白い苔の顔のヤマガミ様

山

俺の親の実家の墓には、明治以前の遺骨が入っていない。

なぜかと言うと、その実家がある山奥の集落には、独自の土着信仰があったからだ。

なかなか仏教が定着しなかった。

明治まで、寺という概念すら無かったらしい。

集落の人々は、山に住む神様を信じていた。

その神様のことを、ここでは『ヤマガミ様』と呼ばせてもらう。

集落での呼び名は別にあるが、それを書くと場所が分かる。

俺が大学三年の夏、その土着信仰を、学校のレポートの題材に選んだ。

きっかけは、とあるホラーゲームの影響だった。

格好のいい理由ではない。

そもそも俺は、土着信仰というものを信じていなかった。

外界との交わりのない集落で発生する、集団催眠が発展したようなもの。

そう思っていた。

だからヤマガミ様も、信じていなかった。

俺の祖先が住んでいた集落は、山に囲まれたところにある。

海なんて馬鹿のように遠い。

一番近い駅から、バスで一時間。

そのバスも、一日に三本しかない。

食料は、ほとんどが山の幸だった。

魚は山の川で獲れる物。

畑には山から流れ出る川の水が必要不可欠だった。

季節の山菜も、大切な食糧だった。

春はゼンマイとコシアブラ、秋はナメコと栗。

猪や熊の肉も、山なくしては得られない。

山に支えられて生きてきた集落だったから、独自の『山中心の輪廻思想』が作られた。

山の作った糧を得て、生活を営む。

命を終えたら山に還り、山の養分となって、また糧を生み出す。

そういう感じだ。

そこで、また独自の埋葬方法が生み出された。

それについては後で述べたい。

俺は八月の初めに、祖母の家に泊まり込んだ。

祖母は八十を過ぎていて、集落に残っている数少ない一人だった。

家は、山の斜面に張り付くように建っていた。

玄関の軒に、小さな鈴が一つ、吊ってあった。

風が吹いても、鳴らなかった。

中に、舌がなかった。

「レポートて、何を書くんじゃ」

「ヤマガミ様のこと」

祖母は、茶を注ぐ手を止めた。

「ほうか」

それだけ言って、あとは何も言わなかった。

俺はその沈黙を、年寄りの照れだと思った。

その夜、祖母は俺の布団を、山と反対側の部屋に敷いた。

子どもの頃から、俺の部屋はいつもそちら側だった。

理由を、考えたことはなかった。

山の中腹の割れ目

ただ、俺は集落で聞き込む内に、一つのことを知った。

山そのものが神格化されていたわけではなかった。

山に住む神様に対する信仰があり、そこから『山中心の輪廻思想』が出来た。

それが問題だった。

よくある、鶏が先か卵が先かの話に例えたい。

山=神様なら、鶏=卵で、どちらを先にしても同じだから問題ない。

しかし、山=神様でないとすると話が変わる。

山が先にあり、信仰されていたから、そこに神様が生み出されたのか。

それとも、神様がいたから、その山が信仰の対象になったのか。

聞き込みを鵜呑みにするなら、後者で間違いない。

だが俺は、山に住む神様にも幽霊にも会ったことがない。

信じていなかった。

集団催眠として扱うなら、前者のほうが圧倒的に楽だった。

だから俺は、ヤマガミ様の調査を始めた。

存在を否定するためだった。

まず、集落に残る家を、片端から訪ねた。

七軒しかなかった。

七軒目は、何度訪ねても誰も出なかった。

表札は、雨で読めなくなっていた。

軒には、祖母の家と同じ、舌のない鈴が吊ってあった。

残りの六軒で聞けたのは、似た話ばかりだった。

「おじいちゃんのおじいちゃんが見たと、おじいちゃんから聞いた」

そういう骨董品のような目撃情報ばかりだった。

ここで、集落独自の埋葬方法について説明させて欲しい。

亡くなった人を棺桶に入れるところまでは、よそと変わらない。

その棺桶を、故人の家族が交代で担ぐ。

近所の村人が、鈴を鳴らしながら付いて歩く。

行き先は、山の中腹にある割れ目だ。

そこへ、棺桶ごと投げ込む。

割れ目はかなり深いものらしい。

底に落ちた棺桶は山と融合し、亡き人は大地に還る。

そういうことらしい。

割れ目の淵には、石の塔があるのみだ。

墓というより、儀式の場所に近い。

「鈴は、何のために鳴らすんですか」

俺は、四軒目の家の爺さんに訊いた。

「ヤマガミ様に、今行きますと知らせるんじゃ」

「知らせないと、どうなるんですか」

爺さんは、少し考えた。

「知らせんかったことがねえから、分からん」

五軒目の家の婆さんは、最後の割れ目葬を覚えていた。

昭和三十一年の秋、婆さんの祖父だった。

「棺桶が底に着く音は、せんかった」

婆さんは、そう言った。

「いつまで待っても、せんかった」

それが、割れ目の深さの話なのか、別の話なのか、俺には分からなかった。

結果、二日かけて目撃情報を集めた。

面白いことが、二つ判った。

一つは、埋葬方法が火葬に変わってから、ヤマガミ様を見た者がいないということ。

山を信仰する儀式の風化で、信じる人間がいなくなったからだとも考えられる。

集団催眠だと証明するには、かなり強いカードだった。

もう一つは、外見が一部分以外バラバラだということ。

ある時は猪の体。

ある時は人型。

羽があり、飛んでいたという話もあった。

同じなのは、顔だけだった。

全て、石のような丸い顔に白い苔が生えてフサフサしている。

目の位置には、触角のようなものがある。

印象の強い部分だけが一致し、あとは違う。

これも、集団催眠を示す強いカードだ。

しかも、ヤマガミ様は遠巻きに人を見ているだけだった。

逃げても追って来ない。

追いかけると、逃げる。

話しただの遊んだだの、直接の接点はなかった。

遭遇者全員が、ただ見ただけだった。

(山に囲まれた土地の因果が今も形を変えて残る話は、峠の廃村にもある)

