、納期だけが上司のような暮らしをしている。

字幕の仕事は、秒の単位で時間を扱う。

台詞が始まるのは何分何秒か。

画面が切り替わるのは、何フレーム目か。

だから私は、時刻を読み違えない。

19時12分という数字は、私が確かに見たものだ。

その部屋に引っ越したのは、2024年の10月だった。

前の部屋は、更新料の値上がりで出ることにした。

次は少し広くて、仕事に集中できる部屋がいい。

そう思って探して、見つけたのがその部屋だった。

私鉄で都心から二十分、築41年の分譲マンション。

駅から歩いて八分、商店街を抜けた先にある。

八百屋、豆腐屋、小さな本屋。

どの店も、夕方になると明かりが灯る。

私は、夜に灯る小さな明かりが好きだ。

3階の角部屋で、家賃は相場より2万円ほど安かった。

安さの理由は、間取りにあった。

居間と台所の仕切りに、昭和の引き戸が一枚残っているのだ。

白っぽい木枠に、型板ガラスがはまっている。

表面に細かな霧のような凹凸があり、向こうが輪郭だけで透けて見える。

いわゆる、曇りガラスだ。

私はその引き戸が、ひと目で気に入っていた。

この話は、その引き戸の向こう側の話になる。

先に言っておくと、誰かが傷つく場面は出てこない。

起きたのは、ただ、帰宅の話だ。

橙色に灯る引き戸

内見は、担当者の都合で平日の夜になった。

夜7時の台所は、LEDの白い光に満ちていた。

担当者の若い男性は、引き戸を申し訳なさそうに指さした。

「壁に替えることもできますが、費用は大家さんと相談になります」

私は首を振った。

「このままがいいです。ガラスの感じが好きなので」

映像の仕事をしていると、半透明のものに弱くなる。

輪郭だけが見えて、中身を想像させる質感が好きなのだ。

引き戸の写真は、念のため三枚撮った。

契約書に判を押したのは、その週のうちだった。

引っ越しは、10月の第2土曜に済ませた。

作業員の年配の男性が、引き戸の前で一度だけ足を止めた。

「ここ、開けたまま運んじゃって大丈夫ですか」

「閉めたままでお願いします」

私はなぜか、とっさにそう答えていた。

理由は、自分でもよく分からなかった。

荷解きの途中、段ボールに腰かけて水を飲んだ。

やかんは、台所の左のコンロに置いた。

前の家からずっと変わらない、私の定位置だ。

窓を開けると、金木犀の甘い匂いが入ってきた。

商店街の八百屋が、閉店の準備をしている音も聞こえた。

いい部屋だな、と素直に思った。

初日の夜は、商店街で買った惣菜で済ませた。

コロッケが、思ったよりおいしかった。

テレビはまだ繋いでいなかったので、居間は静かだった。

静けさの中で、引き戸だけが白く浮かんでいた。

ガラス越しに、台所の気配が少しだけ伝わってくる。

冷蔵庫の低い音。

蛇口から落ちる、遅い水滴。

どれも、生活の音だった。

引っ越し祝いに、母から段ボールいっぱいのみかんが届いた。

電話口の母は、「ちゃんと食べてる?」と言った。

「食べてるよ」と、私は答えた。

字幕には、一行13字という制約がある。

短い言葉に意味を詰め込み、余白を残す仕事だ。

締め切りはいつも、夕方6時に集中する。

だから夜7時は、私にとってほっとひと息つく時間だった。

三日目の夜から、私は玄関で小さく「ただいま」と言うようになった。

十年一人で暮らして、一度もなかった癖だった。

誰に向けたものでもない。

靴を脱ぐより先に、口が動いてしまう。

気味が悪いというほどではなかった。

新居で気持ちが張っているのだろう、と片づけた。

最初の異変は、その週の木曜に来た。

夜7時を少し過ぎた頃、私は居間で字幕のタイムコードを打っていた。

視界の端が、ふっと橙色になった。

顔を上げると、引き戸のガラスが灯っている。

台所の電気は消してあったはずだ。

