
預かり棚の一番端の端末だけ、いつも少し温かい。
気づいたのは、入社して三か月目の十二月だった。
私は瀬戸みなみ。二十六歳。
国道沿いにある中古スマホの買取店で、店員をしていた。
従業員は店長の小野寺さんと、先輩の三宅さんと、私の三人だけ。
店は郊外のロードサイドにあった。
隣は閉店したまま取り壊されていないファミレスで、夜になると駐車場の街灯が一本だけ点く。
冬の店内には、暖房の乾いた匂いと、端末を拭くアルコールの匂いが漂っていた。
蛍光灯は一本だけ寿命が近く、ときどき低く唸った。
私は店の二つ先のバス停の近くに、一人で暮らしていた。
朝は国道沿いを歩いて出勤し、夜は同じ道を歩いて駅へ向かう。
その単調さが、当時の私にはちょうどよかった。
休日は、洗濯と買い置きの食材の整理で終わった。
たまに母から電話があった。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。店の先輩が、よく缶コーヒーをくれる」
「あんた、昔から数えるのが好きな子だったね」
母は笑って、そんなことを言った。
小学生の頃、私は階段の段数や電柱の本数を、いつも数えていた。
それは今でも抜けない癖だった。
日中の仕事も単調だった。
客が端末を持ってくる。
画面の傷を見て、バッテリーの劣化を確かめ、初期化の有無を確認する。
査定額を伝えて、本人確認の書類を預かる。
多い日で、二十人ほどが来た。
先月は、高校生くらいの少年が、画面の割れた端末を握って来た。
「データ、消えますよね」
少年は不安そうに言った。
端末は、人が一番長く一緒にいたものだ。
そんなことを、ふと思った。
三宅さんは査定が速かった。
手に取って三秒で、だいたいの額を言い当てる。
「画面って正直なんだよ。持ち主の癖が全部出る」
三宅さんはよくそう言っていた。
店には、一つだけ変わった決まりがあった。
カウンターの奥に、幅の狭い金属の棚がある。
そこに並ぶ端末は、預かり品として扱う。
査定をしない。電源を入れない。充電もしない。
そして、数えない。
店長は、この四つを入社初日にまとめて言った。
「あの棚は預かり棚って呼んでる。触らないでね」
それだけだった。
理由は聞かなかった。
聞いても、答えが返ってくる顔ではなかったからだ。
面接の日のことも、今思えば妙だった。
店長は、履歴書を開く前に私の名前を呼んだ。
「瀬戸みなみさん、だね」
私はまだ、名乗っていなかった。
事前の電話で聞いていたのだろう、とその時は思った。
採用はその場で決まった。
「前からいたみたいに馴染むね」
店長はそう言って笑った。
私は褒められたのだと思って、頭を下げた。
入社した日、私は預かり棚をじっくり眺めた。
端末は十一台。機種も年式もばらばらだった。
どれも黒い画面のまま、静かに立てかけてある。
一番端は、古い折りたたみ式の携帯だった。
それだけが、拭き掃除のたびに少し温かい。
ほかの十台は、棚の金属と同じ冷たさなのに。
棚の裏に暖房の配管でもあるのだろう、と私は考えた。
そう決めて、その日は気にしないことにした。
私は「み」の最後を、いつも必要以上に跳ねてしまう。
出勤票に名前を書く時も、その癖は直らなかった。
預かり棚の台帳
棚の脇には、薄い台帳が一冊、紐で吊るされていた。
表紙には何も書かれていない。
預かり品が増えた時だけ、店長が一行足す。
日付、機種名、預けた人の名字。
それだけの記録だった。
台帳は厚く、栞の紐が挟んである。
栞のページには、今ある端末の数だけ、行が並んでいる。
栞より前のページを、私は見たことがなかった。
十二月の半ば、一人の老人が来た。
七十代くらいの男性で、紙袋を両手で抱えていた。
紙袋からは、防虫剤と古い布の匂いがした。
爪の先が、乾いて白くなっていた。
中から出てきたのは、画面にひびの入ったスマートフォンだった。
「これは売らんでええ。預かってもらえんかね」
老人はそう言った。
私は査定の流れを説明しようとした。
「お預かりのサービスは、あの、ございませんで」
そこへ店長が奥から出てきた。
「承ります。台帳にお名前だけ、お願いします」