目撃を綴じた一冊の帳面

六軒目の家は、昔の庄屋の末の家だった。

ここで、俺は一冊の帳面を見せてもらった。

和綴じの、黒く煤けた帳面だ。

目撃した人物、場所、時間、ヤマガミ様の格好、反応。

それが、几帳面にまとめられていた。

最初の頁は、年号が読めなかった。

途中から、明治、大正、昭和と続いた。

「明治十二年 秋 沢の上 猪の体 遠くより見る」

「大正四年 夏 炭焼き小屋 羽あり 飛び去る」

そういう調子で、百と少しの記録があった。

反応の欄は、ほとんどが「遠くより見る」か「逃げる」だった。

「近づく」という記録は、一件もなかった。

筆の字が、ある頁から鉛筆になり、またある頁からボールペンになった。

書き手が、代々替わっていた。

「これ、借りてもいいですか」

「ええが、持ち出しなさんな。この集落の中でなら」

俺は、祖母の家に持ち帰って、夜中まで読んだ。

最後の記録は、昭和三十一年だった。

火葬に変わった年と、ぴたりと一致していた。

その次の頁は、白紙だった。

俺は白紙の頁に、指で触れた。

紙は、少し湿っていた。

祖母が、茶を持って来て、帳面を見た。

「持ち出したんか」

「集落の中ならいいって」

祖母は、茶を置いて、帳面から一歩下がった。

「それはな、見たもんが書くんじゃ」

「見たら書く帳面ですか」

「見た者が、書く」

祖母は、同じことを言い直した。

言い直したことの意味を、俺はその時、考えなかった。

ここまで調べると、あとは儀式の場を見に行くだけだった。

「僕も探してみましたが、現にヤマガミ様に会いませんでしたから、そんなもんいません」

そういう結論にしようと、俺は布団に入った。

帳面は、枕元に置いた。

夜中に一度、目が覚めた。

帳面の白紙の頁が、月の光で薄く光っていた。

それだけのことだった。

翌日、バイクで近場のスーパーへ二十分かけて行った。

スポーツドリンク。

ポテトチップスの、うす塩味とコンソメ味。

ガム類、チョコ、おにぎり。

出発は午後二時を計画していた。

話を聞くに、徒歩三十分ほどで着くらしい。

一応聖域だということで、祖母が線香を渡してくれた。

「これを、石の塔の前で立てい」

「分かった」

「それから、名を呼ばれても、振り向くな」

「誰が呼ぶの」

祖母は、答えなかった。

玄関の舌のない鈴を、祖母は指で一度、弾いた。

音は、しなかった。

俺は線香と菓子類をリュックに詰め、『聖域』に向かった。

砂利道を歩き、沢を越えた。

ヤマガミ様の立つ木立

そこから先は、もう本当に森の中だった。

何年使われていないのか分からないが、荒れ放題だった。

蝉の声が、途中で一度、途切れた。

すぐにまた、鳴き始めた。

俺はポケットからイヤホンを出した。

携帯に繋いで、音楽を聴きながら歩いた。

木の根っこを踏み越え、笹をよけた。

地図を確認し、このまま真っ直ぐで良いことを確かめた。

リュックの脇に差してあったペットボトルを抜いた。

スポーツドリンクを、ラッパ飲みした。

太陽が見えた。

手を下ろして前を向いた。

三十メートルほど先に、『ヤマガミ様』が居た。

凄く不思議な感覚だった。

ペットボトルを手に提げたまま、俺は硬直していた。

人型だった。

全身、真っ白だった。

顔が、本当にフサフサした苔のような白い何かで覆われていた。

目があるところに、触角みたいなものがあった。

口は、見えなかった。

耳元で鳴っているはずの音楽が、聴き取れなかった。

本当の、無音だった。

手足の感覚が無く、目も反らせないまま、頭だけが動く。

金縛りみたいだった。

ヤマガミ様も、俺を見ていた。

時間が、異常なほど長く感じられた。

すると、ヤマガミ様が視界の中で大きくなってきた。

俺はヤマガミ様の全身を見ていた。

手も足も、動いていないのを確認していた。

俺は、立ち竦んでいた。

足が前に進めるなら、逃げ出している。

大きくなっているように見えたのは、こちらに接近して来ていたからだった。

何のアクションも無く、近づいて来ていた。

湿った土と、線香のような匂いがした。

あと十メートルほどの距離という所で、唐突にある事に気が付いた。

今まで、近付いて来たという例は聞いたことがなかった。

帳面にも、一件もなかった。