そもそも、私の部屋の照明はどれもLEDで青白い。

ガラスに滲んでいたのは、古い白熱電球のような橙色だった。

温かそうな色なのに、見ていると背中が冷えた。

私は椅子に座ったまま、画面の時計を見た。

19時12分。

立ち上がって、引き戸を引いた。

台所は暗かった。

冷蔵庫のモーター音だけが、低く鳴っていた。

スイッチを入れると、見慣れた白い光が広がった。

流しも、やかんも、昼間のままだった。

隣の部屋の明かりが、窓から回り込んだのだろう。

私はそう決めて、引き戸を閉めた。

閉めたガラスは、もう白く沈んでいた。

米のとぎ汁の朝

翌日も、その翌日も、橙色は来た。

時刻は、いつも19時12分だった。

三日目に、私は窓の外を確かめた。

向かいは隣の棟の壁で、光の入る隙間などない。

四日目には、灯った瞬間にスマホで時刻を撮った。

19時12分。

一分もずれなかった。

時計のように正確なものは、たいてい人間が作っている。

そう考えると、少しだけ落ち着いた。

灯りは、いつも数分で消える。

引き戸を開けると、暗い台所だけが残る。

一度だけ、灯っている時間を計ってみた。

ストップウォッチで、2分40秒。

毎日、数秒の誤差もなかった。

朝のうちは、何事もない。

昼も、夕方の6時も、いつも通りだ。

19時12分だけが、毎日同じ場所に落ちてくる。

私は日記アプリに、時刻と様子を書き留め始めた。

「19:12 橙色 台所 2分」

毎日、ほとんど同じ文面になった。

コピーして貼り付けても、困らないくらいに。

書き出すと、不思議と怖さが少し薄れる。

字幕を作るときと同じで、事実を並べていけば形が見えてくると思った。

けれど並んだのは、同じ時刻と、同じ橙色だけだった。

その週の土曜、音が加わった。

居間で作業をしていると、ガラスの向こうから、シャッ、シャッ、と小さな音がした。

水を含んだ米を、指でかき混ぜるような音だった。

私は米を研がない。

パックのご飯で済ませている。

炊飯器は、まだ段ボールの中にあった。

音は三分ほど続いて、水の流れる音に変わった。

やがて、それも止んだ。

続けて、ガラスの下のほうを、爪で二回叩くような音がした。

コツ、コツ。

呼ばれたような気がして、私は反射的に立ち上がった。

引き戸の前で、手が止まった。

開けなかった。

代わりに、居間の電気を全部つけた。

部屋は明るくなったのに、橙色は少しも薄まらなかった。

翌朝、台所の流しを見て、息を止めた。

シンクの底に、白く濁った水が薄く残っていた。

指で触ると、少しとろりとしていた。

米のとぎ汁だった。

排水口のネットに、米粒が二つ引っかかっていた。

私が使う米より、細長くて、黄色みがあった。

台所の空気が、ほんのり甘かった。

炊きたてのご飯の匂いだった。

窓は閉まっていた。

引き戸の取っ手に触れると、真冬のように冷たかった。

その夜、台所の隅に塩を盛った小皿を置いた。

気休めだと、自分でも分かっていた。

翌朝、塩は水を吸って、ぐっしょり湿っていた。

湿った塩を捨てながら、馬鹿みたいだと思った。

でも、捨てた塩のかたまりは、いつもより重かった。

その夜、友人の紗季にビデオ通話をかけた。

紗季は大学の同期で、いまは医療機器の営業をしている。

科学で説明できない話は、一切信じない人だ。

「それ、前の人の米が詰まってたんじゃないの」

画面の中で、紗季はお菓子をかじりながら言った。

「そんな前の話なら、水は残らないよ」

「じゃあ、寝ぼけて研いだとか」

「私、炊飯器は箱から出してもいない」

「あー、それは怖いね」

紗季は一度うなずいて、すぐに続けた。

「でも古いマンションだし、配管から逆流したんじゃない?」

「米粒が?」

「米粒が」

二人で数秒黙って、同時に吹き出した。