老人は台帳に名字を書き、深く頭を下げて帰った。
その筆跡は、細く震えていた。
名字の最後の線だけ、紙を突き破りそうなほど強かった。
引き取りに来る日の約束は、何もなかった。
店長は、そのあと棚の前にしばらく立っていた。
手はポケットに入れたまま、何をするでもなく。
私が声をかけると、店長は振り向かずに言った。
「大丈夫。もう少しだけ」
老人が出ていくと、自動ドアの向こうの冷たい空気が、一瞬だけ店に入り込んだ。
その日は三宅さんが遅番で、店にはまだ来ていなかった。
閉店後、私は店長に聞いた。
「取りに来ないんですか」
「来ないよ。たいていね」
「なら、いつまで預かるんです」
「いつまででも。そういう棚だから」
店長は台帳を閉じて、紐を棚の柱に戻した。
「数えないでね。それだけは、本当に」
私はうなずいた。
うなずきながら、もう数えていた。
入社した日に十一台。
老人の端末が加わって、十二台のはずだった。
台帳の行数も、十二行だった。
数字は合っている。
それで安心して、私はレジの鍵を取りにバックヤードへ入った。
バックヤードは狭く、段ボールと古い充電器の箱で埋まっていた。
上着に袖を通した時だった。
「ピ」
短い電子音が鳴った。
続けて、もう一度。
「ピ」
同じ間隔で、三回。
音のする方を見ると、預かり棚があった。
画面はどれも黒かった。
電源が入っている端末は、一台もない。
店長が入口で言った。
「電気、消すよ」
それだけ言って、店長は電灯を落とした。
暗闇の中で、音はもう鳴らなかった。
私は鍵をかけ、国道沿いの歩道を駅へ向かった。
背中のあたりが、ずっと温かかった。
帰り道、駅前のコンビニで缶のお茶を買った。
レジの青年が、私の顔を見て言った。
「お疲れさまです。今日も遅いですね」
「ええ、閉店作業なので」
「あのお店、夜は一人じゃないですよね」
「え?」
「すみません。前を通る時、いつも人影が二人見えるので」
青年は照れたように笑った。
その日、店にいたのは私一人だった。
店長は、先に帰っている。
朝だけ増える一台
年末まで、私は数えないふりを続けた。
続けられたのは、三日だった。
その朝、開店前の掃除で、私は預かり棚の前に立った。
乾いた布で、棚板を端から拭いていく。
端末は持ち上げず、手前だけを拭く。
これが、店長に許された唯一の触れ方だった。
拭きながら、指で台数を追った。
十一。十二。
そこで終わるはずだった。
棚の一番端のさらに先に、もう一台あった。
十三台目。
本来は空いているはずの幅に、端末が一つ寝かされていた。
画面を上にして、黒いまま。
水色のケースに入っていた。
私は布を持ったまま、しばらく動けなかった。
誰かが夜のうちに置いたのだ、と考えた。
考えて、すぐに打ち消した。
鍵は私と店長が閉めたし、警報も作動していた。
その日の夕方、閉店後に棚を見た。
十二台だった。
一番端の先は、空いていた。
翌朝、また数えた。
拭き掃除の手を止めずに、今度は声には出さなかった。
十三台。
その次の朝も、十三台。
夜になると、十二台に戻る。
私は手帳に毎朝の数を書いた。
十三、十二、十三、十二。
一週間、同じだった。
台帳を確かめても、行数は十二のまま。
朝にだけ増える一台は、記録のどこにも出てこない。
「どうしたの、棚の前で」
後ろから三宅さんの声がした。
「いえ、ほこりを見てて」
「ああ。そこは掃除してもしなくても同じだよ」
三宅さんは缶コーヒーを開けながら言った。
「俺はこの店九年目だけど、数えたことないんだ」
「数えない方が、楽だから」
「楽、ですか」
「うん。楽が一番」
三宅さんは笑った。
冗談のようでもあり、忠告のようでもあった。
十三台目の水色のケースが、なぜ気になるのか。
最初は、自分でもわからなかった。
わかったのは、その週の終わりだった。
私の端末も、水色のケースに入っている。
けれど、量販店で売っている安いケースだ。
同じものを持つ人は、世の中にいくらでもいる。
私はそう考えて、手帳を閉じた。
一月に入って、二人目の預かり客が来た。
三十代くらいの女性だった。
黒いコートを着て、髪を一つに結んでいた。