もし、ヤマガミ様が人を食うとしたら。

今まで、割れ目に落とされた棺桶の中身を食べていたとしたら。

人里に糧を与えていたのも、人がいなくなるのを防ぐためだとしたら。

何十年も、腹を空かせていたとしたら。

俺が、格好の餌だとしたら。

歯が、ガチガチと音を立てた。

距離は、あと五メートルくらいだった。

俺よりも、二回りも大きかった。

顔の触角の下辺り、口がある部分が、モゴモゴと動いた。

俺は終わりを覚悟しようとして、し切れなかった。

ただ、歯をガタガタ鳴らしていた。

ヤマガミ様の顔が、視界から消えた。

石のような見た目の腹が、目の前を埋め尽くした。

ヤマガミ様が、しゃがみ込んだ。

触角が、俺の顔の真ん前にあった。

口の位置が、モゴモゴしていた。

「ひっ」という声が、出た。

何かが、頭に触れた。

「さむしい。さみしい。さびしー。さむしい」

俺には、そう聞こえた。

それから、俺の名を呼んだ。

集落でしか使わない、俺の幼い頃の呼び名だった。

俺は、振り向かなかった。

振り向く首が、動かなかっただけかもしれない。

気付くと、俺はペットボトルを手に立ち尽くしていた。

耳元で鳴る曲は、スポーツドリンクを飲んだ時と変わっていなかった。

割れ目の淵の石碑

俺は耳からイヤホンを外した。

地図を確認し、割れ目の淵まで歩いた。

石碑が建っているだけの、谷みたいな場所だった。

割れ目の縁に立って、下を見た。

底は、見えなかった。

小石を一つ、落としてみた。

音は、しなかった。

婆さんの言った通りだった。

俺はポテトチップスうすしお味の袋を開け、一枚取り出して齧った。

それから、袋の端を掴んで、割れ目の中に撒いた。

コンソメ味も開け、同じように撒いた。

線香に火を点け、地面に立てた。

チョコを半分、脇に置いた。

俺は、帰路についた。

(積まれた石の数が合わなくなる場所の話は、積まれた石の数が合わないにも書かれている)

祖母の家に戻ったのは、夕方だった。

玄関に、祖母が座っていた。

俺の顔を見て、何も訊かなかった。

「線香、立てたか」

「立てた」

「呼ばれたか」

俺は、答えられなかった。

祖母は、それで分かったようだった。

居間の卓袱台に、帳面が置いてあった。

俺が枕元に置いたはずの帳面だった。

開いてあった。

昨夜、白紙だった頁だ。

俺は、卓袱台の前に座った。

白紙の頁に、一行だけ、字があった。

筆の字だった。

最初の頁と同じ、読みにくい古い字だ。

墨の匂いが、まだ残っていた。

目撃した人物の欄に、俺の名があった。

場所は、割れ目の手前の木立。

格好は、白い人型。

反応の欄には、こう書かれていた。

「近づきて、名を呼ぶ。菓子を受く」

最後の行に、俺の名があった。

書かれた日付は、俺が山に入る前の日だった。

俺は、祖母を見た。

祖母は、卓袱台の向こうで、手を合わせていた。

「ばあちゃんが書いたの」

「わしは、筆は持てん」

祖母は、右手を見せた。

指が、曲がったまま固まっていた。

「見た者が書く、と言ったじゃろ」

俺は、帳面の字をもう一度見た。

目撃した人物の欄に、俺の名。

この帳面は、見た者が書く帳面だ。

俺は、書いていない。

俺を見た者が、書いた。

その夜、俺はレポートの構成を全部捨てた。

集団催眠のカードは、まだ手元にあった。

火葬に変わってから目撃がないこと。

外見が顔以外バラバラなこと。

どちらも、まだ有効だった。

ただ、帳面の最後の一行の説明が、つかなかった。

翌朝、俺は帳面を六軒目の家に返した。

家の主は、最後の頁を見て、長いこと黙っていた。

「墨が、同じじゃ」

「同じとは」

「一番古い頁と、同じ墨じゃ」

俺は、それ以上訊かなかった。

返す前に、最後の行の下を見た。

まだ、余白があった。

結局、自分が体感したものが何だったのかは、よく解らない。

俺も調べていく内に、催眠にかかったのかもしれない。

それでも、割れ目にはあれから毎年、菓子を撒きに行っている。

祖母は今も、俺が山に入る朝だけ、線香を渡す。

「呼ばれても、振り向くな」

今も、あれが何だったのかはわからない。

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