笑ったおかげで、肩の力が抜けた。

曇りガラスの人影

橙色の灯りに輪郭が加わったのは、10月の下旬だった。

その夜は、締め切り前で遅くまで画面に向かっていた。

19時12分。

いつものように、引き戸が橙色に灯った。

けれどその日は、ガラスの中央が暗かった。

灯りの前に、何かが立っている。

曇りガラスの人影だった。

輪郭だけの、濃い灰色のかたまり。

頭があり、肩があり、腕が体の脇に下がっている。

顔の凹凸は、ガラスの霧に溶けて見えなかった。

私は椅子から動けなかった。

影は、台所の流しの前あたりに立っていた。

やがて、右腕がゆっくり持ち上がった。

何かを、棚の上の段に載せるような動きだった。

続いて左腕が、何かを受け取るように伸びた。

鍋の蓋を取る仕草にも見えた。

私はキーボードに手を置いたまま、呼吸だけを数えた。

一、二、三、四。

影は、また腕を下ろした。

そして、こちらを向いた。

目が合ったとは言えない。

顔のあるはずの位置が、ただ私のほうへ向いたのだ。

それだけで、部屋の空気が一段重くなった。

影は、深く頭を下げた。

客を迎える人の、丁寧な会釈だった。

急かす様子は、少しもなかった。

ただ、私が帰ってきたことを、確かめるような時間だった。

気づくと、私も頭を下げていた。

体が勝手に、そうしていた。

そのまま、橙色がふっと消えた。

私は震える手で、引き戸を引いた。

暗い台所。

空っぽの流し。

やかんだけが、左のコンロにいつも通り載っていた。

醤油を煮たような匂いだけが、わずかに残っていた。

私は窓を全部開けて、冷たい夜風を入れた。

ガラスの表面に、そっと手のひらを当ててみた。

冷たかった。

その冷たさの向こう側に、ほんのりと温かい場所があった。

ちょうど、誰かの手のひらが重なっているような温かさだった。

私は手を引っ込めた。

その夜は、引き戸に背を向けて仕事をしようとした。

背中が、じわじわと温かくなってきた。

ちょうど、人の視線のかたちに。

私は五分も持たなかった。

朝になって、スマホの写真フォルダを遡った。

内見の日の、引き戸の写真を探した。

三枚あった。

一枚目と二枚目は、ただの曇りガラスだった。

三枚目のガラスの中央に、薄く、私と同じ背丈の影が立っていた。

撮影時刻は、19時12分。

内見の夜、肉眼で見たガラスは白かった。

写真だけが、橙色だった。

私は画面を指で拡大した。

影の頭の位置は、私の頭の位置とほとんど同じだった。

巻き尺で測ってみると、私の背丈は160センチだった。

引き戸の枠の目盛りでは、影の頭がちょうどそのあたりに来る。

あの夜、担当者は私のすぐ隣に立っていた。

影は、私たち二人のどちらでもなかった。

白石さんの湯呑み

翌日の午後、私は隣の部屋のインターホンを押した。

隣の白石さんとは、引っ越しの挨拶で一度だけ話した。

70代の女性で、このマンションに入居して三十年になるという。

手土産のタオルを渡したとき、玄関先で長話をしてくれた人だ。

「あら、よく来てくれたわね。上がって、お茶でもどう」

藤色のカーディガンを着た白石さんは、すぐに湯呑みを二つ並べた。

お茶は、ほうじ茶だった。

香ばしい匂いが、頭の芯を少しだけほぐしてくれた。

この部屋に来てから、人と話す時間が減っていたのだと気づいた。

「すみません。お聞きしたいことがあって」

私は、台所の引き戸のことを尋ねた。

「前に住んでいた方のこと、ご存じですか」

白石さんは、湯呑みを持ったまま少し黙った。

「古川さんでしょう。三十年近く、お隣だったわよ」

「どんな方でしたか」

「小柄でね。150センチもなかったんじゃないかしら」

「パートのお仕事で、毎日夕方に帰ってらして」

「ご主人を見送ってからは、ずっと一人暮らしでね」