女性は何も説明せず、端末をカウンターに置いた。
女性の靴音は、床に残らなかった。
自動ドアが開いた音も、私は聞いていない。
店長が奥から出てきて、台帳に名字を書かせた。
女性が出ていってから、私は三宅さんに言った。
「さっきの方、預けていかれましたね」
「さっきの方って?」
三宅さんは顔を上げた。
「黒いコートの」
「今日、お客さん来たっけ。見てないな」
三宅さんは本当に不思議そうだった。
その夜、私は聞いた。
「私の前に、この店にいた人は、どうなったんですか」
「桜井さん? 去年の春までいたよ。連絡先、まだあるけど」
三宅さんは、携帯の画面を私に見せた。
私はその連絡先を写し、その晩のうちにメッセージを送った。
翌日の昼、返信が来た。
「瀬戸さん、ですよね。三宅さんから聞きました」
「数えたんですね」
「私も一度だけ、数えました」
「そのあと、棚の一番端が空いたんです」
「誰のために空けてあるのか、考えないでください」
私は急いで打ち返した。
「何が、あるんでしょうか」
少し間があって、返事が来た。
「わかりません。ただ、辞める前の晩、端の一台が温かかったんです」
「辞めると言った時、店長は何も聞きませんでした」
画面を閉じたあとも、親指の腹が冷たいままだった。
ずれていく壁時計
一月の終わり、店長は私に閉店作業を任せるようになった。
店長と三宅さんが先に帰り、私がレジを締めて鍵をかける。
そうなって初めて、私は壁時計のことに気づいた。
売場の壁にかかる丸い時計が、進んでいる。
レジのパソコンの時刻と見比べると、きっかり十一分。
私は自分の携帯の時刻も確かめた。
携帯は、レジのパソコンと同じだった。
店の中で進んでいるのは、その丸い時計だけだった。
翌日、店長に聞いた。
「あの時計、進んでますよ。直しましょうか」
「直さなくていい」
店長は、いつもの穏やかな声で答えた。
「あれは、あれで合ってるから」
その意味を聞き返すことは、できなかった。
その日、私は三宅さんに聞いた。
「店長って、閉店後に棚の前で何かしてます?」
「ああ、毎晩ちょっと立ってるな。手を合わせるでもなく、ただ立ってる」
「何してるんでしょう」
「さあ。俺は見ないようにしてる」
三宅さんは缶コーヒーを飲み干した。
「見ると、増えるからさ」
冗談の口調だったが、目は笑っていなかった。
その夜、母から電話があった。
「最近、声が遠いね」
「そう? 電波かな」
「ううん。ちゃんと聞こえてるのに、遠いの」
母は不思議そうに言った。
私は笑ってごまかした。
二月の初め、閉店後の店に、私は一人きりだった。
外の国道を、大型トラックが遠くを通っていく。
窓ガラスが、わずかに震えた。
ガラスに映る店内には、私と、棚と、モップの柄が見えた。
映っているものの数を、私はまた数えそうになってやめた。
棚の前でモップを持ったまま、私は長く立っていた。
一番端の携帯は、今夜も温かいのだろうか。
それだけが気になった。
決まりを破る気はなかった。
ただ、確かめたかった。
数えるのをやめられなかった私が、触れるのをやめられるはずもなかった。
私は手袋を外して、そっと携帯に触れた。
温かかった。
手のひらで包んだ時のような、人の体温だった。
画面の端に、私の指の影が重なった。
指を離した瞬間、画面が点いた。
電源は入っていないはずだった。
白い数字が、黒い画面に浮かんだ。
二十一時十三分。
私は息を止めた。
壁時計は二十時五十六分を指している。
レジの時刻は二十時四十五分。
どちらとも合わない。
通知も、着信もなかった。
数字だけが、淡く光っていた。
私は端末を棚に戻した。
戻す手が、わずかに震えた。
電灯を落として鍵をかけ、打刻をした。
いつも通り、二十一時二分だった。
駅へ向かう道の途中で、画面が点いたままの感覚が、指先に残っていた。
母に「今から帰る」と送ったのは、電車の座席に座ってからだった。
映像の十一分間
翌日、店長に頼まれた。
お客さんから「端末を預けたのに記録がない」と問い合わせがあったという。
「カウンターの映像、確認してくれる? 一昨日の夜でいいから」
店長はパスワードを書いた付箋を、私に渡した。