私は、湯呑みの縁を指でなぞった。

「毎晩ね、二人分のお夕飯を作ってたのよ」

白石さんは、困ったように笑った。

「お米を研ぐ音が、うちの壁にまで聞こえてね」

私は、息を静かに吐いた。

「それとね、台所から居間を呼ぶとき、引き戸を二回叩く癖があったのよ」

「コツ、コツって、ですか」

「あら、よく知ってるわね」

白石さんの目が、少しだけ丸くなった。

私は曖昧にうなずいた。

「それから、もう一つ面白い癖があってね」

白石さんは声を落とした。

「あの人ね、帰ると必ず『ただいま』と言って、自分で『おかえり』と返していたのよ」

「……自分で、ですか」

「そう。一人で二役。最初は驚いたけど、慣れると可愛らしくてね」

「古川さんの前の方も、同じ部屋でしたか」

「その前の人は、半年で引っ越したわ。台所が落ち着かないって」

「そのまた前の人も、似たようなものよ」

「でも、古川さんだけは三十年。居心地がいいって笑ってたわね」

「古川さんは、今どちらに」

「この春に、体を悪くして施設に入られたの」

「お元気ですか」

「どうかしら。夏にお手紙が届いたきりなのよ」

白石さんは、立ち上がって棚から封筒を持ってきた。

「『台所の灯りを、消し忘れていないか心配です』って、それだけ」

便箋の文字は、細くて震えていた。

私は、返す言葉が見つからなかった。

「あなた、最近ちゃんと眠れてる?」

白石さんは、急に母親のような口調で言った。

「少し、眠りが浅くて」

「そう。じゃあ、これ持って帰りなさい」

彼女は、台所から袋入りの煎餅を出してきた。

「甘いものより、しょっぱいほうが眠れるのよ」

その理屈は、よく分からなかった。

けれど、煎餅はおいしかった。

玄関を出るとき、白石さんはふと言った。

「古川さん、あなたのこと、きっと気に入るわ」

「どうしてですか」

「だって、帰ってきたときに、ちゃんと『ただいま』って言うでしょう」

私は、答えなかった。

そのことを、彼女に話した覚えはなかった。

七時十二分の録音

部屋に戻ってすぐ、管理会社に電話をかけた。

「台所の照明について、確認したいんです」

「はい、どのようなご用件でしょう」

「前の入居者さんが残していったものは、ありませんか」

「少々お待ちください」

保留音が、三十秒ほど続いた。

「退去時の記録では、残置物はなしですね」

「電球も、ですか」

「はい。照明器具は、3月末の退去のあとでLEDに交換済みです」

「では、前の方がいらした頃は」

「白熱電球だったかもしれませんね」

電話の向こうで、担当者がキーボードを叩く音がした。

「あの、何かご不都合でも?」

「いえ。ちょっと気になっただけです」

私は礼を言って、電話を切った。

白熱電球は、もうこの部屋にはない。

それでも橙色の光だけは、毎晩ここに戻ってきていた。

その夜、私は台所の棚にICレコーダーを置いた。

仕事で使う、小さな機械だ。

八時間連続で録音できる。

翌日は、駅前の喫茶店で依頼主との打ち合わせが入っていた。

条件を、いくつか決めた。

レコーダーは、ガラスの正面ではなく横の棚に置く。

玄関の鍵は、きちんと閉めて出る。

ドアの下に、小さな紙片を挟んでおく。

私は、電源を入れたまま家を出た。

喫茶店のレシートには、18時58分と印字されている。

店を出たのは、19時41分だった。

つまり19時12分、私は家にいなかった。

依頼主と、新しい字幕のスタイルの話で盛り上がっていた。

帰宅して、玄関で鍵を回した。

「ただいま」

言ってから、自分の口を押さえた。

ドアの下の紙片は、挟んだ位置のまま動いていなかった。

台所からレコーダーを取り、波形を表示した。

音声を扱う仕事なので、波形を読むのには慣れている。

19時12分のあたりに、はっきりした山があった。

編集の跡は、どこにもなかった。

イヤホンをつけて、再生した。

最初に、鍵の回る音がした。

玄関の扉が開く。

足音が、廊下を数歩。

そして、声がした。

「ただいま」

私の声だった。

抑揚も、語尾の落ち方も、私のものだった。

少し間があって、別の声が重なった。

「おかえり」

小さくて、かすれた、年配の女性の声だった。

そこで、録音は終わっていた。

私はイヤホンを外し、しばらく動けなかった。

19時12分、私は喫茶店の席で笑っていた。

レシートも、依頼主の記憶も、それを証明してくれる。

それでも録音には、私の「ただいま」が残っている。

もう一度、再生した。

ノイズの合間に、かすかな息づかいが入っていた。

呼吸の間隔まで、私のものとそっくりだった。

三度目に聞いたとき、気づいた。

「ただいま」の直後、私の声の下で、小さく水の流れる音がしていた。

米を研ぐ水の音だった。

波形の上で、二つの山を見比べた。

二つ目の山は、私の声より低く、ゆっくりしていた。

別の日にも、同じように録音してみた。

結果は、毎回同じだった。

19時12分にだけ、同じ二つの声が残った。

紗季が帰った夜

その週末、紗季が泊まりに来た。

缶ビールを二本、下げてきた。

「怖い話を聞くときは、酔ってないとね」

私たちは、台所でお好み焼きを焼いた。

ホットプレートの前では、橙色のことを忘れていられた。

「いい部屋じゃん。古いけど、手が入ってて」

「でしょ」

「この引き戸も、昭和って感じでいいね」

紗季は引き戸を、軽く指で叩いた。

コツ、コツ。

私は思わず、その手を押さえた。

「ごめん、それは」

「ん?」

「それ、呼ぶ合図らしくて」

紗季は笑って、手を引っ込めた。

食べ終わってから、私は録音を聞かせた。

紗季は半信半疑のまま、イヤホンを耳に当てた。

「……これ、あなたの声だよね」

「うん」

「でも、あなたはその時間、喫茶店にいた」

「うん」

「ふーん」

紗季は腕を組んで、長いこと黙っていた。

「まあ、私は科学の人間だけど」

「うん」

「今夜、一緒に見てみようか」

私たちは、19時12分の少し前から居間に座った。

引き戸を、二人でじっと見つめた。

壁の時計の針が、12分を指した。

橙色が、ふっと灯った。

紗季が息を呑む音が、隣で聞こえた。

曇りガラスの人影が、いつもの位置に立っていた。

影の背丈は、私とほとんど同じだった。

紗季の視線が、私と影の間を何度も往復した。

「……ごめん、帰る」

紗季は、小さな声でそう言った。

コートを抱えて玄関を出ていく背中を、私は止めなかった。

扉の閉まる音がして、静けさが戻った。

橙色は、まだ灯っていた。

私は立ち上がって、引き戸の前まで歩いた。

冷たい空気が、ガラスの隙間から流れてくる。

橙色のガラスに、自分の姿が淡く重なった。

向こう側の影と、こちら側の私が、同じ高さに並んだ。

私は小さく、息を吸った。

「ただいま」

少しの間があった。

台所から、声がした。

「おかえり」

かすれた老女の声ではなかった。

台所から返ってきた「おかえり」は、私の声だった。

橙色は、数分で消えた。

朝になって、流しを見に行った。

底に、白く濁った水が薄く残っていた。

米粒は、二つではなく、三つだった。

それから私は、19時12分に外出するのをやめた。

家にいて、引き戸の前の椅子に座る。

出かけた先でも、どこかで「ただいま」を言う気がしたからだ。

引っ越しは、まだしていない。

荷造りをしようとすると、なぜか玄関で手が止まるのだ。

夕方7時12分、曇りガラスの人影は今夜も引き戸に浮かんでいる。

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