私はバックヤードのパソコンの前に座った。
古い椅子が、きしんだ。
ほかのカメラも確かめた。
バックヤードのカメラは、二十一時十一分から二十一時二十四分まで、画面が真っ黒だった。
故障の表示は、出ていない。
売場のカメラだけが、その時間を映していた。
パソコンのファンの回る音が、やけに大きく聞こえた。
画面に、カウンターのカメラが映った。
店の中は、思っていたより暗かった。
画面の右下の時刻表示を、二十時台から順に送っていく。
自分が棚の前でモップをかける姿が映った。
映像の中の私は、画面の端に小さく見えた。
自分の背中を見るのは、不思議な感覚だった。
歩き方が、思っていたより重たい。
手袋を外して、携帯に触れた。
私は思わず、肩をすくめた。
店長は、これを見ているのだろうか。
そう考えながら、映像を進めた。
二十一時二分、私が鍵を握って店を出る。
自動ドアが閉まり、店は無人になった。
その時、右下の時刻は二十一時十三分に飛んだ。
バックヤードの扉が開いた。
鍵は、かかっているはずの扉だった。
出てきたのは、女性だった。
灰色のコートに、紺のマフラー。
私が、その夜着ていたものと同じだった。
ボタンが一つ、掛け違えていた。
私は、その朝、確かに掛け違えて家を出た。
女性は預かり棚の前に立った。
足音はしない。
映像に音声はないのに、床の軋む音が聞こえた気がした。
手に、水色のケースの端末を持っていた。
縁に、小さな欠けがある。
私の端末の、同じ場所に。
女性は、その端末を棚の一番端の先に、静かに寝かせた。
そして、カメラの方を向いて、深く頭を下げた。
あの老人が帰り際に見せた、頭の下げ方と同じだった。
顔を上げた時、顔がはっきりと映った。
私だった。
私は、二十一時十五分に電車の中で、母にメッセージを送っている。
画面の履歴にも、そう残っていた。
映像の中の私は、数秒そのままそこに立っていた。
次の瞬間、棚の一番端の先は空になっていた。
映像の時刻は、二十一時二十四分。
女性の姿は、画面のどこにもなかった。
扉が閉まる様子も、映っていなかった。
十一分間だった。
私は映像を止め、パソコンの電源を落とした。
バックヤードの扉に、私は触れてみた。
外側の鍵は、確かにかかっていた。
内側の閂も、かかったままだった。
画面が暗くなると、そこに自分の顔が映った。
その時、携帯が震えた。
店長からだった。
「映像、見られた? 見たなら、今日は早く休んで」
私は、返信できなかった。
しばらく、目をそらせなかった。
最初のページ
翌朝、私は開店の三十分前に店へ入った。
鍵を開け、電灯をつけ、預かり棚の前に立った。
台帳を手に取った。
吊るしてある紐ごと、そっと持ち上げた。
栞より前のページを、後ろから順にめくった。
どのページも、同じ罫線が引かれていた。
名字が一行ずつ、新しい順に並んでいる。
久保。森下。宇田川。
知らない名字ばかりだった。
どの名字の横にも、機種名はない。
日付だけが、律儀に並んでいた。
紙の色が、白から黄ばんだ色へ変わっていく。
古い紙は、指に吸いつくように湿っていた。
綴じ糸の匂いは、あの老人の紙袋と同じだった。
最初のページにたどり着いた時、私は指を止めた。
開いたまま、しばらく息をしていなかった気がする。
紙は黄ばんで、角が柔らかくなっていた。
一行目の日付は、一九九六年だった。
この店が建つ二十年近く前の年号だ。
機種の欄は、空白だった。
預けた人の欄には、名字ではなく、フルネームが書かれていた。
瀬戸みなみ。
「み」の最後が、必要以上に跳ねていた。
一行目の筆跡は、私の字だった。
この名前を、店長は履歴書も開かずに呼んでいた。
背後で、自動ドアが開く音がした。
「見たんだね」
店長は、いつもの穏やかな声で言った。
私は台帳を閉じた。
「今日は、早く上がっていいよ」
店長はそれだけ言って、レジの電源を入れた。
その夜、私は二十一時二分に打刻して、店を出た。
国道沿いの歩道を歩きながら、ポケットの端末に触れた。
少し温かかった。
私は、それを預かり棚には置かなかった。
預かり棚の一番端は、今夜も空いている。